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深田クラブ会報第84号表紙 堀江秀昭
オンネトー湖からの雌阿寒岳と阿寒富士
阿寒の名を冠する山は、雄阿寒岳(1371m、雌阿寒岳(1499m)、阿寒富士(1476m)の3座がある。いずれも活火山とされるが活発に白い噴煙を上げているのは雌阿寒岳のみである。
登山口には毒ガス注意の掲示板がある。オンネトー湖は雌阿寒岳の噴火により川の流れが止められてできた堰止湖である。天候等により湖の色が変わるので「五色沼」の別名を持つ。オンネトー湖から雌阿寒岳と阿寒富士の鞍部に道が通じている。
昔話で恐縮だが、1999年10月単独行で釧路湿原から来て、雌阿寒は3回昇っているが、登り残していた阿寒富士に湖畔から往復した。阿寒富士の山頂に着き、一等三角点と雌阿寒岳の真っ白な噴煙を入れて記念写真を撮る。
快晴で雲一つない。おまけに他に登山者は見当たらない、独り占めの山だった。下山して湖畔に出て回り込んで2つの山を眺める。湖畔は紅葉している。嬉しいことに快晴無風で、湖面に雌阿寒岳と阿寒富士が投影されている。一瞬風が収まり湖面が凪いだので、この写真となった。
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世界最高峰の山はチベット語のチョモランンマ、ネパール語のサガルマータと呼ばれ、現在はインド測量局長官ジョージ・エベレストに因む名称が一般化している。英国は一九二一年の第1次から一九三五年の第7次まで遠征隊を送ったが、登頂は出来なかった。一九二四年の第3次遠征隊に参加していたジョージ・マロリー、アンドリュー・アーヴィンは中国側の標高八二〇〇mの最終キャンプを出発しそのまま消息を絶った。一九三三年、イギリス第四次遠征隊のパーシー・ウィン=ハリスが北東稜の頂上近く、稜線から20mほど下の地点(八四五〇m)でアーヴインのものとされるアイス・アックスを発見した。一九九九年五月米国のマロリー・アーヴィン捜索遠征隊が、テラス状の場所で、近年の装備を付けた散乱する6人の遺体を見つけたのち、そこを登り返す途中の八〇〇〇mあたりで、マロリーの遺体を、75年ぶりに発見する。その頃の鋲靴を履いていて、信じられない薄着の衣服。G.Malloryのネームカードで本人と確認された。缶詰や手紙類ハンカチはあったが、持参したカメラ、コダック・ヴェストは無かった。それで、山頂に行ったかどうかの確認は取れなかったため、謎として議論の渦を巻き起こした。「そして謎は残った 伝説の登山家マロリー発見記
文芸春秋社」(なお、このカメラがあったとと言う筋書きで夢枕獏が小説『神々の山嶺(いただき)』を書いている。二〇一六年3月この映画『エヴェレスト 神々の山嶺』が封切られた)
遠征隊は、発見した遺体の撮影と祈祷、持ち帰る遺品の選定など必要な調査のあと、遺体を埋葬した。つまり岩屑で覆った。遺留品の中に妻の写真がなかったから、山頂に置いてきたのだろう、とすれば登頂に成功した、と唱える人もいる。
マロリーは「なぜ、あなたはエベレストに登りたかったのか?」と問われて単純に「そこにあるから」(Because it's there.)と答えた」という逸話の持ち主である。なお、この言葉は「そこに山があるから」と意訳されて流布している。
一九四九年、4年間鎖国していたネパールが開国し、ネパール側からの登山が可能になり、各国から登山隊が送り込まれたが、初登頂は一九五三年五月ニュージーランドのエドモンド・ヒラリーとシャルパのテンジン・ノルゲイによってなされた。この遠征は2か月以上に及び、三〇〇人を超えるスタッフが8トン近い機材を運搬した。日本人としては一九七〇年五月、松浦輝夫と植村直己が初登頂した。一九七五年五月、田部井淳子が世界で初めて女性として登頂に成功した。
一九九六年当時は、大金(6万5千ドル~7万ドル)を払い、世界最高峰に登るという商業登山隊が幾つも組織されていた。クラカワーは米国の山岳雑誌「アウトサイド」からの委嘱で、商業登山の実態をレポートするため、費用は雑誌社持ちで派遣され、ニュージーランドの実績と信用を誇るロブ・ホール隊に加わり参加し遭難したが、九死に一生を得て生還した。彼は帰国後広範囲のインタビューにより起きた事実を網羅、確認し、邦題の本書「空へ エベレストの悲劇はなぜ起きたか」原題 Into Thin Air A personal account of the disaster By JON KRAKAUER である。(彼には別にノンフィクション Into The Wild 荒野へ がある)登山家であり、卓越したジャーナリストである彼の著作は、必要な注釈も付し、正確を期して書かれている。
エベレストの登山は、技術を積んだ登山家や国家的プロジェクトによる冒険であったが、アマチュア登山家であっても、体力があって必要な費用を負担すれば商業登山隊の一員となり、選ばれた者しか行けなかったエベレストに、誰もが行けるという新しい時代が来たのである。しかも客としての身分であり、登山に必要なもろもろの問題、登山計画、食料、飲み物、テント、寝具、シェルパの手配、キャンプ設営、ルート工作、物資の運搬など、ガイドやシェルパ任せである。これは商業化の利点であるが、同時に登山人口の増加を招き、必然的にルートの狭隘箇所での渋滞と、必要な登攀技術や経験の少ない者も紛れ込むという側面を生んだ。エバレストは、ビジネスの場、観光地化したと言える。しかし、世界一過酷な観光地である
近年エベレストでは、登山者による大混雑が問題になり、混雑への高まる不満の声が上がっていると言う。だが、既にに一九九六年当時、混雑を皮肉ってクラカワーは「エベレストでは孤独は貴重品だ」と述ている。最近の登山者の殺到で待ち時間2~4時間とも聞く。
一九七五年に女性初のエベレスト登頂に成功した田部井淳子が最近カトマンズで、「登山者の数を政府がコントロールすべきだ」と発言したとのこと。ネパール政府は、二〇一五年10月、ベレストの入山者数を制限し、経験の浅い登山者の入山を禁止すると発表している。障害を持つ人や高齢者、17歳以下の若者も禁止されるという。ネパール政府がエベレスト登山の許可を与えるのは「6500メートルより標高の高い山に登った経験がある18歳から75歳の登山者」である。
1996年5月に天候の回復を待ち、晴天を待ち望んでいたのは次の16もの登山隊である。この時既に混雑が始まっていたのだ(数字は人数)。(1)アドヴェンチャーコンサルタンツ隊(ニュージーランド)隊長ロブ・ホール、ガイド2,医師1,シェルパ11,顧客10(本書の著者クラカワー、難波康子が含まれる)(2)マウンテン・マッドネス遠征隊(米国) 隊長スコット・フィッシャー、ガイド2(内1人はロシア人)、医師1シェルパ10,顧客9
(3)IMAX映画撮影隊(米国)隊長デイビット・ブリーチャーズ、副隊長1,映画出演者4(内1人は続素美代)、撮影関係者4
(4)台湾隊(台湾)隊長マカルー・高銘和、隊員1、シェルパ2、いい加減な行動で顰蹙を買った。(5)ヨハネスブルグ・サンデー・タイムズ遠征隊(南アフリカ)隊長イアン・ウッダル(協力を拒否しロブ・ホールを激怒させた上、嵐の最中救助に必要な無線機の貸与を拒否した)クライマー8、編集関係者7、シェルパ5(6)アルパイン・アセンツ国際隊(米国)隊長トッド・バールソン、ガイド2、顧客3(7)マル・ダラ国際営業遠征隊 隊長マル・ダラ 英国・香港・デンマーク・フィンランドのクライマー8(8)福岡チョモランマ登山隊 (日本・チベット側から登頂)隊長矢田康史 クライマー花田博志、重川英介 シェルパ3(ネパール)以下は隊の名称のみ記す (9)ヒマラヤン・ガイド営業遠征隊 USA(10)スエーデン単独遠征隊(11)ノルウエー単独遠征隊(12)ニュージーランド・マレーシア合同プモリ遠征隊(13)プモリ・ローツエ営業遠征隊 米国(14)エベレスト清掃遠征隊 ネパール(15)ヒマラヤ救助協会診療所 ペリチェ村(16)インド・チベット国境警察エベレスト遠征隊
待ち望んだ晴天は一九九六年5月10日に訪れた。最高所の第4キャンプで天候待ちしていたていた登山隊が一斉に活動を始めたため、頂上への最後の難関であるヒラリーステップで渋滞が発生山頂への到着が大巾に遅れた。
安全な第4キャンプまで戻るための山頂離脱時間はロブ・ホールの判断では午後2時だったが、山頂未達地点でこの時間を迎えた4名はそこから引き返し、生還した。クラカワー本人は「世界の頂点にはほんの僅か留まっただけ」だったが、多くは世界最高峰を征服したというこの上ない高揚感をお互いに分かち合う時間が長引き、門限の2時も忘れて時間を空費したため、八〇〇〇mというデス・ゾーンで突如襲ってきたブリザードに捕まってしまう。
そこがデス・ゾーンと言われる所以は、八〇〇〇m以上では、気圧は平地の3分の1以下、気温はマイナス26度以下、酸素ボンベがないと正常な判断もできなくなる極限の世界で、高度肺水腫、高度脳水腫、低体温症、凍傷、網膜出血など、数々の致命的障害のリスクが高くなり、激しい咳や、頭痛、下痢、食欲減退に苦しめられることになる。じっと座っているだけでもそうなる。この高度では人間の身体に何が起きるか分からない。しかも酸素ボンベの不足は屡々深刻な事態を招いた。
これらを克服して山頂に到達した人は18名と見られる。ジョン・クラッカワー、サンデイ・ピットマン、シャーロット・フォックス、アンデイ・ハリス、クレブ・ショーニング、ロブ・ホール、難波康子、ダグ・ハンセン、マイク・グルーム、ロブサン・ジャンプ、ティム・マッドセン、イレーネ・ギャメルガード、マカルー・高、アン・ドルジェ、ナトーリ・ブクレーエフ、ニール・ベイドルマン、マーチン・アダムス、ベック・ウエザース
死亡者は9名である。アンディ・ハリス、ダグ・ハンセン、ロブ・ホール、難波康子、スコット・フィッシャー、チェン・ユー・ナン、ブルース・ヘロッド、ナワン・トプチェ・シェルパ、、ロプサン・ジャンブ・シェルパ。これらの人々は体調悪化、滑落、ルート迷い、落石、酸素欠乏など、エベレストの様々な悪条件の陥穽に捕えられ、生命を失った。これら事態の悲惨な推移を著者は悲しみをこめて余すことなく描写している。
生き残った米国富豪のサンディ・ピットマンは米国での生活を持ち込み、ガイドに彼女の通信機、小型パソコン、コーヒー機器、豪華な食材とファッション雑誌(ボーグとバニティ・フェアー)を第4キャンプまで運ばせていた。重さ15キロになる。通信機は第3キャンプで殆ど使えなかったが、第4キャンプでは全く使えなかった。帰国後世間の非難を浴びる。
5月10日から11日にかけて吹き荒れた猛烈なブリザードの最中サウス・コルの下部、第4キャンプから僅か三〇〇mの地点までまで下ってきた難波康子を含む11名は、肩を寄せ合ってビバークした。虫の息のベック・ウエザースと難波康子はもう助からないとして置き去りにされた。翌11日、二人はティム・マッドセンにより見つけられた。ベック・ウエザースは奇跡的に生き残り、自力で夕刻テントに戻った。だが代償は大きく、凍傷で右手全部と、左手の大半、鼻を失った。「死者として残されてLEFT FOR DEAD」(邦題「生還」)の著書がある。
ティム・マッドセンは「康子をウエザースの膝にもたせかけるように座らせたが、康子は身動きもしなかった。それから暫くたってみると、康子は仰向けに横たわって、フードに雪が吹き込んでいた。どういうわけか、手袋が片方脱げていて、素手の右手は、指を固く巻き込んで開けられない。骨の随までしっかり凍りついているようだった」と凍死した康子の最後を話している。
5月11日最終キャンプ地からわずか三〇〇m離れた地点であった。小柄な人だったから、誰か早く救助の手を差しのべて欲しかったと思う。
難波康子(一九四九年2月7日 - 一九九六年5月11日)は、早稲田大学文学部卒。一九八七年難波賢一と結婚。日本人女性では田部井淳子に次いで2人目のエベレスト登頂者(47歳・一九九六年5
月10日)となり、日本人として田部井淳子に次いで2人目の七大陸最高峰登頂者となった。彼女は寄付などに頼らず、費用のすべてを自分の収入から支払った。当時47歳で、エベレスト女性登頂者の最年長記録であった。もし存命であったなら今日までの20年簡で様々な活動をされただろうと思うと残念で、冥福を祈るしかない。
5月13日、クラカワーは氷河の危険地帯を抜けて安全な場所に着くとガイドがビールを渡してくれた。それまで事態に冷静に対処してきた彼が気が付くとすすり泣いていた。「こんな泣き方は、小さな子供のころ以来のことだった。もう、危険はない。ここ数週間の心身を押し潰すような疲労と緊張が、両肩から取り除かれて、私は亡くなった仲間たちを思って泣き、自分が生きていることに感謝して泣き、自分が生きているのにほかの者たちが死んでいったことが切なくて、泣いた」クラカワーのやさしい心根が胸に迫る。
クラカワーは翌日キャンプ地での追悼式に参列し、徒歩とヘリで移動しシャンボチェで難波康子の夫と彼女の弟に会う。カトマンズでは役人や多くの、そして特に日本の報道陣の厄介な質問攻めが待っていた。
クラカワーあ5月19日飛行機で帰国した。
この訳本の原書は、一九九七年5月発売直後から新聞各紙のベストセラー・リストのトップに躍り出て、売れ続け、15ヶ国語に翻訳された。ジョン・クラカワーの優れた筆力によるものだろう。
エベレストの近況について簡単に触れよう。
初登頂がなされた一九五三年から一九七三年までの20年間の登頂者は僅か38人だったが、 二〇〇七年にはこの年だけで六三三人が登頂している。二〇一〇年の時点でエベレストに登頂した人は三一四二人であり、その内77%は二〇〇〇年以降の登頂というから、近年の増加は著しい。エベレスト登山の大衆化である。
二〇一二年5月異常高温でルート工作が長引き、待機していた登山隊が一斉に押し寄せたため大渋滞が発生。この日一日で二三四人が登頂したが、高山病で4名が死亡した。
二〇一四年ネパール側氷河で大雪崩が発生。ルート工作中のシェルパ18人がが死亡した。これをきっかけにシェルパの待遇改善要求が強まり、ボイコットが行われ、三三四人が登頂を断念した。
なお二〇一五年は、登頂者ゼロであった。(一九七四年もゼロ)。4月25日に起き、登山者24名が死亡したたネパール大地震(犠牲者八五〇〇人以上)の影響である。(私は徳島ネパール友好協会を通じ少額ながら義捐金を送った)
エベレストの商業化、大衆化は、かくて増加の一途の様相だが、本来我々が山に対峙して抱くべき敬意や、畏怖の念がどうなって行くのか心配だと言う声がある。 終
1996年5月10日 エベレストのバルコニーと言われる地点(標高8400m)を登るIMAX撮影隊*。背景に見えるマカルー8643m、左に遠く離れてローツェ8516mがそれらしい高さで見えている。しかし、こんな穏やかな天候午後に急変して、多くの悲劇をもたらす事になる。
この写真の入手は、2005年11月13日、エベレスト街道のタンボチェの小屋で、壁に貼られいたポスターを私が撮影したもの。写真の上に大きくEVEREST、写真の下に
THE 1996 EVEREST FILM EXPEDITION *
更にその下に小さく参加メンバーの名前が列挙されていた。 * MacGillivery Freeman IMAX Expeditionsが印刷し、後にこの小屋まで持参したと推定される
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②凰鳳三山から富士山を眺める
薬師岳と富士山
30年も昔だが、まだ山仲間がいないので無謀な単独行を繰り返していた頃の記念碑的な山行である。
新宿から23時55分発車する大垣行きの普通列車は、名古屋、京都、大阪方面の山に夜行日帰りで行けるので「兄さんゴーゴー」と語呂も良く、利用者が多かった。
4月の或る日この電車に乗る。4時25分穴山で一人下車。
御座石鉱泉に予約したバスがいないので電話したら1時間後に中型バス来てくれた。一人貸し切りで費用4500円を払う。
穴山を5時半に出発したが、パンク修理で遅れて6時半に御座石鉱泉に着き、装備をチェックされ、まあ良いだろうとなる。鉱泉が管理する鳳凰小屋(無人)の使用料1500円を支払う。
アイゼン装着し、ピッケルを出して6時45分に出発。すぐに胸を突く急登が始まる。
8時に西ノ平に着き小休止。ここから3時間50分かかって燕頭山2104・5mに11時50分着。
雪がちらほら降ってきた。昼食をとる。
14時心配していた吹雪になる。小屋が見つからないとビバークになるので不安だ。
簡易テント、寝袋など必要装備は持っているが小屋のほうがいい。ルートは背丈を超す灌木が沢山あってはっきりしない上、吹雪で一面の銀世界なのだ。
不安を抱えながら進む。見つからないのでビバークを覚悟したが、運良く鳳凰小屋を見つけた。
15時15分。戸を開けて、転がり込む。当然ながらほかに人はいない。大型ザックからあれこれ出して、寝支度し、食事の準備して、熱燗で乾杯。疲労もあって、20時には眠った。厳冬期用寝袋は暖かく、熟睡できた。
朝5時10分起床。パンと紅茶で食事。登山靴を見たら、かちかちに凍っていて、足が入らない。
吹雪のあと晴れて、放射冷却で気温が零度以下になった為だ。バーナーで根気よく暖めて柔らかくするのに可成り時間が掛かったが、少し焦がしてしまった。
室内を清掃して、パッキングを終え、アイゼンを付けて6時10分に歩き出す。
前日は20センチは積もったようだが、放射冷却で雪面がかちかちに凍っており、アイゼンがしっかり効いて素晴らしい歩きだ。
ルートから少し外れて地蔵岳2764mに6時半着。
オベリスクと言われる石塔は固定ザイルがあったが、登るのは敬遠する。
賽の河原は多数の仏像と石塔が林立していて、異様な雰囲気だ。
観音岳2840mに9時15分着。25分休憩する。鳳凰三山の最高峰。
天気が良いため雪が緩んできたのでアイゼンを外す。高低差の少ないルートだ。
甲斐駒や白根三山が目前で、雪煙を上げる富士山が美しい。
薬師岳2780mに10時15分着。15分休憩。山頂は広々して巨石が沢山ある。
南御室小屋に12時15分。昼食にする。
苺平は13時00分。杖立峠14時10分。夜叉神峠小屋に15時30分に到着して泊まる。
他に客は白根三山撮影で泊まっていた荻窪の若い男性のみだった。
食事を共にしながら飲んだビールが喉に沁みた。
翌朝8時、二人して夜叉神峠を下り、8時40分に夜叉神峠登山口に着き、ゲートに停めてあった彼の愛車に乗せて貰い、羊腸のような曲がりくねった車道を下って、芦安で礼を言って別れた。
芦安からバスで甲府に出てJRで帰宅した。
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③鹿島槍高原で高い山を眺める
山に興味を抱く端緒となったのは1981年8月の鹿島槍高原である。
親しかった同業会社が、信濃大町に山登りの基地となる社員寮を開設したが、殆ど利用者がいない、管理人が暇を持て余しているから、良かったら使って欲しいと言って、日向山山荘への紹介状をくれたので、家内と三男の3人で出掛けた。
信濃大町から日向山高原までバス30分。
山荘の料理は評判通り豪華版で、家内や息子は何時も食べ残していた。
出掛けた立山黒部アルペンルートで黒場ダム、ケーブルカー、ロープウエイに驚嘆。
トロリーバスの地中駅の雷電駅(2013年廃駅)で下車しで外にに出て、初めての雪渓横断を経験する。
仁科三湖(青木湖、木崎湖、中綱湖)の青木湖を自転車で一周。
中綱湖から鹿島槍高原へ1時間ほどで登る。登り着いたら視界がぱっと開け、眼前に爺ヶ岳、右に鹿島槍ヶ岳が聳える。
息子が「お父さん!あんな高い所を人が歩いているよ!」と声を上げる。
見上げるると数人が歩いていて驚嘆した。
この展望を見た印象が強烈で、その後山へ傾倒する発火点となった。
帰京後、近隣の低山に家族連れで登り出す。
10月4回。11月3回、12月2回と奥武蔵中心だった。
懐かしい思い出である。
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深田クラブ会報寄稿3編 (旧サイト)
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またお騒がせで恐縮ですが、本日2月22日は猫の日なのだそうです。2が三つ並ぶので、これをにゃーにゃーにゃー と読んで、猫の日と言うのだそうです。いささか苦しいこじつけのようです。ネットで見たら、確かに猫の日と言う書き込みが多数。猫に因むイベントも多数。岩手県に猫ノ図書館がオープン、岩合光昭の世界ネコ歩き放送ライブラリー、 猫まみれ展川越市立美術館、ねこ休み展 冬 2017@浅草橋展、目黒雅叙園の「福ねこ展]、銀座の画廊「秋華洞(しゅうかどう)」では、猫の美術作品展覧会、猫をあしらったデザインの関連のグッズも出ていました。三鷹駅から徒歩10分の「カフェ シュヌルバルツ」で猫の写真を展示、等々。
猫好きの方は沢山いるのですね。
添付の写真(頁最下段:拡大写真)の猫は、早朝、石神井池の水際にいました。
カメラに気が付くと、それこそひらりと言う身のこなしで走り出し、あっと言う間に逃げ去った。
隣り駅の高架下に時折姿を現す野良猫は人に慣れていて、声を掛けると近寄って来たことがあるがこの池の野良猫は 警戒心が強かった。
池の鴨には早朝餌やりおばさんが来て餌をやっているが、この猫はどうやって生きているのだろう。
画面に入れた俳句は、タテ1メートル、ヨコ9センチのたて長の木板に毛筆書きされているもので、仲良しの工務店のご主人から頂戴したもの。
調べたら、作者は藤田湘子(しょうし) 小田原市出身の男性俳人。水原秋桜子に師事。
「馬酔木」編集長だった。
来しかたや馬酔木咲く野の日のひかり (代表作の一つ)
2017.11.3start