拾い読み「都留重人自伝」P大島昌二 2018.7.12

拾い読み「都留重人自伝」 大島昌二

故大塚金之助教授は一橋、慶応、明治学院の三大学で教鞭をとり、ゼミナールを指導された。それぞれの大学のゼミナリステンは先生の没後、共同で大塚会を組織して年一回の会合を持ち、毎年会員の寄稿による『大塚会会報』を発行している。私はある偶然から同会の会友という形で招き入れられて早くも12年になる。この間に会員の老齢化が進み、会の運営は主として若くもあり、かつ熱心な会員の多い明治学院大学のOB有志が担うようになっている。

私が受けた講義からは先生が理非曲直については厳しい反面、思いやりの深さも感じられた。それは先生が好まれた言葉を使えば「人類的な」レベルでの寛容さと言ってよいかもしれない。しかし、留年して中和寮に残っていた先輩などからは大塚教授の厳しさは学生を震いあがらせるような種類のものという印象をうけていた。ところが慶応や明治学院の卒業生から伝わってくる話では、叱責などとは程遠く、教えることを楽しむ物分かりのいい大先生である。これはどうしたことだろうか。

この6月に開かれた大塚会は出席数7人という淋しいものであったが明治学院の第一回のゼミ生が「大塚先生は一橋の学生は私の子供として厳しく指導したが、あなたたちは孫として教えることにします」と言われたと教えられた。これは明治学院の他の会員にも初耳だったようだが私にとっては長年の疑問がこれで解けたことになる。

前置きが長くなったが以下の文章は今年の「大塚会会報」に掲載される「都留先生の旧稿から」と題した拙文の後半部分を独立させたものである。前半は大塚先生の書誌学についての都留先生のご意見を紹介するものであるが、都留先生のアメリカ議会での証言とE.H.ノーマン氏の自殺に関する誤報が今でも根強く残っているので何らかのお役に立つのではないかと思うからである。

(一)

都留先生には長い間一つの大きな疑問がまといついていた。それはアメリカの上院国内治安委員会((SISS)でのいわゆる「都留証言」をめぐってである。このマッカーシズムによる赤狩り裁判での都留証言が行われた一週間のちにE.H.ノーマンがカイロで投身自殺をし、それが都留証言と直接の関係があるかのような報道が日本を駆け巡った。それはSISSの発表を鵜呑みにしてその手玉に取られた日本のマスメディアの失態であったが、放たれた矢は戻らない。私が事件の真相らしきものを知ったのも、うかつとも言えるが、尾高煌之助、西沢保両氏の編集になる『回想の都留重人―資本主義、社会主義、そして環境』(2010年4月26日刊行)によってであった。

同書への寄稿で小宮隆太郎氏はこの問題を詳しく論じ、SISSの手口をよく知っているJ.K.ガルブレイス、E.O.ライシャワーなど4人のハーヴァード大学の教授が、都留氏への誤解を解消するために、SISSの手口を説明し、それを厳しく批判する手紙をニューヨーク・タイムズ紙に送り、1957年5月20日の同紙にそれが掲載されたことを紹介している。都留先生の喚問は1956年3月26,27日の両日、ノーマン氏の自死は4月4日であるからそれまでにもかなりの時間が流れている。

日本では都留証言が報じられた当時の『中央公論』の特集「いわゆる都留証言の実相」に鶴見俊輔氏が「自由主義者の試金石」を書いている。これは「新聞がまず都留さんを非難するほうに動いた」ことに腹を立てたからという。しかし、上掲書では当時の反論を裏付ける論拠に立って次のように述べている。

「そのときに、私が手に入れることができなかった資料が一つだけあるんですよ。それはね、まず向うに引っ張られたときに、向こうが都留さんの若い時の手紙を持っていたということなんですよ。手紙をまず読み上げられて、『これがあなたの書いたものか』。イエスかノーかなんですよ。で、ノーと答えれば、やがて偽証罪に問われる。都留さんはイエスと答えたら、その中にいろんな人の名前が出てくる。その中には今も共産党員である人が含まれていたんです。それを東京の大新聞がいずれも取り上げて裏切り行為だとしたんです。(…)それだけですね、その論文について訂正したいところは。」

大塚先生が大なたを振るった経済研究所のリストラ事件を確かめるために私は都留先生の自伝、『いくつもの岐路を回顧して』を開いたのであったがその際に一度は読んだと思っていたこの本を実際は拾い読みしただけだったことに気づいた。私はその際、都留先生が自分の巻き込まれたSISSでの証言については避けて通ったような印象を持っていたのだがそうではなかった。この問題を先生がどう受け止めたか、およびその前後の事情につてほぼ4ページにわたる記述があった(p291~p295)。先生が初めてFBIの内偵対象となっていることを知ったのは1951年にフランスへ行く飛行機に預けたスーツケースが途中のアンカラでひそかに下ろされたことを知った時であった。中に入れてあった住所録などがFBIによって調べられていた。

鶴見俊輔氏が述べていることに相当すると思われる以下のような文章がある。「(上院委員会の喚問の場において)私を驚かせたのは、喚問の主内容が、私が30年代後半に『サイエンス・アンド・ソサイエティ』誌の政治的なまぬるさを批判した時の編集者との往復文書をめぐっての私の交友関係および政治的立場だったことである。その往復文書をFBIが入手するにいたった事情を、私は推測できたけれど、確言はできない。その内容が、自分ではとうの昔に忘れてしまった時代の過激主義がいとも綿密にえがき出されていたことは確かで、意表をつかれての喚問に私がかなり困惑したことは否定できない。」

同書にはまたE.H.ノーマンに関して、日米の引揚者交換船がロレンソ・マルケス(現マプート、モザンビーク)に寄港した時の記憶によって次のように書いてある。「(カナダの外交官らしい人たちのグループの中に)私はハーバート・ノーマンの長身姿を見付けたので、二、三歩彼のほうへ近付いて、十秒ぐらいであったろうか、『日本経済史にかんする蔵書を君にあげるべくターシス(ノーマンの友人)に頼んである』とだけ耳打ちしたのである。この時の耳打ちがもとで、後年、ノーマンはマッカーシズム受難を体験するに至ったのだった。」

ノーマンの受難はもちろん都留重人との交友のみによるものではない。都留喚問の前触れとなったものはフルトン・ルイス(マッカーシーの強力な支援者)による全国版ラジオ番組の解説であった。それはSISSでの非公開喚問の記録をベースにして「中近東が米ソ冷戦の焦点になっている現在、そこで『自由世界』を代表している外交官の中には、ノーマン(当時カイロ駐在カナダ大使)やエマソンのように、かつて極東にあって共産側を助けたと思われる人物がいる」とし、事実を曲げてノーマンは都留が帰国の際に残した軍需産業調査の機密記録を手に入れようとしたというものであった。都留先生はこれをノーマンに残した日本経済史関係の書物のことだと考えてノーマンのためにも正確に説明しておく必要があると考えて罠に落ちたのであった。

今回、『いくつもの岐路を回顧して』を通読して先生がいかに多くの広い分野で活躍されたかを今更のように知らされた。その働きぶりは日本人の目には止まりにくい国際的な活動から来日する外国人学者の英語の通訳を買って出るところまで及んでいた。都留先生と「生涯の友」というポール・サミュエルソン教授は都留先生を偲んで「訪日の際は、いつも彼が私の通訳を買って出てくれ、日本では私の著作の翻訳を彼が多く担当している。私の著作の翻訳で得た収入を利用して、都留氏はアパートを購入し、欧米からの学生を受け入れた。都留氏に命名を依頼された私は、『ロイヤルティー・ハウス』と名付けた。英語で『印税』という意味もあるからだ」(日経06年2月8日)と書いている。このことは自伝には書かれていない。

私の学生時代にも、私が冒頭の挨拶しか英語が理解できなかったジョーン・ロビンソン教授の講演や本書中にも何度か姿を現す同じケンブリッジ大学のニコラス・カルドア教授の講演があった。カルドア教授は英国労働党政権の経済顧問をされたが労働党が野に下っている時期には私の勤務先が運営する投資会社の役員をされたので私も同じテーブルで食事をしたり会議に同席したりする機会があった。都留先生はハーヴァードを訪れたカルドア教授が大学院生であったサミュエルソンの発表に遅れて入ってきて聞き終わってから「○○教授、すばらしい講義でした」と言って握手を求めたという逸話を紹介している。確かにカルドア教授には剽軽でそそっかしいところがあった。彼によれば(私もその一人であるところの)日本人はすべて天才で、それは幼い時から漢字を学ばされるからだということだった。私にはもちろんそんな度胸はなかったが会議に出席する私の同僚たちは教授を「ニッキィ」、「ニッキィ」と気安く呼んでいて、それは教授が爵位を授けられてカルドア卿になった後も続いた。

私が帰国してからも一度2人で夕食をする機会があった。ニッキィは朝日新聞の招待で日本に講演に訪れていた。ところがその約束の晩、当時都心にあった家に帰ると小学生だった次女を通して伝言があった。「パパのお友達という人から電話があったよ。Funny English(変な英語)だったよ。」大学者も小学生にはかなわない。ハンガリー移民であったニッキィの発音はたしかに標準英語からはいささかずれたところがあった。電話で確かめるとニッキィは朝日新聞の夕食会に横取りされていた。その後、朝日からは一度電話があった。講演料をどこへ払い込んだらいいかという質問だった。「大島さんはカルドア先生のエージェントだと聞いていますから」という。私はかくしてカルドア教授のエージェントになってしまった。だから私はニッキィの朝日の講演料がいくらだったかを知っている。

(二)

少しばかり羽目を外したがこの一文を草しながら私は大塚先生と都留先生という2人の碩学の人生を考えていた。都留先生は「大塚会会報」への寄稿で大塚先生を「純粋人」と表現された(会報32号「純粋人だった大塚先生」)。私はそれを「一途な人」と読み替えて「いくつもの岐路」を回顧する都留先生の波乱に満ちながらも恵まれた人生と対比しないではいられなかった。

一橋大学が大金を払ってカール・メンガーの蔵書を買い取ったことを英国左翼論壇の重鎮、ハロルド・ラスキが悔し紛れに皮肉った言葉が残っている。都留先生は、それを紹介したうえで、ラスキのいう日本人とは大塚先生であることを指摘している。調べてみるとハロルド・ラスキは大塚先生の一歳年下である。ラスキの弟子であったラルフ・ミリバンド(下記注)は学者、政治家として影響力を及ぼし、盛名をはせながら批判にもさらされた恩師ハロルド・ラスキを次のように表現している。

「彼の講義は政治学よりもはるかに多くのことを教えてくれた。それは思想というものの意義、知識が重要であり、知識を追及することは興奮に満ちたものであることを身につけさせてくれた。彼のセミナーは寛容、つまり異なった見解にも進んで耳を傾けること、対立する思想の有用性を教えてくれた。(…)私はなぜ彼があれだけ惜しみなく多くのものを与えてくれたかが今にしてわかる気がする。一つには彼が暖かい人間性をそなえ、人間への限りない関心を持っていたからだといえるだろう。しかし、それ以上に重要なことは、彼が学生を愛していたことである。それも彼らが若いが故にである。若さは寛大であり、生気に満ち、熱意と情熱そのものであるという輝かしい信念をもっていたからである。彼は、若者の手助けをすることによって未来の力になり、自らが情熱を込めて信じていた輝かしい世界を手繰り寄せることができると信じていたからである。」

私は大塚先生をこのように簡潔に評した文章を知らない。もちろんこれはハロルド・ラスキのことであって大塚先生ではない。しかし、私にはこれがそのまま教師としての大塚先生を言い表したもののように読めるのである。

(注)ナチス占領下のベルギーから父親と2人で亡命したポーランド系ユダヤ人。政治経済学者で労働党左派の論客。その次男エド(エドワード)はブラウン内閣の退陣後の労働党党首、長男デイヴィッドはブラウン内閣の外相、党首選を弟と争って敗退した。エドは2015年の総選挙で政権奪取に失敗して党首を辞任した。その後を襲ったのが現党首のジェレミー・コービンである。

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