M坂本幸雄 2017.12.12
・藤田さんには、先般の投稿で はわが故郷鹿児島とのご縁について、また今回は、小生出身の鶴丸高校について言及して戴き、感謝します。
・先般の投稿文で、貴兄の鹿児島とのご縁は、錦江湾に面した喜入の沖合にある、あの広大な石油備蓄基地であることが判りました。
小生は、ほぼ毎年菜の花の咲く季節に、郷里に墓参を兼ねて2、3週間ほど帰省することにしていますが、その際、指宿の名物“砂蒸し温泉”の斜め前にある、従弟所有のリゾート・マンションに少なくとも4,5日は滞在してその名物温泉を楽しむことにしており、あの基地の近くはよく通っております。
・また今回は、韓国岳に登って、外輪山から火口を見たら、石で「鶴」の字を丸で囲った作品(?)を見たのを思い出した、とありました。
小生も大分昔韓国岳に登ったことがありますが、小生は不覚にも丸に鶴の作品(?)にはお目にかかった記憶はありませんが、多分それは「鶴丸城」か「鶴丸高校」を意味する作品(?)であろうかと推察致します。
・鶴丸城は、勿論、薩摩島津藩の居城でありますが、今読んでいる「池宮彰一郎著の“島津奔る”」には「当時の鹿児島城は、後世城山の麓に築かれ、鶴丸城と呼ばれて今に至った城と異なり、城山の山中に、地形を利用して建てられた居館に過ぎない。
現今の鹿児島城でさえ石垣と水堀のみで天守も重層櫓もなく屋形造りで、七十七万石の大大名の居城としては質素きわまる。
実際、「国人は城と呼ばず、御館と呼んだという」という記述(上巻386p)があります。
・そのことから想像しますと、島津藩は、秀吉の朝鮮征伐では、敵の朝鮮軍から「石曼子(シーマンズ)は強悍」と恐れられるほどの大いなる武勲を挙げる一方で、そのための潰えなどから財政面の困難を招き、天守閣のあるような立派なお城を築くほどの余裕はなかったのでありましょう。
しかしその反面、薩摩藩は、人材教育には力を入れていたようです。
幕末から明治維新にかけては日本の近代を築いた英傑を多く輩出しています。
鹿児島駅前の広場には「若き薩摩の群像」というモニュメントがありますが、これは幕末に薩摩藩がイギリスに派遣した若者たちの銅像であります。
また、小生の鶴丸高校のある周辺には、東郷平八郎、西郷隆盛などの屋敷跡が点在しております。
尤もその後は大した人物が出ていませんので、残念ながらその人材輩出の良き伝統も今や尻切れトンボになってしまっている感は否めませんが・・・。
・ところで来年の大河ドラマは「西郷隆盛」ですね。
その西郷が主役を演じた西南戦争から今年は140年目になります。
その西南戦争は、日本の国内での日本人同士の戦さとしては、関ケ原、戊辰戦争に次いで3番目の戦いではないかと思いますが、その中で西南戦争は多分日本人同士の最後の戦さとして青史に名を刻むことになりましょう。
しかもその3つの戦さには、いずれにも、わが薩摩藩が大きく関わっているのです。
林真理子女史がそのドラマで、様々な史実を如何に繋いで線とし、面とし、薩摩藩を、西郷隆盛を、どの様な物語として描くのか、元旦から始まる今年の大河ドラマに今から興味深々です。 (坂本幸雄H29.12.11記)