武蔵国分寺跡など―戸松君のコメントに添えて

P大島昌二2018.4.2

>>「野川公園から神代植物公園へ」感想…P戸松孝夫2018.3.31

戸松さん、拙文へのコメントを有難う。

風景には見覚えがあっても肝心の史跡などに は無縁だったということですが、おそらく貴兄が散策していた頃(1975年~80年)に は発掘ないしは公開あるいは建設されていなかった場所がほとんどだったのではないかと思う。

遡ってわ れわれの学生時代を振り返っても、あまり出歩かなかったことを別としても、小平や国立から散策に出かけるところは井の頭公園や多摩湖ぐらいがせいぜいのところではなかったかと思う。

今年になってわが如水会支部が訪れた場所のうちで、この点で典型的なのは武蔵国分寺跡ではないかと思う。国分寺が隣町である にもかかわらず、また古代史の上でも重要なメルクマールであるこの寺院跡がどうなっているだろうかなどとは考えもしなかった。

私はここ数年来、運動を兼ねて国分寺公園から国分寺跡を散策する機会を持ってきましたが、それ以前から、寺院跡では建物跡の確定や発掘が行われ、整地作業は今も続 けられています。この過程で新たな発掘品の研究が進められ、それらを収蔵する展示室や資料館も整備されつつあります。寺院跡は僧寺と、少し離れた所に尼寺がありますが私は整地された尼寺跡を見たのはこの2月の山歩き会が初めてでした。

訪ね歩いたところの多くが近年になってようやく開設あるいは修復、公開されたものであるばかりでなく、住宅地に囲まれているので探し歩かねばならない状況にあります。

武蔵国分寺は新田義貞と鎌倉幕府方の分倍河原の合戦に際して焼失しますが、やがては一地方寺院に変質していったものと考えられていますから発掘、再現の困難は十分に予想されるところです。

樹々や草花の名前は植物園ならば名札を確認するなどしていますが誤りやすいので常にびくびくものです。

中国語の名称は少なからず日本で誤用されているようですが英語でも事情はあまり変らないようです。梅干しの梅はplum ではないからumeと すべきだとか、英語のoak は疑いなく樫だと思っていたのが実は楢(なら)であるなどと教えられています。

今回もサンシュユの木から稗搗き節を連想したのでしたがこれについては早速以下のようなメールを頂戴しました。

『サンシュユについてその後わが家にも1本植わっているのを発見し、興味がわいたので家にあった植物本で調べてみましたところその本にある記述ではひえつき節のサンシュウの木とは異なるのが定説と書いてありました。ご参考までに該当部分をPDFでお送りします。』

私の返答は以下の通りです。

「『サンシュユ』はお説の通り『山椒』の可能性が高いでしょう。私 も曲を聴いて見ようと思ってYoutube を開いたら真っ先に「山椒の木」が出てきたので「あれっ」と思っていたのでした。椎葉村では山椒をサンシュユと発音し、全国に広まる過程で「山茱萸」になったものというのが常識的な解釈かと思われます。サンシュユの木はどこでも見られるものではなく、私は東大和駅の近くにある都立薬草園で大分前ですが初めて見ました。都内では唯一(合法的に)ケシを栽培しているところです。この薬草園は石原慎太郎氏の財政改革で閉鎖される瀬戸際にあったのであわてて見に行ったのですが生き延びて現存するようです。」

文章を書くことはある意味でリスクを取ることになりますがそれなりの報酬もあるようです。

それは自分が取り上げた課題についてすぐさまそれに関連する書物や映像が目に付くようになることです。実は昨年12月にはこの会で玉川上水緑道(玉川上水駅から羽村取水口まで)を歩いたのですがその後で宮本常一著『私の日本地図 武蔵野・青梅』を見つけて大いに得るところがありました。玉川上水は単に江戸市中に上水を運んだだけでなく野火止用水を始めとする数多い分水路によって、水不足で不毛だった武蔵野台地に田畑の開作を可能にし、ひいては村落の形成を可能にしていたのです。そうであれば、東京都は玉川兄弟をあらためて顕彰し直すべきではないかと思う。

写真説明

8174 玉川上水羽村取水口周辺図。 >>羽村取水堰Googleマップ

8173 玉川兄弟銅像は取水口付近の小公園に建っている。

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