Q坂本幸雄2017.12.14
「有用性と至高性」―井上智洋著「人工知能と経済の未来」を読んで
<はじめに>
・最近井上智洋著「人工知能と経済の未来ー2030年雇用大崩壊」(文春新書 249p)を読んだ。その帯封には「人工知能ジャンルNO.1 2017年新書大賞」、「孫泰蔵氏絶賛」などの文字が踊っている。
・小生は、本を読むに当たっては、いつも本の巻末に書かれている「おわりに」をまず読むことにしている。この本でも、巻末の「おわりに」(僅か9p)から読んだのであるが、その途端、当書を読むに当たってのメイン・テーマ:「来たるべき近未来の人工知能の世界」についての学習は吹っ飛んでしまい、俄然その「おわりに」に書かれている”バダイユ”という、小生は、名前すらも知らなかった経済学者の、その特異な考え方に興味を覚えたのである。以下それについて、小生がいささかでも把握したその概略と感想を記述したい。
「バダイユとケインズ」
・『バダイユがパリで「普遍経済学」の着想を膨らませていた同時期に、ドーバー海峡の向こう側では、ケインズが経済学の「一般理論」について思考していた』というこの記述からして、まずもって大いに驚き、かつ、興味をそそられたのである。
・両学者の論点は、それぞれが「供給の過剰」と「需要の不足」を強調している点にあるが、この両者の主張は経済学的にはまさに表裏の関係に当たるものである。
・ケインズは今から80年ほど前に、100年後の人間は一日3時間働けば十分であると予言していた。しかしこのまま漫然と20年過ぎてもケインズの予言は実現しないであろうと思われる、と書いてある。しかしながらである。当書の主張によれば、AIが今後高度に発達するであろう近未来に於いて、更にBI(ベーシック・インカム)が導入されるとすれば、労働時間が劇的に短縮されることが現実味を帯び、平均的な市民の労働時間は殆どゼロになることも予測される、とある。(中略)そうすると、市民が享受できる多くの余暇時間は、未来の利得の獲得のためではなく、現在の時間を如何に楽しむか、ということに費やされるようになるのであろう、というのが本書「おわりに」数ページの主張である。
・更に、あのケインズですら、未来について次のようにも言っている、とも書かれている。われわれはもう一度生活の手段よりも生きる目的を高く評価し、効用よりも善を選ぶことになるであろう。そうすると、われわれはこの時間、この一日の高潔でじょうずな過ごし方を教示してくれることができる人、物事に直接の喜びを見出すことができるような人、汗して働くことも紡ぐこともしない野の百合のような人を、尊敬するようになるであろう。(ケインズ「説得論集」)。
・ここでいうケインズの「物事のなかに直接のよろこびを見出すこと」とはバダイユのいう至高性に他ならないのである。ケインズのこの予言が成就する時、有用性の権威は地に堕ちて、至高性が蘇るであろう、とも書かれている。
「バダイユのいう”有用性と至高性“とは」
・20世紀前半のフランスの思想家で小説家でもあるバタイユは、「有用性」を批判する思想を展開している。彼の主張は、次のようなものである。
・資本主義に覆われたこの世界に生きる人々は、「有用性に取り憑かれて、役に立つことばかりを重宝しすぎる傾向」がある。確かに、人間は、将来に備えて若い時に、なんらかの資格を取ることは有用で、かつ、必要である。しかし、その勉強は未来の利益のために今を犠牲にする営みであり、現在という時が未来に「隷従」させられていることである、とバタイユは考える。しかし、役に立つが故に価値あるものは、それが役に立たなくなった時点で価値を失うので、その価値とは独立的ではなく従属的であると、彼は主張する。当書「おわりに」の中で「有用性」が失われる事例として挙げられているのは、セルフドライビングカーの普及で価値を失う運転免許証や、自動通訳機の普及でその有用性が失われる英会話能力などである。
・バダイユは、その「有用性」に「至高性」という考え方を対比させて考えるのである。「至高性」とは、「役に立つかどうかに関わらず価値あるものごと」を意味する。「至高の瞬間」とは未来に隷属することなく、「それ自体が満ち足りた気持ちを抱かせるような瞬間」である。「至高の瞬間」とは、例えば、仕事の後の一杯のワイン、貧相な街の光景を一変される朝の燦然たる太陽の光など、と彼は説明する。その際、ワインに含まれるポリフェノールが体に良いなどというせせこましい思考回路などを彼は軽蔑する。
・更に彼は主張する。こうしたせせこましい思考回路を持つような(普通の)人間は詩を知らないし、栄誉を知らない。天の無数の星々は仕事などしないし、利用に従属することなどなにもないが、天空に光輝いている。
・もう一つの例として彼は失業の例を挙げている。現代社会での失業は、人々に対して、収入が途絶えるという以上に打撃を与える。つまり通常人々は、失業は人としての尊厳を奪われると意識するものであるが、このこと自体が「人々が自らを社会に役立つ道具として従属させていると自覚していることを意味する」と、彼は考える。経理係を務めているが故に価値あると考えている人間は 、AIが一切の経理業務を担うようになれば、自らの価値が失われてしまう、と思ってしまうのである。
・このように考えると、「有用性」という価値はもはや永続的で、かつ、普遍的のものではなく、波打ち際の砂地に描いた落書きが波に洗われるように、いずれやがては消え去る運命にある、と彼は言う。
・一方、今後に予測されるITやロボットの発達は、真に価値あるものを明らかにする。それは、もし人間に価値があるとするならば、それは「人間の生それ自体に価値があること」を教えることに他ならない。人間が役立つことのみに価値があるとすれば、機械の発達のなかでほとんどの人が存在価値を失うことになる。しかし、実際にはそんなことはあり得ないのであるから、今われわれに必要なことは、「われわれ人間は役に立つか否かに関わらず価値があるものであると考える価値観への転換」を行うことなのである、と彼は主張する。
・そもそも、自分が必要とされる人間か否かで悩むこと自体が近代人特有の病であり、資本主義がもたらした価値転倒の産物なのである。しかも、そんな価値転倒が起きていることすらも意識できないくらいに、われわれは有用性を重んじる世界に慣れ親しんでしまっているのであるが、このような価値観は資本主義の発展とともに育まれてきたものである。
・経済学では、人間すらも生産の際に投入される「人的資本」と呼ばれ、教育はその人的資本に対する投資とみなされている。その観点から考えると、小学校から退職までの人生は投資期間とその回収期間として位置付けられることになってしまうのである。また同様の観点からすれば、「知識はそれ自体だけでは善とはみなされず、単なる技術の一要素となってしまうこととなり、更には、知識やそれを追求する学問も、将来の富を生み出す手段としての価値のみが強調され、ひいては知識などが情緒豊かな人生観を生み出す重要な術であるという考えすらも希薄になってしまい、その結果、学問分野でも、将来の富を生む手段としての価値がことさら強調され、そのような価値を持たない学術分野は存亡の危機を迎えるようになってしまうのである。
感想:
「バダイユの主張への驚き」
・まずは、バダイユが、自らの学説を「普遍経済学」と呼び、ケインズなど一般的な学説を「限定経済学」と呼んでいる彼のその自信に驚かされるのである。
・もう一つの驚きは、彼が上記の「呪われた部分」という著書で「普遍経済学」の構想を示していた時期についてである。ググッテ見た解ったことは、それは1945年から1949年という時期である。即ち、第二次世界大戦終結時からの4年間である。AIや人工知能など欠片も無い時代で、かつ世界中が戦後の困窮に苦しんでいた時代に於いて、彼の主張する「過剰性の経済学」がこれから支配的な学説になる可能性を信じて自論を組み立てているのである。実証性をその学説の基本とする経済学に於いて、彼は何を根拠にかかる学説を打ち立てたのであろうか、との疑問を抱く。バダイユの経歴をググってみると、上記のように「思想家で小説家でもあるバタイユ・・・」との記述がある。上記の彼の、当時としてはあまりにも時代先行的な見事な論調に接し、小生は、それが空想科学の文学作品として書かれたのであろうか、とも疑ってみたのである。
・そのように考えて見ると、例えばAI革命の具体的事例として挙げられている、会計士の資格は会計ソフトの普及で、英会話能力は自動翻訳機の普及で、運転免許はセルフドライビングカーの普及で、その有用性を失うという事例などは、多分に当書の著者:井上智洋氏が、今後の“シンギュラリテー”(注:人工知能の発明が急激な技術の成長を引き起こし、人間文明に計り知れない変化をもたらすという仮説)の世界を語るに当たって、都合のよいことに、バダイユが20世紀の初めに、空想の世界として、無尽蔵に生産が可能な世界を想定した学説を展開していることを知って、自書:「人工知能と経済の未来」を彩る面白い話として「おわりに」それを引用したのではなかろうか、とも小生は考えたのである。
・上記「おわりに」の数pを読んで小生自身がとても面白く感じたことは、今までは多分、荒唐無稽な論理と考えられていたであろう、バタイユの「過剰性の経済学」が、21世紀になって、汎用AIが出現し、爆発的な経済成長の可能性が現実味を帯びてくるに至った結果、あらゆる人々が消費に倦み飽きるような時代が到来し、ケインズ流の「希少性の経済学」が没落する一方で、バダイユ流の「過剰性の経済学」が支配的になる可能性がある、と示唆している点である。以下、もう少し当書「おわりに」を読み込んで、その論理を補足したい。
・バダイユは「有用性」と「至高性」を対比させ、有用な営みに覆われた人生は奴隷的だという。例えば「有用性」を失う事例としては、上記のように最近のAIの進展で話題になりそうな会計士の資格、英会話能力、運転免許証を挙げて、AIやロボットの進展でそれらはその有用性を失い、その価値を失うかもしれない、と記述している(これらの事例を、20世紀の初めにバダイユが知っているはずもなく、これは明らかに井上氏の引用であろう)。これに対してバダイユの「至高性」とは、未来に価値を失うとか、未来に役に立たなくなると言った関係とは無関係に、そのものの本来的な意味合いで価値あるものごとを意味すると、彼の考える「有用性」との対比からその「至高性」も説明している。
・また、バダイユの言う至高の瞬間とは、上記の「労働の1日のおわりに飲む一杯のワイン」や「春の朝の太陽の燦然たる輝き」などである。
・更に失業に関しても、上記のように、現代社会の人々は、自らをその「有用性」に従属させていると考える哀れな存在である、とバダイユは指摘する。
「資本主義体制が生み出した悪しき”有用性“からの価値転倒」
・このような内容の、当書:「人工知能と経済の未来」の「おわりに」で著者井上智洋氏自身が、言いたかったこととは、下記のことであろう。
・今後のAIやロボットの出現で、殆どの人がいずれ「有用性」という価値観を失うことになろうが、そんな時にこそ、人間は、従来のように、自分が社会に役立つ者であるかどうかという一点で自分の価値判断を行う悪しき慣習から脱却し、自分自身が生きることのなかで、自分自身にとって“本来的な意味合いで価値があると思うこと”(それが言うならば「至高性」)への価値転換を図るべきである、いうことであろう。
・当書「おわりに」の記述を通じて、この価値転倒の一つの顕著な事例として井上氏が挙げているのが以下の記述である。『その挙句、女性向けフアッション雑誌における「セックスできれいになる」という特集の出現である。至高性の典型であるはずのエロティズムすらも、美しくなるための投資とみなされているのである』。誠に解り易い事例である。
・バダイユは、その著書『呪われた部分』で「普遍経済学」の構想を示している。それは、必要性を満たすために生産するという通常の経済学とは逆に、過剰に生産された財をいかに蕩尽(とうじん:消費)するかについて論じるような経済学である。換言すると、バダイユが「限定経済学」と呼んでいる通常の経済学は「希少性の経済学」であるのに対して、彼の言う「普遍経済学」は「過剰性の経済学」ともいうべきものである。
・因みに、バダイユは、労働することなく生活に必要なものが満たされる昔の王侯貴族のような人間を「至高者」と呼んでいるのである。小生は考えるのである。上記のような王侯貴族の贅沢な消費(浪費というべきか)は、18世紀フランスのルイ王朝にその顕著な事例を見出せるのであるが、その贅を尽くした生活は、大衆の怒りのもとで抹殺されたという、歴史がある。バダイユは、こんな格好の歴史的事実を、自論を展開する上でどのように考えたのであろうか。
・近未来に、人工知能が人間の知能を超える“シンギュラリテー”が到来すると言われているなかで、今までは荒唐無稽な主張とも言えなくはなかった感のする上記バダイユの主張を、われわれは如何に考えるべきなのであろうか。はたと思案するのである。
・あぁ、そうだ。当書購入の目的であった「人工知能と経済の未来」の勉強をすっかり忘れてしまっていた。えらいこっちゃ。そっちを勉強しよう。
(坂本幸雄 H29.12.13記)