西安から敦煌まで…P 大島昌二 2017.9.20

P 大島昌二 2017.9.20

9月4日から13日まで西安から敦煌への旅をしてきました。この間、大ざっぱに見て1,800キロ。中国ではシルクロード(絲綢之路)の始点は城壁で囲まれた西安市の西の城門がその始発点とされ、ローマを終点とする行程は延々15,000キロになるという。敦煌から先へは北に天山山脈、南に崑崙山脈があり、正面にはタクラマカン砂漠が控えている。その先パミール高原をさらに西へ進むとイラン、南へ下るとガンダーラ(パキスタン)である。(上記地図参照)

今回の旅程は西安からバスで西へ向い、天水、蘭州、張掖、敦煌の各地でそれぞれ名所を観光し、最後に敦煌から東方航空で西安へ戻るというものであった。これは黄河の西方、蘭州から敦煌に至る「河西回廊」に相当するゴビ砂漠(中国では砂漠ではなく「灘=タン」を用いる)のオアシス地帯である(注)。

途中蘭州から張掖までは3時間ほどの快適な高速鉄道であったがその他はバス、2泊した蘭州と敦煌のほかはいずれも一泊で早朝出発という強行軍だった。敦煌の莫高窟と西安の兵馬俑坑には別途あらためて触れるが、宿泊した各都市から見学に出かけた名所旧跡もそれぞれ遠隔の地にある。中国の広大さはここにも表れている。それらの訪問先を列挙すると以下のようになる。現地ガイドの楊さんからは多くのことを教えられ、質問にも答えてもらった。写真もかなりのものを撮ったがそれぞれ1枚程度の紹介にとどめざるを得ない。

訪問先は順に、茂陵(漢の武帝の陵墓)、乾陵(則天武后陵)麦積山石窟、炳霊寺石窟、甘粛省博物館、七彩丹霞、氷溝丹霞、嘉峪関、莫高窟、鳴砂山、月牙山、陽関、兵馬俑坑、陝西歴史博物館である。

これらの名所がそれぞれ興趣に富むものであったことは言うまでもないが、私にとって最大の収穫と言えるのは沿道、沿線に果てしなく丘陵のように続く黄土高原や、河西回廊の水源となる河川を育む海抜4,000m超(平均)、総延長2,000kmに達するという祁連山脈の壮大さを実感できたことである。

毎年春先に日本へも襲来する黄砂の発生源として黄土高原は日本人にも身近なものである。西安からの高速道路は秦嶺山脈に沿って走るが天水のあたりからは右側に黄土高原の丘陵が見え始める。その高原の広さは60万平方キロに及び日本の国土総面積の実に1.5倍に相当する。その現在の荒廃は毛沢東の「人民公社超英超美」のスローガンの下に樹々を伐採して食糧増産に励んだ結果である。砂漠化は1980年代に始まり鄧小平の「退耕還林」によって檜の植林が行われているが目に見えるほどの成果は上がっていない。丘陵には放棄された段々畑が残り、今緑に見えるのは秋には枯れる草だという。

天水から訪れた麦積山石窟は秦嶺山脈の一端にある。職人が移植する竹を運んでいたのはここにはパンダが住んでいるからとのことだった。この山脈は昔ながらの深山の趣があり、パンダのみならずトキ、ユキヒョウ、キンシコウも生息しているという。ウイキペディアによれば、その最高峰である太白山(3,767m)を中心とする地下トンネルには人民解放軍の保有する推定計450発の核弾頭の大部分が保管されているという。

蘭州に入って初めて黄河を見た。蘭州は黄河の町である。市域の海抜は1,600m、黄河の両岸を囲うように20㎞にわたって細長く東西に伸びている。現在は12の橋が南北を結んでいるが、往時は羊皮筏が唯一の渡河手段で、流れに棹さして斜めに、それも風波の状況如何では渡るのに3時間を要したという。そこでこの町で見るべきものとされるのが黄河にかけられた最初の鉄橋、長さ233m、アーチ式の中山橋である。英伊など4人の技師の設計でドイツの鉄鋼を用い、1909年に完成した。現在は徒歩の歩行だけが認められている。

黄河とはいいながらこの辺りの水は黄濁していない。上流のゴビタンには黄土がなく、また雨で黄土が流れ込んでいないからという。蘭州から炳霊寺石窟へ行くのに劉家峡ダム(水力発電所)を遠巻きにしたがこれは100年に一度という大洪水から蘭州を守り、灌漑用水を確保するように設計されているという。中国の北部は慢性的に水不足の状態にあり、このような水利のためもあって今では渤海湾へは一滴の水も流れ出ないという。

この問題に対処するのに「南水北調」という50年来の構想があり、揚子江の水を黄河へ送る事業が進められた。その工事の規模、難度ともに三峡ダムを凌駕するものであった。2002年に始められた事業は2014年に完成したという。

写真レポートにしては地勢的な問題にこだわりすぎたかもしれない。しかし少しでも中国を理解するためには島国的観点を離れた観察が必要であった。西安へは1985年に訪れたことがあった。その意味で「西安から敦煌まで」と題したこのレポートで兵馬俑の驚嘆が後退し、本来の目的地である敦煌莫高窟から最大の満足を得られたのは成功と言ってよいことだった。

日本で初めて敦煌芸術展が開かれたのは1958年である。それからは敦煌に対する関心の高まりもあって何度か敦煌展は開かれているが私が実見したのは1996年11月に上野の都美術館で開かれた「砂漠の美術館―永遠なる敦煌」であった。このほかに私は一橋寮で同室であった経団連勤務の房野夏明先輩から常書鴻(チャン・シュウー・ホン)著『敦煌と私 石窟芸術とともに生きた40年』(1986年刊)を頂戴していた。同書は経団連の招きによって来日した常氏が講演を行った際の記念として発行されたもので、常氏が夫人とともに荒廃した石窟を、あらゆる困難に耐えながら((紅衛兵による身体への危害もあった)、手弁当で守り抜いた記録である。

私は敦煌で褪色した壁画や手足の欠けた仏像を見て失望することを恐れていた。しかしそれが杞憂に終り、古代の多様な人種や文明の交流を目の当たりにする思いをしたのはこのような背景にも助けられてのことであった。まさに「百聞は一見に如かず」である。

大島昌二(20Sept.2017)

写真説明

0503 茂陵は武帝の陵墓であるが目立つのは匈奴討伐の軍功華々しい霍去病の記念碑であった。この日は雨。

0509 乾陵は中国唯一の女帝、則天武后と夫の高宗の合同墓。前方の山が陵墓

0523 麦積山石窟。写真の三尊像へはかなり階段をのぼってから到達する。

0570 炳霊寺石窟へ渡る黄河支流から。炳霊寺は岩山の中にある。

0585 炳霊寺大仏。寺内は落石のため前日まで閉鎖されていた。この日は遠回りして到達。

0618 正面は七彩丹霞の赤壁と呼ばれる。丹は紅、霞は虹色をいう。

7730 七彩丹霞は広東省の丹霞山(丹霞地形と呼ばれる)と同種の地質形成から近年命名された。

7694 祁連山脈。蘭州から張掖西駅への車中から。

7653 黄河と秦嶺山脈。同上車中から。

0580 水上にそそり立つ炳霊寺近傍の岩山を桂林に比する人もいる。

7741 氷溝丹霞は七彩丹霞がの色彩に対して奇岩をもって知られる。写真は「ルーブル博物館」。如何?

0658 嘉峪関の入り口の柳。柳には13種あるという。僅かに残る遺跡はテーマパーク的に構成されている。

0692 莫高窟の遠望、鳴砂山東麓の崖壁にある。眼前は干上がった大泉河の河床。

7773 同上。外壁に僅かに色彩が残る。女性ガイドは8窟ほどを回り優しい発声の日本語で根気よく説明してくれた。

0697 同上。保存に細心の注意を要することは日本でも高松塚で経験した。

7841 鳴砂山では吹き飛ばされた砂が地形の働きでまた元の位置、形に戻るという。このピラミッドはその一部

0704 陽関への入り口。往時の攻城用具が展示されていた。

7855 陽関の狼火台。数年前は一挙にこの麓まで来られたという。

7872 西安の鼓楼夜景。滞在した鐘楼飯店の眼前にあった。

7886 西安市郊外の兵馬俑第一坑。Mind-boggling とは正にこれ。初めて見た1885年には撮影不可だった。

7887 同上。一人ひとり実在の人物をそのまま模したといわれた。今は権威を高めるために実際より大きく作られたとされる。

7532 黄土高原は延々と続いていた。元はといえば蒙古高原から飛来した砂塵。これは休憩所裏手からの一枚。ヒノキの植林が見られる。

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森正之兄

如水会支部山歩会は8月は休会でした。また9月の例会は16日に挙行されましたが私はその直前まで中国の敦煌への旅行に出かけたため参加を見合わせました。そこで今回は通常の報告に代えて「西安から敦煌まで」の写真レポートをお送りしてみます。

今更ながら中国は広く大きく、地形地理の確認をするだけで妥当な文章量を超えてしまい、本当に興味ある話題に触れるまでに至りませんでした。

敦煌はNHKのドキュメンタリー番組などの影響もあって2000年前後は大勢の日本人が押し掛けたとのことですがその後尖閣列島問題など日中関係の悪化もあって日本人観光客は激減し、ここへ来て多少復活の兆しがあるかというところのようです。

偶然のことでしたが、同行のグループ中にQクラスの故畑弘能君の令妹がおられ、畑家に出入りしていたボート部諸兄のこともよく記憶しておられました。

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地図は大きすぎれば左半分を切り取って戴いて結構です。その場合は地図の題名は「河西回廊」が妥当でしょう。

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大島昌二兄

Mind-boggling! 本文を何度か読み返し、驚嘆感動茫然自失しております。60周年サイトを計画中ですが、ぜひ其処に再録させて下さい。

森正之 2017.9.20

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