私と林君の出会いは小平のサッカーグラウンドである。共に一橋サッカー部に入部した。
彼は東京出身(戸山?)のエリート、私は田舎(豊橋東)からのポット出で肌合いが違ったが、落ちこぼれ部員ということでうまが合った。
私は当時体調悪く、(貧血? 栄養失調? 遠距離通学? 目蒲線緑ヶ丘駅から多摩湖線一橋大学駅まで1時間45分かかった)、また林君もずんぐりむっくりの短足鈍足で、
社会に出て数年経った頃、彼は東芝で帝国ホテルの並びの三井のビルに勤めていた。
私は出光でパレスホテルビル、帝劇ビルが勤務先だった。
同じ筋なので時々行き合ったり、お茶を飲んだりした。
2006年頃だったか、Rの上原利夫君に誘われて33PCネットに参加した。
当時NY在住の林君が「アメリカ便り」と題して健筆を揮っていた。
内容ではNYの冬の寒さの報告と、奥様が不動産屋をしていて偉いのだというのが記憶に残る。
私の「黒潮丸通信」はそれにあやかって始めたものである。
2010年頃、彼が帰国した時に伊豆まで河津桜を見に来てくれた。
その時の彼の写真を私の脳裏は鮮明に覚えているのだが、その写真がどうしても見付からない。
これはFacebookに載せられていた奥様との2ショットである。
2012年2月の写真だが、脳梗塞で倒れられた後であろう。