戸松君のコメントに関して…P大島昌二2017.10.2

P大島昌二2017.10.2

戸松さん、丁寧に読んで戴いて有難う。すべては網羅できませんが骨子となるところをご説明します。私のレポートは見聞をベースにしてそれに出来るだけ裏付けを加えたものですが誤りに気づいた方はご指摘いただきたい旨をいつも書き忘れていました。この機会に書き添えたいと思います。

1)グループ観光旅行 (package tour) は「空飛ぶ老人ホーム」の異名があるように圧倒的に老人です。最年長者は昭和7年生れでした。登り坂や階段を一部スキップしたようですがよく頑張りました。貴兄の言及はないけれど、ふつうは女性が圧倒的に多い。これは ”merry widows” 現象ではないかと思いますが「群れたがる」日本人の中でも女性はさらに群れたがる傾向があり、声を掛け合って複数で参加するようです。今回は男性が11人と頑張ったのは目的地のせいだと思う。代理店が介在するこの手の旅行は一般的には、代理店が添乗員を付き添わせ別途に現地でガイドがつきます。添乗員はフリーランサーの場合と社員添乗員の場合に分かれます。(社員添乗員は就職先として新卒大学生の人気が高いらしい。)今回は就職2年目の社員添乗員が日本から付き、現地からは楊さん(男性40歳+)が終始同行しました。一行の中にこれまで中国を数十回単独で歩いてきた人がいましたが過去にいろいろ不安な経験をしたと見えて、「(中国)観光はパッケジ・ツアーに限る」といっていました。私も同感です。貧乏旅行をするのでなければ、旅の面倒は省けるし、コスト的にもあまり差が生じない気がします。単独旅行は、言葉が出来ればまだしも、その場合でも制度風習が違えば貴重な時間を無駄にすることが多い。すべてを自分で調べて『なんでも見てやろう』式に動くのは思いがけない経験をしたり、独立自尊の満足感がありますが健康・体力に自信のない老人にはムリです。私は若い頃にある程度そのような経験を積んだように思っています。

(身体検査もなく荷物は重量を図るだけという夢のような時代でした。)私は15年ぐらい前まではよく行きましたが、外国へのスキー旅行は圧倒的に若い人たちです。確かに彼らは時間をひねり出すのに大いに苦労しているようでした。

在英中は家族で英国のパッケージ・ツアーによく参加しましたが、あちらでは代理店がチャーター機を手配し、それに乗って現地で駐在員の指示でホテルに到着、日程が終わればまた同じようなルートで帰国するという方式でした。(日本などのような遠隔地にある観光途上国へのパッケージはスケジュール付きのツアーがほとんどでしょう。)現地での滞在期間中は各人がオプショナル・ツアーに参加したり、自由に旅行したりします。それぞれの観光都市から英語のガイドがついた数多くの日帰り旅行などが出ていて便利にできています。中国の場合はどこへ行くにも遠いのでレンタカーをすればなんとかなるかもしれませんが道路事情など困難に付きまとわれそうです。陝西・甘粛、宁夏省をカバーした実によくできた地図(中国地図出版社、18元)を買ってみましたが表紙に“FOR SELF-DRIVING TRAVEL”とシールが貼ってあるだけで、中身は中国語だけだから判読しなければなりません。いずれ英語版が出るかもしれませんが。

2)西安は周以来唐の時代まで中国の首都でした。72人の皇帝が君臨したといわれます。周時代は「鎬京(こうけい)」秦時代は「咸陽(かんよう)」漢以降は「長安」と呼ばれました。唐時代は西の長安(西安)のほかに東に洛陽(京都の異称でもある)というもう一つの都を築いています。長安が西安になったのは明代からで明の首都は初め南京で後に北京に遷都した。秦の後継をめぐる項羽と劉邦の争いは(「四面楚歌」などのことわざで)よく知られていますが戦いの最中、項羽は咸陽を根こそぎ略奪して、秦の王宮に火を放ちその火は三月燃え続けたといわれます。芥川龍之介の『杜子春』は子供心に長安を印象づける好短編でした。中国の都市名は、北平→北京もその1例ですが、しばしば変更されるようです。卜占、神託などの迷信深さもあると思いますが易姓革命的な思考もあると考えてよいのかもしれない。地名ばかりでなく山名も山脈名はあっても個別の山名が付いているのは一部に過ぎず、それも南にあるから南山といったふうに大ざっぱな傾向があります。楊さんに

よれば日本人は「展望台に行くのに階段は何段か?」と聞くけれど中国人は大ざっぱにしか把握していないといいます。

3)兵馬俑は仰る通り驚嘆すべき遺産です。私は前に腰を抜かしていたからあらためて言うべき言葉がないだけということです。敦煌の莫高窟はこれとはまったく違った意味で驚嘆すべき歴史遺産です。まだ十分に学んでいないので多言を弄することはできないのですが、それぞれが寺院であるここの窟の一つ一つが時代を越えて敦煌を訪れた多数の民族の多様な姿を写しだしています。民族の融和などという言葉がありますが、それが長期にわたって実際に存在していたことがこれらの美術品から知ることができます。われわれが案内された窟のうち1900年に発見された現在の窟番号17番、蔵経堂から発見された6万点の古文書や芸術品は貴重かつ有名で、イギリス、フランス、ロシア、日本などに一部が流出、散逸した後1910年になってようやく中国政府は残された文献を北京に運び保管をし始めました。これがその後、敦煌学とよばれるものの基礎になっているとされます。

4)黄土高原や祁連山脈やゴビ灘のスケールはその周辺を走りながら眺め続けたもので写真ではとらえがたいのは残念です。このほかにも近くには秦嶺山脈や天山山脈などの壮大な自然がひしめいています。

5)もう一つ付け加えると、われわれの中国史に関する知識は古代に片寄っており、そこから辛亥革命まではブランクに近いように思います。宋、元、明の時代についてどれだけ知っているだろうか。中国研究の泰斗、宮崎市定博士(故人)は「宋元代の文化は世界一」という一文で、それは日本人は領土を拡張して勢威を誇った漢や唐に目が行く余りのことではないか。宋王朝は「五胡十六国の乱」や「安氏の乱」といった異民族の反乱によって漢や唐が滅亡した「過去の歴史の教訓に学び、武力国家の見栄を棄て、経済大国、文化国家への道に国民を導いた」と述べています。いずれにしても経済活動のウエイトは内陸部から沿岸部へと移り、シルクロードの商業通商も唐代末には陸の道から海の道への移動が促進されたのではないか、現在の人口分布に見られるような方向へ向かったのではないかという気がします。

以上ご参考まで。

大島昌二

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