P大島昌二:木戸幸一日記ほか 2018.11.2

小林忍日記に晩年の昭和天皇の感慨が報ぜられたのを機会に私はこの夏に「小林忍日記『昨日のこと』と『開戦神話』など」と題する感想をまとめたのであった。それも前年に読んでいた2冊の書物の感想を一つにまとめるという安易な発想から出た一文であった。ただその作業の中から戦中を通して昭和天皇の内大臣であった木戸幸一に注意を引かれてその人物像を描くことに熱中することになった。文中にも書いたようにまだ宿題は残されているが、とりあえずは「中締め」とでもいうべき段階には達したような気がするので一旦筆を置くことにしました。 2018年11月02日 大島昌二

中村隆英『昭和史 (上下二巻)』(1993年1月/4月)は戦時色に覆われた昭和時代の全般を見通した高水準の歴史書であるが、井口武夫がその後明らかにした政府による意図的な開戦通知の引き延ばしを疑わず以下のように記している。

「東京においては、開戦を決意するとともに宣戦布告文書を作成し、暗号電報をもってワシントンの大使館に逐次(注:14の部分に分けて)送達された。しかし、信じられないことだが、当時の駐米日本大使館は事務体制が整っておらず、宿直者も置かれていなかったために、ワシントン時間の12月7日の正午を期して通達されるはずの電報は(……)暗号を解読しタイプするのに手間がかかって、12月8日朝、ハワイ空襲が開始されたとき、宣戦布告文書はまだ国務省に届けられていなかった。」それまでの通説に従いながら中村氏はそれを「信じられないこと」と述べているが、升味準之輔『昭和天皇とその時代』(1998年)は「周知のように」として職務怠慢説を紹介した後で、一歩踏み込んで「そうでなければ、謀略だったかもしれない」と井口の著書が解明した事実に迫っている。斬新なスタイルで昭和史を書き続けている加藤陽子氏は『戦争まで 歴史を決めた交渉と日本の失敗』(2016年)で井口氏の『開戦神話』を「この問題についての必読文献」と呼んで大使館員の無能説を明確に退けている。

中村は、これとは別の仏印への武力進駐について、陸軍はすでにドイツに敗北したフランス政府との協定による平和的な進駐方針を無視し「命令の伝達をおそらく故意に遅らせ武力進駐を強行させた」と述べている。この事件は海軍を激怒させ兵員の護送にあたっていた「艦隊は、護衛を放棄して引き上げるに至った」というから、陸軍の恣意的な行動は明白である。

もう一点、戦後の近衛文麿に対する期待が、NYTの論説を契機として僅か2か月足らずの間に、非難へと180度の急転換をした事件について「ところが、10月末になると、アメリカのジャーナリズムも、また『朝日新聞』をはじめとする日本のジャーナリズムも、それぞれ近衛の戦争責任を追及する記事を相次いで掲げるようになった。日本の社会の急激な変化はこの事実の中にも読み取られる』と書いている。確かに日本社会は不安のさ中にあった。しかし鳥居民の著書は急転換の背後に戦争責任をめぐる宮廷内外の冷徹な画策があったことを教えている。(注1)

ここで開戦、終戦を通じての昭和史の最大の「エニグマ」ともいうべき木戸幸一について少し読んでおきたい。内容的には未完結の本であるが黒羽清隆著『日米開戦・破局への道 「木戸幸一日記」(1940年秋)を読む』(2002年10月)という本がある。これは静岡大学の2年生への講義録をテープから起こしたもので、副題に示されるように1940年秋、日付で言えば9月26日から11月4日までの39日間、つまり一か月そこそこの短い期間のものである。本文は400ページ足らずで全9章のうち2章は木戸日記を離れて山本五十六を論じている。山本は真珠湾攻撃作戦で知られる連合艦隊司令長官だから、われわれの関心と無関係ではないが、この部分には講談調のゆるみがあり、肝心の木戸幸一の動静からも離れています。

著者は米内光政、井上成美とともに三国同盟に反対した海軍左派としての山本五十六に惹かれるものを持っているらしい。山本の言葉として広く知られている言葉は近衛日記にある。近衛に日米開戦の場合の見通しを聞かれて「それは是非やれと言われれば初め半年や一年の間はずいぶん暴れてご覧に入れる。然しながら、2年、3年となれば全く確信は持てぬ。三国条約ができたのは致し方ないが、かくなりし上は日米戦争を回避する様極力御努力願いたい」と述べたという。これについて井上成美は戦後に、優柔不断な近衛さんにははっきりと「海軍は(戦争を)やれません。戦えば必ず負けますと言った方が、戦争を回避できたかもしれない」と述べている。

連合艦隊司令長官ともある者が、天下の一大事を問われてこのような軽率な放言で応じるとは無責任極まりないと言えるだろう。ただ山本の真意はあまり伝えられないこの発言の後半部にあったことは間違いないだろう。この会談について山本は「随分と人を馬鹿にしたるごとき口吻にて現海軍の大臣と次官とに不平を言われたり。これらの言分は近衛公の常習にて驚くに足らず。要するに近衛公や松岡外相に信頼して海軍が足を地から離すことは危険千万…」と嶋田繁太郎海軍大臣に書き送っている。山本が三国同盟の締結について「実に言語道断だ」と言ったことは『西園寺公と政局』に記録されている。

黒羽清隆の講義は『木戸日記』の短い期間を扱っただけであるが、日記の一日か二日に一回の講義をあてるという徹底ぶりである。たとえば1982年5月11日の講義。三国同盟の成立を翌日に控えた「独伊との条約案枢密院へ御諮詢の件、御裁可あり、本日十時より全員の委員会開催せらる」という記事が1940年9月26日の日記にある。この同盟は周知のようにその後の日本の運命に大きくかかわる日であり、議論は長引いたが日記はその中身には触れていない。黒羽はこの中身に後に触れるのであるが、ここでは同じ日の日記に記載された木戸の役職「内大臣」と「内務大臣」、あるいは「侍従長」と「侍従武官長」の違いを説明する。(2・26事件当時の武官長であった本庄繁陸軍大将の『本庄日記』が昭和史研究にとってどれだけ貴重なものであるかもここで説明される。)貴族院や衆議院とは別にある枢密院がどのようなものであるかも説明される。

また別の日には、天皇の信認が厚く近衛文麿や木戸幸一を取り立てた「最後の元老」西園寺公望が登場する。昭和史の研究家の座右の書ともいうべき『西園寺公と政局』はその言行を秘書である原田熊雄がまとめ、銀行の金庫に秘匿されたものが敗戦後日の目を見たものである。近衛文麿にとってこの原田にあたる人物は細川護貞(侯爵家の出で文麿の女婿)で、陸軍大臣を兼務する東條の息がかかった憲兵隊の監視下にあって自由に動けない近衛のために高松宮との間に立って情報を収集した。それをまとめたものがやはり戦後に『情報天皇に達せず』という表題で世に現れた。このセンセーショナルな題には意味がある。近衛―高松宮―細川のチャンネルに流れていた情報の中で天皇の耳に届かなかったものが少なくない。それが戦争に対する天皇の判断を狂わせた。もし高松宮が持ってくる話に兄陛下が進んで耳を傾けてくれていたら、もっと早く戦争を終わらせることができたはずだと暗に言っている。この本は長く絶版であったが後に脱落を補った上で『細川日記』として再刊された。

細川護貞を論じた同じ9月29日の日記に「四時、牧野伯爵を訪問、陛下の命により日独伊同盟条約締結の経緯を説明す」という記述がある。ここから西園寺公望と並び称される政界の重鎮であった牧野伸顕の人物評になる。牧野は大久保利通の次男として生まれ牧野家の養子になった。牧野の夫人は自由民権運動弾圧の立役者、三島通庸の娘でその間に生まれた雪子が嫁したのが吉田茂であった。(その先にいる孫が麻生太郎だというからわれわれ日本人はいまだに大久保、三島、牧野、吉田の係累のお世話になっている。)

牧野は外務官僚から、宮内大臣を経て1925年から35年にかけて10年間、内大臣として天皇の側近として君臨した。昭和初期に、西園寺とともに天皇の訓育にあたり、天皇を身近で補佐し、天皇を天皇として育て上げたと言われる。民間右翼やそれと気脈を通じた軍部が「君側の奸」、今ならば諸悪の根源として槍玉に挙げたのは主としてこの2人のことであった。牧野は1935年に天皇機関説事件のさ中に病気を理由に内大臣の職を退くが翌年の2・26事件では療養中の湯河原の温泉を急襲されて命からがら逃げ出さなければならなかった。

黒羽清隆の方法はこのように木戸の日々の動きを手堅く追って「政治家としての天皇の言動の分析」ができるとし、「温厚な、政治については無能力に近い生物学者だというイメージが嘘だ」という例を『木戸日記』の中にいくらでも見つけることができるという結論に達しています。しかし黒羽氏はまた、デイヴィッド・タイタス(David Anson Titus)というアメリカの学者が1974年にコロンビア大学から出版した『戦前期日本の宮廷と政治』の中で『木戸日記』に統計的処理を施していることを紹介して自分とは別の読み方の有効性も紹介しています。

タイタス教授は『木戸日記』に出てくる人間、訪問者を徹底的に数量的に処理することによって、木戸内大臣がどういう情報のネットワークの中で生きていて、それがどう天皇に影響を及ぼしていたかを分析しています。その中に一人興味深い人物がいます。黒羽氏はなぜかMというだけで名を明らかにしていませんが「ものすごいダーティ・ビジネスをやっているある民間右翼のリーダー」です。このMは1936年(2・26事件の年)に内大臣秘書官である木戸を初めて一度だけ訪ねていますが彼の訪問は木戸が内大臣に就任した1940年、1941年(対米英開戦の年)に激増し、41年には15回を数えている。それも内大臣の官邸よりも私邸を訪問した比率が高くなっている。日記には話の中身がどんなものであったかはほとんど書いてありませんが「この右翼の政界浪人から、かなり彼が信じるに足りるとした情報を得ていたに違いない。…(それは)当然天皇にも伝えられ、天皇の政治認識に一定の影響を与えたに違いない。」タイタス教授は『木戸日記』に出てくる人物を徹底的に数量的に処理して、木戸内大臣(ひいては天皇)がどういう情報ネットワークの中で生きていたかを分析しています。

このMのような右翼の活動家はどのような役割を果たしていたのか。三国同盟に反対する米内、山本、井上のトリオに対する右翼の攻撃に関連して黒羽は以下のような指摘をしている。「この陸軍の(膨大な)機密費が民間に流れて、民間の右翼が動く、右翼が自主的にやっているのではない。みんな陸軍から金が出ている。右翼は国家予算で活動している。その民間右翼が、このトリオに対して攻撃を仕掛けてくる。」

黒羽氏が名を伏せるMなる人物が松井成勲であることは間違いありません。『木戸日記』には松井成勲という政界浪人がしばしば登場するし、伊藤隆著『歴史と私』には木戸日記研究会から2人で国会近くの事務所へこわごわ出かけて同人をインタビューしたことが書いてあります。ただし印象深かったとは書いてあるが印象に類することは何も書いてない。「残念ながら速記が残っていません」としか書いてないのはまったく残念です。松本清張の『昭和史発掘』に田中義一の政治資金の出所を調べていた石田基検事を殺害した犯人として松井を示唆しているとだけ書いてある。(注2)

『木戸日記』は東京裁判の資料として裁判に提示されたものですが、木戸幸一の内大臣としての位置づけからして昭和天皇の戦争への関与を探る一次資料としての価値は比類のないものです。昭和天皇の側近の資料(「小林忍日記」もその一つです)は、とりわけ天皇の死後、多数世に現れていますが木戸日記ほどの星霜を経てなお研究者を引き付けているものは他にないと言えるでしょう。

木戸幸一は最後の元老、西園寺公望が1940に亡くなった後は内大臣(内府とも呼ばれ、内務省や宮内省とは別で内閣の外にある)として天皇の唯一の側近になります。しかし、木戸日記は日記というよりは備忘録に近く、彼が何をしたか、いつ誰に会ったか、誰を天皇に取り次いだか、ということに終始し、天皇や参内者と何を話したかという内容にはあまり立ち入っていません。そこでその肝心の内容についてはまた別人の記録によって補足しなければなりません。そのような性質の木戸日記になぜ注目が集まるかと言えば、そこには御簾の彼方にいる昭和天皇の動静を戦中のすべての期間にわたって一貫して知る手掛かりとなるものがあるからです。日記の大半は1945年の12月24日から3回にわたって提出されましたが、粟屋憲太郎『東京裁判論』(1989年7月)に以下のような指摘があります。「問題の太平洋開戦の41年分の日記は翌年1月23日、最後に提出されたが、これは木戸側の逡巡をしめすものかもしれない。また日記中で天皇に不利な点がある記述は、提出前に関係者によって、若干、消されたとの話もある。」東京裁判を論ずることは政治的判断に深入りすることになるせいか中村教授の『昭和史』ではこれに触れるところがない。

よく知られるように東京裁判の一つの焦点は天皇の戦争責任問題であった。天皇不起訴の決定にいたる経緯は上記の粟屋氏の著書に詳しい。ここでは同書から『木戸幸一日記』とその延長線上にある『木戸幸一尋問調書』のアウトラインを紹介しておくことにする。

天皇は東京裁判の被告とはならず、また証人として法廷に立つこともなかった。しかし天皇はやはり裁判の影の主役であり、国際検察局は戦中の天皇の言動を検証しうる資料を入手していた。その最大のものは『木戸幸一日記』であり、それに次ぐものは裁判の開始前に検察局が作成した木戸への尋問調書であった。

「日記の記述はきわめて簡潔であるから、木戸は検察側の尋問に対して、自ら具体的解釈を加えることによって、天皇と自己の無罪の方向へ検察側を説得しようとしたのかもしれない。」しかし、日記は諸刃の剣であった。「法廷では、検察側の天皇免責の方針によって、天皇の言動に関する記述はいっさい活用されなかった。しかし素直に日記を読めば、太平洋戦争開戦にいたる道は、天皇と、木戸など天皇側近の主体的決断という要因を入れなければ、歴史的に説明がつかないことは明らかだ。(粟屋著p206)」

キーナン首席検事をはじめとする数人の検察陣による第一回の尋問は12月21日に行われ、対米開戦決定や真珠湾攻撃についてきびしい質問を木戸に集中した。尋問の終了まぎわに木戸は通訳として同席していた都留重人を通じて日記を提出することに同意した。第二回目からの尋問はすべて米国法務官のH.R.サケットがただ一人で『木戸日記』の記述をもとに進め、1946年3月16日まで30回にわたって続けられた。彼はキーナンから天皇免責を知らされていたはずで「私は歴史学や政治学の観点からこの問題に興味を持っているのです」と前置きしてから天皇に関する質問を始めている。

木戸は、毎回、天皇の平和的意思を強調するが、サケットは「問題なのは意思だけではなく、それに伴う行動であり、政治責任の核心はそこにあると確信していた。」サケットの厳しい質問に対して木戸は防戦に務めたがしばしば窮地に追い込まれた。「たとえば、サケットは日記の1941年8月11日の項に記されていた天皇が木戸に語った『重大な決意』の具体的内容を何回も執拗に問いただし、けっきょく、木戸も、やがて事態の唯一の解決法として天皇がみずから同意したことを認めるのだ。」

木戸がよく語り、またオーラル・ヒストリーにも残していることに木戸の姪の夫である都留重人の助言がある。木戸はそれを日記に以下のように記している。「米国の考え方は内大臣が罪を被れば陛下が無罪になると云うにはあらず、内大臣が無罪となれば陛下も無罪、内大臣が有罪なれば陛下も有罪と云う考え方なる故、充分弁護等につき考うるの要ある旨話あり、何か腹の決まりたる様な感を得たり。

都留重人の波乱に富んだ自伝『いくつもの岐路を回顧して』にも12月10日のこととしてこの助言が記録されている。また木戸幸一の尋問への出席の同意を取り付けたのも都留であった。12月21日の初回の尋問については以下のように書いてある。「その日は、私が巣鴨プリズンまで侯を迎えに行き、『服部ハウス』において私の通訳により尋問が行われたのだったが、速記者の出席がかなり遅れたため、検察側の記録は不完全で、特に尋問の前半部分については、私がその日帰宅後に書き記しておいたメモがおそらく一番詳しいと思うが、これは未発表である。」第二回以降のサケット氏の尋問では別に通訳がおり、都留氏の名前は見えない。

アメリカ国立公文書図書館には「国際検察局文書」が保存されており、粟屋憲太郎他編の邦訳『東京裁判資料・木戸幸一尋問調書』がある。真実追及の念に燃えたサケット氏の尋問調書は表向きの東京裁判の埒外にあり、読まれることは少ないのではないかと思われるが、事実を解明する上で貴重な価値を持つものである。粟屋憲太郎氏はこれを評して「東京裁判の表舞台にはあらわれなかった一人の米国法務官の営為が、われわれに興味のつきない歴史証言を残したのである」と述べている。

粟屋憲太郎の言うように『木戸幸一尋問調書』は十分に読み込んだうえで論評すべき一冊だと思われるのでここではその他の資料によって及ぶ限りの木戸幸一論に漕ぎつけたい。

はっきり言って、これまでに見てきた内大臣の言動は好感を持って受け止めることができない。政治家であれば長年の盟友と袂を分かち、さらには敵対することは十分にありうる。それにしても近衛に向けられた木戸の批判は死者に鞭打つものである。それがオーラル・ヒストリーとして音声で生々しく伝わってくるさまは聞き苦しくさえある。

以下は升味準之輔『昭和天皇とその時代』(1998年)からの引用である。近衛の身近にいて彼についての大部の伝記を著した矢部貞治(東大教授)は近衛の言葉として「一体に木戸は、ひどく他人の悪口を言い、誰のことでも糞味噌に言う癖がある。そのため、今日では自分も陛下の御信任はあるまい」と書いている。これは天皇の膝下に日々伺候している木戸が、天皇の退位問題について自分と意見が対立していることに触れて近衛が、だから裁判でも天皇の弁護について、自分と木戸の間に意見の不一致が生まれ、結果として弁護の目的は達せられないだろと述べた後に出てくる。矢部はそこでカッコ内に(しかし近衛も木戸を糞味噌にいった)とつけ加えている。

これはあまり気兼ねや忖度を必要としない同じ華族としての共通項ともみえるが、そうばかりでもない。少なくとも近衛はアンコア号からの帰途に「やられた、やられた」と言いながらもそれが誰に何をやられたかは黙して語らずにあの世へ旅立った。鳥居民の著書はそれが「誰であったか」を探って木戸を探り出したのであった。

「内大臣が無罪となれば陛下も無罪、内大臣が有罪なれば陛下も有罪」という都留重人の助言は木戸本人が繰り返し言うように木戸には天啓のように響いたに違いない。木戸はこれをアメリカ流の考えと解したようだがこの言葉は戦争責任に関して天皇と木戸は一心同体であったことを示している。内大臣としての木戸は天皇の意を体して行動する立場にあるのはもとよりであるがその天皇の意向なるものはしばしば内大臣の意向を反映するものであった。木戸日記では天皇の言葉と木戸の進言は識別しがたい。木戸は「日記の読方、陛下のお言葉でこう言って置いたと仰せになり居るのは、大体事前に御打ち合わせをし、進言せし場合なり」と次男孝彦と弁護人に告げている(『木戸日記』46年8月28日」)。天皇への伺候がままならなかった近衛は「一体に陛下のお言葉は木戸そのままだ」、「陛下は木戸のロボットの様だ」と側近の富田健治に語っている。その近衛は富田にまたこうも語っている。「あの軍部の徹底抗戦、一億玉砕論を抑えて、これを終戦に持っていくことができたのは、何といっても木戸一人の功績と申すべきである。この功績は木戸の功罪を償ってあまりありと私は信じている。私は最後までこの意味において、木戸を弁護する。」(富田健治『敗戦日本の内側』)

この木戸の働きについては吉田茂も「我が敗戦振も東西古今未曽有の出来栄、内府も今度は見直し申候。虚心坦懐にほめようじゃないかと過日も原田(熊雄)君と話合候様の次第ニ御座候」と書簡(8月27日『吉田茂書簡』)に述べている。こうなるといわゆる終戦の御聖断は木戸幸一の功績ということになる。近衛、吉田のこれらの発言は、後に改めて触れなければならないが、戦争終結に関して広く世に伝えられる昭和天皇の聖断説に疑義を呈するものであることに留意しておきたい。

さてここから木戸内大臣の心理に入っていくことになる。都留の助言を得て「腹の決まりたる様な感」を得た木戸は、彼の忠誠の対象である天皇と自分が一蓮托生の身であることを悟る。それが天皇を救う道であるならば、あらゆる手立てを尽くしてわが身の無罪を主張して恥ずべきことはない。逆にまた天皇が無罪であれば内大臣も無罪ということになる。ただ無罪を証明するには他に明白な犯罪者がいなければならない。

粟屋憲太郎は、木戸の尋問を担当したヘンリー・サケットが「木戸は裁判の目的からみるとむしろ証人にした方がよいかもしれない」と述べていることを紹介して次のように続ける。「天皇を無罪とするには内大臣としての自分が無罪とならねばならないと確信した木戸は、『木戸幸一日記 東京裁判期』に如実に示されているように、サケットへの詳細な供述ばかりでなく、長大な手記を何回にもわたって提出している。検察側にとって木戸の役割と利用価値は、田中隆吉以上に大きかったのである。尋問を担当したサケットが、木戸の態度を内部告発による積極的な協力と受け取ったのは当然であろうし、むしろ木戸を被告としてではなく、証人として活用したいという感情を強めたのであろう。」(粟屋『東京裁判論』)

ここに出てくる田中隆吉は、関東軍参謀、陸軍省軍務局長として中国での謀略工作にもかかわった元陸軍少将である。それが東京裁判では一転して国際検事団の忠実な協力者として、かつての同僚の罪状を次々と告発して、悪名をはせたことで広く知られる。したがって粟屋氏が、「検察側にとって木戸の役割と利用価値は田中隆吉以上に大きかった」というのはかなり思い切った発言に見える。田中についても『田中隆吉尋問調書』が翻訳刊行されており、それを見ると田中は饒舌で、遠慮会釈なく将官たちの罪を告発し、罪状を裏書きしている。しかし彼はまた被告側からも証人台に立つようにとの依頼にも応じている。

田中は戦後まもなく『敗因を衝く軍閥専横の実相』(1946年1月)、『日本軍閥暗闘史』((1947年10月)、『裁かれる歴史 敗戦秘話』(1948年10月)を相次いで出しており、検事団が田中を知ったのは1946年、「戦後初の総選挙(4月10日)が近づいた頃」新聞に掲載された田中の手記が目を引いたからだという。それ以来、田中については、裏切り者、アメリカのスパイ、怪物といった世評が定着していたが天皇の股肱の臣として終始した木戸を田中と同列に置く見方は衝撃的である。たしかに、木戸は15~6人を裁判の被告席に送ったと言われており、裁判とは無関係とはいえ、これまでに見たように近衛批判の舌鋒は時がたっても衰えなかった。木戸は巣鴨の拘置所内でも孤立しており、被告人であった旧軍人たちのあからさまな蔑視に耐えなければならなかったという。(注3)

前回、「小林忍日記『昨日のこと』と『開戦神話』など」では主として2冊の本の書評を試みたのであったが、そこから明確に浮かび上がってきたことは戦争責任をめぐるこれまでの事実認識は作為によって大きく捻じ曲げられてきたということであった。

それを敷衍する意味で今回はその日記の陰に隠れてあまり姿を現すことのない内大臣木戸幸一の実像を追うことに務めた。その過程を経てどうしても検討しなければならないと思えることは昭和天皇と戦争責任のかかわりである。これまでに参照した書物の中では粟屋憲太郎の『東京裁判論』と並んで升味準之輔著『昭和天皇とその時代』から教えられることが多かった。加藤陽子にも升味著と同じ天皇とその時代を扱った『昭和天皇と戦争の世紀』がある。また知らぬ人のない『昭和天皇独白録』は天皇自身が口述した戦争責任論として看過できない。

昭和天皇を戦争責任との関連で論じることは(今でもそうだが)長い間タブーだった。そもそも天皇を人間として描くこと自体がはばかられることであった。しかし日本近代史の大異変である敗戦直後に沸き起こった天皇退位論は天皇の戦争責任を認めていた。近衛文麿はその議論の先端を行き、木戸はそれに反対した。(しかし講和条約締結前後には木戸も退位を主張した。)東京裁判は天皇を召喚すべきかどうかの国際的議論で賑わった。天皇の意向に逆らったことは一度もないと主張した開戦時の首相、東条英機は天皇の免責を意図した占領軍の指示によってその発言を撤回させられた。

ここで想起されるのは、猪木正道とその同調者が近衛を戦争犯罪人の最右翼に挙げ、天皇を聖断をもって国民を死の淵から救済した英明な君主と称えていることである。それは終戦の混乱の中にいた日本人の認識ではなかった。それはまた、本稿で読み進めてきた研究書の示すところとも大きくかけ離れている。誰もが認めるように近衛文麿の犯した過ちは大きい。しかしここに見てきたように近衛を貶め、近衛の盟友から一転して近衛の対立項へと進んだ木戸はそれ以上に疑わしい(注4)。

昭和天皇の人物像を最初に描いた本は英国人のレナード・モーズレイ著、高田市太郎訳『ヒロヒト--日本の天皇』(”Hirohito, Emperor of Japan”1966)と言ってよい。練達のジャーナリストによる同書は西洋人の証言と記録を中心としたもので、開戦に反対の声を上げなかった天皇に批判的である。天皇は政府と軍を同時に統制しうる立場にいたが「天皇はたえず後押しを必要とする性格の持ち主だった」。翻訳は広く読まれたが、世評に対する配慮から肝心の箇所が削除されており、全体の印象も大きく変わって伝わるものとなった。

東京裁判は開戦責任ではなく共同謀議説によって進められたが共謀説を極端にまで推し進めたデイヴィッド・バーガミーニ『天皇の陰謀』(”Japan’s Imperial Conspiracy”1971年)は天皇を巨大な共謀の中心に据えることによって失敗した。昭和天皇は世界支配を目指す、まさに超人的な戦略家として描かれている。しかし反面では、ダグラス・マッカーサー二世(マッカーサーの甥)の紹介状で天皇の元侍従たちに取材した同氏の細部にわたるリサーチには見るべきものがあり、発刊当時は国際的なセンセーションを巻き起こした。日本では、いいだももの翻訳で『天皇の陰謀』と題して出版され、政界に波紋を起こしたが読書界ではほとんど無視された。原文には日本歴史についての章があり著者の壮大な意図をうかがわせるが、邦訳ではその箇所は省略されている。確かに鎌倉、室町にさかのぼる日本史は冗長に過ぎた。バーガミーニは日本人の言質の捉えがたい腹芸に注目してこれに”belly talk”という訳語を与えている。日本人同士の意思疎通も腹芸によってしばしば阻害されている。後悔先に立たずというが、重要な局面で「あの時どうしてはっきりと言ってくれなかったのか」という事例は珍しくない。

その後に出されたハーバード・ビックスによる『ヒロヒトと近代日本の形成』(2000年)はピュリッツァー賞を受賞した大著でこれまた国際的な話題を呼んだが新味には乏しかった。森山尚美とピーター・ウエッツラーの共著『ゆがめられた昭和天皇像--欧米と日本の誤解と誤訳』(原書房、2006年)は同書の批判であると同時に看過しえない重大な誤訳の数々を俎上に載せている。悪評にさらされ葬り去られたバーガミーニの著書を森山氏が「ひょっとして正当に評価されていなかったのではないか」とするあたりは興味深い。バーガミーニの本は巨大な陰謀説という構想上の重大な誤りにもかかわらず実に衝撃的だった。

(注1)ここで近衛の自死についてもう一つの証言を付け加えておきたい。極東の政情に精通した老練なフランス人、ジャーナリストのロベール・ギランは日本の敗戦によって5か月間の軽井沢での軟禁生活を解かれ水を得た魚のように仕事にとりかかった。彼は敗戦の年の暮れに「だれもが名誉挽回したとみなしていた」また「無任所大臣として内閣に参加していた」近衛と会見した。「たしかに彼は当時、多くのあやまちをおかしたが、1941年には、戦争回避のために死にものぐるいの努力をしたのだった。(たとえば、真珠湾に先立つ41年夏のあいだ、ルーズヴェルトとの相互理解に達しようとして、ヒトラーとの同盟を文字通り〈凍結〉させた)。この45年末、(…)マッカーサーは、近衛が民主復興運動の先頭に立つよう後押ししていた。」(これは前回のレポートで述べたことと合致している。)近衛が毒をあおった理由は?「彼は天皇の血縁であり、その結果、じっさいにどこに身を置こうと、殿上にいるとされていたからだ。皇居は決して流血で汚されてはならず、公家はハラキリはしない。世に知られていない最終の秘密――近衛は自らの死によってヒロヒトに最後の進言をしようと望んだのだ。自分の死後、天皇にほぼ次のようなことを伝える役目の使者さえ派遣していたのである。『陛下もまた彼らの召喚を受けられた折には、私のようになさってくださいませ。』」この言葉の真否は未だに不明としか言いようがない。

またここでは詳述しないが、ロベール・ギランの最大のスクープは、府中刑務所に拘禁されていた徳田球一や志賀義雄などの共産主義者を探し出し、刑務所員の抵抗を押しのけて彼らを救出したことである。彼はこのようにして最後の政治犯を釈放しただけでなく、特別高等警察(特高)を解体し、治安維持法などの反動立法撤廃へのきっかけを作った。

(注2)天皇に直接拝謁した右翼としては唯一、田中清玄が知られている。升味準之輔は、木下道雄の『側近日誌』には出入りが記録されている異色の人物の一人について次のような引用がある。45年12月20日、「田中清玄にお会いを願う。(…)明日生研(生物学研究所)にて謁を給う事、お許を得たり。右は大臣(石渡)、次官(大金)、侍従長(藤田)、同意なり。これは次官の熱心なる希望に基く」。12月21日、「2時20分~2時40分、生研に於いて、次官の誘引により来たりたる田中清玄氏、聖上に謁す。侍従長及び予、次官陪席。これは従来にない破格のことである。田中は元来共産党の巨頭の一人にして、十年の刑を終えて出獄、転向したるもの。(…)共産党相手に戦わんとする気構え,七生報国を聖上に誓い奉る。彼としても今日は一生涯の記念日ならん。」

聞き書きによる『田中清玄自伝』の記事はもう少し詳しい。陪席者は7人、会見時間は2~30分の予定が1時間あまりになったとある。1970年代の後半、田中がロンドンを訪れた際はロンドン証券取引所(LSE)を訪問した。取引所からは私(LSE の唯一の日本人会員であった)に通訳の依頼があってそのつもりでいたが大使館から人を出すということで沙汰止みになった。田中は依然として日本のVIPであった。

(注3)田中隆吉の子息、田中稔によれば、東京裁判の終了後、田中はノイローゼ症状で入院、3週間の治療を受けて退院した後に自殺を図り、その後8か月の入院生活を送った。私は偶然のことで木戸幸一の長男、木戸孝澄氏と会う機会があった。同氏は日本銀行から日本勧業角丸証券の専務に移っていた。私が同席した時はそのようなことはなかったが、彼の部下の話では外国人顧客を訪れたような時は開口一番”My father was the special councillor to the Emperor.”と名乗りを上げるのを常としたという。頼めば気さくに話をしてくれるということだったがその機会はなかった。

(注4)今回は引用、言及を避けた鳥居民の『近衛文麿「黙」して死す』には次のような文章がある。「近衛系の人びと、高松宮、そして細川(護貞)はずっと木戸を批判していた。アメリカとの戦争に突き進ませてしまったのは、ほかならぬ木戸であったからだし、戦争を終わりにすることにも逡巡をつづけていたからである。」評論家の岩淵辰雄は総司令部が近衛との関係を絶ったと発表したのと同じ45年11月11日に新たに発刊された雑誌『新生』に「戦争という国家の大事が、僅かに総理大臣としての東條と、内大臣としての木戸と、この二人の専断によって、推し進められ、決定されていたという結論を生み出すものである」と説いていた。岩淵は近衛上奏文の作成に協力したことから吉田茂、植田俊吉とともに2か月ほど憲兵隊に捕らえられていた。(以上、文庫版188、189頁)

カウンター
カウンター