宋元文化の評価に関して…P大島昌二2017.10.12

大島昌二2017.10.12

萬野兄

建設的かつ啓蒙的なコメントを有難うございます。当方が書き記したことは、宋、元、明、清時代の中国に関する知識が十分でないということでそれは私の無知を告白したものでしたが、それを日本人一般に及ぼそうとしたのは私の勇み足であったかもしれません。ただし宮崎市定博士も私と同じような認識を持っておられたわけで、「宋元代の文化は世界一」という文章は宋元代の文化はもっと高く評価されなければならないとの趣旨であり、私の判断を裏書きしてくれたもののように思われたのでした。この宮崎博士の文章は大阪美術館編の『宋元の美術』(1980年3月刊)に寄せられたものです。この件に関する私からのコメントは以上に尽きるのですがこの機会に思い出したことを少し付け加えさせていただきます。

1)1985年に7~8人で初めて訪中して幾つかの都市を回った時は上海で骨董店に寄りました。これは団員が強く希望したからで彼らは「染付け」を土産に買って帰りた

かったのです。彼らはたしかに染付けの何たるかを知っていたわけです。私は染付けに特別の関心がないままに、皆とは別に色彩に富んだ植木鉢の彷製品を買ったのでした。

2)染付けのコレクションで有名なのはイスタンブールのトプカプ宮殿ですが私がこれに興味を持ったのは美術品としてではなく「海のシルクロード」の主要な搬送品としてでした。トプカプ宮殿には青磁や色絵を含めて所蔵点数は12,000点に達するということです。もちろん染付けはヨーロッパを始めとして世界各地に運ばれており当時の世界的な交易商品であったといえそうです。

3)中国の文化が華北から江南に移る一つのきっかけとして唐代の船舶、航海技術の発展に加えて、モンゴル軍の金王朝に対する侵略が上げられています。宮崎博士の文章を引用します。「…二代の太宗の時に征服が完了するまでに、土地は荒廃し人口も激減した。このことは華北の文化をして、いよいよ江南に比して後れをとらしむる原因となった。」

4)宋元文化が日本でどのように評価されてきたかという問題に関して明治以降、日本の文化を日本人自身がどのように評価してきたかを振り返ることにも意味があるように思います。森有礼の英語公用語論は外国文化に対する卑屈な態度としてよく引き合いに出されますが言語学者の田中克彦氏は「当時、日本人が自分の母語=日本語で書くための文章語が確立されていなかった…ことを理解しておかなければならない」と言っています。その時、森は弱冠25歳、相談した相手はアメリカの言語学者W.D.ホイットニーでした。森が商法講習所の教師に招いたW.C.ホイットニーは彼の従弟でした。すぐれた言語学者のホイットニーは森の考えが時代の流れに逆行するものとして強く反対したのです。(現在、英語を第二としてはいますが公用語にしようという動きがあることはご存知だと思います。)日本語との格闘は森有礼が図った外国語学校と商業学校の統合に反発して退校した二葉亭四迷に引き継がれました。彼が苦心惨憺の末に訳したツルゲーネフの「あひびき」(1888年、『猟人日記』中の一篇)は文壇にセンセーションを巻き起こし、言文一致体への道を開いたのでした。もしも森が依然として英語を公用語とすべきと信じていたとすれば二葉亭はここで森にリベンジを果たしたことになります。(ここに登場するすべての人物が現在の一橋大学と結びついているのは面白い。)

ここから話の後半へ移ります。イギリスの著名な現代史家のA.J.P.テイラー(故人)は「私がもっと若かったら日本語を勉強して日本史の研究をするのだが」と述べたことがあります。かれは日本の近代史は「接ぎ木された歴史」だという考えを持っていましたから「西洋の制度・文物を自らの意志で接ぎ木した社会はどう変化するのか、文化の接ぎ木はどのようにして可能か」ということに興味をそそられたのだと思います。「日本の歴史は明治維新を境にして接ぎ木された歴史だ」という思い切った見方は日本人には難しいでしょうが有益な試みではないかと思います。なぜここでこんなことに思いついたかと言えば、このような変転を遂げてきた日本人にとって時代に取り残されて行くようにしか見えない中国の近世にどれだけの関心を持ち続け得ただろうかと思うからです。