池宮彰一郎「四十七人の刺客」を読んで

池宮彰一郎 小説“四十七人の刺客"(新潮文庫571p)を読んで

Q坂本幸雄2017.11.30

・来月で今年も暮れを迎えます。戦後もひと昔前までは、暮れともなれば、映画、芝居にとどまらず、TVなども“忠臣蔵もの”が必ず上映せれていました。それゆえ、われわれの世代は、忠臣蔵を貫く「主君の仇討ち」という日本独自の武士道の美学にはみな馴染んでいました。

・元禄15年(1703年)12月14日に赤穂浪士47名が、本所吉良邸に討ち入り吉良の首級を討ち取ったことから、12月が忠臣蔵の季節になったのですが、戦後生まれの人口比が総人口の8割を超える現代に至っては、最早そんな「仇討ち」などは、人間性、社会性、人権的問題性などの観点からアナクロニズムの最たるものになっているのかも知れません。近くの古本屋で、ふと手にしてこの「四十七人の刺客」を読んでみようと思ったのは、そんな「忠臣蔵もの」への懐かしさと、その小説のタイトルが、「義士」でなく「刺客」としてあることから、著者は自作の「忠臣蔵もの」を“義”としてではなく“罪”として捉えているのであろうか、との興味もありました。読んでみて、著者池宮彰一郎氏の、韻律に富み声を出して読みたくなるほどにその豊かな表現力にも感心しました。しかもその名文の中で紡ぎ出されている世界は、勇気、誠実、使命感、正義感、慈悲、礼節、惻隠の情、名誉と恥、卑怯を憎む世界等々、いずれもいにしえの武士道精神に見る行動の淵源そのものであります。太平の平成の世ながらも、150年前の江戸時代までは、このような社会通念が人々の喝采を浴びていた事実を知ることも満更意味のないことではないのでは?と思いました。以下に引用したその名文の幾つかを通じ、些かなりとも、主君の仇討ちに人生を賭けた、その内蔵助の心に分け入ってみましょう。

大石内蔵助は後世「昼行灯」という仇名を残した。愚が賢を装うのは不可能に近いが、賢が愚を装うことはできる。驚くことに二男一女を生んだ妻女“りく”までもが、彼を、「半ば賢と信じ、半ば愚ではないか」と疑っていた節がある。もしこの事変(仇討ちのこと)が起きなければ、内蔵助という人物は、生涯韜晦し放しで終わったかも知れない。韜晦というのは、二重人格的な楽しみである。内蔵助は、己の生まれついた<侍>という身分については、揺るぎない信念を保ち続ける一面、当世風に言えば<自由>を、乾いた土が水を欲するように渇望し続けた。(注:韜晦(とうかい)とは、自分の才能・地位などを隠すこと。内蔵助は仇討ちの意図を誤魔化すために伏見稲荷あたりの遊郭などで遊び惚けるのである)

②.常識というのは、昨日、今日、明日が変わらず過ぎゆく時にこそ役立つ一般的な知識や判断力である。破滅的な事態に遭遇すると、何の説得力もない。泰平の世が半世紀も続くと、侍は戦士の本分を失い、官僚に成り果てる。官僚の本分は大局を見通すことにより、上の意に忠実に従い、瑕瑾なく職務を果たすことにある。必ずしも英才である必要はない。官僚の頭は、凡庸な事無かれ主義が占めている。

③.「座して飢えるより、起きて戦え」。後世、日本が抜きさしならない大陸戦争の泥沼化の中で、超大国の強圧を受けたとき、更なる大戦に突入させたのは将にその破滅的な過激論であった。

④.戦さという、兵力を駆使して敵を撃滅しようという行動は、極めて常識的な条件、例えば、兵力の多寡・戦士の優劣・兵器の量と質・地形地物の有利不利等々によって形成が左右されるが、最終の勝敗は指揮系統に当たる者の特殊な能力によって決定される例が多い。世に軍事の天才と称される者がいる。成吉思汗やナポレオンのように、さしてきわだった軍事の専門学を修め通暁していたとも思えない人間が、一軍を指揮統率すると、智謀策略神のごとく、俄然光彩を放って敵を打破り、歴史を一変させる。

・我が国にも、織田信長が桶狭間の戦いで強敵今川氏四万の兵を三千の手兵で破った例、明治維新のオルガナイザー高杉晋作のわずか二十四歳の時の奇兵隊の創始などの例がある。こうした天才は百年に一人の天才が、それを指揮する時期と境遇よりものであろう。

⑤.「侍の覚悟」(内蔵助が促す同志への覚悟)

・「よいか。各々に今一度わしの思うこと言っておく。人が“げだもの”と異なる唯一つのものは、生きることそれ自体よりも、<よく生きる>そのことに意義を見出さずにはおれないことにある。関ヶ原から大阪の陣までの戦国の世が終わって百年近く、弓は袋に、刀は鞘におさまり、世はあげていのち大事となり、人は一日でも長く生きることが至上とされるようになった。だが、いのち長ければよいのか、いのちを尊ぶことのみでよいのか、魂は死んでもよいのか、いのちよりも尊ぶもの、いのちよりも値打ちのあるものを特に持たずしてなんの侍か。いまこそわれらはいのちより尊く重たいものを世に示す。それが侍として生まれ、侍として生きたわれらの値打ちである。

・各人の生きようは各人の勝手気随である。わしの趣旨に賛同するものはとどまり、生きようの異なるものは去るがよい。この先一年二年、本懐を遂げる日まで、わしは何度もおぬしらの覚悟を確かめよう。その最後の時までとどまるも、はたまた去るも、侍らしゅういさぎよくあれと望んでおく。

⑥.内蔵助の最愛の妻への離縁話

・これは戦である。戦の謀計には善悪良否は問わない。敵を凌ぐ策が求められているが、周りの参謀たちにはその発想がない。その負担は全て内蔵助ひとりに掛かっていた。

・それは仕方ないと思い、内蔵助は最愛に妻“りく”に言う。「どうやら別れのときが来たようだ。いまわれらは侍の一分を賭けた企てに“いのち”を尽くしておる。この泰平の世に、争乱を起こせば、勝っても負けても公儀は厳しい罪科を以って罪するであろう。その罪科は、われら一身に留まらず、妻子眷属に及ぶ。それが天下御法の定めるところである。われらは思い立ったときより捨てた“いのち”、いかなる処分も覚悟の上だが・・・妻子に塁を及ぼすことは本意ではない。むしろ無事に世を送って、われらが行う企てが、後の世にいかなる評価を得るか・・・賞賛か、誹謗か、いずれにせよ、身をもってそれを受けとめてほしい。どうもこの期に及んで未練がましいことかも知れぬが・・・どうかこの際離縁して、その上お腹の子を育てて呉れぬか」

⑦.内蔵助の討ち入り出陣に当っての同志への訓示

・知恵というものは、考え抜いてできるものではない。究極の知恵は一瞬の"閃き"だ。命題に面と向かったとき、何十年かの勉学、研鑽、体験の上に、おのれのもつ物の見方、思いつき、組み立てる力で、それを押し広める力、それらが一瞬に凝縮され打開の方策を見出す・・・・その玄妙な作用だ。孫氏のいう"微なるかな、微なるかな、無形に至る、神なるかな、神なるかな、無声に至る"の心境は、それにあると思う。

・「よいか、ものは考えようだ。敵は屋敷でただ待つのみ。動くのはわれら、戦いの主導はわれらにある。厳冬の夜、不意を衝き、先手を取れば利はわれにある。先手を取り続けよ。攻める側には恐怖はない。戦いは気力の勝負だ。後手に回ると恐れがさきだち、神経が萎え、ついに気死する。味方は敵の力を計算できるが、敵はこちらの戦力はわからぬ。その差に乗じるのだ。こちらの実態を掴ませるな。一人が三人分五人分も働け、走り回れ、雄叫びを上げよ。

感想:

・以上の幾つかの引用文で、吉良邸討ち入りに見る内蔵助の数々の思いや訓示を読むと、内蔵助自身が、上記④項で語っている百年に一人の天才的オルガナイザーに思えてならないのです。その上、彼はその討ち入り後に予想される公儀による罪科が妻子眷属に及ぶことなども考え、その対策までもいろいろと配慮しているのであります。そんな彼だったからこそ、江戸時代の人々があれだけの喝采を浴びせたドラマの主役を演じ得たのでありましょう。

・縄田一男氏によるこの本の解説には、著者:池宮彰一郎がこの本の中で祈るように紡ぎ出している言葉:「非理法権天」について「非はもとより理には勝てず、理は法度に勝てず、法度も時の権力には勝てず、権力も天道に勝てない。これは下剋上のこの行為が最終的には宇宙の主宰者たる天道によってのみ容認されるだろう」として、この本には著者のそんな思いが一貫して思い込められているのである、と書かれています。

・内蔵助は、初めから本懐をなし遂げた後、同志一同と切腹して果てる覚悟を以って戦に臨んでいるのですが、その仇討ちが成就しても、それはそれで天下を乱した罪で公儀の裁きを受けることを想定し、究極的には、この武士の一念は、“天による宥恕”しかないと覚悟していたのでありましょう。(坂本幸雄 H29.10、27記)

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