国立だより(国立・国分寺支部秋季例会)

国立だよりの後半をお送りします。

大島昌二2017.11.10

愚生の「国立だより」にエディターの森さんが補完的な資料を提供されましたが、ほかにも私信で遠隔地に住む友人から一橋祭が天下市と共催でないために「大学の様子が見られないのは残念」というコメントも貰いました。

折り返して大学の様子を見るよい方法を知らせたところ構内の景色を「幻想的」と評してたいへん喜んだ返事が返ってきました。そこで今回は最初にその方法をお知らせすることにします。当メールに恒例の写真の貼付がないのはその為とご了承下さい

お伝えした通り、大学通りに出かけたのは佐野書院で如水会支部の会合があったからです。「国立だより」では触れなかったけれど、如水会の会合で中野聡副学長から、大学の写真を格安の条件で Google Maps に載せてもらったという話がありました。

近年の大学の広報活動の一環でしょう。地方に在住するOBにも喜んで貰っているということでした。このマップ上に一橋大学を探し出してクリックしてみてください。構内の景色を360度のパノラマで見ることができます。ほかにも兼松講堂、図書館などの多数の写真があり、改装後の兼松講堂の内部も見ることができます。ぜひご覧下さい。

長くなりそうだったので前回のレポートでは支部総会に触れる余裕がありませんでしたが、上記の Google Maps もそのニュースの一つでした。他の話題を追ってご報告すると以下のようになります。

福嶋司氏の講演「緑豊かな一橋大学のキャンパスの自然と武蔵野の自然」はすこしでも自然に関心のある者にとっては、ましてやそれが母校の環境に関わっているものであれば、実に興味深いものでした。

一橋の敷地面積は278,138平米(西キャンパス211,957、東キャンパス66,181)で緑地面積は東京の大学では最大である。往年の武蔵野の面影を残し、ササバギンラン、ギンラン、イチリンソウ、ツルボなどの草花も見られ、幹周囲2米以上の大径木は277本が生育している。アカマツがもっとも多く、武蔵野の雑木林の主体であるコナラ、クヌギも多く、景観木のヤマザクラ、ソメイヨシノも聳え立っている。問題はアカマツは松枯れ、その他の樹木は大径木化、老齢化が進行し、衰弱している。諸兄ご存知の一橋植樹会は大学と協力して新たな植樹などを行っている。面白いことにはアカマツは曲がって伸びるもので真っすぐに育てるには雑木林に植えるのが良いという。

国立は大学通りのサクラ並木で知られるが、サクラ寿命は一口に50年といわれる。この桜は現天皇の生誕を祝して植えられたもので苗木の時期を入れて優に80年以上を経ているが手入れ次第ではまだ十分余命があるだろう。サクラは根を踏まないことが大事だが国立のサクラは歩道とは一線を画しており踏まれていないのがよいという。大学内にはグラウンドの周辺などもっと老齢化しているサクラの巨木(ヤマザクラだろう)があり、私は花見のころは雑踏を避けてこちらを見に来ることにしている。サクラを離れてもとりわけ南側の山林は野趣に富んでいる。

福嶋先生のお話はほかにも「武蔵野台地の形成」、「武蔵国と新田開発」、「玉川上水と小金井桜」、「国分寺崖線と野川の自然」、「江戸名所図絵にみる国分寺・大國魂神社」などそれぞれ身近に住みながら無知のまま通してきた知識を注入して戴いた。思うに教科書「日本史」は政治史であり、社会史・生活史の視点は決定的に欠如していた。メモに従って主要なポイントを順不同に挙げてみる。(ただし正確さは保障の限りでない。)

かつて武蔵野は海で、陸地は多摩丘陵から始まっていた。多摩川は青梅を扇頂とする扇状地を形成していた。50万年前に上総層群の隆起があり、6万年前以降には古富士、箱根の火山噴出物(関東ローム層)がその上に堆積した。武蔵野台地は長い年月の隆起・沈降の結果形成された広大な台地で、青梅を起点に海抜190mから20mまで、2~2.5%の勾配で西から東へ向かって傾斜している。東西50㎞、南北40㎞、面積は700㎢である。

台地で農業用水の確保が難しいこと、火山灰地で土地に栄養分が乏しいことから、武蔵野は人の居住に適さなかった。中・西部の開発は古くは霊亀2年(716年)、高麗から渡来した約1,800人を荒川流域に移住させて設置した高麗郡に始まり、758年には新羅からの僧、尼僧、ほか男女40名を移住させて新羅郡(現在の新座市、和光市)が設置された。(これらの移民はわれわれにとっては武蔵国の先住民ということになる。)室町末期から開墾が活発となり、森林伐採が進み焼き畑農業がおこなわれた。

家康が赴任した江戸は水不足で野火の多発する荒蕪地であった。家光の時代に参勤交代が始まり人口が60万人を越えると江戸は深刻な生活水不足に陥り、井の頭を水源とする神田上水が開削された。続く綱吉の時代には松平信綱を総奉行とする玉川上水が拓かれ、現場で開削に当った加藤兄弟は士分に取り立てられて玉川の姓を賜った。玉川上水沿いにはサクラの植栽が行われた。今では小金井堤がよく知られている。

玉川上水から小川村(現小平市)で分水する野火止用水はその先延長25キロにおよぶ地域で灌漑および生活用水として利用された。この用水の開削から41年後、元禄7年(1694)には柳沢吉保が大規模の新田開発を行っている。

われわれの居住地である武蔵野台地の概要は興味深いものであったが、江戸から東京への都市の推移については『江戸名所図会』に示唆するものが多いことを教えられた。この本の著者は神田雉子町の名主斎藤親子三代が30年をかけて編集したものだという。1,040の目次項目のうち670カ所に長谷川雪旦の描く絵が挿入されているが、府中の大國魂神社について見るとその絵にあるケヤキ、イチョウ、モミ、ケヤキ並木などが識別できるという。専門家の眼識には脱帽せざるをえない。

長くなったので大学の話は多くを割愛せざるを得ない。駆け足で付け加えると、今年から4学期制に移行した。これは「グローバル化」と関連があり、交換留学生の受け入れ、送り出しの便宜にもリンクしており、これはすでに効果を発揮している。学生の出身地が関東に片寄りすぎているのは問題と考える。今年の新入生953人のうち、関東出身が683人で70%を越えている。かつては東大、京大以上に全国各地から入学者を集めていた。現在の受入れ留学生総数(交流留学生などすべての資格者を含めて)54カ国/地域から793名である。

最後にこれは朗報と言ってよいと思う。国立・国分寺如水会では今回「如水会国立・国分寺支部―如水会々報に見るその歩み―」という50ページの冊子を作成して会員に配布した。当会が1982年に国分寺支部として発足してから前回までの如水会々報に掲載された全記録を収録したものである。作成にあたった幹事団のご苦労を多としたい。来賓として挨拶をした岡田事務局長によれば如水会では会報の第1号からの記事をすべてディジタル化する作業に取り掛かったところである。それが完成すれば、古い時代のわれわれの先輩たちの生活と意見がどのようなものであったかをより身近なものとすることができるだろう。実は前回のレポートで国立の市街地のプランはドイツの学園都市ゲッチンゲンに倣ったものという説をご紹介した。福嶋先生は「町の設計は満州の長春を模した配置」とされている。幾つかの都市がモデルとして上げられたことは想像に難くない。しかし誤り伝えられている幾多の伝説に新たな光が当てられるに違いない。

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