今回の旅行の同行(つまり旅行社の顧客)は25人、行き先、旅程、日数を考慮すれば経験2年未満の1人の添乗員にとっては気を抜く暇がなかったはずだ。
大勢の人ごみの中を歩いて迷子が出ないはずはない。
何人かは中国語の出来る人もいたが、北京語が中国のどこでも通用するわけではなさそうだ。
この25人の日本人は何をしに来たのか。だいたいが他人との関係では警戒心の強い日本人はなかなか自分を語らないし本音も出さない。
ところが漏れ聞いた人の噂はあっという間に広がる。ガイドの楊さんによれば中国人はこの正反対である。
中国へ来た目的はもちろん観光だがどこに主眼があるのかは人それぞれとしか言いようがない。旅慣れている人が多いことは間違いない。帰国してから次にどこへ行くかまで決まっている人も珍しくなかった。中国に事業所を持っている人、中国に駐在して長年仕事をしてきた人。中国語の先生もいるし、よくわからないがとにかく中国のどこかに関心のある人。これらに夫か夫人か友人を付けて2人連れにすればすぐ20人ぐらいにはなる。
それでは夫子自身は如何?それをまず明らかにしたいがそれだけでページを埋め尽くすことは避けなければならないのでなるべく簡単に。
私の少年期、中国は支那であり、蒋介石は”Public Enemy Number One”だった。子供たちは「日本勝った、日本勝った、支那負けた」とはやして遊んだ。喧嘩になると兄は私を「蒋介石!」と呼び捨てにした。私の名前の冒頭の「ショウ」を貶めたのである。太平洋戦争前夜、日中戦争の最中であったろう。その後、並行して漢詩や論語との遭遇はあったが、支那は中国になり毛沢東を意味するようになった。この政治家が食わせもので「百花斉放」などという巧みなスローガンで言論を自由にするふりをして、「それなら」と開き始めた花々を足下に踏みにじった。そんなことが分ったのは大分後のことだが、劉少奇を走資派として引きずり下ろした辺りには当時でも釈然としないものが残った。
仏人ジャーナリストのK.S.カロルが、文化大革命が緒についたころ書き上げた『毛沢東の中国』(1967年)は毛礼賛ではなかったが、文革には曖昧ながら妥当性を認めるもので私は深い印象を受けた。
バートランド・ラッセルは”Better red than dead.”というキャッチ・フレーズを生んだが彼は毛沢東を、とにもかくにも、中国を貧困や飢餓から救済する英雄と見立てたのではなかったろうか。
中国はこのような巨大な誤解の上に成り立っていたのである。ミケランジェロ・アントニオーニが作成した「チュンコン(中国)」というドキュメンタリー映画を見たのは70年代後半だったと思うが、それは政治色を離れて中国の自然の魅力を静かに描き出したものであった。
さて招待によらない中国への観光旅行が自由になったのは1980というのが私の記憶である。
私が機会を捉えて中国の大都市めぐりをしたのは1985年、日航機が御巣鷹山に墜落した直後だった。
すでに文化大革命の幻滅の後ではあっても日本文化の源流の一つであり、大いに理想化されて伝わっていた中国への関心は後退していなかった。
それまでには中国に関する書物は、廬山会議などでの権力闘争を回る匿名作家の著書などを含めて、20冊ほどは読んでいたと思う。まさに「秘すれば花」である。
文革当時の困難とそれを経た後の中国農村に射す光明を描いた謝晋監督の映画「芙蓉鎮」を見たのは1987年である。農村のボスばかりでなく不当に権力を行使する地方党員を批判的にまた小気味よく描いていた。それは大きな驚きであった。「中国はここまで変わったのか」、「こんな映画を作って大丈夫か」という驚きである。原作は第一回茅盾賞を受賞した古華がすでに1981年に書いていた同名の小説だから、映画化までの政治的軋轢は当然予想される。それにしてもとりわけ中国では、何がいつどのように変化するかを見極めるのは至難である。
私の記憶違いかもしれないが、毛沢東の功罪は功七割、罪三割とするのが中国政府の公式見解ということだった。ところが中国の紙幣を並べてみて気が付いたのだが1元以上100元までの5種の紙幣に描かれた肖像はすべて毛沢東である。これはいい加減な現象ではない。ここには功罪どころか毛沢東全肯定の思想が表現されている。この背景には楊さんがバスの中でルル説明してくれた中国人の面子(メンツ)の問題(後述)がありそうだ。私は偉大な発見をしたような気になって炳霊寺からの帰りのボートで隣に座った楊さんに問いただした。
「毛沢東にも罪があったと言いながら肝心の紙幣の肖像のすべてが毛沢東というのはなぜですか?これは中国人の面子が絡んでいるのではないですか?」
楊さんはちょっと考え込むふうだったが私の顔を見て「そうだと思います」と答えた。
面子の問題とはこういうことだ。面子は日本でも同様に重んじられるが実態は大いに違う。例えば日本人はいとも簡単に「すみません」、「ごめんなさい」という言葉を口にする。ところが中国人は謝るということをしない。遅刻をしても言い訳をするだけ、契約を果たせないことが分っても直前まで通知をしない。毛沢東にも誤りがあったと政府が間接的に認めるのと紙幣の表面から彼の肖像を消し去るのとではまるで意味が違う。「毛沢東は間違っていました」と世界の電波に乗せることになるからである。近く500元紙幣が出されるという噂があるらしいがデザインが変ったりしたら驚天動地の大ニュースだろう。
面子についてもう一つ付け加えると、日本でも話題になっている中国人の「爆買い」がある。中国人にとって日本への旅行は容易なものではない。旅費に30万円、兄弟親戚一同へのお土産に30万円かかる(これは面子上当然の失費である)とするとおそらく一生に一度のことと考えねばならない。所得格差が大きい中国では西安のような大都市でも平均月収は9万円(蘭州でも6万円)、ガソリン代はリットル当り130円、競争の激しい教育にも費用がかさむので生活は苦しい。それにいつまで自由な旅行が可能かどうかも分からない。(この時点で韓国へのグループ旅行は禁止されていたし、帰国後には日本へのグループ旅行の抑制が指示されている。)
蘭州のホテルで袖触れあった上海在住という日本人ビジネスマンに聞いてみた。「中国のビジネスは難しいんでしょう?」「難しいけれど張り合いがあります。」その心意気やよし。
『三国志』的な中国史を身に着けていた私にとっては「中原に覇を唱える」というセリフが頭にこびりついている。「中原」とは黄河中流域のことらしいからわれわれの旅は華々しい中国古代史のただ中を歩んでいた。現在では、人口の3分の2は河川、海洋交通の発達した沿岸部に集中しているという。ところが河西回廊をバスで走っていると都市に近づくたびに30階近い細身のマンションの林立が目に入る。あまり利用されているふうもない。やがて答えが出るのだろうが不思議な光景だった。
観光地でバスを降りてから入り口にたどり着くまでの道の傍らの屋台店には地域の特産品が並べてある。楊さんは、西安はザクロ、天水はクルミなどと説明してくれたがナツメ、ウメ、クコなどのドライ・フルーツが多い。近代的産業は起こりつつあるとはいえ、農業国の印象は消しがたい。西安を始めとしてこの地域は地下埋蔵資源が豊富らしい。中国には57の少数民族がいる。そのうちには入らないが、裕固(ユク)族(チベット族の1という)の社会では「女尊男卑」が徹底しているという。これも面白い。氷溝丹霞では若い娘がユク族特産の蜜で固めた菓子を売っていた。
近年、長江文明が考古学的な脚光を浴びるようになって「黄河文明」はあまり喧伝されないらしいが私の知識に残る地名や人名は圧倒的に黄河文明的だ。われわれはまた同時に「シルクロード」をたどっている最中でもある。これもまた天山南路、天山北路などといった陸上のルートをイメージしやすいが、中国でも唐代には船の技術が発達して貿易は海に近くなった。今では「海のシルクロード」も市民権を獲得して「陸のシルクロード」と併存して語られるようになった。習近平主席が「一帯一路」(”One Belt, One Road”)というスローガンを掲げて「シルクロード経済圏構想」を打ち出しているが果たしてどうなるものか、海のものとも山のものとも言い難い。さし当たっては目下の旅路に集中したい。
Q&A
楊さんは山東省出身、西安に47あるという大学の一つ、外国語大学を卒業した日本通で日本語も巧みである。「中国はまだ発展途上国ですから」と繰り返して謙遜しながらものを言う。幾つかの質問にも答えてもらった。これまでのレポートと同様に楊さんの説明をベースにして私の関心事を幾つかをまとめてみた。
1)「中国では易姓革命といい、王朝が変るとすべてが変り王統は抹殺されました。墓守はいなくなり、盗掘が行われました。」雨靄の中に遠望した武帝の墓は手つかずらしいが、北京郊外の明の十三陵などを想起すると陵墓は死後の宮殿である。藤堂明保氏の著書を見ると、白楽天は『長恨歌』の中で「楊貴妃はしかばねを山野にさらしたが故に、その魂魄(亡霊)は空中をさまよっているはずなのだが、いっこう玄宗の前に姿を現さない」と歌っている。「そんな無惨な結果とならないように、地下に生前に似た宮室を作り、死体を完全に保存して、出来るだけ魂魄を安住させねばならない」というのが中国の豪族の通念であった。
2)「隋、唐の王朝は外来異民族の王朝と言われましたが、どんな根拠があるのですか?」「ほとんどが鮮卑族の夫人をめとっていたことが名前からわかるからです。鮮卑は姜の一族です。」「唐の時代は男女平等でした。異民族の影響で再婚もみとめられました」というのもそのせいだろうか。儒教が体制化して厳格なものになったのは宋代になってからというのはその反動だろうか。
3)「詩仙と言われる李白は胡人であるという説を聞いたことがありますが?」「李白の出自をロシアとする説があります。現在のウズベキスタンかもしれない。」郭沫若は『李白と杜甫』の中で「李白は中央アジア(キルギスタン)の砕葉(スーイアブ)で生まれた」として数ページを要して「西域の胡人説」を否定している。断言はしていないが先祖が外域に移住した漢人とみている。
4)「郭沫若の最近の評判はよくありません。後先を考えずに明の十三陵や馬王堆(マオウタイ)の発掘をしてせっかくの埋蔵物を台無しにしてしまったからです。武帝の茂陵の発掘も願い出たのですが周恩来によって拒否されました。馬王堆からは1972年の発掘時にはブドウが新鮮なまま出て来ましたし、長沙国の丞相の妻の遺体は生きたままのような状態でした。」藤堂氏は彼女の魂魄は2150年前の姿で死後久しく「生きていた」のであるという。ご存知の方も多いと思うが、紅衛兵にひれ伏した郭沫若の評価はすでに功罪相半ばしていた。
Scatology
僻地への旅と覚悟してはいたが実際には予想よりもはるかに強行軍だった。早起き、長時間のバス旅行、長い一日に対処しなければならない。旅行中の睡眠はつねに問題である。水や食物が変れば規則的な”bowel movement”にも変調が起りやすい。ホテルの設備が予想以上だったことが埋め合わせになった。年齢からくるハンディキャップもなんとかカバーして、幸い興味を維持しながら旅行を終えることができた。
帰国後に、バス旅行が一番身体にこたえたのではないかと気づいた。普段あるとも思わなかった筋肉に痛覚が出た。ホテルは現地の4スターであったが水や湯もきちんと出たし、レストランの食事も肉は少なめで田舎ふうの味付けだったが美味であった。魚は内陸らしくもっぱら鯉。アルコールはビール(青島ビールと黄河ビール)が主体、それも常温で、冷えたビールはふつう期待できない。中国では冷やした飲み物を飲む習慣がないので、楊さんの子供たちは日本旅行中に日本の冷たい飲み物を飲めなくて困ったという。私は健康上の理由でアルコールは最後の打ち上げまで控えた。タダ酒は飲んだということになる。
写真説明
7852 陽関の王維の像。ガイドの楊さんがバスの中で唐の詩人王維の「渭水の朝雨 軽塵を潤し…西の方陽関を出れば故人なからん」を日本語と中国語で読んでくれた。日本でも人を送別するに当って1人がこの詩を吟じ、参会者はその後に続け て「なからん、なからん、故人なからん、西の方陽関を出れば故人なからん」と唱和したという。詩吟というものを最後に聞いたのはいつであったか。
0710 陽関の狼煙台跡。なぜ「のろし」に狼の字を使うか。実際に狼の糞を燃料に使ったという。火が付きやすく遠目に見やすい黒煙を上げるからだという。
7506 麦積石窟の柱廊の仏像。莫高窟の洞窟(それぞれが寺院である)内は撮影禁止である。ここの北魏、隋、唐の仏像、仏画からそれを偲ぶことにする。
7792 莫高窟の壁画を彩る飛天像は莫高窟のシンボルとされる。この像はその庭園にあった。
7554 「馬踏飛燕像」(酒泉出土)。甘粛省博物館(蘭州)のこの天馬像は世界に名高い。通常見るのとは逆の方向から写したもの。
7551 同博物館のジオラマ。天山山麓の匈奴。駿馬を駆使する匈奴の戦術に漢は悩まされた。馬は軍備として貴重であった。中国人は今でも馬を食べない。
0553 同博物館の西域の探検家、張騫像。
7646 これは蘭州駅。広大さは空港と見まがう。蘭州は甘粛省の首都。モスクの数は30を超えるという。
7655 蘭州・張掖間の市街。高層マンション群はどの町でも共通であった。
7701 祁連山脈も西端に近づいてきた。
7501 麦積石窟途上の屋台店。いろいろな植物の種子を並べている。八仙果は楊さんも初めて見たという。独特の味わい。
7643 ある日の夕食。蘭州市内。材料よりは味付けという感じ。
0588 農民の一家。子供を口実に写真を撮った。炳霊寺へのボート乗り場付近。
0754 西安も西域の国際都市であることが分る。市の中心域にある清真(イスラム)街回族のバザール。
7932 西安のホテル鐘楼飯店の部屋の窓から。近くの鐘楼は市の中心から時を告げていた。