“パクス徳川”とも呼ばれる江戸時代とは

Q坂本幸雄2017.9.30

★「“パクス徳川”とも呼ばれる江戸時代とはどんな時代であったのか」

――『明治維新から見た「日本の奇跡、中韓の悲劇」』(加瀬英明氏と石兵氏の対談)を読んで理解したこと

<はじめに>

・今年は明治維新から150年目という節目の年でもあります。その明治維新に先行する「江戸時代とはどんな時代であったのか」という興味から、上記の本など数冊を読み、その感想などを以下に纏めました。小生にとってはかなり大きなこのテーマに挑戦してみて、高齢で錆び付いた脳と心の活性化に少しは役に立ったかなぁ、と思っております。テーマの大きさと纏め方の稚拙さのため、かなりの長文になってしまいました。ご海容のほどを。

・皆さん。今や“ネット”は、社会と、あるいは人と繋がって、楽しい相互交流をも可能にする、かってないほどの異次元の素晴らしい「ココロの“窓口”」でもあります。そのココロが“繋がる”には、交流する両サイドに「ココロを”繋げる“主体的な意思」が必要でありましょう。しかも、その“ネット”をコントロールするOS(オペレイテイング・システムズ)の名称そのものも将に「ウインドウズ」です。

・温故知新。ささやかな今回の拙文が、皆さんの日本歴史への深い造詣に少しでも繋がれば、と願っております。興味あればご一読下さい。

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<日中韓の間の喧しい状況のなか、山折哲雄氏の「ひとりの哲学」の続編>

・日中韓の間で日々政治的な、民族的な様々な感情的もつれやひずみが喧しい今日の状況のなか上記の本を読んだ。日韓二人の識者の対談形式の本である。この本の第一章「国の雛形が違う日本と中国」では、まずは日中両国が万世一系の天皇を仰ぐ日本と易姓革命で天子を交代させて来たその両国の歴史の違いから両国の民族的・伝統的思考の違いなどが論じられている。勿論この点についても、大いに興味をそそられたのではあるが、小生が今回まず関心を抱いたのは、その第二章:「庶民が主役を務めた黄金の徳川時代」であった。それは、今年が明治維新から150年という年でもあり、その維新近代化への先駆けとなった、江戸時代への理解を深めてみたい、と思ったからである。

・小生は、約1年前に、山折哲雄氏の「ひとりの哲学」を読み、日本で初めて武力による政権を樹立した「鎌倉幕府の時代とはどんな時代であったか」について、些かの学習を行った。そして山折哲雄氏の教えるところに従って、親鸞や道元、更には日蓮などの聖聖人たちが生きるに厳しいこの時代の人々に、逞しく生き抜くための「自立自走の」精神を説いてきたその系譜を辿った。今回は、戦国時代から江戸時代へと続く鎌倉時代の次なるステージへの興味でもあった。

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第一部:<まずは、小生の考察の総括的結論としての感想>

・参考文献としては、上記「日本の奇跡、中韓の悲劇(ビジネス社:初版2017年:207p」(以下A 書と記す)と磯田道史氏の「徳川がつくった先進国日本(文春文庫:初版2017年:156p」(以下B書と記す)いう2冊の本をメインに、更に2,3冊の関連本も参考にした。A書は、日本の成功事例を中韓二國との比較で論じる当書の制作意図からか、「日本の奇跡」と褒め上げているほどに江戸時代に関しても、その素晴らしい側面を充分に紹介している。その分、江戸時代の人々が生み出した庶民文化の爛熟ぶりなどの明るい側面をより多く学ぶことができた。一方、B書では、磯田氏の、古文書などから新たな史実を発掘し、その事実に基づいて歴史に新しい光を与えるという、氏独自の記述によって、徳川社会が、その間の地震や大津波といった幾度かの大きな自然災害をも乗り越え、低成長の時代ながらも、それにふさわしい安定した成熟社会へと転換を図っていった史実を多く学んだ。更にもう一つ磯田氏に教えて頂いた大事なことがある。それは、その時代の民百姓と呼ばれていた一般市民の多くが、年貢の取り立てなどで、幕府や大名などからの二重の支配を受け、絶えずその武威による暴力に晒されながらも、やがて、支配階層をして、そんな民百姓を殺すことは、結局は、自分たち支配階層のコストに跳ね返ってくるのだ、ということを判らせ、その結果から「愛民思想」が生まれ、それが明治以降の市民意識の醸成に繋がった、という氏の指摘である。特にこのB書「徳川がつくった先進国日本」を読んで、磯田氏の言う「徳川の先進性」とは、単に江戸時代の美術・工芸・技術などと言った物的文明を指すのではなく、それよりもむしろ、江戸時代の人々が見せた、時の権力階層に抵抗して勝ち取った、その人権への目覚め、その人権獲得への闘争そのものが江戸時代に先行して存在したからこそ、幕末に於いて、明治政府への政権移行がスムーズに行われ得たのだ、という磯田氏の指摘である。

・今日、政治家が何かにつけてよく使う「國民の生命・財産を守る」という言葉も、明治維新の外来文明以降に初めて日本に根づいたものではなく、それ以前に、日本では、戦国時代以降の、上記のごとき支配階層と一般庶民の支配・虐待・抵抗という歴史の中で徐々に醸成されていったものである、ということが、今回の学習でよく理解できた一つの重要なポイントでもあった。

・今日、一般的に「市民あるいは國民」と呼ばれる言葉も、時の為政者と市民・国民との関係で、江戸時代が「民百姓」と呼ばれたように、「爾臣民」と呼ばれていた時代もあった。またわれわれの世代は、小学生時代、次なる兵隊さんへの期待を込められて「少国民」と呼ばれ、少年なりの軍事訓練なども強制させられた。このことも思い出し、今日普通に使われる「市民」という言葉が、それこそ文字通りの市民権を得たのは、戦後のマッカーサー革命以降のことであったのでは!、と思ったりしたのである。

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第二部:今回の学習で理解した<黄金の徳川時代とは>

・そこでまずは、本書:第二章「庶民が主役を務めた黄金の徳川」の中で、加瀬・石兵両氏がその対談で特に注目すべき点として言挙げして論じている点を以下10点抽出してみる。

その対談のなかで小生がまず驚いたことは、安土桃山時代からの日本の産物で欧米へ持ち出された品物のなかで、当時のヨーロッパの王侯貴族が一番気に入ったものは、なんと和紙でつくったトイレットペーパーだった、という記述である。西洋の紙は、いったん巻いてしまうと平らに戻らなのだそうであるが、日本にはその文化的伝統の中に“巻物の絵”があったために、その巻き物用の製紙で一旦巻いてもまっすぐ伸ばせる和紙が作られていたのである、という。

鉄砲は、1543年に種子島に漂着したポルトガル人が持っていたものを、種子島の主が大金を出して2丁買い取ったものであるが、主はその一丁を分解してその仕組みを調べ上げ、まもなくそれをお手本に国産品鉄砲の作製に成功したのである。が、その鉄砲がなんと30年後の長篠の戦い(1574年)に於いて信長方が3000丁もの鉄砲の威力によって、当時最強の武田騎馬軍団を壊滅せしめているのである。こういう事実を考えると、織田信長時代の日本はもう既に産業先進国だったというのである。

また1853年にペルーが浦賀にやって来た時に、幕府の役人がその船内に案内されているが、その時に見せてもらったコルト拳銃を、その役人がその場で図面に書き取り、ペルーが次に来航した時に、その図面で作成したコピーの拳銃をアメリカの連中に見せたところ、元のコルトよりも出来栄えの良いその拳銃にたまげたのだそうである。

江戸時代初期には、和算を編み出した関孝和がおり、円周率の計算や行列式、ベルヌーイ数などを発見するなどの業績を残し、その応用・実践面に於いても当時の測量技術や暦と併せて、作物の出来高や収穫時期を割り出すなどの業績も残している。日本が中国や韓国と違うところは、こうした技術を持った職人を非常に大切にしたのである。逆に中国や韓国では、職人は官吏人階級よりも下の階層に位置付けられ、むしろ軽蔑の対象となっていたのである。

逆に中国で一番大切にされて来たのは読書人であった。李氏朝鮮でも身分制度の最頂点にあるのは中国と同じく読書人階層の両班(ヤンバンと読む)であった。読書人は自分の手でものを触ったり、つくったりは絶対にしない。経典を覚え、詩を編み、絵を描く。しかもそういう人々が中韓社会では皇帝から特権を与えたれていたのである。だから、昔の中国では、頭の良い人間は何よりも中国の古典を勉強し、多くがその中国の古典から出題される難しい“科挙制度”に挑戦し、それで選抜された者が、皇帝を支える官僚となったのである。だから彼らは記憶力抜群かもしれないが、新たなものをつくる想像性には欠けていたのではないか、と言われている。(ここに中韓にノーベル物理学賞などの受賞者がいないことの原因があるのでは?と言っている人もいる)

"閑話休題"

・今年7月の台湾旅行で、台湾随一の観光地であるに「日月潭」を訪れた。その美しい湖を一望できる高台に「文武廟」がある。その廟の名称からして、中国の"武"の代表としては、例えば秦の始皇帝でも祀ってあるのではと思いきや、そこに祀ってあるのは、"孔子"だけであった。それを見て小生が愚考したことは、上記⑤のごとき科挙制度という難しい試験制度で選抜された官吏が、皇帝の信任を得て中国全土を統治した中国文化の伝統のなかで、中国では、昔から孔子を師と仰ぐ精神文化が形成されたのであろうか、ということである。そして、ここ日月潭の「文武廟」も、まさにこのような中国文明の伝統を反映したものなのであろう、と思ったのである。

本題に戻る。さらにこの対談では次のような話も語られている。

・江戸時代の町民は武士よりも自由に生きられた。金の力が町人という新興勢力に、新しい階層という意識を齎したのである。多くの町民が下級武士よりも高い収入を得ていたので、歌舞伎、浄瑠璃などが町民芸能として発達し、浮世絵などの庶民芸術も爛熟して行ったし、このような旺盛な町人たちの経済力があったからこそ世界的にも名だたる新しい芸術が生み出されたのである。一方、武士たちには、支配階層ながらも金がなかったせいか、歌舞伎にいくのではなく、能を楽しんでいたようであり、そのためか、徳川時代が終わるまでは、歌舞伎役者のことを武士たちは動物扱いで、一匹、二匹と呼んでいたのだそうである。

・また江戸時代に生み出された歌麿や写楽などの浮世絵が、19世紀後半にはヨーロッパに渡り、ルノアール・セザンヌ・モネ・ドガなどヨーロッパ印象派の画家たちの画風に大きな影響を与えたのであるが、もともと“浮世”という言葉は、「苦しみに満ち、つらいことばかりが多い世の中」を意味したのであるが、江戸時代半ばに入り、庶民の生活が豊かになってからは「うきうきと、享楽的に生きるべき世の中」という意味に変わったとも、更には、イギリスのあのシェイクスピア劇に登場する人物は多くが王侯・貴族であるのに対して、近松門左衛門の劇に登場するのは中小の商人か、その手代などであるという対象の妙を示しているとも、語られている。

更にこれほどにも庶民が恵まれていた時代の背景にあったのは、当時の日本人の識字率が世界最高のレベルであったというその知能レベルの高さであり、しかもそれに大きく貢献したのが“寺小屋教育”であったとも語られている。江戸時代にはそんな寺小屋が全国津々浦々2万箇所以上あった、という。

江戸時代のもう一つの特徴は、お伊勢参りを代表とした庶民の旅行が非常に盛んであった点である、ともいう。お伊勢参りを名目に何千万人の庶民が旅行を楽しんでいたのである。

更に更に、当時の江戸は世界のどの都市よりも、飲料水に恵まれたいたのであるという。家康は江戸を新たな都市として建設するにあたり、良質の飲料水を確保すべく、小石川上水と神田川上水の造営を命じたのである。同じ頃のパリ、ロンドンなどでは、糞尿は住居に面する路上に投棄されていた。当時、長崎の海軍伝習所の教官だったカッテンデイーケは「支那の不潔さと較べ、日本はどれほどよいか。聖なる国だ」と、また、フランスのボーボワール伯爵も「不潔、むかつくような悪臭が漂い、きわまりなく下品な支那を離れて、日本は深い喜びだ」と、述べているとも語られている。

日本は古来その精神文化の中で、“物心ともに清明を求める文化”を貫いてきているが、江戸時代までに、日本語のなかで「こころ」が最も多く用いられてきた。「心尽くし」「心立て」「心置き」「心配り」「心入る」「 心あり」「心残り」など、心のつくおびただしことばを残している、とも語られている

・当書に見る以上の論調をベースに考えると、江戸時代265年は、上記のごとき様々な面で安定し、平和が打ち続いていた時代であった。だからこそ、幕末の外圧の中で新体制が急務となった明治維新が急速に実現し得たのである。しかし、かって一部左翼系の学者からは、江戸時代は封建時代だったから非常に暗い時代であったごとき論調も見られたが、そんなことは決してなく、そんな江戸時代265年の前走があったからこそ明治新体制へのスムーズな移行が可能であったというのが本書の見解である。

・最近読んだ本に「角田陽一郎著の「最速で身につく世界史」という本がある。その本の中に「明治維新は革命であったか」という章がある。その中で一般的な革命の特徴を次のように記述している。

外部からの理念が注入され、民衆の不満を発火される。

旧体制が押さ込もうとすると逆に事態が過激になる。

革命の理念が進めば進むほど考え方が純化する。

旧体制のボスを処刑する。

進みすぎると当初の理念を超えてしまう。

揺り戻しの反動が起きる。

独裁者が登場する。

革命の成果が生まれる。

・これらの革命の特徴には明治維新革命にも当てはまる理念も含まれているが、明冶維新には④「旧体制のボスの断絶」という最も革命的な特徴が当てはまらないのが一般的革命と決定的な違いである、と当書では語られており、「だから明治維新は「革命=Revolution」ではなく、「改革=Reformation」であったと、結論づけられている。

<歴史学者磯田通史氏は徳川時代をどう捉えているか>

・次に最近TVなどの対談などで活躍著しい磯田通史氏が徳川時代をどう捉えているのかを考えてみたい。氏の著書に「徳川がつくった先進国日本」という本がある。その本のなかで、「幕府中興の祖、吉宗の行った改革」と題する節があり、そのなかでこの時代の様々な改革が日本を世界の先進国たらしめたとして、その改革の特徴を次のように論じている。

・まず最初に、氏の江戸時代に対する総括的評価を見てみたい。それは下記のような論評である。265年続いた江戸幕府の根幹を支えていたものは、何よりも江戸人のメンタリティーであり、「パックス徳川」「徳川の平和」の根底にあるのは「生命の尊重」という価値基準である、との捉え方である。

殺伐たる戦国時代の戦乱を終わらせたのも、

経済活動が著しく活性化した江戸時代にありながらも、それによる乱開発や環境破壊を止揚したのも、

そしてまた、民生重視の政治へとシフトし、かつ、度重なる自然災害を乗り越えたのも、

さらには、対外的危機を梃子に「民命」を守るという価値観を再認識したもの、

すべて「命を大切にする」という江戸時代に新たに見いだされ醸成された新たな価値観であった、と氏は結論づけている。

・更に氏は、21世紀のわれわれへの提言として次のように付け加えている。それは、江戸社会や「徳川の平和」から導き出せる教訓に「目先のことだけを考えるな」という点もある、という指摘である。江戸時代は長く、その間百年に一回程度は国家的危機(自然災害)や時代の転換点が訪れているが、その都度、われわれの先祖である江戸時代人は知恵を絞り、身を犠牲にしてそれらの危機を乗り越えてきたのである。

・その点をも教訓とするならば、現代のわれわれも、目の前の問題が大変だからと思っても、「百年の計、すなわち長期的視点を失わないようにしなければならない」と氏は説き、そのことこそが、江戸時代の人々の生き方からわれわれが学び取るべき“最大・最良の教訓”である、と氏は訴える。

<磯田氏が発掘した古文書からの新たな史実の紹介>

・磯田氏は、その著書が映画にもなった「武士の家計簿」の例でも分かるように、氏は、自ら古文書を発掘し、そこから今まで歴史の闇の中に埋没していた歴史の古層に光を当てることを学者としての基本姿勢としておられる。「徳川がつくった先進国日本」という氏の著書は、わずか150pの文庫本ではあるが、上記のごとき江戸時代に対する興味ある主張と併せて、氏が古文書などで紐解いた古層の如き史実もいろいろと紹介されている。次にその二つを紹介したい。古文書を紐解いて歴史に新たな光を与える、氏の面目躍如たる記述である。

1807年の「露寇事件」(注)の日露双方の兵士の様子。

・この話は、小生もかって大いに興味を持って一気に読んだ井上靖氏の名作:「オロシャ国粋夢譚」に詳しく描かれているロシア軍艦による択捉島襲事件である。その「露寇事件」の際、実際の警備に当たっていた南部藩の砲術師・大村治五平が書き残していた日記:「私残記」が最近発見され、それによってその事件の際の双方の様子が詳しく判明した。そこには下記のような記述がある。

・「赤人ども(ロシア軍)はただちに上陸した。大砲を車に乗せて陸にあげ、23,4人上陸した一隊は、大砲と鉄砲を、すきもなくうちかけてきた」「このとき、壮丁漁夫の者どもは、鉄砲をかついで、みな山中に逃げ込んだ。壮丁漁夫だけでなく、大抵の者は、姿を消してしまったのである。赤人どもは、家や小屋に火を放ち、また船に乗って、船から陸へ鉄砲をうった」。

・以上に記述に、ロシア軍隊の突然の襲撃に際して、わが方軍隊の防戦一方の慌てふためきの様子が手に取るように描写されている。このロシア襲撃事件と、その際の日本の守備隊の敗走ぶりの情報は瞬く間に江戸にも伝わり大騒ぎとなった。当時その報に脅えた江戸では次のような歌が詠まれていた、と書いてある。

・「蝦夷の浦に 打出てみれば うろたえの 武士のたわけの わけも しれつつ」。勿論これは、百人一首の古歌「田子の浦 うち出でてみれば 白妙の 富士高嶺に 雪は降りつつ」(山辺赤人)のもじりであることは言うもでもない。

・更にこの話には以下の後日談が記載されている。H22年(2010年,ロシアのサンクトペテルブルクの博物館に、この露寇事件の際にロシア側が日本から略奪した兵器などが多数収蔵されていることが確認された。そのなかに、戦国時代の大砲と思われるフランキ砲が二門含まれていたことが分かった。その後の調べで、その一つは豊後大分の大友宗麟が使用していた「国崩し」であり、もう一つは豊臣秀吉の朝鮮征伐の折に持ち帰った「さはりの大ハラカン」と呼ばれる大砲であったと、推測されているのだそうである。しかも、その収蔵品の多くにはほとんど痛みは見られず、その時、津軽・南部藩から動員された日本人の守備兵が、さして戦うことなく敗走したという記録を裏付けている、と当書に記されている。

②生瀬の乱の凄惨な事実

・1603年、江戸に幕府を開いた徳川家康は、関ヶ原で徳川方についた大名に論功行賞によって所領を与える一方で、西軍に加担した諸大名には改易や減封などの処分を行なった。家康から三代将軍家光までの間のおよそ半世紀の間全国百三十名の大名が改易となり、その没収した領地には徳川一門や譜代大名が新たな領主として配置された。武力を背景とする権威、すなわち「武威」こそが、幕府権力の源泉であった。事実、徳川政権は幕府領、旗本領、親藩を含めて全国三千万石のうち一千万石を支配していた。加賀百万石の十倍である。

・このような徳川による武の統治は、大名だけでなく庶民にも及んだとある。庶民への暴力支配である。この生瀬事件は、このような時代背景のもとで起きた、庶民への幕府方による典型的な凄惨な事件である。現在の茨城県太子(だいご)町の生瀬郷で起きた事件である。

・事件が起きた時期も1617年前後で諸説あり定かではないが、水戸藩士、加藤寛斎が書き残した古文書によると、その事件の概要は次のようである。この年、代官所より役人と称するものが来たので村民は年貢を完納したのである。ところが、後から正史と称するものが現れ、年貢納入を督促したので既に納入済みであるとの旨を申し立てたが聞き入れられなかった。そこで村民はこの役人を偽役人と考えて殺してしまうのである。すると水戸から征将が手勢を率いて生瀬村を襲い老弱男女を問わず“全員討捨”にしたのである。犠牲になった村民は550人にも及んだと伝わっている。が、水戸藩の正史にはこの藩にとって不都合なこの事実は一切記録されておらず、地元の伝承や古文書にわずかにそれが記録されているだけであるが、地元には、この時大勢が逃げ込んだ“地獄沢”、命乞いをした“嘆願沢”などの地名や、“耳塚、首塚、胴塚”などの場所が残っているのだそうである。

<「徳川の平和」への助走期間>

・磯田氏によると、江戸時代初頭は、戦乱の世は終わったとはいえ、この生瀬の乱のような出来事はいつどこで起きても不思議でない時代であったという。この場合の“天下泰平”とは領主間の争いがなくなったというに過ぎず、領主の領民に対する暴力は依然として存在し、人々は絶えず武士階級からの暴力に晒されていたのである、という。将軍家康から、秀忠、家光へという将軍の台替りが行われた江戸時代初期の30年間について、磯田氏は、歴史の結果としてみれば、この期間は、本当の意味での「徳川の平和」が訪れるまでの助走期間であったと氏は捉えている。そして、徳川幕府はこの30年の助走期間の間に武力・武威による全国支配を固めていくなか、被支配層である民衆は、幕府と、幕府に任命された各地の大名権力という二重の強権的支配に呻吟し苦渋の日々を余儀なくされた、とこの著書には記述されている。

・またその記述のなかには、戦国時代の終わりの1563年に来日しているポルトガルの宣教師ルイス・フロイスが、「日本では人殺しは普通のことである」とも書いていることからも、わが国では、江戸時代以前の戦国時代から刀・槍などを持つ戦国武将たちによる人々への武力弾圧は絶えず続いていたのであろう、と記されている。

<家康の庭訓>

・ところで、磯田道史氏の著書に「江戸の備忘録」(文春文庫:初版2013年:242p)という本がある。その中に「家康の庭訓」という章があり、家康の実利的でかつ合理的な性格・考え方について下記のように記されている。

・家康は、自分自身や孫の教育について、剣術には冷淡であったが、水泳には熱心であった。その理由は、剣術については、もし敵に出合ったら、その敵は家来が討つべきであるから、将軍や大名の子には剣の修行は不要で、その場合の大将の務めは「兎に角逃げることである」と考える一方、水泳については、合戦に“川越”はつきものであり、大将がその川越で溺れては話にならない、という合理的な考え方によるものある、と磯田氏は説明している。

・そんな家康の庭訓のお蔭で、三代将軍・家光もそうであったし、水戸黄門こと徳川光圀などは、わずか12歳で江戸の浅草川を何度も泳いで往復していたと記されている。以上のようなことから、磯田氏は、家康の最大の異才は、ことに当たって何が一番大切かという「物事の優先順位を看破できた」ことであると評価している。“パクス徳川”が3世紀近くも平和に打ち続いたのは、その始祖家康の、このような「物事優先思考性」が齎したものであるのかも知れない。

<戦国時代の武士>

・今年初めに読みそれをエッセイにも纏めた本に西俣総生著「戦国の軍隊」という本がある。その本の中に

室町時代の後半から戦国時代にかけての社会は総じて殺伐としていたから、水争いや山林の境界争いなどでもすぐに鑓や刀が持ち出され、死傷者が出ることも珍しくなかった。

だからこの時代の武士は、兎にも角にも他人に隙を見せたり甘く見られたりしたら、やっていけないのが武士という稼業の厳しさがあった。

中世の説話に「男衾三郎絵詞」という絵巻物がある。それには次のような記述がある。「弓矢取る者(武士)の家を美麗に造ってどうするのだ。庭の草はむしるな、急な事変があった時に馬の飼い葉にするためだ。馬場の入り口には人の生首を絶やすことなく切り懸けておけ。屋敷の門前を通る乞食や修行者などみかけたら、捕まえて弓の的にせよ」。なんともひどい話であるが、武勇に優れた兵(つわもの)として音に聞こえるとは、こうしたことなのである。これを読んで、誠に厳しい戦国時代の武士たちの姿を想像したのである。

・またかって読んだ隆慶一郎著の「死ぬことと見つけたり」には、「世の中の歴史はすべて強者の歴史である」として次のように書かれている。「史上に現れる強者の背後の、あるいはその足元に、何百何千の弱者の屍があるか、誰も分かりはしない。その弱者の屍はどこへ行ったのであろうか。塵のように雲散霧消してしまったのか。自分にはどうしてもそうは思えない。彼らにも一片の魂魄はある筈である。その魂魄は絶対にこの世にとどまって、勝者である強者を呪い続けているのではないか」。

・江戸時代とは、このような戦国武将集団同士による戦が無くなっただけであり、逆にその時代は、その分支配階層たる武士たちの、個人による、或いは集団による民百姓への陰湿な暴力が絶えず横行していた、という氏の説明が頷けるのである。

<民命重視の「愛民思想」が芽生えるきっかけとなった島原の乱>

・こうしたなか、1637年に島原の乱が起きるのである。島原半島と天草諸島を含む住民3万7千名、しかも女子供までもが加わる一揆であり、従来の百姓一揆とは、明らかに様相を異にするものであった。島原の乱については、多くのことが語られているので、その顛末は省略するが、磯田氏は、この乱を「武士が払ったコスト」として捉え、次のように書いている。

<武士が払ったコスト>

・この乱では、幕府側も大きな痛手を受けた。幕府側の死傷者は8千人とも1万2千名とも言われている。これは幕府側討伐軍12万人の1割前後にも達し、この乱では、当時の参加武士のおよそ百人に一人が死傷したことになる。しかも更にこの乱で大きな問題になったのは、この乱のその後である。この戦で多くの領民が一度に亡くなったために、島原・天草の人口は激減し、農村は荒廃の一途を辿るのである。領民を殺戮しすぎると領地から年貢を納めてくれる農民がいなくなり、結果としてその地を治める武士たちが食えなくなるという、実にシンプルな理屈である。困った幕府は、近隣諸藩から島原・天草への移民令を出すとともに、その移民を促進するために、十年間の年貢減免までも行うのである。このように、この乱においては、幕府や支配階層である武士階層は多大なコストを払わざるを得ない結果となったのである。

<かくして生まれた「武断から仁政への愛民思想」の芽生え>

・この島原の乱をきっかけに、当時の支配層が思い知らされたこととは「むき出しの武力・暴力をもって力ずくで領民を従わせることには、とてつもなく大きな代償が伴うものである」ということであった。その結果、支配階層のなかに、やがて「愛民思想」のような意識が広がっていったのである。それは「民は国の本なり」という考え方である。

・例えば、この乱の後、岡山藩主・池田光政は、その支配地が洪水に見舞われ、家臣たちが動揺して時に、「百姓を牛馬のように扱ってはならぬ。百姓を大切にしないと反乱が起き、将軍によって領地が召し上げられてわが領地が亡びることになる」と訓示しているのである。

<五代将軍綱吉の「生類憐れみの令」の意味するもの>

・ところで、五代将軍:綱吉の上記の有名な令については、当書では次のように高く評価されている。この「生類憐れみの令」は悪法の典型のように考えられているが、これは犬ばかりでなく、全ての生類、人びとの慈悲の心をも統治の基本とすべき、という趣旨の令であり、生きとし生きるものすべてを将軍が保護するというのが正しい解釈であるとし、綱吉自身が儒学に深い造詣を持った人だった点をも併せ考えてみて、その根本的意図は、人びとに「慈悲」や「仁」の心を持たせることであった、とむしろ綱吉の善政を高く評価しているのである。ググッテみると、この綱吉による「生類憐れみの令」は島原の乱の4,50年後に何回もその布令を積み重ねているのである。島原の乱の教訓は、その後の幕府将軍の施政にも大きく影響していたのではなかろうか。コミックなどに見られる皮相的な“悪玉将軍綱吉との評価”も大いに見直すべきかも知れない。

<未開から文明への転換>

・以上の観点から考えてみても、この島原の乱から綱吉時代にかけての時代こそは、日本史の大きな転換点であり、それはまさに「未開から文明への転換」の時代であった、というのが磯田氏の結論である。

・氏は更に言う。日本の国柄や価値観の最も大きな変革は、明治維新であったとよく言われるが、ある意味、江戸時代初期に実現したこの変化は、明治維新よりも大きかった。明治以降と江戸は、民の保護を国(政府)の業務内容とする点は似た価値観の上に成り立っている社会であるが、それ以前の戦国と江戸の間にはとても深い断層がある。江戸時代初期こそは、その断層に「人命を貴ぶ」という風穴を開けた時代であったのだ、と氏は主張。

・氏は、歴史は長いスパンで考えると分かりや易いともいう。例えば鎌倉時代、「獄前の死人、訴えなければ検断せず」という言い方がなされているように、役所の門前に他殺死体があっても、被害者の家族の訴えがそのまま放置されていたのであるが、江戸時代になると、人が殺されると、時代劇でお馴染みの町奉行同心が動き出すのである。これは人権意識というよりも、この時代はまだ、殺人事件そのものが、幕府なり大名の威光を傷つけるという体面意識から捜査であったのであるが、それにしても江戸時代と中世との間には、とてつもなく大な違いが存在しているのである、という。この30年の助走期間の間に武力・武威による全国支配を固めて行くなかで、被支配層である民衆は、幕府と、幕府に任命された各地の大名権力という二重の強権的支配に呻吟したのであろう、と氏はいう。

・武士道といえば、明治時代に新渡戸稲造の著書:「武士道」に書かれているように、現在のわれわれは“正義と潔ぎよさ”を尊ぶ高い気風・気概をすぐに想像するのであるが、残念ながら中世の武士には、そのような高潔な意識はなく、むしろ自分は殺生を生業とする家の者であり、「いざとなったら容赦はしないぞ」というイメージを周りから持たれ、恐れられることが必要であった、と「戦国の軍隊」には記されている。(完) (坂本幸雄 H29.9.23記)

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