P河井春穂:「傘寿を越えて」みづたま会報3月号 2019.2.1

下記の拙文は東京海上社内報「みづたま会報」編集部の依頼によりまとめたものです。「亥年者原稿」 ご笑覧まで。 河井春穂

「傘寿を越えて」

早いもので4年前に傘寿を迎えましたが、幸いに数十年も風邪一つ引かず怪我もなく、毎日を元気で過ごしていられることをありがたく思っています。八十路も半ば近くなった昨今も、自分ではそれほど感じてはいないのですが、人様から「その齢には見えない」と言われるので、日頃実践している平凡な健康法の効果もあるのかなと思っています。

それはご存知の方もおられると思いますが、「西式健康法」と呼ばれるもので、昭和の初期に工学博士西勝造氏(地下鉄銀座線のトンネル工事設計者)が提唱した実践法です。同氏の本職は土木工学の大学教授ですが、幼時から病弱だった自身の復調のために和漢洋の膨大な文献を渉猟して編み出した健康法です。

一例を挙げれば薄着、硬いベッド、薄い敷布団(毛布2枚程度)、1日2食(朝食なし)、散策、柔軟体操などで、誰でも実践できる平凡な方法ばかりです。私は毎朝の体操、夕方の小一時間の善福寺公園周辺の散策、月に数回のゴルフを励行しながら「人生百年」を目標に足腰の鍛錬に努めています。

会社勤務時の思い出は数々ありますが、驚いたことに1958年の入社時に労働組合のストライキがあったので、実際の入社は5月初めでした。入社時の配属は仙台支店総務課会計係で、まだ事務機械化に移行する前の頃でしたので、分厚い帳簿に手書きで1件ごとに保険料や諸経費などの入出金額を記入していました。

当時はまだ独身寮はなく青葉城下の民家の1室の間借り生活でした。私自身は東北地方の生活は初体験でしたが、和やかで思い出深い2年間の新入社員時代を経験しました。

3年目からは本店時代が続き、企画部、火災新種業務部、東京営業4部、システム部を経て、初めて横浜支店で目まぐるしい日々の営業の仕事を4年間体験しました。その折の知識と経験はその後の検査部での部店検査業務に役立ったことは幸いでした。

通常の業務以外のプロジェクトチームとしては、火災新種業務部時代に渡辺文夫部長命により販売網研究会が発足し、主査として生保会社なども訪問して検討を重ねて1970年に外務研修員制度(略称GK)の創設を含む答申をまとめました。

火災新種業務部時代にはそのほかのプロジェクトチームとして、広告研究会(主査:総務部今村参事)にも参画し、当時の実情として比較的手薄だった対外広報活動に関して、販売網研究会でも提案した「広報の充実」について1972年に答申をまとめました。

仕事以外の趣味活動では、坂出高校の担任で国文学者の田井信之氏(角川書店「日本語の語源」著者)の薫陶もあって親しんできた俳句を継続するために東京海上俳句会に入会しました。現在、正会員(投稿原則)と賛助会員(鑑賞主体)とも各30余名が在籍しており、季刊誌「百樹蕾」は間もなく200号を数えます。また在京の会員同志による句会も季節ごとに茗荷谷クラブで和やかに実施しています。

一方で専門誌の月刊「俳句」(角川書店)やNHKの俳句欄や年2回開催の全国大会にも投稿を続け、「小鳥来も頼みの文の未だ来ず」の句が全国大会で金子兜太師の審眼に叶ってTV放映されたのは良い思い出になりました。

気分転換と頭の体操に兜太師に倣って生涯句作を続けていきたいと思っています。

ボランティア活動としては学生時代から縁あって関わってきた視覚障害者支援活動を継続しており、現在は支援団体「支える会」の代表として全国500余名の仲間と共に縁の下で地道な活動を続けています。

その一環として月刊誌「視覚障害」でも広く啓蒙活動も行なっていて、昨年秋には強度弱視の女性が難関の司法試験に見事に合格しました。逆境に屈せず弛まぬ努力を続けている彼女の姿勢に深く敬意を表する次第です。

国宝犬山城 コモ湖畔(スイス)

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みづたま会報表紙絵

河井春穂

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