Q田中愼造 2017.12.4
1 歴史家と歴史小説家
歴史学はひとつの科学であり、過去の事態を明らかにすることを主目的とする。その目的にそった様式、根拠を明示して書かれたものが「歴史書」である。
一方、歴史を素材に作家が自らのfictionなどを交えて書くものは「歴史小説」であり史学に対し文学のジャンルに入る。
即ち、歴史の根拠を問いつづけ、分析、思考し、分らぬものは分らぬとするのが歴史家であり、作者の主観や願望、想像を加え、物語を織り上げ、作品として仕上げるのが歴史小説家と言える。
2 トライヤヌス帝(在位AD98-117年)の功績
近時、日本で歴史小説家として著名なる作家を挙げるとすれば、司馬遼太郎と塩野七生の二氏であろう。ここでは、塩野七生氏の評論集「逆襲される文明」(文芸春秋新書)中の一項目、”イタリアの悲劇”p17、その論旨は、現イタリアの厳しい経済状況、即ち消費の低迷、高い失業率、加えて消費税22%と、これらのスパイラル化。
その末尾に次の一小節あり、これを検証致したい。
「今から二千年も昔になるローマ時代、皇帝トライヤヌスは、失業者救済のために増税するよりも、収益の三分の一の本国イタリアへの投資を課した法のほうを成立させた。この人は五賢帝の一人とされているが、彼が賢帝である資格は、帝国の領土を最大(ダキア及びアルメニア等中東方面を新たに属州化)にしたことよりも、職を作り出すことで、帝国の中心であったイタリア半島の空洞化を阻止したことにあると思っている。」
3 投資を課した法の根拠を求めて
前項、塩野氏の一小節を読んで直感的に、実際に投資を強制する手段があるのだろうか意にそわぬ適用対象者の反対は強いのではないか、元老院や民衆との協調を強く求めた慎重なトライアヌス帝がこのような法を出すものか、などの疑念がわいた。しかも、塩野氏の文には、その適用対象者、収益の範囲や期間など根本的な内容が明示されていない。
その根拠を求めて第一に、塩野氏の「ローマ人の物語(全15巻)」の第9巻(五賢帝)のトライヤヌス帝の箇所を参照すると、p47以下「空洞化対策」等の小節があり、ここで帝は元老院に、以下の二つの法を提出し、すんなり通した(勿論塩野氏の文章には注記はない)と。
第一の法は、ローマ社会の指導者層である元老院議員は、少なくとも資産の三分の一を、本国イタリアへ投資すると決めた法・第二の法は、、通称「アリメンタ」といわれる制度(イタリア本土での孤児、幼児への養育資金給付など)を立案し、国策化した法。
4 やむを得ずグーグル検索へ
前項二法は間違いなく実在したものか、その根拠を求めて、同時代に生きたローマ史家タキトウス(AD55-120年頃)の「同時代史」やスエトニウス(AD70-140年頃)の「ローマ皇帝伝」を参照しても、第9代ドミチィニアヌス帝暗殺までしか書かれておらず、次にトライヤヌス帝の事績について調べた世界大百科事典(日立デジタル平凡社)によってもその根拠を求められなかった。
そこでやむを得ず、グーグル検索という現代の魔法(但し、その信用性は問題あり、用心が肝要)に頼ることとした。
5 日本語でのwiki
まず、日本語で「トライヤヌス帝」をググり,WIKIで見ると、「戦間期」(編集)の項に記載あり、これを要約すれば『帝は、本土イタリア、属州を問わず、社会的インフラを更に整備し、ダキア戦争の戦利品をもってアリメンタ制度の充実に尽くした』としていると。そして更に『このアリメンタ制度の目的については、歴史学者の間で熱い議論の的となっている』と。
そして最後の文末に、まったく唐突に「また、元老院議員の資産の三分の一をイタリア本土へ投資することを定めた」と書いている。アリメンタ制度についてはしっかりした注記があるものの、この投資を定めた事柄についての注記はなかった。
6 英語でのwiki
前項の内容では何か要領を得ず、「戦間期」(編集)とあるのも分らぬ故、同じwikiでも通称の「TRAIAN]でググり、その英語訳を開くと、「TRAJAN]の題名のもとに長文の解説が出てきた。注記も個別につき、トライヤヌス帝の事績の大略をつかむことができた(小生の英語力では 少々心もとないが)。求めている根拠に関連する問題点を要約すると、
(1)日本語で引いたWIKIの内容は、ここでの英語版の省略版で、投資を定めた文章は、部分的な直訳といえるものであると思われること。
(2)ここの英語版のトライヤヌス帝の3の6 ALIMENTAの項で、注記を参照しながら英文を読むと仏史家PAUL PETIT(1914-81)は、アリメンタはイタリア本土への経済的(今でいう福祉目的な側面ありとも)な目的強しと主張。
一方、英のケンブリッジ大教授のFINLY.M.I(1912-86)は、彼の著作1999年再版「THE ANCIENT ECONOMY」p199の引用によれば、トライヤヌス帝は本土イタリア以外から初めて選出された皇帝として、友人や有能な属州出身者を多々元老院議員に引き上げており、アリメンタの充実は経済的目的よりは、むしろ政治的目的が強いと。
更に例証として、属州出身元老院議員を主眼に、取得する土地資産(全資産のではなく)のせめて三分の一はローマとイタリア本土にしてほしいとの注文をつけ、これが友人の小プリニウスには高く評価されながらも、元老院議員にはえらく不評であった、と。
7 トライヤヌス帝の功績の物語化
以上のとおり第三項で塩野氏が述べているトライヤヌス帝の立法した二法について、その根拠を求めた経過を要約すれば
(1)塩野氏の述べた投資を命ずる対象内容が、収益から資産へと変わり、またその根拠を追うと、これが単にアリメンタ制度の目的の議論対象として学者間で議論された問題の一部分であったこと。
(2)アリメンタ法の制定は、トライヤヌスの前帝NERVAが法制化『長谷川博隆氏の”ギリシャーローマの盛衰”p244』したものであり、トライヤヌス帝はこれを充実、イタリア全土に広めていった事態であったこと。
上記の経過を見れば、塩野氏が、描くイタリア本土の経済空洞化を阻止せるトライヤヌス帝の功績なるものは、塩野氏の豊かな想像力と現在のわれわれに共感を与える日本の産業本土空洞化の現象をマッチさせた見事な創造物語、と考えたい。
実に巧みな心に響く物語といえよう。とはいえ、「ローマ人の物語」を楽しんで読むことと、これが歴史、科学としての歴史であると考える事は別物である。
8 口当たりの良い小論には用心肝要
評論又は随筆にて、事態の是非を論ずる場合の根拠は、あくまで科学的に妥当な論拠によるべきで、物語による歴史小説を根拠とするものであってはならない、と考えたい。
塩野氏等歴史小説家の評論、随筆には、こうした物語に準拠した論旨が巧みに含まれている場合あり、我々読者にも、十分これらを識別する良識、教養が求められている。
以上 2017.12.4