2012/8 祥伝社新書
《要約》
まえがき 加瀬英明
日本の近代史において、幕末における明治維新と先の対米戦争が二大体験となった。誠意の人・東郷茂徳外相は、ハル・ノートに接し、『米国が今までの経緯および一致せる範囲を凡て無視し、従来とった尤も強硬な態度をさえ超えた要求をここに持ち出したのは、明らかに平和的解決に到達せんとする熱意を有しないものであり、唯日本に全面的屈服を強要するものである。もはや立ち上がる外ないと云うことであった』と、A級戦犯として囚われて、獄中で病死する前に記した。ストークス氏は、アメリカのペリーの浦賀来航以来、傲る白人優位主義と、キリスト教世界観に駆られて、日本を屈従させようとしてきたと、論じている。
第一部 アメリカに強要された日米戦争の真実 加瀬英明
第1章 ルーズベルトが敷いた開戦へのレール
アメリカの決意、日本の独り芝居
フランクリン・デラノ・ルーズベルト(以下“FDR”という)大統領(民主党)は、共和党の現職のハーバート・フーバーの任期中、1929年に起こった大恐慌を追い風として、当選した。彼は、実業家・大地主のジェームスを父、富裕なデラノ家(清朝末期に、中国とのアヘン貿易によって巨富を築いた)の娘サラを母として、1882年に生まれた。1905年には、第26代大統領セオドア・ルーズベルトの姪で、遠縁の従姉妹に当たったアンナ・エレノア・ルーズベルトと結婚した。セオドア・ルーズベルトは、日露戦争までは、日本に好意を抱いていたが、日本がロシアに勝つと、日本を、アメリカがアジア太平洋において持っていたフィリピン、グアム、ハワイなどの領土や、中国大陸にあるアメリカの権益に対する、新たな脅威とみなすようになった。
ルーズベルトによる敵対政策の始まり
日本に根深い悪意をいだいていたFDRは、中国の蒋介石政権を通して、日本潰しをはかった。1937年に盧溝橋事件が起こり、日華事変が始まると、中立国アメリカは、政府が直接手出しできないので、民間の「中国援助事務所」を設立、蒋介石政権が日本と戦うために巨額の資金を提供した。アメリカは極秘で、戦闘機と軍人を「義勇兵」の名目で提供した。これは国際法の重大な違反だった。
なぜルーズベルトは、中国に肩入れしたか
1935年、米議会は中立法を制定した。にもかかわらず、1937年、第二次上海事変が勃発すると、FDRは中立法を中国には適用しないと宣言。FDRは幼少のころから母側の祖父の影響を受けて、中国に好意を抱いていた。ところが、近衛文麿公爵が1934年に訪米し、FDRとコーデル・ハルと会見して、彼等が極東についてまったく無知だと暴露。
日独伊三国に向けられた「防疫演説」
1931年、満州事変が勃発。満州は中国の一部ではなかったにもかかわらず、日本が中国を侵略したとみなした。1937年7月に、盧溝橋付近で日中両軍が衝突した日華事変は、中国共産党の挑発によって起こった。つづく8月の第二次上海事変も中国共産党によって仕掛けられた策略だった(第3章参照)。ところが、FDRはいずれも日本が中国を計画的に侵略したものだと曲解し、ある国々を「国際的な無政府状態」を引き起こしている国家として非難(日・独・伊を危険な疫病患者になぞらえた「防疫演説」)。これは中立法から踏み出したとして、多くの上下院議員、AFL、新聞等から非難。日本は軽視。
中国空軍機による九州来襲
翌1938年5月20日、3機の中国爆撃機(米国製)が九州上空に侵入して、反戦ビラをまいていった。蒋介石政権が、徐州会戦の惨敗による自国民士気喪失の払拭と、日本を威嚇する目的だったが、日本軍は奇襲を蒙って面子を潰されたので、ことさら軽視したので、目論見が外れた。さらに、5月30日、中国機2機が九州に侵入した。
日本の外交暗号をすべて解読していたアメリカ
1939年9月1日、ヒトラーのドイツがポーランドを侵略、2日後英・仏は独に宣戦布告、米国は中立宣言。1940年秋、米軍は日本の外交暗号の解読に成功。
中国軍に偽装した日本本土空襲計画
ヘンリー・モーゲンソー財務長官は大統領に、中国に長距離爆撃機を供給して、日本を爆撃させるよう提案し、大統領が承認した。
日本を戦争におびきよせた本当の理由
1940年6月、仏が独に降伏、英国は孤立無援の戦いを強いられる。9月、米英防衛協定調印。FDRは徴兵法案を提出、下院を1票差で通過。
ルーズベルトを喜ばせた三国同盟の締結
9月、日独伊三国同盟条約調印。外務省では、廣田弘毅、吉田茂、東郷茂徳、重光葵や、現役大使が反対、海軍では、米内光政、野村吉三郎、山本五十六らが反対した。だが、三国同盟にはアメリカを牽制する効果はなく、民主諸国と対立する構図を作ってしまった。天皇は大変に心配。
着々と進む日本追い詰め政策
10月、海軍情報部極東課長のアーサー・マッコラムは、蒋介石政権に可能な限りの支援、日本に完全な禁輸、蘭印に日本へ石油を輸出させない、日本近海に巡洋艦を出没させる(「ポップ・アップ・クルーズ」作戦)、などの提案し、FDRは承認。1941年3月、英中軍事協定締結。
開戦五か月前に日本襲撃を承認した文書
近衛文麿内閣は、日米交渉を始め、4月以降、野村吉三郎駐米大使にハル国務長官と数回会談させたが、見るべき進展がなかった。一方、米陸海軍合同委員会は、日本本土奇襲爆撃計画を提出し、7月23日にFDRが承認。国外に戦力を派遣しないと公言していたにもかかわらず。米国民を欺き、日本を騙し討ちにするもの。7月18日、近衛首相は、松岡洋右外相を更迭するため内閣総辞職し、豊田貞次郎海軍大将を外相として、第三次近衛内閣を発足。日本は前年8月に、米英が仏印を通じて、蒋介石政権に大量の兵器を供給していたルートを遮断するために、仏政府の同意を得て、北部仏印に進駐していたが、この年の7月28日に仏印の仏当局の承認を取りつけて、南部仏印に進駐した。
「日本という赤児をあやす」
7月30日、永野修身軍令部総長が天皇に拝謁し、『石油は開戦となれば1年半でなくなるので、打って出る他ない。勝ち得るや否やも覚束ない』旨お答えした。8月14日、FDRとチャーチルは「大西洋憲章」を発表、FDRはチャーチルに『あと数か月は、日本という赤児をあやすつもり』と語ってチャーチルを喜ばせた。
直前まで対米戦争を想定していなかった日本
近衛内閣が日米交渉を始めた時点では、対米戦争にまでなるとは真剣に考えていなかった。陸海軍とも南方での戦場対策が全くできておらず、対米戦争を始めるに当たって、緒戦で勝利を収めたうえで、アメリカが戦意を喪失して講和、という程度の、きわめて曖昧な結末しか想い描くことができなかった。
日米首脳会談に望みをかけた近衛首相
近衛首相の意を受けて、野村大使は数回にわたってFDRと折衝し、9月にアラスカのジュノーで、と決まりかかったが、FDRは日本と戦うと決めていたので、実現しなかった。
第2章 米政府が秘匿した真珠湾の事実
開戦を前にした昭和天皇の懊悩
天皇は9月5日、近衛首相立会いの下、杉山元陸軍参謀総長と長野海軍軍令部総長を召して詰問。
悲痛のきわみ、宮中御前会議
9月6・7日、御前会議。戦争準備を完整し、外交で帝国の要求が貫徹されなければ、開戦と決定。天皇は深く憂慮され、「よもの海みなはらからと思ふ世に など波風のたちさわぐらむ」と、明治天皇の御製を読み上げられた。
山本五十六の無責任発言
山本五十六連合艦隊司令長官は、近衛首相から日米戦の見通しをたずねられ、『1年か1年半は暴れてみせるが、その先のことはまったく保証できない』と答えた。わずか6か月に満たないうちに、ミッドウェー作戦で致命的な敗北を喫し、自らも翌年戦死した。彼は国葬されたが、天皇は不興。野村吉三郎海軍大将を駐米大使に起用したのも的外れだった。
アメリカに筒抜けだった連絡会議の結論
10月16日近衛内閣総辞職、翌日東条英機陸相に組閣の大命降下。10月23~30日、大本営政府連絡会議開催、東郷茂徳外相や賀屋興宣蔵相らの「臥薪嘗胆案」から永野軍令部総長や杉山参謀総長らの開戦案まで激論。外務省から野村大使に宛て、外交交渉を12月1日零時までと訓電、これがアメリカで解読されてFDRに届けられた。
日本艦隊の攻撃を待ちのぞむアメリカ
政府は、シロウトの野村大使を援けるため、ベテラン外交官の来栖三郎を特使として急派、FDRと会見、率直に対米交渉を急いで妥結したいと訴えたが、はぐらかされた。6空母を中核とする31隻の第一航空艦隊が、択捉島に集結したことを知ったFDRは、ハル国務長官、スティムソン陸軍長官、ノックス海軍長官ほかを招集し、日本のほうから攻撃せざるをえないように仕向けることで、合意した。
開戦強要の最後の一手
11月26日、ハル長官は、野村、来栖両大使に、「ハル・ノート」を手交。従来の交渉経緯をまったく無視したもの。後にこれを知ったチャーチルでさえ呆れた内容だった。
その時、ルーズベルトは何をしていたか
1941年11月25日、FDRは、エレノア夫人が不在なので、ナチス・ドイツ軍に占領されて米国に亡命中のノルウェー皇太子妃マッタと、大統領執務室で晩餐をともにした。その晩、皇太子妃が帰ったという記録がない。
なぜ新鋭艦が真珠湾にいなかったのか
11月26日、スターク海軍作戦部長は、真珠湾を母港としていた、空母「エンタープライズ」と「レキシントン」で、ウェーキ島とミッドウェー島へ、陸軍の戦闘機を運ぶよう命じた。真珠湾に残ったのは、旧型艦だけだった。
万策尽きての開戦決定
11月27日、大本営政府連絡会議。28日 閣議。29日 上奏。12月1日 御前会議。
宣戦の大詔に『豈朕が志ならんや』の文句を特にお上の仰せで加えられた。
暗号解読で、事前にすべてを承知していたアメリカ政府
外務省は、野村大使宛て、ハル・ノートに答える対米覚書を打電、米東部標準時間で12月7日午後1時に手交することを指示されたのにもかかわらず、野村、来栖両大使がハル国務長官に手交したのは、真珠湾攻撃後の午後2時過ぎになった。二人とも開戦を知らなかった。一方、この電報を解読していたFDRは、懐刀のハリー・ホプキンスが迎撃しようとの提案を、民主主義国だからとして、抑えた。ホノルルのショート陸軍司令官とキンメル太平洋艦隊司令官が電文を受け取ったのは、日本軍の攻撃が終わってから8時間後だった。
ハワイにだけは情報を伝えなかった謎
FDRは日本を計画的に挑発して、アメリカを攻撃させ、日本に自殺を強いることに成功した、稀代の魔術師だった。彼はアメリカをヨーロッパの戦争に参戦させるために、ハワイの太平洋艦隊を生贄にした。
アメリカの参戦決定と、チャーチルの感激
FDRは,CBSラジオの人気キャスターのエドワード・マローを呼んで、米国民が支持してくれるか確認したうえで、議会両院総会に臨んで、宣戦布告を求め、大喝采を博した。チャーチルはすぐFDRに電話して、ニュースを確認すると、すでに戦争に勝ったと大喜びした。
ルーズベルトは、いかにして四選を果たしたか
1944年6月、イギリスのオリバー・リトルトン工業相が、『日本はアメリカに謀られて真珠湾を攻撃した。アメリカが戦争に追い込まれたというのは、歴史を歪曲したものだ』と語ったのを、アメリカが公表を禁じた。また、同年の大統領選で、共和党候補のトマス・デューイNY州知事が、FDRが真珠湾攻撃を知りながら、ハワイの太平洋軍に伝えなかったとして、攻撃しようとしたのを、ジョージ・マーシャル参謀総長が察知して抑え、四選を果たした。
終戦の方策を考える余裕すらなかった日本
1944年10月20日、フィリピンのルソン島からはじめての特攻隊[藤田注:城山三郎「指揮官たちの特攻」参照]が出撃。日露戦争に当たって、明治の指導者たちは、戦争を始めることよりも終わらせるほうが難しいことを、よく承知していたが、昭和の日本には、それがなかった。ヒトラー総統は、真珠湾攻撃の日に、モスクワ正面まで迫っていたドイツ軍に、独ソ開戦後はじめて退却命令。
アメリカで追究された真珠湾奇襲の真相
ノックス海軍長官が、真珠湾を調査し、FDRに報告書を提出。キンメル太平洋艦隊司令官とショート陸軍司令官は罷免され、降格された。海軍は開戦に至るまでの情報を、すべて金庫に納めて封印。
終戦一年半前に作られた日本占領統治計画
日米開戦後、国務省の特別研究部と陸軍が、戦後計画委員会をつくり、1944年3月、報告書をまとめた。その骨子は、日本をアメリカによる単独占領下に置いて、日本の徹底的な非武装化と、民主化を行い、後に日本が講和条約によって独立を回復しても、名目的なものとして、実質上はアメリカの管理下に置くという、天皇を占領下で在位させて利用し、日本政府を存続させて、間接統治することが盛り込まれた。
日本国憲法にこめたアメリカの狙い
1944年12月、ドイツと日本を戦後どのようにして処理するか計画するため、国務省の特別研究部と陸海軍三省で調整委員会が発足、日本はそのもとに置かれた極東小委員会によって、扱われることになった。1946年に国務省の対日講和条約案が完成。その内容は、きわめて過酷なもので、日本が永久にいっさいの軍事力を持つことを禁じ、航空機は民間機すら保有禁止、軍事研究の禁止、これの極東委員会11か国による監視、公職追放の継続等。同案を下敷きにして、日本国憲法を押し付けるよう、マッカーサーに指示。現行憲法は、とうてい憲法と呼ぶことができない、憲法を装った不平等条約である。
第3章 日本人が知らない日本の歴史的功績
盧溝橋事件は日本の仕掛けではなかった
日本は日米交渉に当たって、アメリカも日本と同じように誠がある国だと思って相手の真意を疑うことなく、独り芝居を演じた。今日の日本は、日米安保体制のもとで、国の独立をすべてアメリカに預けて、防衛努力を怠っているが、外国に国家の運命を委ねるのは、危険である。1900年の義和団事件以後、諸外国の軍隊が、居留民保護のため、駐屯する権利を得ていた。その日本軍が、1937年7月7日夜、何回も射撃を受けたので、翌早朝反撃した。今では、中国共産党の工作員が、日中両軍を衝突させようとして、夜闇を利用して日本軍に対して発砲したことが定説(毛沢東名義の電報が展示されている)になっている。日本は第一次上海事変後の1932年の休戦合意に従って、上海周辺に3000人の軍を配置していた。そこに、蒋介石総統の承認を得ることなく、張治中(共産党の秘密党員)・南京上海警備司令官率いる40万人の国民党政府軍が襲いかかった。 日本軍が本国から増援され、戦闘が中国本土に拡大していった。FDRは、日本が真珠湾に「騙し討ち」を加えたといって、米国民を煽ったが、1846年の米墨戦争(メキシコからテキサス、ユタ、ネバダ、カリフォルニア、アリゾナ、ニューメキシコの諸州を奪った)も、1898年の米西戦争も、米軍の奇襲によって始まっている。イスラエルも、奇襲をお家芸としているが、アメリカで非難されたことがない。
東京裁判で裁かれた「平和に対する罪」とは
マッカーサーは、極東国際軍事裁判を主宰した2年半後(日本がまだ占領下)、米上院軍事外交合同委員会で、日本は、石油や屑鉄などの供給が断ち切られたら、大量の失業者が発生することを恐れ、やむにやまれず安全保障のために、戦わざるをえなかった旨の証言を行った。マッカーサーは、「平和に対する罪」(国際法になかった)を犯したかどで、戦争犯罪人を逮捕し、処罰した。1928年に日本も含む15か国(のちに63か国)で調印した「戦争放棄に関する条約」(または「パリ条約」、「ケロッグ・ブリアン条約」)に根拠を置いたものとされた。米国上院でこの条約批准についての討議で、『経済封鎖が戦争行為に当たるか』との質問に、ケロッグ長官は『もちろん戦争行為そのものだ』と断言した。従って、日米戦争はFDR政権のアメリカが裁かれるべきで、東京裁判は悪質な国際法違反だった。
日米戦争の原因の一つは人種差別
東京裁判は司法的にみせかけて体裁をつくろったリンチだった。東京裁判中に、英・仏・蘭は、大戦中に日本が開放したインドネシア、ベトナム、ビルマ、マレーを再び植民地にしようと、侵略を働いていた。アメリカが日本に戦争を強いた大きな原因の一つが、人種差別だった(昭和天皇も1946年に側近に語られた)。東京裁判の判事11人中、ラダビノド・パル判事は『連合国は極東軍事裁判で、日本が侵略戦争を行なったことを歴史にとどめることによって、欧米列強による侵略を正当化し、日本に過去の罪悪の烙印を押すことが目的だった』とし、オランダのバート・V・A・レーリンク判事は『市民を大量に焼殺して、国際法を徹底的に踏み躙った復讐劇だった。日本はアジアをアジア人の手に取り戻すために戦った。戦争の主因の一つが人種差別で、連合国では日本人を人間以下とみなすように教育されていたので、原爆で数十万人を一瞬に焼殺することができた』とし、フランスのアンリ・ベルナール判事の3人が、判決に反対する少数意見を提出した(公表が禁じられた)。アメリカにおける日系人の差別はひどいもので、12万人以上の米国籍日系人が、全財産を没収されたうえで、劣悪な環境の強制収容所に送られたり(米憲法違反)、軍隊に編成されてヨーロッパ戦線へ送られたりした。
トルーマンもマッカーサーも、人種差別主義者だった
FDRの死去で大統領に昇格したハリー・トルーマンは日本人をバカにし、ユダヤ人を嫌った。マッカーサー元帥も同様。
トインビーが日本に与えた歴史的評価
歴史家アーノルド・トインビーは、1956年にイギリス「オブザーバー」紙に、『日本は、アジア・アフリカを長年支配してきた西洋人が、あたかも神のような存在だと信じられてきたが、日本人はそうではなかったことを証明した、歴史的な偉業をなしとげ、白人のアジア侵略を止めるどころか、帝国主義、植民地主義、人種差別に終止符を打った。』と寄稿。アメリカは、1898年の米西戦争でフィリピンとグアム島を奪い、ハワイをアメリカ領に組み込んだ。
軍人としては無能だったマッカーサー
トルーマンはマッカーサーを二流の軍人として軽蔑していた。マッカーサーのフィリピン作戦は大失敗だったにも拘らず、FDRの命令をとりつけて脱出したため、トルーマンはしかたなくマッカーサーを連合国軍最高司令官に任命した。
マッカーサーの日本非武装中立論
マッカーサーは1935年、アメリカの植民地だったフィリピンの事実上の総督として、戦争放棄を定めたフリピン憲法を起草して与えていた。日本にも同様に、非武装の永世中立国となるよう憲法を作らせた。そうすれば、国連が日本の中立を保証すればよく、沖縄や太平洋諸島に展開している米軍で阻止できるので、ソ連から攻撃されることはないと信じていた。これは戦後の日本社会党の非武装中立論と変わらなかった。
日本の“宗教改革”を企んだマッカーサー
マッカーサーはペリーの如く尊大で、キリスト教徒として、アジア人を見下していた。そして、日本をキリスト教化できるという妄想にとらわれていた。
アメリカの日本に対する戦後処理の愚
日本が降伏した2か月後就任した、幣原首相に『労働組合の結成に力を入れるように』指示、翌年1月には、公職追放措置がとられ、左翼勢力が大きく伸長した。同年2月、ジョン・マクロイ陸軍次官が訪日し、一連の対策を批判し、1950年に朝鮮戦争が始まると、マッカーサーは変節し、レッド・パージを行った。マッカーサーは米軍が南朝鮮に出動したあとに警察予備隊の創設を命じ、これで日本の非武装化を定めたポツダム宣言が反故となった。
ルーズベルトを「狂人」と呼んだフーバー元大統領
1929~33年に大統領を務めたハーバート・フーバーはトルーマンと親しく、日本がアジアの安定勢力であって、戦後も日本による朝鮮半島と台湾の領有を認めるとともに、日本経済の回復を援けるべきで、中国の共産化を防止するために、日本軍が秩序を以て段階的に撤収するよう進言した。フーバーは戦後マッカーサーと会って、FDRを狂人呼ばわりし、マッカーサーは1941年の経済制裁が日本を戦争に追い込んだ、本質的な戦争行為だったと述べた。
第4章 この教訓から何を学ぶか
国際政治は、いかに非情であることか
日本国憲法の前文は、『*平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した』とうたっているが、これでは日本は狼の群の前の羊なので、*印に『中国や、北朝鮮をはじめとする』という字句を挿入することを、提案したい。NYタイムズ社の持ち主イフジーン・サルツバーガー夫人の晩餐会で、元陸軍次官ジョン・マクロイに『日本がもし原爆をアメリカに落とすことができたら、日本に核攻撃を加えたか』たずねたら、『もちろん、ありえなかった』と返答。広島の平和記念公園の慰霊碑の、『安らかに眠って下さい 過ちは繰り返しませぬから』の文言は、アメリカ占領軍が日本国民に日本が犯罪国家であるという、罪悪意識を刷り込むための表れであり、核兵器を持たないために、再び悲惨な核攻撃を招くような過ちは繰り返さないという誓いとして、読まねばなるまい。
まやかしの「平和主義国家」
戦後、アメリカの絶対的な軍事保護が、日本人から国家意識を失わせた。国家の独立を自助努力によって守るのは、国家存立の根本。日本の国旗国歌や、自衛隊を疎かにする人々は、日本が国家であることを否定するもの。
無責任なコンセンサスに縛られた「日本国憲法」
ほとんどの日本人は、不十分で中途半端な自我形成しか行われていないため、集団のコンセンサスがどこにあるかさぐりあうという、無責任体制に寄りかかっている。日本国憲法は、このような得体が知れないコンセンサスの代表的なものだ。敗戦までは、新聞がこのような得体のしれないコンセンサスを、支えてきた。満州事変以降、新聞が軍国主義熱を、さかんに煽った。朝日新聞は、ヒトラーのナチス・ドイツ礼賛演説を報じた。戦前は「無敵日本」とか「神州不滅」といったスローガンに代表されたコンセンサスが形成されて、国民の思考を呪縛したために、現実に即した議論を行うことができなかった。今日の日本はかつての軍国主義が、まやかしの平和主義に擦り替えられただけで、同じように無責任なコンセンサスによって、自らを縛っている。
小室直樹氏の吉田茂に対する辛辣な評価
吉田首相はサンフランシスコ講和条約に調印して帰国してから、すぐに国民に是非を問うて、政治生命を賭けて改憲に取り組むべきだったが、そうしなかったのは、一流政治家に値しない。国の指導者たるものは、50年、100年先を見通す力を持っていなければならない、筆者が1957年に、NYにマッカーサーを訪れた時、『日本は軍備を拡張し、自由アジアの一大軍事勢力として、極東の安全に寄与しなければならない』と強調していた。
福沢諭吉の戒告
『一身の独立なくして、一国の独立なし』と戒めた。日本が日露戦争に勝ち、有色人種がはじめて白人の大帝国を打ち負かし、西洋の支配のもとにあったアジア・アフリカの諸民族が、闇のなかで光を見て、独立闘争ののろしを上げた。
インドとインドネシアの独立に果たした日本の役割
イギリスの歴史家エリック・ホブズボームは、著書「20世紀の歴史 極端な時代」のなかで、『インドの独立は、ガンジー、ネルーによる独立運動ではなく、日本軍とインド国民軍が共同してインドへ侵攻した、インパール作戦によってもたらされた』と述べている。日本が先の大戦中にアジアを開放したために、アフリカ諸民族もつぎつぎと独立していった。そのため、アメリカでは不当な黒人差別を続けることができなくなった。
かせ・ひであき
1936年 東京生まれ。慶應義塾大学、エール大学、コロンビア大学に学ぶ。「ブリタニカ国際大百科事典」初代編集長。外交評論家として内外に豊富な人脈を築き、77年より福田・中曽根内閣で首相特別顧問として対米交渉に貢献。日本ペンクラブ理事、松下政経塾相談役などを歴任。
第二部 ペリー来襲から真珠湾への道
ヘンリー・S・ストークス(訳/藤田浩行)
第1章 100年にわたるアメリカの野望
アメリカが隠蔽してきた史実
従兄のネーサン・クラーク英軍大尉は、1941年なかば(日本の真珠湾攻撃の半年前)に、ビルマのラングーン飛行場で、多数の米軍戦闘機や爆撃機を目撃し、これがアメリカの日本に対する戦争準備と直感した。
三島由紀夫と「黒船」
三島はアメリカに敵愾心をいだいていたのではなく、黒船に反発した。
ペリーという“海賊”が犯した罪業
ペリーの黒船の実態は、米海軍の制服を着た海賊集団だった。最先端をいく炸裂弾砲を並べた四隻の軍艦で、日本が国法に従って長崎に廻航せよとの指示を無視して江戸湾に侵入し、開国を迫った。ペリーが日本に不幸な火種を植えつけなければ、後に日本による真珠湾と英領香港への攻撃は行われなかった。
何がペリーを大航海に駆り立てたのか
マシュー・ペリーは、ミラード・フィルモア米大統領の親書を、都である京都に隠棲していた天皇に渡すために、来航した。その目的は、両国を直接接触させて、意思の疎通を成し遂げることとされた。一通の郵便を届けるために四隻もの軍艦が必要だろうか。その説明として、①北西太平洋で捕鯨船が難破して、日本沿岸に打ち上げられたアメリカの船員に、まともな扱いを要求するもの。
「神の意志」によって正当化された侵略行為
②神によって祝福された使命、すなわち西へ西へと領土を拡大し、東洋への侵略を図る。
日本に埋蔵されていた「黒いダイヤモンド」
③ダニエル・ウェブスター元国務長官が考え出した、石炭を求めて(帆船から蒸気船に切り替わった)。
ペリーの野望が結実した横須賀米海軍基地
黒船と日本まで遠征する予算を正当化するために、ペリーはアメリカの基地を探していて、横須賀に目を付けた。初めて投錨した夜、流れ星を見て、全能の神のお示しだとした。今日、米軍第七艦隊が母港としている。
世界一の文化都市だった江戸
初代イギリス公使オルコックは『江戸の街は、美そのものだった』と証言。世界最大の首都だった江戸は、絵画や舞台芸術で、きわめて高い芸術性を有していた。広重、歌麿、北斎などの木版画(パリのポスト印象派に称賛され、猿真似されたほど)、歌舞伎、文楽など、町人の芸術のほか、武士も能楽や書芸を楽しんだ。日本中で犯罪が少なかった。東海道には1000軒を超える旅籠があった。ペリーは日本から戻った後、NYで『日本はいつの日か、他国の追随を許さない産業国家として台頭しよう。彼らの手先は、あまりにも器用だ』と講演した。寺子屋が日本中に設立され、明治以降すみやかに産業国家に移行する基礎となった。
アメリカ人が持っていたひどい偏見
サミュエル・モリソン提督は、著書に偏見にみちた後進性を記述した。一方フランシスコ・ザビエルは、『日本では、女性や子供までもが読み書きできる』と、本部に報告。江戸では、70万人の町人に対して、武士の町方同心と町人の岡っ引き・下っ引きの300人で警備するほど治安が良かった。
日本という獲物を虎視眈々と狙う列強
ペリーのしたことは、日本の法律では、犯罪行為だった。しかし、当時、全世界で西洋の植民地支配が行われていた。ヨーロッパ各国は、白人優位の世界観から、アジア・アフリカを侵略するのは、白人の特権だと信じられており、早い者勝ちだった。だが、日本は誇り高い、棘がある地だと見られていた。ペリーはロシアを主要なライバルとして、警戒していた。
「レイプ・オブ・江戸」
精神分析家・思想家・現代史家の岸田秀氏は、ペリーに「レイプ・オブ・江戸」の罪があり、マッカーサーが追随して、日本をレイプしたと述べている。加瀬氏が会長を務める「南京事件の真実を検証する会」は、『南京大逆事件はまったくの虚構で、戦勝国が東京裁判で自らの罪と相殺させる目的で捏造した』と検証し、「史実を世界に発信する会」のサイトで発表している。極東国際軍事法廷は「勝者の正義」を宣伝するための茶番劇だった。
わざわざペリー艦隊の旗艦を取り寄せたマッカーサー
先の大戦は日本から西洋に、戦争を仕掛けたのではない。アジアは、シャム王国とネパールと日本を除いて、すべてヨーロッパとアメリカの植民地で、中国は半植民地状態にあった。シャム王国とネパールは、ヨーロッパ各国がアジアでの領土獲得合戦を展開した緩衝地帯として残っていた。唯一つ独立国家として残っていたのが日本だった。マクロにアジア史を見ると、戦争の責任は第一義的にアメリカにあった。マッカーサーはペリーを意識し、自らの姿を重ねた。1945年9月2日の降伏文書調印式に、マッカーサーはペリーが浦賀に黒船艦隊を率いて来航した時に掲げた旗の現物を、本国の海軍兵学校からわざわざ取り寄せた。調印式は、黒船の投錨地で挙行され、マッカーサーは自分をペリーの再来であるかのように演じた。
第2章 ペリーが開けた「パンドラの箱」
パリ講和会議における日本の人種差別撤廃提案
1919年のパリ講和会議で、日本が『連盟員たる国家における一切の外国人に対し、いかなる点についても均等公正の待遇を与え、人種あるいは国籍の如何により、法律上あるいは事実上、何ら差別を設けざることを約す』という条文を、宗教の平等を唱えた連盟規約21条に付け加えるように提案すると、宗教規定そのものが取り除かれて、人種差別撤廃提案として、改めて提出された。議長だったウィルソン大統領の本国、黒人差別のアメリカでは、内政干渉だとして強く反発し、上院は提案が採択されれば条約を批准しないとの決議を行った。日本は、連盟規約の前文に『各国民の平等及びその所属、各人に対する公正待遇の主義を是認』という文言を、挿入するよう求めた。ウィルソンは日本代表団に提案の撤回を求めたが、牧野伸顕元外相はそれに従わず、採決を求めた。結果、16か国中11か国の賛成で可決されたにも拘らず、あろうことかウィルソンは『全会一致でない』として、この採決を無効とした。
300年以上、スペインの支配下にあったフィリピン
ポルトガル生まれのマゼランは、東回りの遠征に参加して、マレー半島まで到達した。その後、国籍をスペインに変えて、西回りの遠征で、1521年、フィリピンに到着した。島々を手中に収める中、マクタン島の首長に抵抗され、毒矢に当たって最期を遂げた。以降スペインの支配下にあったが、1898年アメリカ軍に攻め落とされ、フィリピン人の意志を顧慮することなく、アメリカの領土となった。
白人不敗神話の終焉と日本
1943年、日本は、四十数年アメリカの植民地だったフィリピンを独立させた。フィリピン大学のレティシア・R・コンスタンティーノ教授は、『東アジアに対する日本の進出は、アジアに開放をもたらす力となり、それまで白人は不敗と信じていた諸民族を驚愕させた。』と述べている。日本はそれまでの白人支配者と違って、アジア諸国民に民族自決の精神を涵養した。
インドネシア独立に果たした日本の功績
インドネシアは、1596年にオランダ艦隊に占領され、支配されていたが、1942年日本軍が侵攻、①インドネシア語を公用語とし、②青年に軍事訓練を課し、③インドネシア人に高い地位を与え、④ジャワにプートラ(民族結集組織)や、奉公会の本部、各地に支部をつくり、組織の運営方法を教えた。
独立記念日の日付は、なぜ05817なのか
インドネシアでは、日本の皇紀2605年8月17日にハッタとスカルノによって、独立宣言が発せられた。日本がインドネシアを侵略したのではなく、独立させたとの感謝の意味を込めて。
インドネシア独立戦争で戦死した1000人の日本兵
オランダ軍はインドネシアを取り返すべく侵攻してきたが、日本が創設したPETA(祖国防衛義勇軍)は、日本軍が残してきた武器や練習機を使って、追い返した。一方中部ジャワでは、共産党が独立を図って、日本の民間人や歩兵隊に襲いかかった。当時の日本人にとって、アジア解放は大義だった。今の日本人にそのような気概があるだろうか。国際協力だとか、国際貢献だといって、政府の予算をもらってバラまくことによって生計をたてて、自己満足に浸っている日本人が多い。今日、日本がアジア諸国から尊敬されなくなったのは、アメリカに追随して、経済利益だけを追求して、先の大戦に敗れるまでいだいていた気高い精神を、失ったからにちがいない。歴史を失った国には、品格がない。ベトナムにも、フランス軍が再び植民地にしようと、来襲したが、多数の残留日本兵が、ベトナム独立のために血を流した。
イギリスのインド支配とチャンドラ・ボース
イギリスは1600年、東インド会社を設立して、インドの植民地化に着手し、数回の戦争により、支配地域を広げた。1857~59年には反イギリス民族闘争セボイの反乱が起こった
1869年マハトマ・ガンジー出生。1877年イギリスが直接インド全土を統治するインド帝国が成立。1897年チャンドラ・ボース出生。ガンジーは無抵抗主義、ボーズは武闘派。
日比谷公会堂で行われたボースの演説
1942年、インドで反英デモ「八月事件」が起こった。イギリスは戦闘機から機銃掃射で弾圧。日本はボースを支援するため、1943年ドイツから彼を呼び寄せた。ボースは内外記者に会見を行い、インド向けラジオ演説で、『アジアの日本が白人帝国のロシアを破った。インドの革命家たちは学ぶために訪日し、岡倉天心らがインドを訪れ、アジアを救う精神を説いた。このたび日本は、インドの仇敵であるイギリスに宣戦した。このインド独立の千載一遇の機会を与えてくれて感謝している。』と述べた。1943年、ボースを首班とした自由インド仮政府を樹立、英米に宣戦布告。東京では大東亜会議が開催された。これは有色人種による史上初のサミットであり、人種平等の出発点であった。今日、同会議は日本軍部が「占領地の傀儡」を集めて、国内向けに宣伝のために行った会議だったと唱える学者が多いが、このような日本人こそ、日本を精神的に支配しようとする、外国の傀儡というべきである。日本の降伏後も、ボースは残存兵力を指揮して、中国北部に移動させ、ソ連の支援を取りつけて、中央アジアからインド・デリーへ進軍させたが、飛行機事故で重傷・死亡した。
インパール作戦は、けっして犬死にではない
イギリスは、ヒンズー教徒、イスラム教徒、シーク教徒のINA(インド国民軍)将校たちを被告とする、イギリス国王に銃を向けた反逆罪で、軍事裁判を開いた。すると、インド全土から抗議運動が起こり、イギリスは刑の停止に追い込まれた。イギリスはそれでも「対日戦勝祝賀パレード」を挙行したが、全戸に弔旗が掲げられ、抗議デモが行われた。中に、手製の日章旗を振っている者が何人かいたが、日本では検閲のためこれが報道されることはなかった。上記裁判で、インド側のデサイ弁護団長は、『日本軍がインド国民軍を編成して、武器を取って進軍させてくれた。この進軍が、インド全土で国民運動となって、イギリスに独立を認めさせる契機となった。インド独立をもたらしたのは日本軍であった。』と述べている。
公開された日本本土侵攻作戦計画
2006年に機密解除された日本本土侵攻作戦計画文書によると、1945年10~11月に南九州、翌年3月に相模湾に侵攻する作戦だった。
アメリカ政府が弄した奸計
1945年7月、トルーマン大統領は、ベルリン郊外ポツダムで、イギリスとの首脳会談を催し、日本に条件(天皇制温存)付き降伏を求めるポツダム宣言を発した。その時アメリカは、日本の手強さに手を焼き、ソ連に参戦するよう誘った。その結果ソ連もポツダム宣言に加わり、8月8日には日ソ中立条約を蹂躙して、日本に襲いかかった。ポツダム宣言は、日本軍に無条件降伏を要求し、日本政府には条件降伏を迫った。ところがアメリカはいったん日本を占領し、日本軍の武装解除を行うと、日本が無条件降伏したことに擦り替えた。
「パンドラの箱」とは何か
1853年に黒船艦隊を率いて日本へやってきたペリーは、パンドラがゼウスにもらった、あらゆる悪が封じ込められた、開けてはならぬ箱を開けてしまったように、傲慢で白人優位の歴史観で、江戸の美しい日本を破壊した意味が、まったくわからなかった。日本人は工業化に成功し、日清戦争に勝利し、日露戦争に勝ち、パールハーバーを襲った。この地上から植民地がなくなり、人種平等の理想の世界を迎えることができたのは、日本が大東亜戦争に立ちあがった成果だった。それにより、日本太古の国造りの神話を、20世紀になって再演してみせた。新しい世界を生むことになった神話を、人類のためにつくりだした。日本こそ、人類の希望だった。
あとがき ヘンリー・S・ストークス
ペリーは日本人に取り入るために、模型の汽車を持参し、走らせて見せた。幕吏たちは熱中し、ペリーの日本と戦わずに開国させようとの目論見は成功した。今日の日本人に、日本の歴史上もっとも影響力のあったアメリカ人をあげよといったら、マッカーサーとペリーとなろうが、ペリーの方が巨人だった。加瀬氏によれば、『ペリーが種を蒔き、マッカーサーが収穫した』のだった。
Henry Scott Stokes
1938年英国生まれ。61年オックスフォード大学修士課程修了後、62年フィナンシャル・タイムズ社入社。64年、東京支局・初代支局長、78年ニューヨーク・タイムズ東京支局長を歴任。三島由紀夫と最も親しかった外国特派員として知られる。