U市畑 進「Re:沖縄」2018.8.11
33年諸兄姉どの
平和への賛歌、命への賛歌だ。
8月8日(水)、辺野古闘争を続けた沖縄県の翁長雄志知事が死去した。67歳の若さだった。
この機会に旧安保条約旧上の沖縄の扱いがどんなものであったか
「安保条約の成立ー吉田外交と天皇外交ー」(豊下楢彦著 1996.12.20 岩波新書「在庫あり」、ぜひ皆さんお読みください)で読んでみる。
沖縄に関する主要部分は添付1.2である。
米軍による沖縄の軍事占領が「米国の利益になるとともに日本の防衛にも供するであろう」と、沖縄の安全は一言も出ていない(添付1)。
昭和天皇やその側近グループが沖縄は一貫して本土防衛あるいは「国体護持」の為、手段であり、捨石であったとみなされている(添付2)。
60年安保では本土の基地は四分の一になった、しかし沖縄の基地は倍増したのだ。
これが、反米基地闘争の激化を招き、沖縄世論は本土復帰の中にその解決求めたが
結局、解決できなかった。沖縄への「しわ寄せは」続いている。(p229)
現在、日本の国土の1%沖縄に米軍基地の七割が集中している
今上天皇は皇太子時代を含め11回に亙り沖縄に出かけた。
昭和天皇への贖罪の旅だったか?
沖縄米軍基地の撤退なくして戦後は終わらない。
以上
2018.08.11イチハタ
(添付1)
(添付2)
森兄
岩波新書「安保条約の成立」によれば
昭和天皇はマッカーサーに10回(11回という記述(P153)もあるが誤植か?)会っている。
後任のリッジウエー中将に7回会っている。
マッカーサーとの会見は途中、漏洩事件が起きて第5回以降は断片的にしか内容が分からない(P159-161)。
象徴天皇などとはとても云えない。
お送りした添付2の後段:
「もちろん、沖縄に対する天皇個人としての感情はさまざまにあったであろうし、冲縄の支配にかける米軍部やマッカーサーの強硬な方針に抵抗することは困難であったろう。しかし、かりに天皇か50年以上もの米軍占領を認めるようなメッセージではなく、マッカーサー初会見で語ったとされる同じ言葉をもって、「一身はどうなってもよいから」悲惨な地上戦を体験した沖縄については軍事の拠点にすることだけはなんとしても避けてほしい、といっ姿勢を鮮明にうちだしていたならば、国務省内の冲縄返還論とも共鳴”しあって、事態からか変化した可能性も否定できないであろう。」と筆者は述べている。
天皇は天皇家を護るのに必死だったのだろう。
戦後70年、新設の辺野古で30年合計100年、故河野一郎ですら100年はオカシイと云っていた。
イチハタ 2018.8.12
市畑 兄
図書館に「安保条約の成立ー吉田外交と天皇外交」があったので借りてきて読みました。
吉田茂は国連中心主義だが天皇はアメリカ一辺倒、吉田は「臣茂」と称し情念の人、昭和天皇は冷厳なリアリストで平気で吉田の頭越しにダレスと直接交渉しあの安保案を強行した、等々の記述が生々しく語られています。昭和天皇が最初にマッカーサーに言った「一身はどうなってもいいから云々」は最後になぜひっくり返ったかがよくわかります。
図書館の同じ棚に都留重人の「日米安保解消の道」(1996.12.5初版)が並んでいました。
この本には「解消の具体策」が提言されていました。沖縄に国連本部を誘致しマンハッタンの現本部棟はテナントを入れて国連の運営資金源とし、誘致原資は日本が負担する。国連軍が沖縄に来て、アメリカ海兵隊は帰ってもらうという筋書きです。
いま都留重人自伝ーいくつもの岐路を回顧してを読んでいます(Amazonで購入)。森 2018.8.15