「戸松君のコメントに関して」を読んで…Q萬野善昭2017.10.10

Q萬野善昭2017.10.10

大島兄

貴文中に宮崎市定博士の説から発して、「5)もう一つ付け加えると、われわれの中国史に関する知識は古代に片寄っており、そこから辛亥革命まではブランクに近いように思います。宋、元、明の時代についてどれだけ知っているだろうか」とありますが、以下に挙げる三つの事例から、ここで洩らされたご懸念は、日本人として少し卑下され過ぎではないかと愚考します。

宋元時代の中国文化の素晴らしさは、日本の伝統文化の流れの中にしっかりと受け止められ、その香りまで見事に受け入れられて日本文化の中に花開いているといえます。

勿論、貴兄が宮崎博士の言葉から、そのように感じられたのも無理からぬ事情がいくつかあり、その一つは明治維新以降、昭和に至るわが国の教育思潮の流れは、徳川時代の儒教偏重の姿を古臭い迷妄と位置づけようとするあまり、中国をどちらかというと軽蔑に近い眼差しで低く見ようとする風潮が大勢を占めていたことは否めません。それは、たとえば私たちが小、中学校の頃、支那の人々を蔑称で呼んで当然としていたことからも明らかであり、したがって中華文明は当時の日本が目指す西洋文明と比べ格段に落ちるという見方が日本を覆っていたからでもあると云えるでしょう。

したがって、宮崎博士の「世界一である宋元文化」に対する評価が日本では抜け落ちているという指摘は明治以降の百年足らずのいわば異常な軍国主義の時代に限られたことといえるでしょう。

以下、3っの事例に分けて要点のみを簡略に述べてみます。

① 宋元画の値打ち

西洋文明のお陰で、私たちの生活様式が「和」から「洋」へほとんど完全に移ったので、絵を床の間に掛けるという習慣は昔のことになり、水墨を含む「宋元画」という掛け軸のジャンルの、その価値の高さと奥行きを知る人も少なくなったが、室町時代から徳川時代に掛けての大名家にとってはその格式上、「宋元画」は無くてはならないものであり、「宋元画」の一幅もない様では大名家の沽券にかかわるとまでいわれる程に評価されていたことはまぎれもない事実であり、またその後日本におけるコレクター間でも美術品としての宋元画の位置づけはこの上なく高く、俗な表現になりますが、宋元画と聞くと、「それはひと財産」という受け取りが一般である頃もあった。その美術品としての地位は日清戦争後も揺らぐことはなかったといえる。

宋、元時代の陶磁器「染付け」の位置づけ

中国の陶器としては、唐三彩とか、明代の万暦赤絵の名はよく知られるところだが、実は宋元時代の「染付け」の日本における評価はそれを凌ぐものがある。

「染付け」(そめつけ)とはご存知とは思いますが、念のため少し詳しく説明を加えると、中国語で「釉裏青」と呼ばれ、英語ではブルーアンドホワイト。要するに白地の生地に紺色の絵付けをした磁器を指す。

「釉裏青」とは、「釉」は釉薬であり、生地に瀝青(チャン)すなわちコバルトで絵付けをし、その上に透明の釉薬を全体に施したので、釉薬の下側、つまり裏側に青(濃紺色)の絵付けがあるという意味で「釉裏青」と名づけられた。また「青花」とも呼ばれ、その焼成は唐代に始まり、主に景徳鎮で焼成され、宋元の頃に完成の域に達し、明、清に引き継がれた。

この瀝青(コバルト)は当時、非常に高価なものであり、この希少な釉薬を惜しげもなくふんだんに使っているかどうかで、その時の王朝の国力を推し測ることが出来るとまで云われた程のものであった。その好例は多くの元の官窯の染付けに見られ、瀝青が贅沢に使われて白生地に食い込むかのように深く染み込んでいると珍重された。

後に、この瀝青、すなわちコバルトは化学的に人造出来るようになり、今日では日常雑器にもよく使われる、ありふれた様式のものになっている。陶器ブランドのロイヤルコペンハーゲンは,この染付け様式の現代版といえよう。

ちなみに、話が少し横道へそれるが、戦後未だ海外渡航が物理的にも金銭的にも難しかった時に、東京のある美術商がロンドンのサザビーズで世界の美術関係者を向こうに回してある一つの元の染付けの壷を当時の相場をはるかに上回る一億近い破格の価格で競り落としたことがあった。

この壷は、実はロンドンのある家庭で傘建てに使われていたもので、いわゆる掘り出し物であったが、世界に三つしかなく、一つは北京の故宮博物館に、一つは台湾の故宮博物館にあり、この美術商の名は世界にとどろき、日本経済新聞の連載小説にも出てくるほどになった。今となっては、この元の染付けの壷は数十億出しても手に入れがたいといわれている。

南宋禅

日本の禅宗は宋禅の流れを汲むともいわれ、宋禅の祖師たちへの評価は日本ではこの上なく高い。日本臨済宗の栄西禅師、曹洞宗の道元禅師は時期は異なるが、ともに宋に渡り、宋禅を学んだ。彼らは禅宗として頂点に近い高みに達したといわれる宋禅の、深遠さを聞き知り、高く評価していたといえる。当時の中国に禅を学びに行った僧侶を入宋僧、入元僧と呼ぶ言葉があるくらいである。

また、これらの禅僧が中国留学より持ち帰った茶、及び染付けはもとより、黒釉の天目茶碗、青磁等の磁器が茶の湯といわれる茶道文化発祥の基盤であり、文化としては日本において実に深みのある高度な発達を遂げた。

更にまた、清盛が福原に都を移したのも、一つには宋との盛んな交易を意図していたのであり、そのお目当てはひときわ価値の高い宋の文物であったともいわれる。

以上、宋元文化に対する日本人の認識・評価は、それこそ世界中で一番高いといえようし、これらの幾多の事例はそれを表すものといえる。また、宋元文化に対する評価を世界的にしたのは日本であり、日本以外のどこの国がこれだけ高く評価し得たといえようか。

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