P大島昌二:近衛、木戸、『昭和天皇独白録』2018.11.29

近衛、木戸、『昭和天皇独白録』

昭和天皇が対米英戦争とどうかかわっていたかについて天皇と直接に向き合ってもはかばかしい結果を得るのは難しい。天皇は寡黙であり公言をしない。菊の御紋の周囲には天皇に関する異論を許さない論者が守りを固めている。

昭和天皇の戦争責任問題を最初に、正面から大胆に、そして説得的に論じたのは歴史家、井上清京大教授『天皇の戦争責任』(1975年8月)で「対米英開戦を、天皇がいかに熟慮を重ねて、主体的に決断したか」を詳述している。(木戸日記を検証した粟屋憲太郎もすでに紹介したように同様の結論に達している。)近衛の致命的な失策とされる日独伊の三国同盟については次のように書いてある。

「木戸は天皇に『独伊と軍事同盟を結ぶということになれば、結局は英米と対抗することとなるは明らかなり。故に一日も早く支那とは国交調整の必要あり』と助言した。天皇は、三国同盟が日本を英米との戦争にみちびくことも、十分にかくごした。それどころか戦争の結果は敗戦の可能性もあることまで考慮した。そして9月24日、木戸に『日英同盟〈1902年〉のときは宮中では何も取り行われなかった様だが、今度の場合は、日英同盟の時の様にただ慶ぶというだけではなく、万一情勢の推移によっては重大な危局に直面するのであるから、親しく賢所(天皇の祖先を祭った神殿)に参拝して報告するとともに、神様の御加護を祈りたいと思うが、どうだろう』と相談した。」「これらの資料により、天皇が三国同盟を如何に深刻に考えたうえで、裁可したかがよくわかる。近衛首相や松岡外相は、三国同盟は対米戦争のためではなく、それを阻止する唯一の方策だと力説した。しかし天皇はこれで日米戦争が阻止できると思っていなかったことは明らかである。」

天皇の指示によって条約案を審議した枢密院会議について深井英五(枢密顧問官)が残した詳細なメモによれば「顧問官でこれに積極的に賛成したのは河合陸軍大将と有馬海軍大将の2人だけで、他の顧問官22人と議長・副議長の全員は、同盟が国を危くすることをおそれた。しかし、すでに相手方と合意に達しているものを、枢密院が否決しても、その結果を収拾する成算がないので、あえて反対しなかったという」。

私は前稿の末尾で、近衛の対立項となった木戸幸一の疑わしさを指摘しておいたが、井上の著書には以下のような指摘がある。「木戸は平沼内閣の内務大臣であった時、すでに、基本的には陸軍に同調し、当時交渉中の第一次三国同盟案に天皇が賛成しないことを不満としていた。彼はその不満を原田熊雄に話し、つづけて、つぎのようにいった。『今の陛下』は『非常に自由主義的な方であると同時にまた平和主義の方でもある。そこでこの陛下の御考えを多少変えていただかなければ、将来陛下と右翼との間に非常な隔たりができることになる。……陸軍にひきずられるようなかっこうでいながら、結局はこっちが陸軍を引っ張って行くということにするには、もうすこし陸軍に理解をもったような形を取らねばならない。』木戸がこう語ったのは1939年4月20日のことであるが、それから一年余りのちの40年6月、彼は天皇の信任により内大臣になり、天皇と「右翼」=陸軍との間にへだたりが生じないよう、天皇の『考え方を変える』のに務めた。その努力は、徐々に功を奏した。その頂点と言うべきことが、和戦の関頭に立って木戸が東條を首相に推し、天皇がそれを採用したことである。天皇もまたこのころには、開戦論にかたむき、近衛首相とはへだたりがあった。近衛が内閣を投げ出したのは、天皇が開戦論にかたむき、内大臣木戸もたよりにならないことを痛感したからであった。このことを第三次近衛内閣の書記官長であり、その後もつねに近衛の側近にあって信頼されていた富田健治が証言している。」

木戸日記の10月13日には天皇のお言葉が以下の様に記されている。「昨今の情況にては日米交渉の成立は漸次望み薄くなりたる様に思はるゝ処、万一開戦となるがごとき場合には、今度は宣戦の詔勅を発することとなるべし。(中略)又、日独伊三国同盟の際の詔書に就いても平和の為ということが忘れられ、如何にも英米に対抗するかの如く国民が考へて居るのは誠に面白くないと思ふ。就いては今度宣戦の証書を出す場合には、是非近衛と木戸も参加してもらって、篤と自分の気持ちを述べて、之を取り入れて貰ひたいと思ふ。」(注1)

井上清と並ぶ考証的な著作には『昭和天皇の戦争指導』(1990年11月)に始まる山田朗教授の諸作がある。H.R.サケット氏は木戸日記をベースに、尋問によって木戸幸一に切り込んだのであるが、それは天皇と一蓮托生を自任する木戸幸一の言動を分析するというもう一つの方法も十分に効果的であることを示していた。

太平洋戦争については、まず対米英開戦の経緯に注目が集まり、転じては終戦のドラマとされる「聖断」へと駆け足で移動する。しかし、戦争責任となれば、敗戦が明らかになった後も国民の塗炭の苦しみを無視して戦争を継続し、被害を極大にした終戦サボタージュは開戦責任に匹敵するものである。

『情報天皇に達せず』の1945年5月24日の記事には初めて天皇の講和意図が現れている。木戸は天皇が降伏に傾いたときに大いに悩んだ。木戸は近衛に「最近御上は、戦争終結に御心を用ひさせらるゝこととなり、むしろこちらが困惑する位性急に、『その方がよいと決まれば、一日も早い方がよいのではないか。』と仰せ出される有様なり」と語っている。この天皇の心変りは何によって生まれたのだろうか。

在野の歴史家、ねずまさし『天皇と昭和史』(1974年7月)は昭和天皇の時代の戦争と世相、なかんずく思想弾圧の歴史に詳しく読み応えがある。バーガミーニもそうであったが、まだ宮中周辺の回顧録が乏しかった時期に当時の天皇側近の言動が伝わってくる。バーガミーニは皇太后節子(さだこ)と天皇の不和を伝えているが、ねずの著書も同様である。以前から空襲の恐怖におびえていた皇太后は44年11月24日以降のB29の東京空襲でさらに恐怖をつのらせ天皇や木戸内府を悩ませた。彼女は皇后、天皇と話し合いを持ったが、さらに天皇の使者として派遣された保科女官長の報告を受けた木戸は天皇と相談の上、戦争につき綜合的なお話を内大臣から申し上げることになり2月20日に大宮御所(赤坂御用地にあった)に皇太后を訪ね1時間半にわたって戦局の推移などについて詳しく説明した。その後27日の空襲は大宮御所にも損害を与えた。

翌45年3月10日の東京大空襲の後にも空襲は引き続き「25日には宮城と女官の建物(建坪1,200坪)と皇太后のいる大宮御所が爆撃され、十数名の死者が出た。天皇の恐怖は現実となった。神である天皇、神の助けを信じ求めていた天皇も、ついに近代科学の前には、完全に無力をあらわした。神国日本の神をまつる伊勢の外宮も熱田神宮も空襲を受けて焼けた。」

また細川日記(2月1日)は高松宮の話を以下のように伝えている。「御上は防空壕にて御生活にて、周囲には皇后陛下の他女官のみにて、一切皇族を御近附け被遊れず、したがって伏見宮殿下の如きも、全く熱海に御引篭りにて御参内なし、自分も今年になって一度拝謁しただけで、御話申したことはない。」と仰せられ、「むしろ申し上げて勅勘を蒙る様なことも時によってはよい。然し、そう云ふこともあらせられず、ただ御一人御心配遊ばされてゐる様だ。それであまり防空壕中で御生活遊ばされるのはどうかと皇族方から申し上げたので、政務の時はお出まし遊ばされる様になったらしい」と。

このような事態の推移が天皇の思考を終戦へと向かわせるに力あったろうことは疑えない。三年ぶりに対面の機会を得た近衛の上奏文(2月14日)は「敗戦は遺憾ながら最早必至なりと存じ候」に始まり「非常の御勇断をこそ望ましく存じ候」で結ばれていた。

ねずの著書には次のような記述がある。「六月二十一日近衛は木戸にあい、木戸から降伏の時の状況についての話をきいた。木戸は首相、外相、海陸相と個別的にあって『勝利の見込みのないこと、国民生活が窮乏していること、敵が上陸せず、爆撃だけを続行する時は、事態はますます困難となること、速やかに方針の転換を考えねばならないこと』を話し、陸相以外の賛成をえたという。そして二十二日には天皇は右の四大臣と両軍部総長を招いて、勅語をもって戦争を終結する旨を命じた。(p214)」先に紹介したように、近衛文麿と吉田茂がそろって、徹底抗戦を主張する軍部の反対を押し切って日本を終戦の決断に持ちこんだ功績を木戸幸一に認めているのはこのあたりの事情を指していると思われる。

木戸日記6月21日の条には近衛公と懇談した旨の記載の後、「二時十五分より五十分迄、拝謁、最高戦争指導会議員御召の際賜るべき御言葉につき言上す」とあり、また同じ日付の別紙には『後藤新平伝』(鶴見俊輔著)にある「一生一度国家の大犠牲となりて一大貧乏籤を引いて見たいもの、東京市長は此兼ての思望を達する一端にあらざるか」という言葉に感銘を覚え「余の心境も亦如此」と記している。同日の細川日記では木戸が近衛に伝えた決意が記されている。「陛下は御前会議后内府に会議の模様を御話あり、『皆誰か云ひ出すのを待って居るようだ』と仰せありたりと。而して内府はいつになく決意を示し、『海軍大臣が云い出すかと思ってゐたが一向やらぬ、此の上は自分がやらねばならぬ。さうすれば殺されるだろうが後は頼む』と公に依頼したる由。富田氏も余も内府の従来の言動より考へ、此の言に信を措かざる由述べたるに対し、公は、『自分は八分通り信ずる。』と云はれた。」

昭和天皇が亡くなられたのは1989年1月のことであったがその後ほとんど時を置かずに「文芸春秋1990年(平成2年)12月号」に「衝撃の未公開記録 昭和天皇の独白 八時間」が突如として現れて天下を驚かせた。それはだれもが知りたいと望んで果たせなかった昭和天皇その人の弁明がそこあったからである。それはさっそく『昭和天皇独白録』と名付けられて広く出版界に浸透して多くの議論をよぶことになった。

文芸春秋の翌月号には「昭和天皇独白録の徹底研究」と題する座談会が掲載され、伊藤隆、児島襄、秦郁彦、それに前号のスクープ記事に解説を付した半藤一利が意見を交わしているが、不徹底のまま時間切れになっている。とりわけ意見が分かれたのは、この独白録が何故1946年3~4月という時点で、どのような意図によってまとめられたのかという点にあった。この座談で伊藤、児島を相手にしてより地に足の着いた意見を展開した秦郁彦は「週刊朝日90年11月23日号に以下のような見解を述べている。「御前会議では『国体護持』は天皇制の維持を意味し、連合国もそう理解したが、昭和天皇には別の視点、つまり三種の神器のない天皇制は形骸も同然という意識があったということがわかる。しかし南北朝正閏問題で、南朝正統が公定していらい、北朝系である天皇の正統性は三種の神器の有無にあると教育されてきた昭和天皇にとって神器の運命は国家の運命と同格の重みを持っていたにちがいない。」

この後、1991年3月には「リベラル派」とでも言うべき藤原彰、山田朗、吉田裕、粟屋憲太郎、による『徹底検証《昭和天皇独白録》』が出ている。これは「独白録の資料的価値」、「独白録にみる大元帥・昭和天皇の役割」、「独白録と五人の会」、「東京裁判と天皇独白録」というそれぞれの報告(報告者は上掲氏名と同順)の後で、4人で討論するという趣向で4人の息も合っており、読みやすくかつ説得的である。論点は多岐にわたっているのでここでは上記した「何故、どのような意図で?」に限って見ておくことにしたい。

「独白録」作成の経緯の手掛かりは侍従次長木下道雄の『側近日誌』にある。まずその発端らしきものとしては45年12月4日、梨本宮が戦犯容疑者として登録されたことの話題からである。その際、「尚、戦争責任者について色々お話あり。右は非常に重要なる事項にしてかつ外界の知らざる事あり。御記憶に加えて内大臣日記、侍従職記録を参考として一つの記録を作り置くを可と思い、右お許しを得たり。」という記事がある。これがどのように進んだかは明らかではないが、翌46年2月25日に天皇から「とにかく側近としても、陛下の御行動につき、手記的のものを用意する必要なきやにつき御下問あり。これは発表の有無は別として、内記部長を専らこれに当らしむべきことを申しあぐ。」これらのどこまでが天皇の考えかは曖昧にされているが、いずれにしても作業は天皇の示唆にもとづいている。松平慶民、松平康昌、稲田周一、寺崎英成、それに木下の5人からなる「五人の会」が天皇からの聞き取りを始め、それは3月18日から4月8日までの5回にわたって行われた。

側近日誌の3月18日は次のように始まる。「10時30分~12時、陛下、御風邪未だ御全快に至らざるも、かねての吾々の研究事項進捗すべき御熱意あり。よって御政務室に御寝台を入れ、御仮床のまま、大臣、予、松平総裁、稲田内記部長、寺崎御用掛の五人侍して、田中内閣よりの政変其の他、今般の戦犯裁判に関係ある問題につき御記憶をたどりて事柄を承わる。」これに続いて同日の聞き取りの要点がメモされているが張作霖爆死事件と田中首相の譴責に始まるのは「独白録」と同様である。

聞き取りの時期は5月3日に開廷される東京裁判に先行し、内容的にもそれに備えた天皇の弁明であることは疑えない。これをもって天皇が意図したのは回想録であるとする見解は不可解である。天皇を免責するというマッカーサー司令部の意向がほぼ同時期に伝えられ始めたが疑いを残す未確認情報でしかなかった。

ここに集まった5人の人物像はそれぞれに興味深い。そのうちまず寺崎英成は、開戦前のFBIの報告文書によれば日本のスパイであり、戦後は国際検事局捜査課長ロイ・モーガンのキーナン首席検察官への報告書(46年2月25日付)によれば以下のように一転してアメリカのスパイである。「先週、日本外務省の有能な一員である寺崎英成(極秘の情報提供者)から彼が日本の要人から個別に得た情報を提供されたが、その内容は主要報告に予定されている人物のたすうにかかわるものであり、彼らへの尋問に十分活用できものである。」モーガンが作成した寺崎の陳述には具体的な内容があり、陸海軍、実業界、外務省、新官僚の人名が列挙されている。兄の寺崎太郎(46年5月に外務次官に就任していることに注意)も「極秘の情報提供者」とされており、この兄弟は口をそろえて外務省の松岡洋右と枢軸派を激しく非難している。(既述のように、寺崎英成は井口武夫の『開戦神話』でもスパイと断定されていた。)

あまり知られていないが松平康昌の働きはむしろ寺崎の上を行っていた。ウイキペディアには「昭和天皇の側近・宮中グループの中心人物の1人であり、終戦直後から連合国最高司令官総司令部(GHQ)と接触をはかって東京裁判の対策にあたった」とされている。英仏に留学の経験があり、この時期にはGHQや東京裁判関係者の接待に励みながら情報の収集に努めた。ニューズウイークの日本特派員であったコンプトン・パケナムと隠密裏に接触を続けたことも明るみに出ている。また獄中の木戸幸一と頻繁に接触する一方で、陸軍の内部告発者として旋風を巻き起こした田中隆吉とも密接に連絡を取り合っていた。田中は「かくて天皇は無罪になった」と題する手記(「文芸春秋」65年8月号)で松平を「私と共に、天皇の無罪に努力してきた人」としている。

「独白録」の中で天皇が進んで触れた論点は確かに多岐にわたっているが、『徹底検証《昭和天皇独白録》』はそれを、自らの責任には一言も触れず、民の苦しみを無視した弁明に終始しているとし、逆に、語られぬこと、空白の多いことに注目している。東京裁判の舞台裏では、天皇の免責がアメリカ政府の既定の方針となった後も緊迫した事態に事欠かなかった。その最たるものは「天皇の意思に反した行動を木戸幸一内大臣がとったことがあるのか」というローガン弁護人の質問に対し東條被告が「日本国民が天皇の意思に反した行動をすることはない。いわんや日本の高官においてをや」と返答したことである。

この1947年の大晦日の東条英機証言の重要性をウェッブ(Sidney Flood Webb)裁判長が指摘したため、天皇免責を前提とする裁判の立場からは東條にその発言を撤回させる必要があった。その役割をキーナンに依頼された田中は苦心の末、松平と協力して東條に「天皇は東條の進言で開戦にしぶしぶ御同意になった」と再証言させた。田中隆吉の『敗因を衝く』文庫版の末尾に掲載された田中稔の「東京裁判と父田中隆吉」と題する一文には、1947年1月15日夜、宮内庁の田島侍従長と松平(康昌)長官の2人が東京裁判における天皇工作に対する謝礼に父隆吉のために一席を設けたと書いてある。その席で、非公式にではあるが、陛下が「今回のことは結構であった」と仰せられたと聞かされ、宮中からのご下賜品としてジョニーウォーカー、レッドラベルのウイスキー1本が田島侍従長から手渡された。

ウェッブ裁判長は裁判の結審後23年を経てバーガミーニの大著の草稿を読み、その冒頭に一文を寄せている。彼は木戸日記の記述から、天皇が開戦にためらいを持ったことは明らかだが、そのためらいは平和への献身のためではなく、敗北した場合への恐れから来たものであるとする。その恐れは海軍大臣および、軍令部総長の「十分に満足すべき確約」(”altogether satisfactory assurances)によって解消したのである。当該の木戸日記(41年11月30日)には「6時35分、御召しにより拝謁、海軍大臣、総長に先ほどの件を尋ねたるに、何れも相当の確信を以て奉答せる故、予定の通り進むる様首相に伝へよとの御下命あり。直ちに右の趣を首相に電話を以て伝達す」とある。ウェッブはまた東條の2度の証言にも触れ、それらは木戸侯爵の日記の記述に影響するものではないとしている。田中隆吉が松平康昌と苦心して編み出したという「しぶしぶ御同意」なる表現も役に立つことはなかった。

いずれにせよ、裁判上は天皇の罪科は対象外であったからこれらの証拠は副次的な性格のものに過ぎない。しかしながら裁判全般にとっては、被告たちを犯罪行為に駆り立てた権限について大きな疑念を残すことになり情状酌量の余地を大きくした。「不公正な裁判の可能性を排除するために、私は誰一人にも死刑を科さないこと、代わりに犯罪人は日本国外で厳しい条件下での禁固刑に処すべきことを提案した。」しかし、その意見は採用されることなく、被告人中の7人は絞首刑に処された。

裁判と被告人の印象については次のようなことも述べている。「東京で裁判長として過ごした30か月を通じて、私は天皇に対する証言者たちの気遣いと尊崇の念にしばしば心を打たれた。またそれぞれの陳述にあたっての誠実さと公正な態度(earnestness and sense of rectitude)についても同様であった。私はわれわれに、1941年に日本が戦闘行為に及んだことを断罪するどんな権利があるのかとしばしば自問したのであった。(このバーガミーニの著書の序文は邦訳では削除されているので、このウェッブ裁判長の貴重な見解は邦訳では読むことができない。)

昭和天皇が平和、不戦を望まれたことは多くの人の説く通りであろう。しかしその意図を貫徹できなかったこともまた事実として認めなければならない。1941年9月6日の御前会議の席上で天皇は明治天皇の御製を読み上げた。

「四方の海みな同胞(はらから)と思ふ世になどあだ波の立さわぐらむ」

近衛手記によれば、天皇は続けて「余は常にこの御製を拝誦して、故大帝の平和愛好の御精神を紹述せむと務めて居るものである」と仰せられた。満座粛然。暫くは一言も発するものなし。」天皇から説明を受けた木戸も日記に明治天皇の御歌を引用の後「外交工作に全幅の協力をなすべき旨」を仰せられたと記している。

この明治天皇の御製は詠嘆調のもので、はっきりと意志を伝えるものではないが、その後にくる天皇の言葉によって避戦に傾いていた。「陸軍は強い衝撃をうけた。佐藤賢了大佐は、御前会議から退出してきた東條陸相の最初の一言『聖慮は平和にあらせられるぞっ』がひどく印象的だったと言っている。武藤軍務局長は『おいっ、戦争なんぞは駄目だぞっ』と叫んだ。(…)『聖慮』の威力が感じられる。しかし、『聖慮』にしたがって御前会議決定(帝国国策遂行要領)の原案が修正されたわけではなかった。」(升味準之輔、p151)帝国国策遂行要領は原案通りに決定され、その内容は対米交渉には期限が付され、「10月上旬にいたるもなおわが要求を貫徹しうる目途なき場合においては対米(英蘭)開戦を決意す」というものであった。

その後曲折はあったが、この御前会議が戦争への道をひらいた。日米交渉は進展のないままに10月上旬を迎え、10月16日近衛内閣は総辞職、御前会議決定を盾に取って近衛を追い落とした東條にも収拾策はなく、東久邇宮皇族内閣で全面的な再検討を行うことを提案したが容れられなかった。最後に木戸は重臣会議の同意を取り付け、東條を首班に奏請した。10月20日の木戸日記には次のような記事がある。「今回の更迭は真に一歩を誤れば不用意に戦争に突入する虞れあり、熟慮の結果、之が唯一の打開策と信じたるが故に奏請したる旨を詳細に言上す。極めて宜しく御了解あり、所謂虎穴に入らずんば虎児を得ずといふことだねと仰せあり、感激す。」虎穴と虎児の例えは木戸が天皇に向かって説いた言葉かもしれない。ここにも以心伝心、バーガミーニの言う”belly talk”が現れている。虎穴と虎児はそれぞれ何を指していたのだろうか。いずれにしてもその発言のギャンブル性は山本五十六の上を行っている。

また序文になるが、『情報天皇に達せず』には『細川日記』には収録されていない志賀直哉の「序」が載っていてそこにはこう書いてある。「…著者の会う人の殆ど総てが戦争反対で、早くから日本の敗戦を知ってゐる。それで、どうしてもっと早く戦争を止めさせる事が出来なかったらう。…当時は酷しい憲兵政治で、却々さういふ(注:戦争を止めさせる)組織を持つ事ができなかったに違ひないが、それにしても、誰かゞそれを仕ようとしてもよかった。(…)此間、著者に会ったとき、それを云ふと、矢張り勇気がないからですと云っていたが、一ト口に云へば、それはさうだろう。然しあの当時、一方では前途のある若い人々が蚊か蠅のやうに惜しげもなく殺されていく時、既に此世である程度仕事をして了った老人達が自分の命を惜んで、それを仕なかったとも思はれない。…」

これは老いの繰り言のようだが、若者が戦地に追い立てられて蚊か蠅のように殺されるという事態にはこれまで為政者は誰も言及していなかった。憲兵政治についても触れなければならない。われわれが現時点で知り得ることのほとんどすべてが世の中には伝えられていなかった。ゾルゲ事件で刑場の露と消えた尾崎秀実(ほつみ)は近衛のブレーンの一人であった。升味準之輔は尾崎が満鉄の部内誌に書いた論説(41年8月29日)から以下の引用をしている(p.152)。

「日本国内の庶民的意向は支配層の[戦争回避の]苦悩とはほとんど無関係に反英米的」である。これは「事実満州事変以来十年、この方向のみ歩むことを指導者階級に依て教えられ続けてきたのであって、何等不思議とするに足らない」。「かくて客観的に冷静に観察する時は、現に上層部に依て試みられつつある外交転換[対米交渉]は殆ど実現の可能性なきものと断ぜざるを得ない。屈服は敗戦の後に初めて可能である。例え支配層が経済的窮地の内にいち早く屈服の合理性を見出したとするも、大衆にとっては未だ思もよらざる事である。」安易な神頼みではなく徹底したリアリズムによればこその判断である。

ロベール・ギランはこう書いていた。「戦争は、政府と世論をふくめて、日本が長期にわたって武力行使に向かう波に押し流されてきた帰結だった。(…)日本の指導者たちは、外の世界を知らなかったのだ。次いで経済状況がある。彼らは帝国の制覇によって、日本列島の貧しさと人口過剰を救済できると考えていた。さらに西洋の植民地主義に、そして最終段階ではドイツの軍国主義とヒットラーにあやかりたいという思いがあった。」

今年は第一次世界大戦の終結後100年に当る。死者800万人以上、負傷者2,100万人以上を数え「すべての戦争の終りを告げる戦争」と言われた惨禍の後にまだ第二次世界大戦があり、その後さらに70余年を経た今もなお世界には戦乱の種が尽きない。この間に冷戦の終結を見て説かれた『歴史の終り』の幻もその著者自身によって取り消され、世界史、とりわけ近現代の歴史の骨格には大幅な改変の波が押し寄せつつある。その改変の旗手の1人、パンカジ・ミシュラ(Pankaj Mishra)氏は第一次大戦以前のヨーロッパ100年の平和はアジア、アフリカ、両アメリカ大陸の人種差別、植民地主義、帝国主義によって保たれたことを説いている(The colonial violence came home: The ugly truth of the first world war, The Guardian 10 Nov.2017)(注2)。第一次世界大戦はサラエヴォの一発の銃声によって起こされた民主主義と専制政治の戦いとして割り切れるものではなかった。

これで思い起こされるのは上原専禄教授の次のような言葉である。

「アジア・アフリカを支配することによってヨーロッパの文化はひらけてきたといえる。その支配の事実をぬきにして、ヨーロッパ社会とは何か、文化とは何かといっても抽象的、観念的にしかつかんでいなかったということになる。アジア・アフリカの問題を研究し、それを手がかりにして、もう一度自分の専門として勉強してきたヨーロッパの歴史にもどってゆきたい。」(注3)

ロベール・ギランにせよ、パンカジ・ミシュラにせよ、そして思い起こせばウェッブ裁判長にせよ、言外に述べていることは、日本は盲目的に、見えざる欧米の轍を踏むことによって、国内に累積する貧困と人口過剰、そこに生じる階級の対立、を帝国の制覇によって解消できると考えたのである。

木下道雄『側近日誌』1945年12月15日には「御製を宣伝的にならぬ方法にて世上にもらすこと、お許しを得たり。」として「終戦時の感想」と題する短歌4首が記載されている。このうち2首がよく知られている。

爆撃に倒れゆく民の上をおもひいくさとめけり身はいかならむとも

身はいかになるともいくさとどめけりただたふれゆく民をおもひて

天皇の御用掛として御製の相談役であった歌人岡野弘彦は東京新聞(17年2月8日)に徳川義寛侍従長が勤務先である国学院)大学へ来られて、「お上がこの歌の形をきっちり決めておきたいとおっしゃるのです」と言って、終戦直後に詠まれた一首を、自筆で幾通りにも推敲なさった原稿を示された。それはこのうちの後者「身はいかに…」であった。岡野はその後に「それからわずか三月足らずして、崩御のことが世に伝わった。」と結んでいる。「斎藤茂吉が晩年の頃、昭和天皇の御製をあらかじめ拝見していたことがあった」とも書いてある。これで天皇がこの歌が世に知られることを望んでいたことが明らかである。東京新聞はこの記事に「終戦時の覚悟 最後まで」という見出しを付けている。それは天皇が小林忍侍従に直接語った心境が嘘でなかったことを示している。そしてまた、天皇は、わが身を犠牲にして戦をとどめたことを国民の記憶に残したいと望んだのである。

(注1)開戦時の近衛文麿の無念の表情を当時大学生であった近藤道生(博報堂最高顧問)が伝えている。近衛の呼びかけで作家の山本有三、元内務大臣安井英二と僅か3人だけが呼ばれた席でのことである。宿の浴衣を着た近衛公は言った。「ハワイで軍艦を10隻や20隻沈めたといって国民は舞い上がっているけれど、アメリカと戦いを始めたのはいかにもまずい。陸軍は私に対米交渉をやらせまいとするし、アメリカは最後になって、中国大陸から一兵残らず撤兵しろとプリンシプルにこだわり、きわめて挑発的だった。」近藤氏はまた同じ文章の中で山本五十六にも触れている。「開戦の月の初め、連合艦隊の山本五十六司令長官は真珠湾に迫る我が航空艦隊を引き返させるための御聖断を得ようと、最後の最後までひそかに動いていたことを示唆する記事を最近になって読んだ。しかし(…)長官の思いは昭和天皇の御耳に届く直前に軍令部と側近に握りつぶされてしまったようだ。」(日経新聞「私の履歴書」09年4月2日)

(注2)パンカジ・ミシュラの文章から、欧米の帝国主義に関するハナ・アレントとセシル・ローズ2人のコメントを下記に引用します。

a) (Hannah) Arendt observes that it was Europeans who initially reordered “humanity into master and slave races” during their conquest and exploitation of much of Asia, Africa and America. This debasing hierarchy of races was established because the promise of equality and liberty at home required imperial expansion abroad in order to be even partially fulfilled. We tend to forget that imperialism, with its promise of land, food and raw materials, was widely seen in the late 19th century as crucial to national progress and prosperity.

b)Cecil Rhodes put the case for them with exemplary clarity in 1895 after an encounter with angry unemployed men in London’s East End. Imperialism, he declared, was a “solution for the social problem, ie in order to save the 40 million inhabitants of the United Kingdom from a bloody civil war, we colonial statesmen must acquire new lands to settle the surplus population, to provide new markets for the goods produced in the factories and mines”. In Rhodes’ view, “if you want to avoid civil war, you must become imperialists”.

(注3)「図書」1961年7月号に掲載された「書斎・研究室」と題された上原教授のインタビュー記事。記者はただ(A)とだけ署名している。私は1962年頃、多くのことを教えてもらったある英国人に、上原先生の受け売りで、このような考えを述べたことがあった。彼は明らかにショックを受けた様子で「お前は本当にそう思うのか」と言って悲しそうな表情で私を見たのでした。当時、英国から旧植民地が次々と独立していく機運にあり、英国の知識人は人種差別にもとづいた過去の誤った統治を自覚する一方では彼らがもたらした文明の光にもこだわっていた。今から見れば植民地支配が実際にどのようなものであったかの知識も乏しく偏ったものであった。BBCテレビで英人記者がマウマウ団の蛮行を舌鋒鋭くケニヤの独立運動の指導者ケニヤッタを追い詰める場面が記憶にある。遅々としてはいても情報開示が進みつつある現在では、英国官憲の仕打ちがその残虐さにおいてマウマウ団の上を行くものであったことが明らかにされています。

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