発掘された地域の分布を見るためにここに添付した「中国領トルキスタンと隣接地域」(Chinese Turkistan and Adjacent Areas)の地図はピーター・ホップカーク著”Foreign Devils on the Silk Road”1980年刊(注4)からのものである。
著者はこの本の序文で同書の目的を以下のように記している。
「これらの遠征の物語とこのように多彩な人物たちを、人を寄せつけない中国の辺境に、健康や時には生命の危険を冒してまで、引き付けたものは何であるかを初めて一冊の本にまとめることである。」(下線は大島) ーー中略ーー
地図は英文であり、見づらいが、PC上で拡大すれば少しは見やすくなると思う。ここにはカシュガル、ウルムチ、ホータン、トルファンなどの都市のほか発掘の行われた主要な遺跡のすべてが表示されています。
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写真説明
7,794 莫高窟の門。門柱の背後に岩窟の天辺が見える。
7917 アスターナ出土のシルクロードの絹製品。
展示されていたのは複製品。陝西歴史博物館(西安)。
7974 同上。囲碁愛好家はご存知の碁を楽しむ唐代女性図。
7976 空爆で失われたベゼクリクの壁画。等身大の中国の僧(左)とインドの僧(右)野蛮な鋸の傷跡に注目。
7979 同上。(アレクサンドロス大王のヘレニズムの影響を受けた)ガンダーラ経由のインドと漢代中国の美術様式の融合。(Serindian 様式と呼ばれる。)
7980 同上。以上3点はいずれもホップカーク著”Foreign Devils on the Silk
Road”より。
7524 河西回廊、バスの沿線に延々と続いた黄土高原をタクラマカン砂漠に代えてもう一度思い返すことにする。
敦煌への道のりを書きながら肝心の敦煌についてはこれという説明ができないままだった。
ここでいう「敦煌」とはシルクロードの要衝を占めて繁栄した敦煌の町ではなく、そこから東南25キロほどのところにある「莫高窟」、あるいは「敦煌の千仏洞」である(注1)。
この敦煌の千仏洞には492の石窟寺院が現存する。最初の石窟が造営されたと伝えられる西暦366年以来一千数百年を経たこれらの洞窟は今でも45,000平米の壁画、2,000余体の彩色彫像を収蔵する驚異的な大画廊である。
われわれが案内されて、昼食をはさんで、そこで見たのは8つの石窟(Nos.29,328、331、16、17、61、96、148)に過ぎない。このうちの17号石窟は16号の壁面に封印されていた小窟で1900年にそこで偶然発見された膨大な量の文書はその後、英独仏露米を代表する考古学者の争奪の的になった。すでにタクラマカン砂漠の埋蔵物の争奪の対象は古文書から壁画、塑像へと広まっていた。
大谷光瑞が代表する日本の探検隊も初期からこの争奪戦の一翼を担っていた。
ほとんどが白地図のように見える西域(初回レポートの地図参照)は敦煌(甘粛省の西端)から西の新疆ウイグル自治区である(注2)。その中心部を占めるタクラマカン砂漠は天山山脈、パミール高原(世界の屋根と呼ばれる)、崑崙(コンロン)山脈という世界有数の高山帯に馬蹄形に囲まれた広大な楕円の中にあり、東方の開口部をゴビ砂漠が占めている。このタクラマカン砂漠(タリム盆地でもある)はまた数百年の長きにわたって幾つものキャラヴァンが跡形なく姿を消した旅の難所として聞こえており、旅人は東西600キロに及ぶその楕円内部の周辺に点在するオアシスを探し求めながら往来した。
砂漠の道はもとよりであるが、その周辺のオアシスの集落に到達するまでの山道も危険に満ちていた。
シルクロードとやがて呼ばれることになるこの東西の交易路に出るための道はチベット、カシミール、アフガニスタン、シベリアなどから通じていたが、疲労、けが、高山病、さらには転落などのリスクに加えて山賊の襲撃による危難にもさらされていた。
タクラマカン砂漠への道を切り開いた冒険家として、あるいは敦煌文書を含むタクラマカンの文物をヨーロッパにもたらした人物の中ではスヴェン・ヘディン(スエーデン)、オーレル・ステイン(ハンガリー生れの英国人)の名が突出しているが、フォン・ル・コック(ドイツ)、ペリオ(フランス)などの名も欠かすことができない。
彼らがどのようにして発掘を行い、またどのようにして文物を入手したかについての知識は多分に彼ら自身の記録によっている。とりわけヘディンとステインの2人は各種の栄誉を授けられ、彼らの冒険談はベストセラーとして世にもてはやされた。現在の時点から見ればその発掘や搬送の手段が考古学的に見て妥当であったかどうか、さらにはその取得の合法性も疑わしい。
砂漠の乾燥地帯に1,000年を越えて眠っていた文書や壁画がいかにデリケートな状態にあるかは、日本でも高松塚の壁画の保存問題でわれわれの身をもって知るところである。兵馬俑のテラコッタの兵士像ですら今ではすべてを展示するのではなく、僅かに射し込む紫外線による劣化を防ぐために、一部は埋め戻されているのは今回見てきたばかりである。
天山山脈の南側、オアシスに沿って、タクラマカン砂漠の周辺を東西に結ぶ2つの道は、その北側を天山南路、砂漠をへだてた南側を西域南道と呼ぶが、呼称には変遷もあり中国が現在採用している名称ではそれぞれシルクロードの中路、南路となっている。この2つの道のほかに天山山脈の北側にあって「草原の路」とも呼ばれる天山北路がある(注3)。
天山北路は主にロシアの探検隊によって、さらには敦煌の石窟に収容された白ロシアの敗残兵の逃亡ルートとしても利用されたと思われる。ヨーロッパからの探検隊の中にもシベリア横断鉄道を利用してオムスクで下車、そこから船でセミパラチンスクに到着、そこからはスプリングのない原始的な四輪馬車の震動に耐えながら新疆の首都ウルムチにたどり着くものもあった。しかし多くの探検隊がその基地にしたのはカシュガルである。
1977年夏に日中文化交流の一員として新疆ウイグル自治区を訪れた藤堂明保氏はタクラマカン砂漠を上空から見下ろす機会に恵まれている。
藤堂氏はプロペラ機でウルムチ→アクス(天山山脈越え)、アクス→ホータンの航程計1,200キロを飛んだがアクス→ホータン間の510キロはタクラマカン縦断に近い1時間あまりの空の旅である。藤堂先生の文を以下に借用させて戴く。タクラマカン砂漠の概要を知る上で味読すべき名文だと思う。
「見下ろすと、アクスの南方はじつに多くの川がくねくねとうねっている。西からくるのはカシュガル川で、これはカラコルム山系の雪解け水である。南からくるのはホータン川だが、これは砂漠の地下を伏流水となって北上し、アクスの近くで地表近くにあらわれて地下水を提供する。(中略)やがて(南下するにつれて)黒い岩石を点々とはらんだ砂地が広がり、ついにはぼうぼうたる大砂漠となる。砂漠の中には黄白色の平面をなす所もあり、大魚の鱗のようにあるいは大海のうねりのように見える地帯もある。昔の人がこの大砂漠を乾海(乾いた海原)と呼んだのもうなずけよう。地上に立てば、あのうねりの一つ一つが、大きな砂丘なのであろう。東西600キロ、南北400キロもある大砂漠だから、歩けば果てしのない広がりの中に吸い込まれてしまうにちがいない。
「タクラマカン」とは「入ったら出られないという意味だそうである。」(藤堂著『西域紀行 シルクロードの歴史と旅』)
探検家たちの苦難の冒険行を読んだ後ではこのようにして上空からタクラマカン砂漠を見てみたいと思う。ヒマラヤの峰々を見下ろして飛ぶよりも、私はこの方を選びたい気がする。地上の探検家たちにはもとよりこのような展望は求むべくもなかった。探索に先鞭をつけたスヴェン・ヘディンは「地平線の彼方に浮かび上がる砂丘のさらに彼方、墓場のような沈黙の中に、未知の世界、私が世界に先駆けて足を踏み入れるべき土地が広がっていた」と想像を湧き立たせている。1895年のヘディンの第1回の遠征で彼の一隊は、水を飲みつくしてからなお5日間砂漠をさまよい、ヘディン自らが九死に一生を得ながら、同行5人のうち2人の生命と8頭のラクダを失っている。
この後、各国の探検隊がタクラマカン砂漠の周縁に点綴する砂丘の下に埋没した古代遺跡を掘り返し、そこで長の眠りについていた文物の収集にしのぎを削るのだが、天然の要害に守られ、砂嵐の吹きすさぶ広大な砂漠の出来事の詳細は当時も今も散発的にしか知られていない。
後に示すようにその後に第二次大戦を経た今日では発掘品の正確な所在も広くは知られず、収蔵品の保存上の問題もからんで展示もままならない。その一部でも、それも本来あるべき姿で、目にするためには現地に足を運ばなければならずその代表が敦煌の莫高窟ということができる。ステインたちが敦煌にたどり着いた時にも莫高窟は祈りの場として機能しており、そこから壁画などをはがして持ち去ることはできなかった。
ベゼクリク(「絵のある所」の意)石窟群の壁画は、ドイツのフオン・ル・コックが洗いざらい持ち帰った後ベルリンの民俗学博物館に展示されたが、後述するように、巨大壁画は連合軍の7度に及ぶ空爆によって失われた。今に残るのはその写真のみであるがその画面にはのこぎりによる無惨な切断の跡が明らかである。
発掘された地域の分布を見るためにここに添付した「中国領トルキスタンと隣接地域」(Chinese Turkistan and Adjacent Areas)の地図はピーター・ホップカーク著”Foreign Devils on the Silk Road”1980年刊(注4)からのものである。著者はこの本の序文で同書の目的を以下のように記している。「これらの遠征の物語とこのように多彩な人物たちを、人を寄せつけない中国の辺境に、健康や時には生命の危険を冒してまで、引き付けたものは何であるかを初めて一冊の本にまとめることである。」(下線は大島)
しかし、西域の砂漠の下に埋もれ、あるいは石窟群の中に眠っていた美術品に惹きつけられたのはこれらの探検家ばかりではない。少し大げさに言えば、西域への遠征はそれぞれの国の知的エリートがこぞって支援した国家的事業であった。それは典型的にはドイツのカイザーの示した熱意によっても推しはかることができる。
地図は英文であり、見づらいが、PC上で拡大すれば少しは見やすくなると思う。ここにはカシュガル、ウルムチ、ホータン、トルファンなどの都市のほか発掘の行われた主要な遺跡のすべてが表示されています。トルファン地域の遺跡はインセットの中に示されています。地図ばかりでなく、以下の遠征・掘削・収奪に関する要約もホップカークの著書に拠っています。
文明の利便の届く最後のベースとしては、イギリス隊に限らずカシュガルが多く使われた。そこを訪れる誰もが英国領事ジョージ・マカートニイの世話になった。ヘディンの地図制作の関心がチベットに移った後に主役にのし上がったオーレル・ステインの場合は植民地インドのラダックからカラコルム山脈を越えるのを常としたが、パミール高原を越えてカシュガルに到達するルートもあった。
日本の大谷隊の一員であった橘瑞超はシベリアからウルムチ経由でトルファンに入り、1910年から11年にかけて、クーチャ、楼蘭、敦煌で発掘作業にあたっている(注6)。
1914年に第一次大戦が始まり、フォン・ル・コックのドイツ隊が引き揚げると西域に静けさが戻り、そこは兵役年齢をはるかに越えているステインの独壇場になった。52歳のステインはミーラン、敦煌、カラホト、ベゼクリク、そして最後は死者の眠る地下都市アスタナと掘り進んで多大な成果を祖国へ持ち帰った。中国から西へ向かうルートは中国が門戸を閉ざす間際の1923年にアメリカ人のラングドン・ウォーナーが北京、西安経由で入ったのが最初で最後と思われる。西洋の客人に雇われて荷役に携わる者も偽造の文書を持ち込んで私腹を肥やす者も当時西域を支配していた回族のようである。
敦煌の莫高窟に到達したウォーナーは、その彩色された石窟を10日ほどの間ほとんど離れることができなかった。おそらくこれまでに敦煌を訪れた者のうちで考古学者としての修練をいちばん積んでいると思われるウォーナーは敦煌との遭遇を次のように回顧している。
「ただもう息を飲むばかりであった。私はそこで初めて理解したのだった。私がなぜ大洋を渡り、2つの大陸を越え、また数カ月にわたって荷車に沿って重い足を運び続けてきたことの意味を!」
現在、中国シルクロードから収集された数多の文化財(壁画、彫刻、写本、その他の遺物)はどうなっているだろうか。
ホップカーク氏は日本を含む各国を訪ね歩いてその(1980年時点での)現状を報告している。「(それらは)1ダースほどの国に散在し、さらにまた合わせて30以上の博物館や公共機関に分散保有されている。大はロンドン、ベルリン、デリーなどから、小はパリのチェルヌスキ美術館やカンサスのネルソン画廊に至るまで。」
ここにベルリンと出ているのを見て「おやっ」と思う人もいるかもしれない。常書鴻氏は、ヒットラーがベルリンは不滅であるとして疎開を禁じたためにフォン・ル・コックが持ち帰った品々はほとんどすべてが灰燼に帰したと述べています。(つい最近10月14日、NHKのBS放送が「敦煌」というドキュメンタリーを放送していたが、そこでも似たようなことが述べられていたような気がします。)しかし、これは違う。連合軍の執拗な空爆によって焼失したのは巨大壁画28点で、そのショックからすべてが失われたと誤り伝えられたのであった。失われたのは主としてベゼクリク石窟の壁画であった。キジル石窟の壁画については触れられていない。
今から見れば、東西ドイツ統一前の40年近く前のことになるが、ホップカークは焼失を免れた品々を保管するベルリンのダーレムにあるインド美術博物館を訪れて、ヘルベルト・ヘルテル館長から、約60%のものが現存していると聞いている。品目別に博士の上げる詳細によれば、持ち帰られた620のフレスコとその断片のうち約300、また290の土偶のうち175が現存し、テラコッタ、ブロンズ、木製の彫刻およびコイン、さらには絹、紙、板に描かれた絵画のほぼ80%が焼失を免れた。写本についてはそのほとんどは東ベルリンに保管されているとのことであった。(このような統計から西域からベルリンに運び込まれた文化財の種類と量がどのようなものであったかを知ることができる。)東西ドイツの統一が成り、ベルリンの美術館も再編成された今日ではこれらの品は40年前と同じ場所にはないかもしれない。(ホップカークはベルリンの展示を大いに称賛している反面、大英博物館が僅かの文物を片隅に展示してだけだと不平を漏らしている。)ベルリンから失われた文物のすべてが空襲によるものではなかった。動物園の地下壕に疎開させた素焼きの彫刻はロシア軍に持ち去られたと信じられており、西ドイツ政府から返還請求が出されているが返答は得られてない。
「敦煌とは何か」について私は私なりの回答を模索していた。その答はタクラマカン砂漠に眠っていた膨大な文書や美術品との関連から得られるものと思われた。西域の地図を広げると、それはほとんどが広大なタクラマカンやゴビ砂漠の「白地図」が占めている。その地図に筆を入れて意味を持たせるにはそこからの出土品にどのようなものがあるかを知る必要がある。ホップカークの著書は完全とは言えないまでも、それらがどこから現われたかを教えてくれている(注5)。
河西回廊から敦煌までの旅で私はその地域の広大さに一驚した。そしてまた脳裏の中だけではあるが、タクラマカン砂漠に遭遇してその驚きをくり返した。そこには意外なことに乾燥期には干上がるものの、わずかながら川も流れており、砂漠でありながら雨季には船を出して部分的にでも移動することができた。しかし、シルクロードの交易によって栄えた幾つものオアシス共同体が次第に水を失い、やがて砂嵐に埋もれて消え去った。氷河や雪解け水が減少するにしたがって乾燥はますます進んでいるらしい。
ここでしばらく前に私信の形で書いた感想を繰り返すことになる。
「兵馬俑はおっしゃる通り驚嘆すべき遺産です。私は前に腰を抜かしていたからあらためて言うべき言葉がないだけということです。敦煌の莫高窟はこれとはまったく違った意味で驚嘆すべき歴史遺産です。まだ十分に学んでいないので多言を弄することはできないのですが、それぞれが寺院であるここの窟の一つ一つが時代を越えて敦煌を訪れた多数の民族の多様な姿を写しだしています。民族の融和などという言葉がありますが、それが長期にわたって実際に存在していたことがこれらの美術品から知ることができます。」
今回のレポートではここまでに2ヵ所で文字を茶色に転換してあります。それらがタクラマカン砂漠から敦煌を見た後で付け加えたいと思った感想です。
もう一つ、この自然と融合した壮大な歴史的美術館ということのほかに、これまで正面から光を当てられなかった敦煌文書の世界があります。この分野は「敦煌学」という学者の間でも多分に未知の世界で素人の口出しを許さないでしょう。ここではホップカークの著書から2点だけをご紹介します。
敦煌文書が発見される以前に、1889年に天山山脈の南山麓のクーチャで地元民が発見し、インド植民地軍のバウアー中尉の手を経てベンガル・アジア協会(在カルカッタ)に届いた「バウアー文書」が注目を集めました。この文書は51枚のカバノキの葉にブラーフミー文字を用いてサンスクリット語で書かれた主として薬種や交霊術を扱った7編の文書で、現存するインド最古、世界でも指折りに古い文書でした。この文書が朽ちずに残ったのはもちろんタクラマカン地域の極度に乾燥した気候のせいでした。この発見が西域の「宝探し」に火をつけ、古代文書の巧妙な偽造事件を巻き起こしながら敦煌文書の争奪戦を巻き起こしたのでした。敦煌からは世界最古(西暦868年)の木版の印刷物も発見されています。
上掲の引用文は以下のように続きます。「(敦煌で)われわれが案内された窟のうち1900年に発見された現在の窟番号17番、蔵経堂から発見された6万点の古文書や芸術品は貴重かつ有名で、イギリス、フランス、ロシア、日本などに流出、散逸した後、1910年になってようやく中国政府は残された文献を北京に運び保管をし始めました。これがその後、敦煌学とよばれるものの基礎になっているとされます。」
中国の歴史家、考古学者はこのような貴重な文書が失われたことに対する痛恨の思いを隠しません。ヘディンとステインが持ち去った楼蘭文書にはとりわけその思いが深い。なかんずく西域での活動が16年に及ぶステインは”foreign devils” の最右翼に位置する人物です。漢代の楼蘭は繁栄する通商都市、匈奴に対する前線基地であり、唐代には西方の守りを固め、シルクロードの通商の安全を確保するための軍隊の大規模な駐屯地であったことがこれらの文書から明らかにされています。中国にとっては多量の公文書とともに唐代の人々の日常生活の資料の宝庫として欠かせないものです。楼蘭の出土品の中にはその同じ場所に知られざる古代インド帝国が存在したこと、そして楼蘭がその前哨基地であった可能性を示唆する銘板も発見されているといいます。
最後に敦煌の莫高窟について書きもらしたことをまとめておきます。敦煌は単独で存在するものではなく、その東西両方向に多くの石窟寺が現存しており、今回の旅で見てきた麦積山石窟、炳霊寺石窟もそのうちに数えられる。また「敦煌石窟群」という表現もあり、莫高窟のほかに楡林窟、西千洞仏、および五個廟子石窟の計4カ所の石窟を指しますがその中心となるのが莫高窟で、莫高窟が独自単独に存在するわけではない。
莫高窟は資料によれば前秦の建元2年(西暦366年)に沙門楽僔(らくそん)がここで金色の光に浮かぶ千仏を幻視して窟を造営し、次いで法良禅師がそれに倣ってその傍らに窟を造営したことに始まるとされる。これらの窟の一つ一つが寺院であり人々にとっての信仰の場です。その後シルクロードを旅する人は、魑魅魍魎の出没する行く手の道の安全を祈り、あるいは旅から無事生還した感謝の念を込めて、美と信仰の粋を尽した窟を寄進したのである。
(注1)「千仏洞」だけではベゼクリク、キジルなどにも有名な千仏洞があるので紛らわしい。敦煌にもまた別に「西千仏洞」がある。
(注2)英語の史書ではChinese Turkestanという言葉がよく用いられているがこれは西域ではなくほぼ新疆を指していると見られる。
(注3)天山北路を別格として、天山山脈の南側にある天山南路と西域南道の2つを天山南路と呼び、それぞれを天山南路の北道、南道とする呼び方もある。
(注4)ピーター・ホップカークの邦訳書に『シルクロード発掘秘話』(絶版)があるのはこれであろう。
(注5)英政府は大谷光瑞探検隊を軍事スパイと見なして尾行をつけたりしている。ホップカークはその説を半ば信じているが結論は下せないでいる。大谷光瑞はロンドンの王立地理学協会の会員であった。大谷探検隊は3次まであるが、この間に大谷は西本願寺の門主を継ぎ多忙であった。大谷自身が率いたのは総数5名の第一次探検隊(1902~04)のみで、ホップカークの書に行動が描かれるのは第三次(1910~1914)の橘瑞超と吉川小一郎の2人である。このいずれもが第1次には参加せず、橘瑞超(光瑞から一字を貰っている)は2次と3次、吉川は3次のみの参加である。日本隊が入手した大谷コレクションは西本願寺の財政難に伴い数奇な運命をたどった後、現在では①日本(東京国立博物館、龍谷大学など)、②中国(旅順博物館、北京図書館)③韓国(韓国中央博物館)の三カ国に分散保有されている。旅順には大谷別邸があり、寺内は朝鮮総督であった。
(30/10/2017)