Q坂本幸雄美しい日本の言葉(倉島長正著)抜粋とP戸松孝夫感想

【Q坂本原題】

「日本人が忘れてはいけない美しい日本の言葉」(倉島長正著)からの心に響く言葉の抜粋(初版2005年の本)

Q坂本幸雄 2018.7.21

<はじめに>

・近くの古本屋で標記の本を見つけて読んでみた(たった108円の投資)。読んでみて、われわれ日本人がよく聞いたり、使ったりする慣用句について、今までさほど注意せずにいたそれら慣用句の語源やその誕生の背景などを知って大いに興味を覚えた。この本に取り上げられているそれら慣用句は全体で300項目ぐらいはあろうが、その中で特に印象に残った32項目を心に刻むべく以下ランダムに書き留めた。

1.「ちちんぷいぷい」:「ちちんぷいぷい御世の御宝」と続く。体を何かにぶっつけたり、怪我をした子供に対して痛むとこをさすりながら周りの大人がなだめる時に使う。今日では「ちちんぷいぷい、痛いの、痛いの飛んでいけ」と呪文のように使う。

2.「指切りげんまん、嘘ついたら針千本のーます」:「げんまん」は、げんこつ一万回という意味。「嘘ついたら針千本」は、その拳万よりも恐ろしい罰。

3.「知らぬ顔の半兵衞・知りて知らざるは上なり」:「半兵衞を決めこぬ」とか「知らぬ顔半兵衞」などとも使われるが、「しつこく聞かれても知らぬ顔でやり過ごすこと」を言う。戦国時代の武将で知恵者として知られた竹中半兵衞は、敵方の策を察知しながら、それ を知らぬふりして、逆に相手を利用したとされる。「その時、半兵衛、知らぬ顔」などと使われる。老子は、同じことを、「知る者は言わず、言う者は知らず」と言っている。

4.「その手は桑名の焼き蛤・恐れ入谷の鬼子母神」:「食わぬ」を「桑名」にひっかけて、さらにその地の名物「焼き蛤」をも呼び込んだ表現。後半の句も、「恐れ入る」の「入る」に地名の「入谷」をひっかけて、その地の有名な「鬼子母神」を呼び込んだもの。

5.「驚き桃の木山椒の木」:大げさな驚きを表す表現であるが、「驚き」の「き」を受けて「桃の木」と「山椒の木」を呼び込んだ語呂合わせになっている。

6.「犬が西向きゃ尾は東・犬の川端歩き」:前の句は全く当たり前の話である。その犬さんの次ぎの句は、犬が、食べ物などは落ちていないかと川端を歩いてもムダだよと言う意味の句。外出する大人に、一緒に行きたいとせがむ子供に向かって「いいけど、今日は 犬の川端歩きだよ」などと使う。(この場合、子供にこんなシャレが通じるかが問題)

7.「どこの馬 の骨かわからない」・「馬の耳に念仏」:骨となってしまえば人間だって区別はつかないのに、馬には気の毒な話。後半の句も馬にはかわいそうな話であるが、これは中国出自の「馬耳東風」から出ている話。

8.「それにつけても金の欲しさよ」・「根岸の里のわび住まい」:連歌で、前の句につけられる句を「付け句」という。「それにつけても金の欲しさよ」は、下記の事例で分かるように、たいていは前句によく合うというわけである。試してみよう。事例①『鶯や餅に糞する縁の先ー「それにつけても・・・・」』。事例②『市中(いちなか)は物のにほいや夏の月ー「それにつけても・・・・」』。

・さて、本題の「根岸の里のわび住まい」の方は下記の句をつけてみる。『「秋立つやーーー「根岸の・・・」』。『「秋もはやーーー「根岸の・・・」』

9.「感謝感激雨あられ・蟻が十匹猿五匹」:感激の表現に「雨あられ」を添えて、感激の強さを強調した表現であるが、その上に更に「アリが十(とう)、ござる(五匹の猿)」を付け加えた表現。

10.「結構毛だらけ」:物売りの香具師に扮した寅さんの映画によく出てくる「啖呵売(たんかばい)常套句。下記のような長いセリフが続く。「結構毛だらけ猫灰だらけ。見上げたものだよ、屋根屋のフンドシ。見下げ掘らせる井戸屋の後家さん。上がっちゃいけないお米の相場。下がっちゃこわいよ、柳のお化け。馬には乗ってみろ、人には添ってみろってね。物の例えにも言うだろう。物の始まりが一なら国のはじまりは大和の国。泥棒の先祖が石川五右衛門なら人殺しの第一号が熊坂長範。でっかいものの手本が道鏡ならのぞきの元祖は出っ歯で知られた池田の亀さん、出歯亀さん。兎を呼んでも花札にならないが、兄ィさんよってらっしゃぃよ、くに八っぁん、お座敷だよと来りゃァ花街のカブ・・・」(まだ続くが、詳しくは室町京乃介著「香具師口上集」にあるとのこと)

11.「ここで会ったが百年目・百年河清を待つ」:人間百年も生きられない時代であったからこそ、現実味のないことの大げさな表現となる。黄河の水は百年経っても澄むことはないことからの表現であるが、その黄河の水も千年に一度ぐらいが澄むと考えられていたらしい。

12.「お茶の子さいさい」:お茶の子とは、お茶に添えて出す「お茶受けのお菓子」のこと。もともと軽いもので、腹にたまることもないことから「たやすくできる」ことに使われるようになった。

13.「磯の鮑の片思い」:万葉の時代の句が原典であるらしい。「伊勢の海女の 朝菜夕菜に 潜(かづ)くといふ 鮑の貝の片思いにして」(詠み人知らず)。

14.「若い燕」:大正時代の女性運動家 平塚らいちょうには、彼女よりも若い愛人がいた。その男が、らいちょうに宛てた手紙の中で、自分のことを「若い燕」と呼んだ。それが原典であるそうだ。

15「お先棒を担ぐ・先棒を担ぐ」:いずれも「駕籠」や「駕籠かき」からの言葉。人を乗せた駕籠 に前と後ろへ長柄を通して人を運ぶものである。先棒の方が行くべき道を知らせれ、そこを目指して行く。そこから「お先棒を担ぐ」が生まれた。「お」をつけることによって、いかにも軽々しく人のいいなりになるニュアンスが出てくる。「片棒を担ぐ」は、先棒でも後棒でも、とにかくその一方を担ぐことから、事に加わって協力することというニュアンスになる。大抵は、よからぬ事に手を出すことだから、「悪事に加担する」場合などに使う。「お」の有無によるニュアンスの違いに要注意である。

16.「おクラになる」:「あの企画はおクラになった」などと使う。語源の一つはある企画が、蔵の中にしまいこまれてしまったという意味からだと言われている。要するに企画が中止されたことをいう。

17.「つつがなく」:「つつがなし」は漢字で書くと「恙無い」と書く。この「恙」は「ツツガムシ」のことであり、日本はじめ東南アジア諸国に発生するダニ目の虫の こと。日本では、秋田、新潟、山形などの川で見られていた。この虫に刺されると、ツツガムシ病にかかり、頭痛、食欲不振などに陥る。そこから、「何事もなく無事であること」の意味で、手紙の書き出しに「お元気のこと・・・・」などに代えて使われるようになった。「つつがなく」を使うと「奥ゆかしさ」が出るというものだろうか」。

18.「たゆたう」:一昔前、「たゆたう雲」「さざなみにたゆとう小舟」などと使っていた。しかし今は、「ただよう」と置き換わっている。それでも、語感的には「ただよう」よりも「たゆたう」の方が、はかなげに、優しく揺れている雰囲気があって、しっくりくるように思う。

・小生の感想:

・遥か65年前の高校2年生の時に、「たゆとう小舟に」というドイツ民謡の名曲を音楽の時間に練習し、クラスメートで鹿児島市の名苑:「仙巌園」にハイキングに行った折に、その曲を皆んなで合唱したことを思い出した。

・その曲をグーグルでいろいろと検索してようやくその曲の歌詞に出会えた。その歌詞を見ながら、その名曲を歌ってみた。驚く勿れ、一瞬にして18歳の青春にタイムスリップして、あの時の春3月のうららか陽春のもとでの思い出が蘇った。その歌詞一番は下記の通り。

『たゆとう小舟に みちからたよりて

波の上(え)うらうら 入らばや 眠りに

聖恵(みめぐみ) あらまし 護らせたまえな

やすらかに 眠らな たゆとう小舟(おぶね)に

やすらかに 眠なな たゆとう小舟(おぶね)に』

・その検索結果に気を良くして、“u-tube”でもその名曲の検索を試みた。だが、それは徒労に終わった。「わが青春の心に響いた歌」も、はや、人々に歌われるほどの愛唱曲ではなくなったのであろうか。まさに「うたは世につれ、ひとにつれ」か。

19.「ゆめゆめ」:強い否定、禁止の意味方で今でもよく使われているが、古くは肯定の意味にも使われていた。元来は「ゆめ」単独で「ゆめ心せよ」、「ゆめおろそかにすべからず」などと使われていたが、「ゆめゆめおろそかにすべからず」と二つ重ねて使うようになって、否定の協調に使われるようになった。

20.「しょぼくれる」:小雨が少しづつ降り続く様を音に移した擬態語。そういう雨に濡れている様は、いかにも惨めったらしいことから、みすぼらしく覇気のない状況を形容するようになり、それを動詞化したのが「しょぼくれる」である。万葉集の「そぼつ」からの言葉である。

21.「いの一番」:物事の順番は今では「あいうえお」順が多いが、以前は「いろは」順であった。このように慣用が変わっても、「あの一番」という言葉は生まれず、「いの一番」が残ったわけである。明治の初めまで残っていた寺小屋で習う文字列は「いろは」であった名残であろうか、と書かれている。

22.「下駄を預ける」:自分の下駄を下足番など他人に任せてしまうことから比喩的に「下駄を預けた」人の指示通りに動くことに使われるようになった。しかし意味合いとしては、預ける相手が、年配者や上司だからこそ収まりがつくのであって、責任の取れないような下っ端や若造では無責任となる。使う状況が重要。

23.「ちゃんちゃらおかしい・笑止千万」:「ちゃん」とは、いいかげんなこと、でたらめといった意味で、「ちゃら」とは、これまた、いいかげんといった意味。そんな「ちゃら」に「ちゃん」を語呂合わせで重ねた言葉。「ちゃんちゃらおかしくて」に「へそが茶をわかす」と続けることも多く、相手を非難したり、バカにする気分が倍加される。漢字を使えば「笑止千万」となる。ただし、「笑止」には、笑うべきという意味のほかに、恥ずかしい、気の毒、物騒などの意味でも使われてきた。

24.「四苦八苦」:「四苦」も「八苦」いずれも仏教の言葉。「四苦」とは生・老・病・死。「八苦」は、この四苦に次の四苦を加えたもの。①愛別離苦、②怨憎会苦(恨み憎んでいるものに会う苦しみ)。③求不得苦(求めても思うようにならない苦しみ) ④五隠盛苦(心身とそれを取り巻く環境すべてに執着する苦しみ)

25.「オシャカになる」。:語源に諸説あり。①鋳物や溶接の工場で、「火が強かった」を「四月八日(しがつようか)」と聞き替えて、その四月八日はお釈迦様の誕生日だから「オシャカになった」という説。②お地蔵さんを鋳ようとして誤ってお釈迦様を鋳てしまったところから、という説。③死ぬことから転じて物事がダメになることをいう俗語「お陀仏」から転じて「お釈迦」になった説。

26.「まほろば」:個人的にきれいな大和言葉として好きな言葉である。『古事記には、「大和は国のまほろば たたなづく 青垣 山篭れる 大和しうるはし」とある。「まほろば」はすぐれた良い場所、国という意味で「真秀」と書き、高く抜きんじているという意味。

27.「しぐれ(時雨)、五月雨、小ぬか雨、篠突く雨、車軸の雨、遣らずの雨などなど」:日本語には、四季折々の季節の移ろいを表す言葉とともに、折々の雨にもさまざまな表現がある。因みに、和英辞典で「雨」と入力してみたが、出てきた英語は”rain“のみであった。これに対して、 日本には古くから、雨の様子を表すきれいな言葉がいろいろと使われてきた。「小ぬか雨」は、コメを精米するときに出る細かい糠粉のこと。「霧雨」は、細かい雨が霧と見紛うほどに細かく降る様。「篠突く雨」の「篠」は、群がって生える細い竹のことであることから、激しく降る雨の表現となった。更にもっと激しく降る雨は「車軸の雨」となる。「遣らずの雨」には更に深いニュアンスがある。「久しぶりに男が女のもとにやってきた。わずかな時間を惜しむ二人。やがて男が出立せねば、と立ち上がった時に、それに合わせるかのように、激しい雨が降り出した。こんな状況のように、行かせたくない人を急かすかのように降りだす雨が「遣らずの雨」だ。「遣る」とは、人を行かせることだから、行けないようにする雨のこと。なかなか理解するのが難しいニュアンスの言葉ながら、なんとなく情感に富む言葉である。

28.「いみじくも」:「いみじ」とは、良くも悪くも、程度がはなはだしくことを意味している。簡単に言えば、とってもすごい、といったところである。ただし、「いみじくも言ってくれた」のように他人の行動について言うのはいいが、「私がいみじくも言った通り」など自分のことに使うのは適切ではない。

29.「流れに棹さす」:同じような言葉に「水をさす」という言葉があることからか、「流れに棹さす」も「水をさす」につられて、ある動きに反対することの意味に理解している人が多いようであるが、「流れに棹さす」は、逆に、ある動きや流れに手を差し伸べて、加勢する意味である。文化庁のH14年の調査では、「流れに棹さす」の意味を正確に理解している人はわずか12%で、誤解している人が63%とある。漱石の「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される」が有名。

30.「敷居が高い」:「借金があって行きにくい」とか「ご無沙汰して行きにくい」といった場合などに「敷居が高い」を使用する例は正しいが、「あのレストランは高級で、ちょっと敷居が高い」といった使用例は間違っている。

31.「元の木阿弥」:「そんなことしちゃ、元の木阿弥」などと使うが、なぜそう表現が生まれたかについては、些か長い次のような話がある。大和郡山の城主、筒井順昭は、自分の遺言で、自分が死んでも、一歳のわが息子順慶が成長するまでは、自分の死を伏せておくようにと書いた。そして、順慶が成長するや順昭の死が公表されたのである。そこで呼び出されたのが木阿弥という僧侶。この僧はたまたま順昭と声が似ていたために、順昭の代わりに寝たまま声だけで、順昭が生きているかのように演じた。そして、順慶が成長するや順昭の死が公表され、その結果、元の木阿弥に戻った、というわけである。

32.「こけんにかかわる」:「こけん」は漢字では「沽券」と書き、品位、品格を意味するが、もともとは、財産や土地などの売買契約書のことである。「沽」の 字には、売る、という意味があるので、いわば「売り件」で、転じて「売値」のことをも意味するようになった。それが、なんと人間にも転用されて人の価値をも意味するようになった。単なるプライドではなく、「メンツ」に近いかもしれない。しかし、「メンツ」は立てたり、失ったっりするが、「沽券」の方は立てることも失うこともない。

・以上この本に収録されている300項目程度のごく一部の引用である。

<おわりに>

・斎藤孝の「語彙力こそが教養である」には次のようの記述がある。「言葉は身の文(あや)」ということわざがある。話す言葉はその人の人格や品位までも表す、という意味である。われわれは、人の話を聞いて、いろいろな印象を受けるものである。論理的な話ぶり?、身振り手振りの使い方?、話すスピード?などさまざま。だが、私が一番肝心な要素と思うのは、その人が使う「語彙」である。使う言葉のレパートリーが少ない人には、なんとなく「ものたりなさ」を感じるし、逆に使う言葉の「語彙」が豊かな人には、なんとなく「一目置く」気持ちにもなるものであります。

・それではどうしたらよいか。それはさまざまな機会を使って「より多くの語彙を学ぶ習慣を身につけてことであります。「すごい」「やばい」「なるほど」「たしかに」ばかりの人と、その状況にマッチした適時・適切な言葉を使いこなす人とでは、相手に対して格段の印象の差が生じるものであります。

・「語彙が豊かになれば、見える世界も変わってくる」ようです。さあ、あらゆる機会に「語彙」を高める努力を行ないましょう。

P戸松孝夫 2018.7.23

「日本人が忘れてはいけない美しい日本の言葉」が300項目も載っている本を108円で買って勉強したとは、相変わらずの旺盛な好奇心と研究熱心さに感心しました。この中から32の心に響く言葉を抜粋して、詳しい解説付きで我々に報告してくれたことに感謝し、これを利用して自分の国語力のテストをしてみた。以下各項目毎に自分の教養の程度を披露させてもらう。

1.「ちちんぷいぷい」:これは僕も自分自身が小さい頃に親から教わっていた判り易い言葉である。また自分の子育て時期にも使用したが、その後30-40年孫と一緒に生活していないから、未だ生きている言葉かどうかは判らない。

2.「指切りげんまん、嘘ついたら針千本のーます」:僕が小さい頃、友達と遊ぶ時によく使ったが、「げんまん」はげんこつ一万回という意味だとは知らなかった。

3.「知らぬ顔の半兵衞・知りて知らざるは上なり」:聞いたことはあるような気がするが、意味を真剣に考えたことがなく、今回初めてこの語の起源と意味を知ったとは恥ずかしい。

4.「その手は桑名の焼き蛤・恐れ入谷の鬼子母神」:「桑名の焼き蛤」は何度か聞いたことがあったが、「鬼子母神」は初耳。

5.「驚き桃の木山椒の木」:日常会話でも出てくるので、語彙は知っていたが、「驚き」の「き」を受けて「桃の木」と「山椒の木」を呼び込んだ語呂合わせとは気が付かなかった。

6.「犬が西向きゃ尾は東・犬の川端歩き」:長年犬を飼っており、川端の散歩は今でも常時しているが、後半の句は全然知らなかった。従って犬に対してのみならず、子供にも使ったことはない。

7.「どこの馬 の骨かわからない」・「馬の耳に念仏」:何れも人間様の日常会話によく出てくるが、確かに馬にはお気の毒、かわいそうな話である

8.「それにつけても金の欲しさよ」・「根岸の里のわび住まい」:僕は歌を詠む高尚な趣味はないので試みたことはないが「それにつけても金の欲しさよ」

はいろんな場面で付けられそうな便利な句である。しかし「根岸の里のわび住まい」を使うのは歌心がない輩には無理である。

9.「感謝感激雨あられ・蟻が十匹猿五匹」:前半の句は日常会話でよく使われるが、後半の句を僕はこれまで知らなかった。

10.「結構毛だらけ」:始めの部分は寅さん映画によく出てくるが、長い後半部分は知らなかった。判り易く面白い口上なので続きを読んでみたくなり、「香具師口上集」をググってみたが、膨大な本の広告だけで、中身は読めず残念

11.「ここで会ったが百年目・百年河清を待つ」:確かに人間百年も生きられない時代であったから現実味のないことの大げさな表現として理解出来たが、人生百年時代の今やこの句も死語になるだろう。

12.「お茶の子さいさい」:よく使われる言葉だが、語源が「お茶受けのお菓子」のことだとは知らなかった。

13.「磯の鮑の片思い」:意味は理解していたが、万葉時代の歌が原典だったとは知らなかった。

14.「若い燕」:平塚らいちょうの若い愛人が原点だったとは面白い。上手い表現で今でも世間で軽く便利に使われているのでは?

15「お先棒を担ぐ・先棒を担ぐ」: 「お」の有無によるニュアンスの違いは分かったが、我々は「悪事に加担する」場合など「片棒を担ぐ」という言い方をよく使う。

16.「おクラになる」:これは我々が最も馴染みがあるビジネス社会でもよく使う言い方だ。

17.「つつがなく」:音では知っていたが「恙無い」との漢字は知らなかった。当然怖い「ツツガムシ」のことも初耳で、「何事もなく無事であること」の意味を今回初めて知った。

18.「たゆたう」: 65年前に高校生でこの単語を駆使していたとは驚き。僕の記憶辞典の中では、本来の日本語が持つ美しい響きに欠けた「ただよう」との現代語に置き換わっていたようだ。

「わが青春の心に響いた歌」も、はや人々に歌われるほどの愛唱曲ではなくなった、まさに「うたは世につれひとにつれ」か。同感!この気持ちよく判る。

19.「ゆめゆめ」:文語体では「ゆめ」単独で使われているのを読んだことがあるが、口語体が主流の我々の時代には、二つ重ねて否定の強調に使うのが一般的になっていたようだ。

20.「しょぼくれる」:現代の若者も使っているこの擬態語が万葉集の「そぼつ」に起源を持つとは面白い。惨めったらしく、みすぼらしい覇気のない状況を形容する上手い用法だ。

21.「いの一番」:現代の若者は「いろは」を正しく言えないらしい。使うことがないのだから当然かも。でも我々老人には懐かしく国語の大事な基礎だった。

22.「下駄を預ける」:下駄そのものが生活から消えてしまった現代の日本で下駄を見たことがない若者も少なくないのでは?従って比喩的な「下駄を預ける」という語法も消えてゆくのでは。

23.「ちゃんちゃらおかしい・笑止千万」:この用語の使い方の解説は面白い。昔はよく使った言葉だが、最近余り耳にしなくなったのは隠遁生活をしている為だろうか。

24.「四苦八苦」:「八苦」の後半の4苦は、馴染みがない難しい4文字熟語が並んでいるが、判り易い解説がついており、これらは誰にでも付きまとう深刻な「苦」であることに間違いない。誰が作った4文字熟語だろうか?

25.「オシャカになる」。:語源に面白い諸説があるようだが、どれも納得ゆく決め手が見つからない。僕には第3説が判り易い。

26.「まほろば」:先の「たゆたう」と同じく学の無い僕には初めて接する言葉だが、美しい響きのある大和言葉である。この機会に「真秀」との漢字と共に覚えておきたい。

27.「しぐれ(時雨)、五月雨、小ぬか雨、篠突く雨、車軸の雨、遣らずの雨など」:気が付かなかったが、日本には修飾語を付けて雨の様子を現わす様々な表現があるのだ。英国も日本と同様に雨の多い国だが、確かに英語には”rain“しかない。ここが日本人の持つ繊細な感覚なのだろう。「遣らずの雨」の意味を初めて知ったがよく理解出来る微妙なニュアンスが感じとれる。

28.「いみじくも」:文章上は現代でもよく使われる副詞だが、確かに自分のことに使うのは適切ではないし、その用例はあまりみかけない。

29.「流れに棹さす」:僕も多数派の63%に属していたが、これからは12%少数派に移動しなくてはならない。漱石の「情に棹させば流される」が理解できた。

30.「敷居が高い」:従来から僕も正しく使っていたように思う。

31.「元の木阿弥」:この語句の由来は判ったが、これ本当の話?

32.「こけんにかかわる」:「こけん」は漢字では「沽券」と書き、財産や土地などの売買契約書のこととは知らなかった。「沽」の 字には「売る」という意味があり、転じて「売値」になり、それが人間にも転用されて人の価値をも意味するようになったとは面白い。「メンツ」は立てたり失ったりするが、「沽券」の方は立てることも失うこともないとは上手い説明である。

<おわりに>

・斎藤孝の「語彙力こそが教養である」の記述はその通りで、僕は全く異論はない。しかし結論部分の{「語彙が豊かになれば、見える世界も変わってくる」ようです。さあ、あらゆる機会に「語彙」を高める努力を行ないましょう}は現在の僕には適応しない。その理由は①この年齢になって今更見える世界が変わっても何の意味もないし、語彙が豊かになってもそれを使う場がない。

②上記32項目に挙げられていた約40の語彙の中で僕が使い方を知らない語彙が10語もあった。一般的な語彙の4分の1を使えない人間にも経済学の学士号が与えられたし、社会へ出てからも40年間家族が食ってゆけるだけの給料は呉れた。更に引退後も生きてゆくのに必要な生活費は生涯年金として支給されるのだから、呆けた頭脳に鞭打ってまで、「語彙」を高める努力をする必要性はないように思われる。

以上

カウンター