ラサから天空列車に乗って2008(H20)年多摩湖線第17号掲載

ラサから天空列車に乗って 2008年(H20)多摩湖線第17号掲載

大谷 清

「標高5,000米もの高地に鉄道が開通した」というニュースは驚きだった。チベットのラサから中国青海省の省都・西寧まで中国が敷設したもので、建設費用はもとより凍土高原での工事が大変で、車両には航空機と似た与圧設備が備わっているという。この地域は普通の地図で見ると何も書いてないが、詳しいものを探すとタングラ(唐古拉)山脈を越え、ココシリ(可可西里)平原を走ることが分かる。かつて僕が訪ねた敦煌・嘉峪関の南、蘭州・西安の西、雲南・シーサンパンナの北西、ネパールの北に位置する。

テレビで放映され、各種ツアーが出て、この青蔵(せいぞう)鉄道は天空鉄道とか、Qinghai-Tibet Railwayなどとも呼ばれ、なかなかの人気らしい。

有楽町のJALやJTBで様子を探ると、この鉄道の切符はなかなか手に入らず、一等寝台とか日時指定は困難で現地まかせだという。

インターネットで中国の業者が売り出してもいるが、トラブルなく利用できるか自信もない。

あれこれ調べるうちに「自分の眼で現地を見たい」という気持が日増しに高まり、平穏に会社勤めをしていて何なんだと自問する。ずっと血圧降下剤を服用しているので、高地順応に不安があり、早くしないと駄目かなと焦りもある。元気なうちに自分の残る人生を有意義に過そうと考え、任期二年を残しているが辞任することにした。株主総会が無事に済むと、早速ラサに向かった・・。

成田を出た日は暑い夏の盛りだった。

まず、上海に向かい新しく立派な浦東空港でひどく能率の悪い乗り継ぎをして西安に着いたのは夜遅かった。

翌日は早朝の便でラサに向かう。窓外に白銀の山脈を眺め快適なフライトだった。着いたラサ空港の空気は高原の爽やかなもので、空は青く澄んでいた。

ラサの街はショトン祭とかで、どこも大変な賑わいだった。まず、西郊外のノルブリンカ(NorbulingKa)を訪ねた。ダライラマの夏の離宮で、現在主のいない宮殿は花ばなで美しく飾られ、チベット国内から多数の訪問客で混雑していた。

次は、ラサの北8キロに、かつて河口慧海が学んだというセラ寺(色拉寺、Sera Monastery)を訪ねた。ここは学僧の問答修行で有名なところだが、訪ねた時間がやや遅く見ることが出来なかった。

市内に戻り、待望のポタラ宮(布达拉/布達拉宮、Potala Palace)に行く。最近は、観光客が多すぎて、一日3,000人の参観に絞り、しかも時間指定がある。

写真では有名な建築物だが、いよいよ右手の入口で切符(100元、約1,700円)を買い入場する時は嬉しかった。よくぞ来れたという感慨であるが、坂道や階段が連なり足が重い。

そうだ、ここラサは標高3,600米の高地なんだ。ポタラ宮は建物の高低差が117米(13階)もあり、ゆっくり登らないと高山病の症状に襲われると言う。

昨夜も熟睡出来なかったのは、空気が薄く、僕の身体が順応出来ていないからだ。

ともかく慎重に進み、どうやら最上階に到達する。歴代ダライラマの座った大法座や居住していた空間も解放され、沢山の僧侶が生活・修行している。幾部屋も続く薄暗い室内に仏像や仏具があふれ、参拝者が祈り、ヤク油の灯明をあげている。あちこちで紙幣が無造作に拠出されているのは信心の証しなのだろう。

チベット仏教は健在で、市民の日常生活も仏教の影響が強く働いていることが伺える。帰路は別の道に誘導されるが、ラサ市街を展望しながら降る。ラサ中心部は道路が整然と整い、緑も点在する立派な都市空間だ。

ポタラ宮は、7世紀初めソンツエンガンボ王(Songtsan Gambo、617~650)が現在の地に城郭を築き、17世紀に5世ダライラマがチベット全土の政教権力を握り大拡張したという。

その後7世ダライラマが現在の13層の堂々たる威容を完成させた。

宮殿は二つの部分に分かれ、白宮殿(執政用)は1653年、紅宮殿(仏教用)は1693年に完成した。現在も、宮殿は宗教用に加え行政目的にも使用されている。

ポタラ宮のすぐ近くにチベット最古の仏教寺院、ヂョカン(大昭寺、Jokhang Temple)がある。

五体投地で知られているが、当日は盛大な儀式が営まれており、沢山の参詣者と赤い法衣を纏った僧侶で溢れていた。大昭寺の周りがラサで最も賑やかな旧市街バルコル(八角街)で、曼荼羅などの仏具をはじめ日用品、宝石、アクセサリー、土産もの店、飲食店などがびっしり並んでいる。

いつもの趣味で、こういう場所は歩き回って熱心に探索するのだが、どうにも身体が重く、標高の高い場所の意味を体感した。

裏通りをぐるぐるして表通りに出ると、大きな交通標識が眼に留まった。

チベット文字・漢字・ローマ字の三種が併記されているが、上段のチベット文字はアラビヤ語と似て文字の区切りが分かりにくく、下段のローマ字は現地の地名をNorupulinka Roadなどと音読みで書いてあり判読に時間がかかる(ノルブリンカのローマ字表記は、寺の入場券に書いてあった前記のものと、道路の表記が一致しない)。中段に書いてある漢字は視認性の点で優れていると感じたのは、漢字文化圏の人間の偏見なのだろうか。

ところで、チベットの面積は127万平方キロと日本(37万平方キロ)の3倍以上もあるが、人口は僅か273万人(2004年末、うちチベット族は92.8%、漢民族は6.1%)と少ない。中国の人口数は、戸籍と常住の二種を区別して理解する必要がある。例えば、北京市の戸籍人口は11,629千人(2004年末)だが、同じ時の常住人口は14,928千人と公表されている。ラサでの実感からすると、漢民族の人口比率6.1%(上記)は戸籍人口で、常住人口はもっと多いと思われる。

中国とチベットの交流は長い歴史があるが、1950年代に中国の社会主義政権の圧力が高まり、チベット各地で中国政府の占領・併合に抗議する動きが活発化した。1959年にはチベット動乱となるが、中国軍がこれを制圧し、1940年に即位したダライラマ14世は1959年インドに亡命している。その後、1965年に中国西蔵(チベット)自治区が成立した。

現在、亡命政府がインド北部のダラムサラにあり、14世は現在もチベット仏教の最高指導者で、政治指導者としてもアメリカ、日本などでチベット問題を訴える活動を続け、中国政府とも対話を続けている。

いよいよ青蔵鉄道に乗る日、泊まっていたラサホテルから小型バスでラサ駅に向かう。2006年7月に営業開始した駅舎は、近代的で清潔な建物だ。ホームは広々として、東京駅よりずっと快適だ。

西寧まで1,956キロ、約24時間の旅が始まる。一等寝台の席が取れず、渡された切符は拉薩から蘭州行きの二等寝台券(新空調硬座特快臥)で、料金は552元(約9,384円)だった。

中国鉄道の里程表によると、西寧~北京間は2,098キロだからラサ~西寧間とほぼ同じで、西寧は北京~ラサ間の真ん中に当たる。

日本との比較では、札幌~博多間が2,383キロなので、青蔵鉄道の長さは見当がつくが、中国の鉄道運賃は随分安い。二等寝台は上下三段のベットがある。僕は下段、中段は中国人、上段は韓国人、向かい側は三人とも中国人(二人は母と子)だった。片言の中国語でお互いの自己紹介をするが、僕の中国語では対話は困難だった。それでも果物を提供され、こちらは日本のキャンデーをあげるなど、雰囲気はヤーヤーと気楽だった。

枕元に「供気口Oxygen Supply」があり、試しに押すと酸素が出てくるが、使う必要は一度もなかった。

通路側に椅子席もあり、車両間の移動も自由で、各人適当に立ったり座ったりと気楽に過せることが分かるまで時間はかからなかった。通路側の席に電源があり、繋いでパソコンを使っている中国人が何人かいた。

車窓を眺めると、ラサ駅を発車して暫くで建物や集落が見えなくなり、草原の風景になる。人家の形跡もなく、いよいよ大草原の旅が始まる。

カメラを持って列車内の探訪を始めると、各車両の連結部前後に窓の大きなスペースがあり、両側の景色を見れることが分かった。

この付近には普段は人がいないので、車窓の写真は自在に撮れる。

車掌室を覗くと計器盤があり、各車両の温度や気圧メーターの他に、海抜(m)の表示を見付けた。しかし、数字が妙なので問いただすと、女性車掌さんは興味なさげに壊れているんですという。

標高五千米のタングラ峠を越える時間を訊ねると、5時過ぎとのこと。それでは暗くて外が見えないのではと確認すると、幸いまだ明るい時間で外は見えますよとのことだった。

青蔵鉄道が敷設された場所は、冬には零下10~30℃になるところで、凍土に深い基礎を打ち込んで建設された。

沿線に沿って石組みの工事が沢山あり、動物の移動を妨げないよう一定間隔で路線下に通路が設けてある。電気機関車なので、電線・電柱も立派なものが続いている。

自然保護や密漁の取締りまで、沿線にはいろいろ問題はあるとのこと。

映画「ココシリ」で見た秘境の非情な美しさは、僕をこの鉄道に導いた動機のひとつでもある。かって百万頭はいたチベットカモシカ(チルー、Chiru)が、密猟者の乱獲で一万頭にまで激減したことにチベット人が私設のパトロール隊を組織して戦ったのだ。

荒涼たる山岳地帯、薄い空気、不意の降雪と寒さなど、日本では経験出来ない非情な自然を映画は見事に撮っていた。僕はその情景を思い浮かべ、車窓を飽かず眺めていた・・・。

24時間もの長旅でたった一か所、「那曲(ナチュ、Naqu)」駅で外に出ることが許された。

標高4,513米というので、ヤッケを着てホームに出ると、空気は爽やかで寒いほどではなかった。

反対側のホームに真新しい機関車が見え、駅舎も人家もない清清した草原に羊の群れが見える。

僅か2分間の停車で、車掌に戻るよう促された。

この後、1時間余で車窓に大きな湖が見えてくる。停車した駅は「措那湖(ツオナコ、Cuo Na Hu)」だった。外に出られないが、駅名表示板に標高4,594米と書いてある。列車が走り出しても、大きな措那湖は暫く車窓を楽しませてくれる。

程なく、鉄道の最高到達地点「唐古拉(タングラ)山峠」を越える。

標高は5,072米という。富士山よりずっと高い高地を列車は快適に走っていく。

窓外の景色は緑の草地もあるが、茶褐色の不毛の大地が多く、遥かに白銀の山々が望める。行けども行けども同じ風景を僕は飽かず眺めて過した。

うとうと眠った後、ゴトンという音とブレーキ音で眼を覚ました。外は暗いが、反対側のホームに異様な自動車が動いている。事故でもあったのかなと起き上がって通路に出てみた。殆どの乗客はベットにいるらしく、人影は僅かだが前の方が何やら明るいので進んでいくと、3両ほど前から人がホームに降りている。カメラを持って駆けつけると、何とそこに立派な駅舎があり、乗客が乗り込んでくる。車掌がいるが制止しないのでホームに出てみると、駅名を書いた表示がある。早速、フラッシュを使って撮影したが、車掌は何も言わない。何となく暑苦しい空気で、ホームには給水車やゴミ収集車が動いており、すぐ発車する気配もない。列車に戻ってデジカメをみると、この駅名は「ゴルムト(格爾木、Ge Er Mu)」で、標高は2,829米となっていた。後で分かったことだが、ゴルムトは中国青海省第二の都市で、既に高原は降ってこの駅で機関車を入れ替えていたそうだ。正確に言うと、西寧からゴルムトまでの814キロは1984年に鉄道が開通(営業運転)しており、青蔵鉄道の新設区間はゴルムトからラサまでの1,142キロを指している。勿論、この区間が標高4~5千米を越える秘境地帯だから、工事の評価はあげてこの区間の成功に帰するものである。

鉄道建設以前に、道路(中国では公路という)はラサから西寧まで既に通じていたが、車で容易に通行できる道ではなく、実際に大変な労苦と日数のかかる行程だったという。

西寧(シーニン、Xining、標高2,275米)に着いたのは朝10時35分、ラサ発は昨日10時45分だったから、丁度24時間の旅だった。列車の速度は高地区間で80km/hで、最高160km/hという。全行程の平均値では81km/h(1,956km/24h)になる。

相席の中国人達は重慶や成都に行くというので、「再会(サイチェン)」と挨拶すると、果物を持って行けときかない。荷物は困るので断りたいが好意は無視できず、僕の持っていた日本製のスープやラーメンをすっかり引き取ってもらった。(僕の切符も蘭州行きだったが、手前の西寧で降りても同じ料金なのだろうか?。分かったことは、西蔵鉄道がラサから中国各地に接続し、乗り換えなしに行けるということで、ラサと西寧間だけが特別運行されるというものではない、という点だった。)

青海省も省都西寧も僕は始めてだった。南郊約25キロにあるタール(塔爾)寺が最大の見所という。結構時間もかかるかなと覚悟していたら、何と立派な高速道路が開通しており、タール寺は直ぐだった。ゲルク派の六大寺院で、仏の八大功徳を表す如来八塔が立派だ。ダライラマ14世もここで学んだそうだ。帰路、郊外に高層アパートが林立しているので、誰が住んでいるのか聞いてみたら、年金生活者が殆どですという。ガイドの説明では、彼らは地方では退屈なので省都に集まってくるのだという。それでも中心地は地価(家賃)が高いので、郊外に政府が計画的に住宅を作っているそうだ。西寧の市街には立体交差の道路も、高層ビルも盛んに建設されており、地方(辺境)都市でも中国の経済は疑いなく発展していることが納得される。

青海省博物館(入場料15元、約255円)は建物も立派だが、展示物もなかなか良かった。中国人の好きな仙境を描いた絵画が沢山あり、どれも心休まるものだが、仙人が妙齢の女性と囲碁を打つ絵が格別面白かった。青海省は羊の成育に適した場所で、その関係産物の展示も多い。大広間では人気画家らしき人物を沢山の人が囲んで、作品を評論している。僕は知らなかったが、Sydney G. Gamble(1890~1968) というアメリカの社会経済学者の写真が常設展示されており、興味深い写真が多数あった。主に1930年代の中国各地の写真で、例えば揚子江の曳船風景を見ると労働者の姿に今昔の感がある。

チベットは長らく鎖国を続け、1904年ヤングハズバンドに率いられた英国軍事遠征隊の600人を含めて、1949年までにせいぜい1,000人程度の西洋人しか入国していない。明治の時代、日本人の河口慧海が現地人に成りすまし、神秘のベールに包まれた同地の実情を外に伝えたことは、国際的にも高く評価されている。

青蔵鉄道は中国が国家プロジェクトとして全力で取り組んだもので、最大の目的は内陸部の開発にあった。物資の流出入により、地域起しの効果は絶大で、観光を含め成果は既に明らかになっている。他面、環境破壊の他、チベット伝統様式の生活破壊、中国軍事力の増強や漢民族の定住人口が増える、といった問題点も指摘されている。