P大島昌二「立山黒部レポート」2018.5.24

P大島昌二2018.5.24

ここに至るまで

阿部謹也学長は新入生歓迎の式辞で「大学の四年間で、これまでとは違った人に

なって卒業して下さい」と述べることを常とした。私は卒業して何十年もたっていたが如

水会々報でこの記事を読んで胸を打たれた。

もしも私が入学式でこのような訓示を聞いていたら…。若気の至り、あるいは反発し

ていたかもしれない。しかしこの言葉は常に私の心の隅に残っただろうと思う。槍一筋

が私の信念だった。変身などとはとんでもない。しかし、結局は変化を避けて通ることは

できなかった。卒業してから一度、退職して自由を得てからもう一度変化が訪れた。

大げさな言い方をしてしまったが、まず職業。それは選んだというよりは偶発的に決

めたようなもので、銀行と証券会社の区別もつかないままで証券会社に入った。寮の先

輩には意外に見えたらしかったが「調査部にでも行ったらいいだろう」と言ってくれた。

寮の小使いさんには「あそこは使い奴(やっこ)だと言うじゃないか」と言われた。どうも

幸先はよろしくない。

希望した調査部には入れなかったが、どうやら使い奴にはなれた。公社債部に配属

され、割引債の発券銀行五行に毎月末、大風呂敷を持参して割引債券を受け取って

来る仕事があった。これは自ら変わろうと思ったわけではなく他律的な変化だから褒め

た話ではない。これを阿部流の変化とは言えないかもしれないがまるで予想もしなかっ

た世界に飛び込んだことにはなる。

さて次に退職してからの変化。これが本題に近いのだが、真似事ながら付かず離れ

ずの山歩きを始めた。そもそも散歩などというものに縁のない生活を送ってきたから、

一橋寮に入って散歩に誘われた時には不思議に思ったほどだった。それまでは歩くの

は必要に応じてのことだったし駅も学校も遠かった。小さいながら一山越えなければ町

に出られない所に住んでいた時期もあった。

無職になって間もなく同じP組の丸山則二君から山へ誘われた。早々と退職して暇

だろうと目星をつけられたに違いなかった。筆下ろし(でいいのかな)は奥多摩の鷹ノ巣

山(1737m)だった。始めはすいすいと歩いていたが途中で休憩した後で心臓が締め

付けられるような気分になってしばらく立ち上がれなかった。(この痛みはその後経験し

たことがない。)丸山君が私にはペースが速すぎたことに気が付いてくれてその後は速

度を落として後から来る人にどんどん追い抜かれるような状態で山頂に達した。山を歩

くと汗が流れ出るがあの時ほど汗をかいたことはなかった。彼の説では汗と一緒に体

中の毒素がすべて排出されるのだという。それまでの人生、毒素と見るべきものの蓄積

は多いに違いなかった。

それからしばらくして同期生の「ミミ歩会」が組織され定期的な山行が始まった。私の

所属する如水会の国立国分寺支部でもほぼ同じ頃「山歩きの会」が出来たので私は

二つの山行会に所属して、高低を別にして相当数の山を歩く結果になった。昭文社の

山岳地図もかなりため込んだ。山歩きの会はだんだん里に下りてきて今では実質的に

「里歩きの会」になったが近隣の支部からの参加者も出てきて益々盛んになっている。

小心者にとっては遅ればせながらこんなところが人生の変化と言える。

山、とりわけ雪に輝く山の頂を見ることは元々好きだったからこれも確実に意図した

変身と言うことは出来ない。スイスのインターラーケンからユンクフラウを見上げた時、

今見えたと思った雪の山頂があっという間に薄い雲に覆われるさまはまさに秋櫻子の

「夕陽さす雪渓と見れば霧かかる」そのもので詩の真実に心を動かされた。スイスなど

の山地のトレッキング・ルートはついでの折に、容易なことを確かめた上で何度か歩い

た。時に行き交うスイスのハイカーたちは「グリュース」と声を交わし合う。ダボスでは山

道で威厳に満ちた大鹿と行き合った。道を遮るその「森の王者」の美しい瞳は今も眼前

に浮かぶ。家族を連れていて見知らぬ旅人を警戒したものらしかった。

立山黒部アルペンルート

登れないまでも近くまで行ってみたいと思う山がある。日本の立山連峰がその一つ

であった。ところが遠くもあり、地理不案内も加わって行動を起せないでいたが北陸新

幹線が開通したことを機として、JRのグループ旅行に参加することにした。添乗員付き

で一行は20人である。 この5月16日の初日は東京駅8時44分発の新幹線はくたか

号で黒部宇奈月温泉駅まで2時間半。 次いで黒部渓谷トロッコ電車で鐘釣駅まで

往復の渓谷探勝をして宇奈月国際ホテル泊。2日目の午前はいずれも立山観光ゆか

りの大岩山日石寺と立山博物館の見学。博物館では山岳信仰の聖地立山の開山縁

起「立山曼荼羅」の絵解きを拝聴した。曼荼羅は立山の神を祀る雄山などの山岳はも

ちろん、玉殿岩屋、地獄谷、布橋、美女杉などの観光スポットとマッチしており、現代風

に言えば山岳信仰を背景とした観光案内図にも見える。弥陀ヶ原に点在する不毛の池

塘は、ギリシャ神話のシジフォスさながら、餓鬼道に落ちた餓鬼が秋になっても実ること

のない稲を植えて苦しみ続けるという。最左端に描かれた剣岳は地獄の針の山である。

旅行、とりわけ山岳地への旅行は天候の良し悪しに成否が左右される。今回は、初

日は晴れて紫外線も強く、深い渓谷の左右の森林は圧倒するような緑に溢れていた

が、2日目は雨になった。昼食後の立山駅からのケーブルカーで「立山黒部アルペン

ルート」が始まる。窓外は深い霧、美女平でバスに乗りつぐがそこからのバスで窓外を

覗いても高原であることが分かる程度。道端に出てきた猿が気を紛らわせてくれる。一

貫して残雪の多いことは驚く程であった。落差350米という称名滝は完全に霧の中、

立山観光のハイライト「雪の大谷」も窓近くの雪の壁を見るだけだった。

ホテル立山はバスターミナル、レストラン、土産物店、郵便局、観光案内所、博物館な

どの施設が同居する一大コンプレックスの中にあり混乱が予想されたが、ホテルは思

いのほか静かでサービスも悪くなかった。問題は明日の天候である。予報は圧倒的に

悪い。僅かにレセプションにある小さな電光表示が午前中の晴れを表示している。「あ

れっ」という声か表情を見たレセプショニストが「ほかにもいろいろな予報がありますか

ら」と言って信用していない。

ところが翌朝、近来早起きになった私が清少納言のようにカーテンの裾を上げて見る

と、“Lo and behold!”、昨夜は霧に閉ざされていた窓外に山が見える。いずれ名のあ

る山に違いない。(実はこれこそが最高峰の大汝山3015mであった。)山の天気は変

わりやすい。もう一度天気が変わる前にと思って寒さの身支度をして外に出た。5時を

回ったばかりで広い雪原に出ている人は少ない。寒くはないし、風は微風。やがて白雲

の散在する青空が見える。雪上の踏み跡を滑らないようにしてたどって「みくりが池」に

向って歩いた。身体を回らせば山々は雪原の間から離れ離れに盛り上がっている。室

堂の標高は2,450mというから標高差は500mほどであろう。山名は右から雄山、大

汝山、富士の折立、真砂岳、別山、剣御前と続く。その彼方、北方の白い山塊は剣岳だ

ろう。

先へ進んで地獄谷の蒸気を見下ろしてみくりが池の正面にあるベンチへ戻ると雄の

ライチョウが歩いてきた。「グアッ、グアッ」と声を立てて逃げる気配はない。やがてつがい

の雌もやってきた。近くにあるハイマツが彼らの住処らしい。

まだ朝飯前である。 7時過ぎには朝食、10時のチェックアウト、11時にトロリーバス

で出発するまでまだ時間はたっぷりある。昨夜見られなかった「雪の大谷」の人群れに

加わり、立山自然保護センターも見学した。まだ大観峰、黒部平からの展望、黒部ダム

(黒四)などが残っているがすでに今日なすべきことはすべて終えたような満足感があ

る。黒部ダムからは大町街道の始発点の扇沢駅に出て長野駅に向う。

最後まで室堂から長野駅までの道筋がよく分からなかった。鍵は山腹を貫く専用トン

ネルだった。室堂・大観峰間は立山(雄山、大汝山)、黒部ダム・扇沢間は赤沢岳(後立

山連峰)のそれぞれ山腹をトロリーバス(無軌道電車という名称もある)で走り抜ける。

このほかにも大観峰→黒部平→黒部湖はロープウエイ、ケーブルカーを乗り継ぎ、その

後黒部ダムへは徒歩で0.8キロの橋を渡って到達する。これらに一昨日の黒部渓谷の

トロッコ電車とバスを加えれば乗り物の種類は5種類に及ぶ。

立山は神仏習合の信仰の山であり、登山のルートはこれに次いだ。そして最後に、多

大な犠牲の上にマクロエンジニアリングの粋とされるダム建設が続いた。 われわれ観

光の徒はその歴代の恩恵に浴している。

乗り物を乗り継ぐ都度、大勢の人波に遭遇する。 日本人ばかりでなく中国人のグ

ループが際立っている。 雪の大谷の壁に名前を書いて記念写真を撮っている。この

アイデアはパンフレットに書いてある。われわれも中国では楽しませてもらっているのだか

ら少しでもお返しになるのならばと思う。

写真説明

9032 50点あるという立山曼荼羅の一つ。立山博物館で。

8921 トロッコ電車の走る新山彦橋と濃い緑。宇奈月駅付近。

8964 終点、欅平の一つ手前の鐘釣で下車。黒部川の中にダムよりも古くからある

河原湯温泉がある。

9040 前夜ガスで何も見えなかった窓外はご覧の通り。正面は大汝山。ホテル立山

3階316号室から。

9050 一歩外へ出ると眼前に雄山(右3003m), と最高峰の大汝山(3015m)。室堂平

は2450m。大汝山は大已貴命(おおなむちの神、大国主命)から来ている。

9

9044 ハイマツの彼方、北方に針の山に擬せられた剣岳の雄姿。

0820 大汝山の倒影を写すみくりや池は氷に閉ざされていた。

9068 ライチョウ(雄)。みくりや池の此岸。

9073 暫くして雌のライチョウも姿をみせた。

9108 本来の「雪の大谷」は悪天候でパス。これはバス道路を離れたミニ版。20mと

いう高さはここから想像することができる。

9126 後立山連峰。右から針の木岳、スバリ岳、赤沢岳、鳴沢岳。黒部平へ下るロープ

ウエイと黒部湖が見える。

9142 黒部湖と黒部ダム。

9146 黒部ダムの橋上から黒部渓谷を見はるかす。彼方の山塊の名は不詳。

9149 篠原三代平教授から頂戴した立山連峰の全景。先生の画を学生が絵葉書に

してくれたとのこと。右下に「MIYOHEI 2008」の署名が見える。気になっていた手前

の小島の名は雌島だとバスガイドに教えてもらった。

海の彼方でも此方でも暗雲が深く垂れこめている折から、笈を負い、杖を突いてどうなる

ものか。忸怩たるものがある。

しかしこれも人生。病と格闘する前にしておきたいことが幾つもある。そして忘れぬうちに。

後姿のしぐれて行くか 山頭火

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2018 立山黒部アルペンルート開通情報

(立山ホテルのサイトより転載させて頂きました・・・管理人2018.8.24)

管理人は、1966年前後の8月下旬に立山剣を経験しました。室堂から立山を経て剣山荘に宿泊し、翌日剣岳に登攀しました。帰路蟹の横這いを過ぎたあたりから猛烈な夕立に遭い、漸く剣山荘に戻りました。勤務先の同じ職場の登山グループ一行です。