Q坂本幸雄 2017.11.19
<はじめに>
・今年ももうすぐ年の暮れを迎えます。戦後でもひと昔前までは、暮れともなれば、映画、芝居にとどまらず、TVなども“忠臣蔵もの”が必ず上映されていました。それゆえ、われわれの世代は、忠臣蔵を貫く「主君の仇討ち」という日本独自の武士道の美学にはみな馴染んでいました。
・言うまでもなく、元禄15年(1703年)12月14日、赤穂浪士47名が、本所吉良邸に討ち入り吉良の首級を討ち取った史実から、12月が忠臣蔵の季節になったのです。しかし、戦後生まれの人口比が総人口の8割を超える現代に至っては、最早そんな「仇討ち」などは、人間性、社会性、人権的問題性などの観点からもアナクロニズムの最たるものになっているのかも知れません。先月、近くの古本屋で、ふと手にした『池宮彰一郎の小説「四十七人の刺客」(新潮文庫571p)を読んでみようと思ったのは、かって「忠臣蔵もの」が暮れの風物詩ともなっていたことへの懐かしさと、当小説のタイトルが、「義士」でなく「刺客」としてあることから、著者が自作の「忠臣蔵もの」を“義”としてではなく“罪”として捉えているのであろうか、との興味からであります。
・読んでみて、その韻律に富み、声を出して読みたくなるほどに著者の豊かな表現力にも感嘆しました。しかもその名文の中で紡ぎ出されている世界は、使命感、正義感、勇気、誠実、慈悲、礼節、惻隠の情、名誉と恥、卑怯を憎む世界、乾坤一擲の義憤晴らし等々、いずれもいにしえの武士道精神に見る行動の淵源そのものであります。150年前の江戸時代までは、このような社会通念が人々の喝采を浴びていたのでありましょう。
・そこで、太平楽を決め込む、只今の平成の御代だからこそ、「主君の仇討ちに人生を賭けた、その大石内蔵助の心情」を知ることも、満更無意味なこととも言えないのでは?と思い、以下その小説のなかで小生が感銘した幾つかの名文を引用し、大石内蔵助の心の中に分け入ってみたのです。その引用文からだけでも、池宮彰一郎氏が内蔵助を通じて語っている、氏ご自身の思想・心情・人生観などもひしひしと伝わってくるのであります。
①.内蔵助は後世「昼行灯」という仇名を残した。愚が賢を装うのは不可能に近いが、賢が愚を装うことはできる。驚くことに二男一女を生んだ妻女“りく”までもが、彼を、「半ば賢と信じ、半ば愚ではないか」と疑っていた節がある。もしこの事変(仇討ちのこと)が起きなければ、内蔵助という人物は、生涯韜晦し放しで終わったかも知れない。韜晦というのは、二重人格的な楽しみである。内蔵助は、己の生まれついた<侍>という身分については、揺るぎない信念を保ち続ける一面、当世風に言えば<自由>を、乾いた土が水を欲するように渇望し続けた。(坂本注:韜晦(とうかい)とは、自分の才能・地位などを隠すこと。内蔵助は仇討ちの意図を誤魔化すために、伏見稲荷あたりの遊郭などで遊び惚けるのである)
②.常識というのは、昨日、今日、明日が変わらず過ぎゆく時にこそ役立つ一般的な知識や判断力である。破滅的な事態に遭遇すると、何の説得力もない。泰平の世が半世紀も続くと、侍は戦士の本分を失い、官僚に成り果てる。官僚の本分は大局を見通すことにより、上の意に忠実に従い、瑕瑾なく職務を果たすことにある。必ずしも英才である必要はない。官僚の頭は、凡庸な事無かれ主義が占めている。
③.「座して飢えるより、起きて戦え」。後世、日本が抜きさしならない大陸戦争の泥沼化の中で、超大国の強圧を受けたとき、更なる大戦に突入させたのは将にその破滅的な過激論であった。
④.戦さという、兵力を駆使して敵を撃滅しようという行動は、極めて常識的な条件、例えば、兵力の多寡・戦士の優劣・兵器の量と質・地形地物の有利不利等々によって形勢が左右されるが、最終の勝敗は指揮系統に当たる者の特殊な能力によって決定される例が多い。世に軍事の天才と称される者がいる。成吉思汗やナポレオンのように、さしてきわだった軍事の専門学を修め通暁していたとも思えない人間が、一旦一軍を指揮統率すると、智謀策略神のごとく、俄然光彩を放って敵を打破り、歴史を一変させる。
・我が国にも、織田信長が桶狭間の戦いで強敵今川氏四万の兵を三千の手兵で破った例、明治維新のオルガナイザー高杉晋作が、わずか二十四歳の時に“奇兵隊”を創始し、時の権力と果敢に戦った例などがある。こうした事例からは、そんな天才は、百年に一人、しかもそれを指揮する時期と境遇にもよるものであろう。(坂本感想:太平洋戦争には、ついにそんな天才が現れなかったということであろうか、はたまた、その時期と境遇がそんな天才の出現を許さなかったということであろうか)
⑤.「侍の覚悟」(内蔵助が促す同志への覚悟)
・「よいか。各々に今一度わしの思うこと言っておく。人が“げだもの”と異なる唯一つのものは、生きることそれ自体よりも、<よく生きる>そのことに意義を見出さずにはおれないことにある。関ヶ原から大阪の陣までの戦国の世が終わって百年近く、弓は袋に、刀は鞘におさまり、世はあげていのち大事の時代となり、人は一日でも長く生きることが至上とされるようになった。だが、いのち長ければよいのか、いのちを尊ぶことのみでよいのか、魂は死んでもよいのか、いのちよりも尊ぶもの、いのちよりも値打ちのあるものを特に持たずしてなんの侍か。いまこそわれらはいのちより尊く重たいものを世に示す。それが侍として生まれ、侍として生きたわれらの値打ちである。
・各人の生きようは各人の勝手気随である。わしの趣旨に賛同するものはとどまり、生きようの異なるものは去るがよい。この先一年二年、本懐を遂げる日まで、わしは何度もおぬしらの覚悟を確かめよう。その最後の時までとどまるも、はたまた去るも、侍らしゅういさぎよくあれと望んでおく。
⑥.内蔵助の最愛の妻への離縁話
・これは戦である。戦の謀計には善悪良否は問わない。敵を凌ぐ策が求められているが、周りの参謀たちにはその発想がない。その負担は全て内蔵助ひとりに掛かっていた。
・それは仕方ないと思い、内蔵助は最愛の妻“りく”に言う。「どうやら別れのときが来たようだ。いまわれらは侍の一分を賭けた企てに“いのち”を尽くしておる。この泰平の世に、争乱を起こせば、勝っても負けても公儀は厳しい罪科を以って罰するであろう。その罪科は、われら一身に留まらず、妻子眷属に及ぶ。それが天下御法の定めるところである。われらは思い立ったときより捨てた“いのち”「いかなる処分も覚悟の上。だが、妻子に塁を及ぼすことは本意ではない。むしろ無事に世を送って、われらが行う企てが、後の世にいかなる評価を得るか・・・賞賛か、誹謗か、いずれにせよ、身をもってそれを受けとめてほしい。どうもこの期に及んで未練がましいことかも知れぬが・・・どうかこの際離縁して、その上お腹の子を育てて呉れぬか」
⑦.内蔵助の討ち入り出陣に当っての同志への訓示
・知恵というものは、考え抜いてできるものではない。究極の知恵は一瞬の"閃き"だ。命題に面と向かったとき、何十年かの勉学、研鑽、体験の上に、おのれのもつ物の見方、思いつき、組み立てる力で、それを押し広める力、それらが一瞬に凝縮されて打開の方策を見出す・・・・その玄妙な作用だ。孫子のいう"微なるかな、微なるかな、無形に至る、神なるかな、神なるかな、無声に至る"の心境は、それにあると思う。
・「よいか、ものは考えようだ。敵は屋敷でただ待つのみ。動くのはわれら、戦いの主導はわれらにある。厳冬の夜、不意を衝き、先手を取れば利はわれにある。先手を取り続けよ。攻める側には恐怖はない。戦いは気力の勝負だ。後手に回ると恐れがさきだち、神経が萎え、ついに気死する。味方は敵の力を計算できるが、敵はこちらの戦力はわからぬ。その差に乗じるのだ。こちらの実態を掴ませるな。一人が三人分五人分も働け、走り回れ、雄叫びを上げよ。
感想:
・以上幾つかの引用文を読んで、吉良邸に討ち入る内蔵助の数々の思いや訓示を知ると、著者の思いとして語られている内蔵助その人が、上記④項の百年に一人の天才的オルガナイザーではなかろうか、と思えてならないのであります。その上、内蔵助はその討ち入り後に予想される公儀による罪科が妻子眷属に及ぶことなども考え、その対策までもいろいろと配慮しています。そんな彼だったからこそ、江戸時代の人々があれだけの喝采を浴びせたドラマの主役を演じ得たのでありましょう。
・縄田一男氏によるこの本の解説には、著者:池宮彰一郎氏がこの本の中で祈るように紡ぎ出している言葉:「非理法権天」について、「非はもとより理には勝てず、理は法度に勝てず、法度も時の権力には勝てず、権力も天道に勝てない。これは下剋上のこの行為が最終的には宇宙の主宰者たる天道によってのみ容認されるだろう」として、この本には著者のそんな思いが一貫して思い込められているのである、と書かれています。
・内蔵助は、初めから本懐をなし遂げた後、同志一同と切腹して果てる覚悟を固めて戦に臨んでいるのであります。がその覚悟のなかで、その仇討ちが成就しても、それはそれで天下を乱した罪で公儀の裁きを受けることを想定し、この武士の一念は、究極には、“天による宥恕”しかないと覚悟していたのでありましょう。
・ところで、この縄田氏の解説による「非理法権天」を知って、小生がふと思い出したことがあります。それは、戦時中の少年時代によく歌った「天に代わりて不義を討つ忠勇無双の我が兵は、歓呼の声に送られて今ぞ出で立つ父母の国・・・」という陸軍賛歌として有名な「日本陸軍」という歌であります。ググッテ見ると、原曲は、出征、斥候兵、工兵など10番まで、陸軍兵士が活躍する様々な場面を勇壮に歌い上げた曲であります。この歌にある「正義は我にあり、我は天に代わりて不義を討つ」というテーマは、将に忠臣蔵の「非理法権天」の考えそのものであります。
・小生は、拙文冒頭<はじめに>の中に、「150年前の江戸時代までは、このような社会通念が人々の喝采を浴びていたのでありましょう」と書きました。が、上記の陸軍賛歌を見ると、それがあの戦争中の戦意高揚の歌にまで援用されていたことを知り、“忠臣蔵”は、江戸時代どころか、昭和の戦争でも兵隊さんと国民の戦意高揚に大いに活用されていたことに気付いたのであります。
・もう一つの感慨もあります。
・小生は、当拙文冒頭<はじめに>の中に、『われわれの世代は、忠臣蔵を貫く「主君の仇討ち」という日本独自の武士道の美学にはみな馴染んでいました。(中略)しかし、戦後生まれの人口比が総人口の8割を超える現代に至っては、最早そんな「仇討ち」などは、人間性、社会性、人権的問題性などの観点からもアナクロニズムの最たるものになっているのかも知れません』とも書きました。
・このことは、たとえ、それがある時期、国民の伝統的心情としては優れて一般的な考え方であったとしても、時代の変化のなかで、当然といえば当然のことながらも、世代間では、もうとっくに“天と地ほども違う大きな断層”となっているのでありましょう。
・最近、興行界すべてが「忠臣蔵もの」にそっぽを向けているわけも、それを忖度するに、「戦後生まれの人口比が総人口の8割を超えている」という明白なる事実と無縁なことではないのでありましょう。
追記1:
・以上は池宮彰一郎氏の小説「四十七人の刺客」の記述と小生の感想でありますが、半藤一利氏の著書「歴史をあるく、文学をゆく」には次のような面白い話が書かれていいます。
・たしか、銀座四丁目の角近いそばの更科には、平山蘆江の色紙がかかっていてそこには「義士はみな蕎麦の力で夜の雪」と書かれていたと思う。が、この折角の句もいまは筐底深くに蔵せられていることだろうと勝手に想像する。なにしろ世はハイテク万能の時代で、黒白をはっきりさせる“事実の時代”である。それを嘆いても始まらぬので続けるが、そばやの場面のこの句は残念ながら嘘っ八である。いやはや、それはもうその通り。そばが真に庶民大衆の食べ物になったのは寛文四年(1664年)で、その頃から、二八そばとか、けんどんそばという呼称で、そば切が流行っていったのだそうである。
・これは、嘉永七年前(1836年)に山崎美成が書いた「赤穂義士伝一夕話」に、義士たちが討ち入り直前に50人分のそばを注文した、とあるところからこの話がその後の多くの「忠臣蔵もの」に、「四十七士は討ち入りの直前に蕎麦で腹ごしらえして戦に臨んだ」という話しになったのである。が、この際は、これは山崎美成どのの苦心の創造である故に、“でっち上げ”(脚注の注:参照)などと一笑に付さないでおこう。当時の古川柳にも「五十膳程と昼来て金を置き」という、まるで見てきたような報道記事的な一句もあるのだから。(坂本注:「討ち入り実行の頃には、そばなどは、既に江戸には大衆化していた。しかし四十七士が出陣の前に打ち揃ってそばを食ったという記録はないのである。それにも拘わらず「忠臣蔵もの」の多くに「出陣前にそばを食った」という話が多く登城するようになったのは、上記のように山崎美成が1836年に「赤穂義士伝一夕話」にその事を創作して書いて以来のことであることを指しているのでありましょう」。
追記2:
・池宮彰一郎氏の筆力に魅かれて、更に今、氏の小説「高杉晋作上下」(講談社文庫)を読んでいます。その巻末の解説で秋山駿氏が「独創的な天才の貌」と題して大凡次のような書評を書いておられる。「高杉晋作は、正しく幕末維新時に顕れた独創的革命の天才であった。そんな天才を描くのはむずかしい。作家の「見識と技量」が問われる。「四十七人の刺客」を読んだ時に「どこにこんな作家が隠れていたのであろうか」、と私は驚いたのである。その迫力は、小説を書くために忠臣蔵を材料にしたのではなく、あくまでも忠臣蔵の真相真形を探査する、その探究の行為の結果の表現にふさわしいものとして小説的表現を選んだ、というところから生じているのであろう。真相探究のために必死の探究---迫力はそこから生じている。以上がその書評の骨子であります。
・小生も、歴史を学ぶのに、歴史的事実を積み重ねたような教科書的歴史書を読むよりも、たとえその表現の多くに、その作家の歴史観、人生感などの個性が色濃く投影される部分があったとしても、その作家の記述の巧みさに助けられながら、そこに登場する人物に血の通った人間臭さを感じさせられる方がよほど歴史の面白さにしびれるのであります。池宮彰一郎氏の小説「四十七人の刺客」は将にそのような思いで一気に読み終えた小説でした。
追記3:
・今年5月の「今月の話題」で小生が取り上げた 『隆慶一郎の「一夢庵風流記」を読んで』のなかで、その本の書評を担当された秋山駿氏が「この小説は、全編すべてこれ友情物語である」として、次のように書いておられます。
・『「日本の近代文学は西洋的な恋愛を描くところから出発したために、本来の東洋文学の髄であった“友情”という主題を見失ってしまったのである。が、この時代小説にはこの“友情”が主題として見事に貫かれている」と評して、慶次郎に見る友情を次のようにも書いておられる。「友情とは、心の交流である。敵味方に分かれて戦っても、友は友である。そこにあるのは義を立てるという意味での友情ではないのだ。言葉で説明する必要のないものなのである。つまり、潔い男だと相手を認めること、それが友情なのである。だから、ここでは裏切られるかもしれないが、それなら裏切られたっていいという覚悟の中にいることが大切であり、だからこそ、そこから真に潔い男の態度が発するのである」』
・「四十七人の刺客」に見る「内蔵助の討ち入りに対する思い入れ」は、主君に対する友情を超えた忠誠心そのものであります。だからこそ、そこからはより一層の、深く潔い男の態度が感じ取れるのではなかろか、と思ったのであります。
(坂本幸雄H29.10.27)