M鶴田瑞穂「第97回新三木会吉田裕教授講演抄録」2018.9.16

(講演の抄録)

第97回新三木会講演会

カウンター

戦場と兵士

-アジア・太平洋戦争期の日本軍-

吉田 裕[1]

一橋大学大学院社会学研究科特任教授一橋大学名誉教授

2018年8月16日[2] (於如水会館スターホール)

さて、早いもので戦後73年となりましたが、本日は、一橋大学大学院の特任教授、吉田裕先生に「戦場と兵士」と題しまして、特に過酷な運命に翻弄された日本軍の兵卒に照準を当てお話願います。

司会(講師紹介):本日は厳しい天候の下、多数お集まりくださり有り難うございました。

先月、サンデー毎日の如水会記事の中で、この新三木会も紹介されました。本会の資料作製につきまして、説明を加えさせて頂きます。お手元の、参考資料は、偶数月が39年卒の本多幸吉君、奇数月が同じく39年卒の松井和明君が、2か月前から、講師の先生にコンタクトし、著作も消化して準備します。茶話会の質疑応答もこの2名が記録します。

講演が終りますと、42年卒の伊東新祐君が約3日で、講演の録音おこしをやり、それを4、5名で校正し、会員限定のパスワードという鍵のかかったホームページに保存されます。ホームページには過去90数回分の抄録と申す講義録がA4版で累積、約2400頁ほど収録されております。

このほか、受け付けその他もボランティアでやって頂き、皆さんの協力で本会はなりたっております。

吉田先生の略歴、著作等は参考資料の冒頭に掲げてあります。

先生は、この3月に定年退職となられ現在、引き続き大学院の特任教授の任にあられますが、本日、受付販売しております著作「日本軍兵士」がベストセラーとなり約14万部の売れ行きとなっております。講演開始前に70部売切れてしまいました。

講師(一橋大学大学院社会学研究科特任教授・一橋大学名誉教授 吉田裕氏):どうも、こんにちは、吉田です。座って報告をさせて頂きます。

今度の本は、僕の本来の固定読者っていうとおかしいですが、それ以外の方に随分たくさん読んで頂いています。

とくに印象に残ったのは、一つは、産経新聞が紹介してくれたのです。僕の本はだいたい産経新聞は歯牙にもかけないっていう感じで(笑)、相手にされないのですが、今度戦争を知る4冊の本だったかな、ということで、この本を若い記者の方が非常に丁寧に紹介してくれました。

それから昨日、読売新聞にいる教え子からメールが来まして「読売の8月15日の社説に、先生の本が載っていますよ」と言われてみたら、確かに読売の社説に引用されていました。

今朝メールを見たら「朝日新聞の社説に載っていますよ」というのがまた入っていて、僕ちょっと朝見落としていたのですが、朝日の社説にやはり取り取り上げられていました。朝日と読売とだいぶ立場が違うと思うのですが(笑)、両方から取り上げられるというのは、僕の本の中身が支離滅裂なのかどうかわかりませんが、非常に嬉しいことです。

はじめに

拙著を読まれている方も当然いらっしゃると思いますので、同じ内容をお話しても申し訳ないので、少し違った角度からお話をさせて頂きます。

難しい局面を迎える戦争体験の継承と戦没者の追悼

先ほど少し付け加えるのを忘れましたが、どうしてそういう、いろんな方が読まれているのかなというのを考えてみると、一つの時代が終わろうとしている。そして戦争体験の継承とか、死者の、戦没者の追悼ということが新しい局面を迎えようとしているということはあると思うのです。

『やすくに』のコラム

例えばこれ靖国神社の『やすくに』という社紙、社報がありますが、それの2015年のコラム、もう2年前のこのコラムですが、そこに次のように書かれています。

戦地から復員され、日本の繁栄の礎を築かれたこれら戦友方の参拝は今では数えるばかりとなり、

御祭神と生活を共にした遺族の参拝も少なくなっている。今後直接に御祭神を知る参拝者がおられな

くなる時代を迎える。

これは2年、3年前のコラムなのです。つまり追悼する人の顔と名前を覚えている人がいて、妻なり子供なり、そして参拝しているのではない時代がもうすぐそこまで来ている。310万という戦没者の概数でしか過去の戦死者を捉えることができない、そういう時代が来ている。

その中で今回の8月15日もそうですが、マスコミ関係者の方もかなり苦労されている。どういう形で新しい時代の状況に対応できるような紙面を作るか、ということです。

次の世代に届く言葉で

私のこの本は、次の世代に届く言葉で書くということをかなり意識しました。僕の文章はそれほど分かりづらい文章ではないと自分では思っているのですが、やはり次の世代にちゃんと届く言葉で書く、ということで書き方にかなり工夫をしました。

身近な問題として(身体)

それから身近な問題として考えてもらうということが必要だろう、ということがありました。その場合に、身体、体です、自分の身体というのは、これは自分にとって一番身近な問題だからです。

読者自身に置き換えが可能(負担率)

それから置き換えが可能、自分に引きつけて考えることが可能だろうということがあって、兵士の身体に着目しました。例えば負担率です。この本の中で書きましたが、自分の体重の何割にあたる武器弾薬その他の装備を兵士が担えるか。これは日中戦争の前までは大体体重の4割と言われていて、日中戦争、アジア・太平洋戦争の時期になると5割を超えるものを担わされているのです。

戦争体験を継承し伝える会をやられている年配の読者の方からメールがきて

いまして、それを見ると、リュックサックの中に20キロの水と40キロの水を入れて担いでみたそうです。そうした追体験をしてみる。兵士がどれだけの重さの負担を、負担量を担いながら、徒歩で行軍しているのかというのが実感できるわけです。そういう点でもやはり身体に着目するということ、これが意識して書いたところです。

Ⅰ 日中戦争とアジア・太平洋戦争

それで今日お話ししたいのは、本とも関連して、一つは日中戦争とアジア・太平洋戦争の関係、これを一つお話したいと思います。

1.忘れられた戦争=日中戦争

1977年東京教育大学文学部卒業。79年一橋大学大学院社会学研究科修士課程修了、83年同上博士課程単位取得、83年一橋大学社会学部助手、87年同上助教授、96年同上教授、

2000年同上大学院社会学研究科教授。18年同上特任教授、18年一橋大学名誉教授。

主な著書に、〔単著〕『徴兵制』(学習の友社、1981年)、『昭和天皇の終戦史』(岩波新書、92年)、『シリーズ日本近現代史(6)アジア・太平洋戦争』(岩波新書、2007年)、『現代歴史学と軍事史研究―その新たな可能性』(校倉書房、12年)、 『日本軍兵士―アジア・太平洋戦争の現実』(中公新書、17年)ほか。

ここに「忘れられた戦争、日中戦争」と書きました。

(1)「先の大戦」とは

毎年、昨日もそうですが、全国戦没者追悼式が開かれます。その中で「先の大戦」という言葉がよく使われます。資料の

①は僕が書いた文章ですが、

毎年8月15日に、全国戦没者追悼式が開催される。そこでの首相の式辞や天皇のお言葉には(その中には頻繁に)「先の大戦」という言葉が使わる。その言葉(「先の大戦」という言葉)で多くの人が想起するのは、やはりアジア・太平洋戦争のことだろう。しかしこの終戦記念日の設定を決めた

63年5月の閣議決定では、この追悼式の追悼の対象を日中戦争以降の全ての戦没者としている。(ところが実際には)日中戦争はいつの間にかアジア・太平洋戦争の戦没者の陰に隠れてしまったということになる。アジア・太平洋戦争の戦没者しか想起できないような状況になってしまっているのです。

さらに言えば、満州事変でも実は1万7000人の戦死者が出ているのです。これは靖国神社の合祀者数で調べてみましたが、そうすると、その満州事変のことは、この追悼式の場では、全く念頭に置かれないのです。

(2) 日中戦争の重要性

しかし一方で、日中戦争は非常に重要な戦争でした。②の資料。これは『軍事史学』という軍事史専門の学会の学会誌ですが、その中に等松春夫さんが

「日中戦争の多角的再検討」という論文を書いています。真ん中の引用部分だけ、読み上げます。

とはいえ、日本帝国にとどめを刺したものが原子爆弾に象徴される米国の圧倒的物量と科学技術であったという記憶が鮮明すぎたためか、そして敗戦後6年に及ぶ米国の占領統治もあって、日中戦争は一部の専門家を除いて、戦後日本人の記憶の中では日米戦争の影に隠れて後退してしまったように見える。しかしながら持続期間、投入兵力、投下資金、死傷者数、日本および関係各国に与えた影響力などあらゆる点で日中戦争は有史以来日本が経験した最大規模の戦争であった。

というふうに書いておられます。それだけ重要な、忘れ去られているが、重要な戦争だったということです。

日中戦争以降の中国戦線、満州を除きますが、中国戦線における日本人の戦没者数、これには若干民間人も含まれていると思われますが、46万5700人。軍人軍属の全戦没者数230万人の20%にあたるのです。それだけ重要な戦線であったということです。そのことがどうも忘れさられているのではないかと感じます。

2. アジア太平洋戦争との関連性

そこで改めて、この日中戦争とアジア・太平洋戦争の関係について少し考えてみたいと思います。

(1) 軍事的行き詰まり

日中戦争が始まるのは1937年ですが、軍事的な行き詰まりは1940年の段階で明確になっている。これ以上の積極的な侵攻作戦、占領地を拡大するための侵攻作戦は困難になっている状況があります。

積極的侵攻作戦は困難に

それが資料の③。1941年の冒頭に決められた「対支長期作戦指導計画」というものがあります。それの2項目を見てください。

二 作戦は治安維持、占領地域の粛正を主目的とし、大規模作戦を行わず、要すれば、短期間短切な(短い)奇襲作戦を行う。ただし占領地域を拡大することなく、原駐屯地帰還を原則とする。

作戦を行う場合でも、駐屯地から出て中国の野戦軍を殲滅する。しかし、その地域は占領しないで元に戻る、ということなのです。単純に現状維持になっているのです。それだけ行き詰まってきた。

戦争長期化に伴う戦病死者数増大

それから、戦場の様相も非常に凄惨なものになってくるように思います。日中戦争、日露戦争における戦病死者数、戦闘による戦死者数、その割合を見てみましょう。

近代の戦闘では、とくに初期の戦闘では、戦闘で死ぬ人よりも病気で死ぬ人の方が多いのです。それが日露戦争になって初めて逆転する。補給体制が整備されたり、軍事医療が整備されて、戦闘による死者が、戦病死者、病気による死者を上回る最初の戦争が日露戦争ということになります。ところが、日中戦争あたりから、その流れが逆転し始めるということです。

日露戦争における戦病死者率は

26.3%。日中戦争の場合、資料④を見て頂くと1937・8年、39年ぐらいまではまあまあ日露戦争の水準と変わらない。ところが40年あたりから46.4% 、41年は

50.4%、半分ぐらい、むしろ戦病死の方が増えていく傾向にあるのです。これは非常に戦場が厳しい状況にあることを示しています。

(2) 三国同盟・武力南進政策への転換

そういう軍事的な行き詰まりがある中で、三国同盟、それから武力南進政策への転換が始まる。

「世界情勢の推移に伴う時局処理要綱」

これを決めたのは「世界情勢の推移に伴う時局処理要綱」(1940年7月27日)。大本営政府連絡会議の決定です。これで近衛内閣が日独伊三国同盟、それか ら武力南進政策を決める。非常に重要な国策です。南進の際に戦争相手は、イギリスに限定をする、アメリカとの戦争は極力回避するが、万が一に備えて対米戦の準備もやるということを決めた会議です。

大本営政府連絡会議での決定

大本営政府連絡会議は、これは政府の首脳と統帥部の首脳、参謀総長とか軍令部総長です。これが協議をして重要な国策を決める。その場に天皇が臨席していわゆる御前会議になるのです。重要な国策はこの御前会議で決めているのです。

しかし御前会議での決定ではない

ところがこの日本の外交政策の大きな転換点になった、この「世界情勢の推移に伴う時局処理要綱」、これは御前会議で決めていないのです。大本営政府連絡会議で決めている。

それに対しては批判があって、当時の参謀次長沢田茂の回想に、

いよいよ新内閣(近衛内閣です。第二次近衛内閣)が成立し、その初めての連絡会議にして、しかも極めて重要になる今後の基礎政策となるの故をもって、陸軍側は会議の直前に、御親臨(天皇の親臨を仰ぐ、つまり御前会議にするということ)を仰がんと欲し、海軍

に諮りしもついにその同意を得ず、御親臨なくしてこの重要国策を決定したるは遺憾なり、

と書いているのです。御前会議で決めるべき事柄を、大本営政府連絡会議で決めてしまう。

昭和天皇もこの決定過程に不安、不信感

昭和天皇もこの決定過程に不安あるいは不信感を持っていたようで、宮内庁から出ている昭和天皇実録を見ますと、

7月24日から25日にかけて侍従武官に、この27日開催予定の大本営政府連絡会会議に関して、5回も下問をしているのです。不安を持ったのだと思います。自分に何の相談もなしに重要な転換がなされるということにです。

それを示すのが資料の⑤。これが、昭和天皇実録の40年の7月27日の条(くだり)です。

午前11時51分、御学問所において参謀総長載仁親王・軍令部総長博恭王に謁を賜い

(会ったということです。そして)大本営政府連絡会議において決定した「世界情勢ノ

推移ニ伴フ時局処理要項」につき奏上を受けられる。

云々とあります。さらに続けます。

なお、この日の連絡会議につき事前に説明奏上がなかったため、思し召しにより明日29日に総理大臣及び両総長より、それぞれ改めて奏上することとなる。

この重要決定、大本営政府連絡会議にかけられた重要決定について、天皇に事前に何も説明してないわけです。そのことに対して、天皇が不信感を持って、改めて説明をさせているのです。

御前会議を避けた理由(推測)

それの過程がまだ今ひとつよくわかりませんが、私の推測では海軍は対米戦になる可能性は避けたいと。しかし予算は欲しいということがあって、大枠としては大本営政府連絡会議でこの「世界情勢の推移に伴う時局処理要綱」を決めることは認めていたのですが、そこに縛られる、御前会議という権威がつけば、そこに縛られますから、つまり対米戦を必ずやるという方向に縛られるのが嫌だった。そのために、御前会議では決めないで、大本営政府連絡会議で決めているのではないかと思うのです。これ、決め方として非常にある意味で安易な決め方です。

ドイツ軍の電撃戦の勝利に幻惑され

て、極めて安易な形で政策転換、非常に大きな政策転換が行われているということ、これに注目する必要があるように思います。

これ授業の準備をやりながら、「あれ、この決定、御前会議じゃないの」というのに改めて気が付いて、調べてみると、こういう形で重要な転換が安易に決められているということがありました。この点はさらに今後、掘り下げる必要があると考えています。

(3)日米戦争回避のための日米交渉

それから日米戦争回避のための日米交渉。これは41年の4月から始まるわけですが、これの位置付けです。

この交渉の最大の争点は、日本軍の中国からの撤兵です。アメリカ側の要求の最大の柱は、中国から日本軍が撤兵するということ。これは段階的にであれ、期限を付けてであれ、とにかく中国から撤兵するということ。これが争点で、これを日本側が、とくに陸軍が反対をして交渉が暗礁に乗り上げてしまうのですが、その際に見逃すことができないのは、そのChinaという中国の中に満州が含まれるかどうかということなのです。

つまり、満州までは黙認すると。日中戦争以降日本が拡大した占領地に関しては、これは撤退しろ、日本軍は撤退する。そういう要求なのかどうか。これは今でも解釈が分かれるところですが、ここには微妙な問題が孕まれています。

軍務課長佐藤賢了の解釈

⑥の資料ですが、これは私の『日本軍兵士』から採りました。面白いのは、昭和16年(1943年)10月2日の陸軍省の課長会議で、軍務課長の佐藤賢了、これは東京裁判でA級戦犯になった人です。彼が、

アメリカ側の最低限度の要求について

「従来のたびたびの話しづくによれば、米側は先ず盧溝橋以前の姿に帰れ。内政干渉は不可、武力干渉は認めず、経済的機会均等を与えよ。という原則に従えというのが米国の限界で、これはなかなか崩そうとしまい」と説明している。

日中戦争のきっかけとなった盧溝橋事件の前の状態に戻ればいいというふうに、少なくとも佐藤賢了は理解しているのです。つまり日本の傀儡政権である満州国と満州への日本軍の駐留、これはアメリカ側も黙認するのではないかということ。こういう解釈があり得たのです。

中国に満州を含むか

実際に対英米開戦を最終的に決めた12月1日の御前会議、このときも、枢密院議長の原嘉道さんが、交渉に当たった野村大使と来栖三郎特命大使に関して、

「特に米が重慶政権を盛立てて全支那から 撤兵せよという点において、米が支那とい う字句の中に満州国を含む意味なりや否や、この事を両大使は確かめられたかどうか」

と東郷茂徳外相に問いただしているのです。つまり、「チャイナの中国の中に満州は含まれない」というところで妥協が成立する可能性があったということも言えると思います。

これに関しては、資料の⑦も見て下さい。これは在満州国の梅津大使、これは関東軍司令官の梅津美治郎が大使を兼任しているわけです。その電報で、確認を求めている。ハル覚書、いわゆるハルノートです。

「ハル」覺書中ニハ

(一)支那二於ケル日本軍等ノ撤収

(二)重慶政権以外ノ政権を認メサルコト等ノ条項ヲ含ミ居リ従テ満州ヨリモ撤兵シ且満州政府ヲ否認センコトヲ要求シ来リタルモノト了解シ居ル処右ニテ差支ナキヤ

「満州も含まれるのですね」という確認を梅津大使が求めているのです、関東軍司令官が兼任している人が。この文章が示しているように、政府の部内でも必ずしも、中国からの撤兵という場合に、それは満州からの撤兵も含むのだというところで了解ができていたわけではないということが、こういう資料を読んでみると、わかってきます。

日米妥協の可能性

つまり、アメリカ側はまだ戦争の準備が整っていませんし、ヨーロッパ第一主義という立場をとっていますので、極東においては妥協が成立する可能性があったということがよく言われるのですが、つまりアメリカの側も、場合によったら、日中戦争以前の状態に戻れということで、その両者の間に妥協が成立する可能性があったのではないかということ。これもまだ結論が出ていない問題ではありますが、非常に重要な論点になってくるというふうに考えます。

Ⅱ 戦場から見たアジア・太平洋戦争の特質

それから、大きな二番目は、戦場から見たアジア・太平洋戦争というということです。

1. 戦没者数について

(1) 総計で310万人

日中戦争以降の全戦没者の数は、 軍人軍属が230万人。外地の一般邦人が30万人。戦災等による国内の死没者が50万人。総計で約310万人です。この中には5万人の朝鮮・台湾出身の日本兵が含まれています。概数でやや少ないのではないかという説もありますが、一般的には政府見解で310万人と言われています。

この遺骨の半分ぐらいしかまだ回収されてないのです。今遺骨の回収を促進する法案ができて遺骨の回収が進められていますが、やはりちょっと手遅れといいますか、遅過ぎる、遅きに失した面 があって、なかなかうまく進みません。半分の遺骨はまだ回収されていません。

それから船の中に沈んだ遺骨。沈んだ船の中にたくさんの遺骨があるのです。これに関しては厚生労働省、旧厚生省の見解では、それは「水葬に付した」と、水葬に付したと見做して、回収する必要がないという立場をとっている。

「水葬に付した」とは、なんかちょっと最初本当にその通りの答弁をしているかなと疑問に思って自分で議事録を調べてみたのですが、やはり議会でそう言っているのです。「水葬したと見做す」と。だから回収はしないということです。こんなこともあって全体のまだ半分の遺骨が返ってこない、という状況になります。

(2) 9割は1944年以降の死者

そしてこの本の中で強調していますよ うに、基礎的なデータが公表されてないのです。310万という数は公表されて、総数は、概数は示されていますが、戦没者の年次別、何年何人という年次別とか階級別とか、それから年齢別、あるいは性別のデータ、これを知りたいわけです。戦局の推移を知る上では、何年に何人死んだかということは非常に重要な基礎 データです。それが分からない。

唯一公開している岩手県のケースからの推計

そのため唯一それを公開しているのは実は岩手県、この本でも書きましたが、岩手県だけなのです。岩手県は年次別年齢別の戦没者の数をあげています。公表しています。

それを基礎にして、310万人に当てはめてみると、だいたい1944年以降の戦没者が全体の9割を占める。ということになるわけです。各地域別の戦域別の戦没者数はわかりますので、それと大体重ね合わせてみると、まずほぼ9割以上は、実は44年以降、戦争の末期に死んだということが推定はできるわけですが、確定はできません。

公表して欲しい年次別、階級別戦没者数

これはやはり年次別の戦没者数を公開してほしいと思います。

それから階級別です。階級別で見たいのは、例えば、上に行くほど戦死率が低くなるというようなことがあるのかどうか。下の兵隊ほど戦死率が高いという状況があるのかどうか。こういうことを確認したいのですが、それを確認できるデータがないのです。

これに関しては、随分新聞記者の方にも手伝って頂いて調べたのですが、要するに個人のデータはもちろん厚生労働省が持っているのです。各府県にもありますが。それを集計したり分類したりする作業をやっていないというだけのことなのです。ただ、本来ならばやはり戦争の後始末、戦後処理の問題ですから、基本的なデータをやはり公表して欲しいと思います。

靖国神社のデータベース

アメリカの場合は非常に詳細な年次別、地域別の戦死者数や負傷者数、行方不明者の数、こういうものを公表しているわけですが、日本ではそれがされていないのです。

個々のデータは、当然軍人恩給の関係とか、遺族年金との関係があるので保管しています。その個々のデータを「祭神名票」といいますが、靖国神社に祀られた戦死者の、その名前の票。「祭神名票」というカードがあって、1人1人の戦死者の個人データが何年何月どこで戦死したか。戦病死か戦死か、階級は何か、そういう個人データがあるのです。それを靖国神社に送って靖国神社はそれに基づいて、とくに50年代、1950年代の後半に多くの戦死者の合祀をしているのです。合祀(複数の戦没者を一遍に祀ること)をしているのです。

靖国神社には、だから一方では、データがあって、靖国神社創建130周年のときに、祭神名票がだいぶ劣化してきているので、それを全部データベース化するということをやっていますので、そのデータベースを見せて頂ければ、年次別の戦死者数とか、こういう階級別の戦死者数とか、そういうものがわかるのですが、これは公開されていません。

この靖国神社への祭神名票の送付は、これは後に国会で追及されて、当時の厚生大臣が憲法上は政教分離原則にてらすと問題が確かにあると。つまり一神社に政府が名簿を提供して合祀を支援しているのですから、問題があると認めることになりますが、ともかくそういう基礎的なデータが整備されていないということを、集計したり分類したりするのにそれほど予算がかかるとは思われないのですが、こういうものが実はアジア・太平洋戦争史を調べる場合には、非常にネックとなってくるということです。

約9割が44年以降(戦争終結決定の立ち遅れを反映)

その結果推定になりますが、繰り返しになりますが、310万人の約90%が44年以降の戦死者。それもおそらくは44年6月のサイパン島の陥落。これ以降の戦死者ではないかと思います。

このことは戦争終結の決定が立ち遅れたということの反映でもあるのです。ですから遺族の中に複雑な思いが残るのは、もう少し早く戦争の終結を決意していれば、自分の夫なり親なり子供なりは生きて帰れたのではないか。という思い、というか、わだかまりというか、それが強く残ることになります。

多くは戦病死・餓死

先ほどお話したように230万人が軍人軍属の戦死者で、ただし5万人ほど朝鮮人・台湾人の軍人・軍属が入っています。この230万人のうち、その多くは実際には戦闘ではなくて、戦病死ではないか、というのがこの本でも強調したことですが、これは最近になって分かってきたことです。

アジア・太平洋戦争期に関しては、戦病死者数の年次別の数字がわかりません。日中戦争までは先ほどの表で見たように、年次別の戦病死者数がわかるのですが、全体の状況を見てみると、どうも230万人のうち、多くは戦病死者、それも餓死です。伝染病、マラリア等の伝染病に感染して、体力が落ちる。栄養失調がそれに拍車をかける。それで死んでしまうというようなケース。あるいは栄養失調のために抵抗力が落ちて、それでマラリアなどの感染病、伝染病に感染して死亡してしまう。

広義の餓死者についての二つの推計

そういう広い意味での餓死者ですが、これには推計が二つあります。

藤原彰さんの推計では全体の61%。それに対して秦郁彦さんが「ちょっと、それは多すぎるのではないか。過大ではないか」という批判をして、秦さんの推計では37%。ただし秦さんも注記していますように、37%でもこれは非常に大きい数字です。37%の人間が餓死で死んでしまったということ、餓死したということは、近代の戦争ではかつて見られない事態であるということを強調しておられます。

軍事医療の面では、そういう意味では、退行現象が起きているわけです。日露戦争のときの戦病死者率は先ほど見たように26.3%ですから。それよりも遥かに悲惨な戦闘を戦っているということ、これがわかると思います。

2. 特異な死のありよう

もう一つこの本で強調したのはこの戦争、アジア・太平洋戦争に固有な死のありようです。以前の他の戦争で見られなかったような、固有の死のありようがある、ということです。

(1) 海没死

一つは海没死です。これが艦船の沈没に伴う死なのです。これを「海没死」といいます。ちょっと耳慣れない言葉かと思いますが、半ばは溺死ではないかというふうに思われます。

これは国力の限度を超えて戦線を拡大してしまったために、補給が追いつかない。重要な補給路をアメリカのとくに潜水艦です、これが集中的に攻撃を加えてくる。日本の場合には海上護衛戦といって、今でいえばシーレーンの防衛みたいなものですが、輸送船団を護衛するというということ、つまり海上護衛戦に対する理解が不十分で、アメリカの艦隊との主力艦隊決戦、これが常に日本海軍の軍人さんの頭の中にありますので、こういう輸送路、補給路を護衛する、護る戦い、海上護衛戦、こういうふうなものは軽視されるのです。

徴用貨物船での兵隊輸送

それに加えての連合国の場合は、輸送船は多くは専用の輸送船を使います。初期は客船とかそういうものを使いますが、専用の軍事輸送船を使います。日本の場合も少しはあるのですが、大部分は一般の貨物船です。貨物船を徴用して、それを改造して、兵隊の例えば輸送に使う。船の中に倉庫、船倉がありますよね。そこを板で仕切って、そこに兵隊を全部押し込めるわけです。「蚕棚」と言われますが、甲板に上がっていくには小さな梯子しかない。そういうところで兵士をギュウギュウ詰めにしますので、船が沈没すると非常に多数の死亡者が出るのです。

大きく外れた船舶喪失見積もり

開戦時の見積もりでは、だいたい年間に喪失する、失われる艦船・船舶は

100万トンぐらいだろうと見込んでいたのです。100万トンで船舶の被害を抑えることができれば、何とか日本の戦争経済は回っていくという見通しのもとに、開戦を決意しているのですが、この見通しが全く外れてしまうのです。

42年ぐらいまでまだなんとかなっているのですが、43年には207万トン、44年には412万トンと、急速に船舶の喪失が進んで、敗戦時には日本の商船団は、かなり大きな商船隊を持っていたのですが、ほぼ壊滅した状態になって、とくに重要な東南アジアの占領地との輸送路、これがもう完全に切断されることになります。

さらには戦争末期にはB29が機雷を空中から投下して、瀬戸内海とか、博多港とか、大阪港とか、重要なポイントを機雷で封鎖してしまうのです。これが非常に響いてきます。

そういうこともあって日本の戦争経済はこの面から崩れていく、崩壊していくのですが、概数で36万人が海没したと言われています。日露戦争の戦死者が

9万人ですから、その4倍の人が海で死んだということです。これは非常に大きいというふうに考えます。

(2) 特攻死

それから、特攻死ですね。特攻隊による死。これは後でちょっと補足しますが、十分にまだ解明されていない問題が含まれています。

特攻隊に関しては、10年ぐらい前から少しずついろんな新しい証言が出てきています。それを読むと、例えば戦意を完全に失ってしまって、動揺が激しい特攻隊員が出てくる。それを同じ隊の中に置いておくと、他のパイロットに影響を与えるので特攻隊員から外すというようなことが行われている。それから、天候不良で帰ってきてしまう特攻隊員もいるのです。天候不良を理由にして帰ってくる特攻隊員もいる。どうもエンジントラブルは自分で作為、起こすことができるようなので、エンジントラブルを起こして帰ってきてしまう。あるいは不時着をする。

今年話題になった戦記で鴻上尚史さんの『不死身の特攻兵』(講談社現代新書)ですが、これは僕らの世界ではよく知られている事実ではありますが、佐々木という伍長さんが、5回ですか、特攻で出撃して5回とも帰ってきてしまう。本人は「体当たりするより、爆弾で攻撃した方が効果的だ」と言っているのです。

過大に評価された特攻の破壊力

事実特攻による破壊力というのは過大評価されている面があります。それから、人が操縦するので命中率は高いというふうになんとなく思われていますが、そんなことないのです。特攻機がこうやって急降下してきますよね。風圧で翼がこう圧迫されて操縦が非常に難しくなるのです。これ速すぎるという「過速」という事態です。操縦がうまくできなくなってしまう。

それからもう一つは「浮き」です。飛行機って凧みたいなものですから、下から揚力で持ち上げられる。それが敵艦に向かって体当たりをしようとすると、こう下から揚力がつきますので、上を向いてしまうのです。直線で体当たりはできなくて、次第にこういうコースを飛んでしまう。そのために飛び越してしまうのです、アメリカの軍艦を。

それから、特攻による破壊力というのは普通の爆弾の破壊力より劣ります。普通の爆弾であれば投下して加速度がついて、甲板を貫いて中で爆発して大きな 損害を与えることができますが、特攻機が積んでいる爆弾自体は、ある意味では、特攻機がエアブレーキの役割を果たしてしまいますので、軍艦に突入する ときにぺちゃっと、極端な比喩を使えばコンクリートに生卵を投げつけるようなものなのです。ガソリンが燃えて、甲板上にいるアメリカ兵に打撃を与える。爆弾が爆発して打撃を与えることをはできても、致命的な打撃を与えられないのです。だからアメリカの正規空母とか戦艦とか、こういうものは、特攻では沈んでいません。これは沈められないわけですね。それは当時からその破壊力の低さというのは分かっていて、そのために爆弾を、大 きな爆弾を積んでいくのです。その結果、ますますそれで行動が鈍重になってしまう。こういう事態があったのです。

この特攻死の問題というというのをやはりもう少し調べてみる必要があると思います。これは後の補足のところでお話ししたいと思います。

(3) 自殺と処置

それからこの本で強調した、やはりこの時期に固有の死のありようというのは、自殺と処置です。

日本陸軍の高い自殺率

もともと日本軍は自殺がどうも非常に、多いというとデータがあるのです、他の国の軍隊と比べて。これは少なくとも、厳密な国際比較ができていませんが、日本軍の側でそう認識していたのは間違いない。これは当時の論文がいくつかあります。他の国と比べて日本の陸軍は自殺率が高いということです。これはやはり私的制裁に、内務班におけるリンチですが、そういうものに象徴されるような非常に過酷な兵士に対する処遇が、あって、それの結果だと思います。

餓えと病で生きる気力喪失

それとアジア・太平洋戦争の段階だともう軍隊や戦争に絶望して自殺するだけではなくて、本当にインパ-ルの退却戦なんかはその典型ですが、もう餓えと病でかろうじて歩く。這っていくように歩く。そういう中で、もう生きる気力を失ってしまって、自殺する。こういう例が多いのです。

傷病兵の扱い

それからもう一つは動けない傷病兵です。動くことができない傷病兵。これは、国際条約上、日本も加入している国際赤十字条約によれば、動けない傷病兵がいた場合は、その場に置いて、それで撤退する。敵の手に委ねても構わない。要するに捕虜になっても構わないという

ことですね。当然敵軍の側は、相手の軍隊の側は、そうした置いていかれた傷病兵をちゃんと保護して、治療しないといけない。国際上はそういう約束事になっているのです。日本もその国際赤十字条約に加盟しています。ですから、ある意味では捕虜になることを認めているのです、部分的ではあれ。

それにもかかわらず実際には、ノモンハン事件のあたりからですが、ノモンハン事件で多数の日本兵の捕虜が出ます。停戦協定が結ばれた後に大量の捕虜が日本側に帰ってくるのです。これをどうするかというというのが大きな問題になって、どうもこのあたりから、動けない傷病兵は国際赤十字条約の精神には違反するが、自殺を強要するなり、その場で殺害する。薬等々で殺害するという ことが軍医さんたちの中にも議論になるようになって、なおかつ、1941年には有名な捕虜になることを禁ずる軍人の戦場での道徳を説いた戦陣訓ができるわけですね。これ法的な拘束力はないのです。つまり捕虜になることを禁じる軍事法規はないのですが、しかし一般的には日本の軍の中ではそういう形で処理がなされていく。そういう動けない傷病兵の殺害または自殺の強要です。これが、退却のときとか、あるいは最後の突撃、万歳突撃といいますが、離島、アッツ島なんかそうですが、最後の突撃をす るときに、ついてこられない傷病兵を捕虜にしないために殺害する。こういうことが常態化していくのです。

3. 兵士の身体

3番目が、これも読んで頂ければそのままなのですが、兵士の身体の問題です。これはやはり非常に重要だと思います。

大量動員に伴う顕著な変化

大量動員に伴う体格、体力の劣る弱い兵隊さんがたくさん出てくる。年齢の高い老兵が軍隊に入ってくる。1940年ぐらいからです。それから、知的障害者も入ってくる。これは徴兵検査のときの身体検査の規則を今までよりも緩めるので す、定員を確保するために。そのためにこういうこと事態が起こるのです。知的障害者の場合にはやはり軍隊や戦争にうまく適応できないので、例えば脱走する。ということが出てくることになります。

「彼らにとっての軍隊と戦場の過酷さ」と書きましたが、満州事変ぐらいの日本の兵士であれば、これは徴兵検査の結果みんな兵隊にとられるわけではありませんから、まだ平時であれば、2割を切る。20代の男性の10数%ぐらいの人が兵隊に取られるのです。ですから非常に体格のいい青年が、結果的には兵隊にとられるのです。満州事変のときには平均体重で見ると60何キロ台です。

ところが、アジア・太平洋戦争のときに

は60キロを切る。そういう兵隊がたくさん増えてくるのです。先程の負担率で見ると、60キロの人の場合、50%の負担率だとすると、30キロ。60キロの体重しかない人が30キロの装備や、食料弾薬全部完全装備で持った場合に、その負担に耐えられるかという問題です。非常に過酷な状況が生まれてくるのです。

4. 補足

そういうことを踏まえて、いくつか残りの時間で補足をしておきたいと思います。

歯と水虫

この本を読んだ皆さんからよく「歯のところと水虫のところが面白い」と言われます。歯のところはあんまり今まで私も念頭になかったのですが、これかなり大きな問題だなと思います。戦地でずっと野戦で戦闘を繰り返していれば、歯も磨きませんし、口の中の衛生という意味では最悪の状態になるわけです。その中で虫歯になる兵士が多数出てくる。

ところが軍医の中には、歯医者さんの軍医、歯科軍医は日本にはいないのです。嘱託で陸軍病院、大きな陸軍病院なんかにはいますが、嘱託だったので す。日中戦争が始まっても。ですから兵隊の中にいる歯科医免許を持った兵隊さんが臨時に歯医者を勤めるというような対応で、後手後手に回ってしまいます。陸軍で正式の歯科医将校制度が作られるのは1940年のことです。これは敗戦時で300人しかいません。

この本を書いた後にちょっと見落としていた論文があって、日本側の研究で

「米国軍における衛生機関の編成及び運用」という研究があります。これを見てみると、第1次世界大戦の場合のアメリカ陸軍の軍医さんが、全軍医数で3万6150人。そのうちに歯科軍医、歯医者さんの軍医さんが4620人いるのです。やはりこの段階からすでにアメリカの側は口内衛生、口内衛生を非常に重視しているということがわかります。しかし日本側ではこれが非常に遅れていたということです。

特攻に対する責任の問題

それからもう一つは先ほどの特攻の問題で、まだよくわからないのは特攻に対する責任、軍中央の責任、あるいは、場合によっては昭和天皇の責任、こういう問題がまだ解明されていないと思います。

これについては、資料の⑧をご覧ください。これは新書用に書いた原稿ですが、ちょっと長すぎてバランスが悪いというので、削った論文です。特攻隊のところで削った文章ですが、読んでみると、天皇と特攻作戦の関係をめぐる最大の難問は、天皇の命令で特攻作戦部隊を正式に編成するかどうかだったがよくわかります。明治憲法の第十二条を見ると、

『天皇は陸海軍の編成及び常備兵額を定む』というふうにありますので、特攻部隊を正式に編成するためには、天皇が許可を与えなければならない。天皇が裁可する必要があるわけです。しかし、天皇の名前で特攻専門部隊を編成して、特攻攻撃をかけることを命じるというということは、やはりこれ非常に当然ためらいが軍の中央の中にも出てくるわけです。陸軍の場合はこれで非常に揉めます。特攻隊のところで削った文章ですが、読んでみると、

天皇と特攻作戦の関係をめぐる最大の

難問は、天皇の命令で特攻作戦部隊を正式に編成するかどうかだった。明治憲法の第十二条は、『天皇は陸海軍の編成及び常備兵額を定む』と規定していたので、特攻部隊を正式に編成するためには、天皇の裁可が必要だった。しかし、天皇の名前において特攻専門部隊を編成し特攻を命じることには陸軍内にはためらいがあり、激しい論争が起こった。

特攻攻撃をかけることを命じるというということは、やはりこれ非常に当然ためらいが軍の中央の中にも出てくるわけです。陸軍の場合はこれで非常に揉めます。

この論争について、生田惇さん、これはパイロットだった方で、戦後は、防衛研究所の戦史室で戦史の研究をやられた方ですが、その生田さんの文書を引用してみますと、それは正式の軍隊として天皇に上奏裁可を仰ぐか否かの問題であった。

甲案は、特攻戦法を中央が貢任をもって計画的に実行するため、隊長の権限を明確にし、団結と訓練を充実できるように、正規の軍隊編成とすることが必要であるとするものである。

乙案は、特攻要負と器材を第一線兵団に増加配属し、第一線指揮官が臨機に定めた部隊編成とすべきであるとするものである。

後者の、こういう乙案のような案が出てくる背景にあるのは、

それは、わが国の航空不振を第一線将兵の生命の犠牲によって補う戦法を、天皇の名において命令することは適当でないとするものである。

ということです。こういう判断が中心になって、結局、正式の部隊は作らないということになったのです。

生田さんによれば、これ初期のフィリピン戦のときに結成された特攻隊ですが、「万朶隊」、「富嶽隊」、「八紘隊」など、特攻隊は表面的には一般の軍隊に準じ、隊名、隊長などが定められているが、

厳密にいえぱ、リーダーを有する殉国同志の集団であり、「隊長には人事、教育、賞罰などに関する完全な統率権がなかった」のである。

部下に対する統率権を持っていないわけです。

この甲案が採用されなかった理由について陸軍関係者の座談会の中で元陸軍中佐の田中耕二さんが、より端的に、

「上司からは特攻を編制化するお許しは、とうとう出なかった」

と言い、航空総監の阿南惟幾陸軍大将(敗戦時の陸軍大臣で自決)も

「このような非常の戦法を天皇の名にお

いて採用することは、『天皇のお徳を汚す』ということで許可されなかった」

と語っているということで、阿南は認めなかったと書かれています。これが陸軍の方です。

特攻専門部隊を編成した海軍の場合

海軍はどうなのかというと、海軍の方は、ところが特攻の専門部隊を天皇が承認しているのです。

これは後藤新八郎さんという、防衛研究所におられたかたですが、『日本海軍の軍令』という、こんな分厚い本を書かれています。海軍の場合は、特攻専門部隊の編成を天皇が承認しているという事実があります。44年7月10日の第一特別基地隊の編成、それから、人間爆弾「桜花」の訓練基地隊である第七一一航空隊の編成、これを天皇は少なくとも裁可しています。

後藤さんは、「特攻隊を天皇の意思に背くものであると決めつけることはできないのである」と。つまり、「天皇も認めているのだ」ということを、少なくとも海軍に関しては書かれているのです。こういう問題は、とくに中央の責任という問題ですが、やはりまだ十分に議論されていない。

軍中央の責任、インパール作戦

それから軍中央の責任ということでいえば、やはりインパール作戦、これが一つ典型的な例になると思います。

これはNHKスペシャルでインパール作戦の特集をやって、今年の夏に岩波書店から本も出ました(『戦慄の記録 インパール』)。これ非常に面白いNHKスペシャルなのですが、このインパール作戦というのは、編集担当の方が非常に詳しい説明をつけて頂いて感謝していますが、アジア・太平洋戦争の末期、1944年に行われたインド侵攻作戦です。ビルマからインドのインパールを占領するための作戦。

補給を無視した無謀な作戦

これは補給を全く無視して、2週間分の食料だけを持たせて、それでそれを食い延ばしながらインパールを占領する。

あとは「糧は敵に求む」という言葉がありますが、イギリス軍側の食料を奪って、それで食えという作戦です。これ非常に無謀な作戦で、補給を無視したことで有名な作戦ですが、これの責任の問題があるのです。

これは5月からです。あの地域はすごい雨季、猛烈な雨が降る雨季に入ってしまうので、その前までには作戦は終了させないといけない。という大前提があって、その中で非常に無理な作戦が強行されたために大量の餓死者を出した戦争、戦闘です。これはいろんな形で分析がなされています。

この会にもよくお見えの荒川憲一さんが書かれた「日本の戦争指導におけるビルマ戦線」という論文があります。防衛省の防衛研究所の戦史研究センターというのがあるのですが、これはホームページで、Web上でも見ることができます。そこで出している報告集の一つです。その中で「大陸指」に着目しています。インパール作戦の大陸指です。

矛盾する大陸命と大陸指の関係

基礎的なことを説明しますと、まず、陸軍の場合は大陸命というというのがあるのです。大陸命というのは、天皇が発する最高の統帥命令です。例えば、「インパールを攻略せよ」というふうに言っているのが大陸命です。それを参謀総長が軍司令官に伝達をする。そして天皇の大陸命の中では「細項(細かい事項)関しては参謀総長をして指示せしむ」と、細かいことに関しては参謀総長が指示をするから、という命令の形式なのです。

ですから、大陸命があって、大陸指があるのです。

ところが、インパール作戦の場合はこの大陸指に基づいて作戦を始めているのです。天皇が裁可していない大陸指。この大陸指が重要なのは、大陸命ではなくて大陸指で作戦の開始を指示しているのは非常に問題が多い。手続き的には天皇の発した大陸命があって初めて、可能なのですが、それが行われていないことを荒川さんは指摘しています。

大陸指と大陸命は今は復刻版が出ていて、ほぼ全文を見ることができます。それが資料の⑨ です。大陸指、インパール作戦の実施を決めた大陸指第

1776号というというのがあるのですが、これは

大陸命第六百五十號二基キ左ノ如ク指示ス

南方軍総司令官ハ緬旬(ビルマ)防備ノ為適時当面ノ敵ヲ撃破シテ「インパール」

附近東北部印度ノ要域を占領確保スルコトヲ得

「確保せよ」じゃないのです。「確保スルコトヲ得」、口語で翻訳すれば、「確保してもいいよ」という極めて曖昧な指示になっています。「大陸命第六百五十號二基キ」と書いてありますが、大陸命第650号というのは何かと、調べてみたところそれが左側です。これは大陸指の根拠にならないと思います。これは天皇が命令しているものです。

大陸命第六百五十號 命令

一.大本営ハ大東亜戦争完遂ノ爲南方要域ヲ安定確保シテ自給必勝ノ態勢ヲ確立スルト共ニ情勢ニ即応スル作戦ヲ準備ス

南方軍のところを見てみると、1項目で、緬旬(ビルマ)、旧英領馬來、「スマトラ」、爪畦(ジャワ)、旧英領「ボルネオ」ニ対シテハ之力防衛ヲ完ウスルト共ニ速ニ軍政ノ普遍滲透ヲ図ル

「ビルマを防衛せよ」ということを命じていますが、この大陸命では、どこにも、

「インパールを攻略する。イギリスのインド領、インドのインパールを攻略する」ということは書かれていないのです。

これでは大陸指の根拠にならない。むちゃくちゃ強引な読み方をすれば、ビルマ防衛のためにインパールへの進攻作戦が必要だからと、こういう理屈づけし かあり得ないと思うのです。この出し方が、命令の出し方が非常に曖昧になっているのです。

インパール作戦には非常に厳しい反対意見が当初からありました。補給を無視した作戦で絶対うまくいかない。という判断がいろんなレベルであって、大本営も揺れるのですが、この大本営の命令の出し方を見ると法明らかに自分の責任を回避している。大陸命、しかるべき大陸命を天皇から裁可してもらって、それに基づいて大陸指を出しているわけではない。大陸指そのものも、インパールの攻略を命じたわけではない。命じている文書ではないのです。攻略することを「得」ですから。「してもいいよ。あなたの判断で」と、そういう文章になっていて、そもそも責任の所在を常に曖昧にする命令の出し方だったということが言えると思います。

佐藤31師団長の独自判断での撤退

それからもう一つ、補給が全くない事態が生じたために、このインパール作戦の場合には、佐藤幸徳という有名な軍人さんがいて、彼が第31師団長。彼は撤退してしまうのです。約束された食料や弾薬が送られてこない。これでは飢えて死んでしまうので、第31師団は独断で撤退すると言って撤兵してしまうのです。これは陸軍刑法違反で、上官の命令なくして撤退する。陸軍史上かつてない事態と言っていいと思います。

これを何とかしないといけない。大本営としては。すくなくても軍法会議にかけないといけない。しかし、この佐藤師団長は、軍法会議で徹底的に軍中央の責任を追及するつもりでいるのです。補給を無視した作戦計画を立てた。そうするとその軍法会議が非常に混乱した軍法会議になる。しかし軍法会議にはかけないわけにはいかない。そのためにビルマ方面軍、この地域の一番上にある軍ですが、ビルマ方面軍は「師団長は精神錯乱である。それで不起訴にする」ということを考えたのです。

31師団長への精神鑑定

ところが、これを読んでいるうちに、

「そういえばあんな資料があったな」と思い出したのは、資料の⑩です。これは31師団長の精神鑑定にあたった軍医さんの報告書です。読んでみると、

抗命事件を惹起したS第三一団長を診断

するべく筆者はビルマに向かった

と題した精神鑑定書が山下実六という軍医さんによって報告されている。これで見ると、この山下軍医は南方総軍です。南方総軍の軍医部長から呼ばれて、ビルマまで行って、佐藤中将の精神鑑定をした、ということです。

鑑定の主文というところだけを読んでみますと、

鑑定主文

1.作戦中の精神状態は正常であった。

ときおり精神障害を疑わせしめることを感情の興奮による電文のやり取りがあったが、これは元来の性格的のもので,軽躁性の一時的反応であって、その原因はまったく環境性のもので、一過性に過ぎない。

従って法曹界のいわゆる心神喪失はもちろん,心神耗弱状態にも相当しない正常範囲の環境性反応である。

2. 現在の精神状態は全く正常である。ちょっと文章が乱れていますが、これは非常に強い批判の電文を師団長が第15軍司令官の牟田口廉也のところに送ってくるのです。「補給がなくて戦えるか」と。それを見ると、「そういう感情の興奮による電文のやり取りがあったが、これは元来の性格的なもので、軽躁性の一時的反応であって、その原因はまったく環境性のもので、一過性に過ぎない。従って法曹界のいわゆる心身喪失はもちろん、心身耗弱状態にも相当しない正常範囲の環境性反応である」と書いてい

る。

それこそ南方軍からすれば「お前忖度しろよ」「忖度して書いてね」ということだったと思いますが、この人は忖度しなかったのです。この軍医さんは。「正常である」と。「現在も正常だし戦闘期間中も正常だった」と。おそらくこれがあったがために精神錯乱を理由に不起訴処分にするという思惑ははずれ、佐藤師団長はそのまま予備役に編入されるという、こういう結果になります。

こういう事態を見ていますと、インパール作戦で非常に多くの戦死者が出ているのですが、やはり軍中央の責任を、言ってしまえば、糊塗する、責任を曖昧にする、隠す、こういう事態が進行していて、そういうことをやはりきちんと明らかにしていく必要があるように思います。

貴重な国府台陸軍病院の資料

ちなみに今引用した本は、浅井利勇さんという、この方軍医さんですが、『うずもれた大戦の犠牲者―国府台陸軍病院・精神科の貴重な病歴分析と資料―』です。日中戦争以降、千葉の国府台に陸軍の精神病の専門病院ができるのです。これは戦争神経症と呼ばれるような、そういう戦闘ストレス。これを発症した、精神的におかしくなった、心を病んだ兵士の治療にあたっていた病院です。多くの陸軍病院は敗戦前後に資料を焼いているのですが、この病院は、この浅井先生がカルテを持ち帰って、コピーをとっておいたのです。そのために今は戦争神経症の研究の資料として、国府台陸軍病院の資料が非常に重要な役割を果たしています。これは資料集になって出ています。

現在にも関わる戦争神経症の問題

最近ようやくその戦争神経症の問題が注目されています。自衛隊の場合でも、イラクとかアフガンに派遣された隊員で、帰ってきて自殺をしている人がかなり多いということは報道されていますが、やはり精神的な心の病を抱え込んでしまう人が出るわけで、自衛隊は「コンバット・ストレス」と呼んでいるようですが、もういやおうなしにそういう研究を始めざるを得ない状況になってきている。

そのこともあって、戦争中の戦争神経症の問題というのは、今までほとんど注目されてこなかったのですが、ようやく最近になって研究が始まりました。

この本の中でも書きましたが、日中戦争のあたりから戦争栄養失調症という特異な栄養失調症が生まれます。これは、食料は十分あるのにどんどんやせ衰えていく。下痢を繰り返して、やせ衰えて行く。そして食欲不振がひどい。その結果死に至る、そういう戦争栄養失調症という、これ伝染病が原因ではないかと、初期には言われていたのですが、そういう病気があって、いろんな研究があるの ですが、よくわからないまま終わってしまったのです。

ところが最近の精神医学の専門家の判断では、これは今風に言えば、拒食症。兵士が戦場で心を病んでしまって食事を取らなくなる。拒食症ではないかというふうに言われていて、僕も専門家ではありませんが、資料を見る限りでは、そう判断できると思います。そういう点では今まで水面下に隠れていた病気です。そういうものも含めて、大分明らかになってきた。

その辺の研究成果を踏まえて、この『日本軍兵士』という本を書きました。これを書いてだいぶ体力を消耗してしまいました。というのは二、三年前に生まれて初めて電車で席を譲られまして

(笑)、そのあたりからちょっと僕の中で何かが壊れていく感じがあって、これはもうこれで最後の本だろうというぐらいのつもりで書いたのです。小さな本ですが、かなり長い時間をかけて資料を集めて書いていますので、お読みになって頂ければ幸いです。以上です。

どうもありがとうございました。

(拍手)

【来賓挨拶】

司会(来賓紹介):質疑応答に入る前にお一人紹介したいと思います。一橋大学のこの如水会に「一橋いしぶみの会」というのがございます。その会長やっておられる竹内雄介さんをご紹介します。

来賓挨拶〔一橋いしぶみの会会長 竹内雄介氏〕:只今ご紹介頂きました「一橋いしぶみの会」の竹内と申します。昭和49年の経済学部卒業です。本日は、吉田先生ありがとうございます。また発言の機会を頂きましてありがとうございます。

2000年に如水会の皆様方のご寄附によりまして、国立佐野書院の前庭に「戦没学友の碑」というものが建立されました。そこには現在記銘碑に826名の学友の名前が刻まれています。先ほどお話もありました日中戦争からアジア・太平洋戦争で軍人軍属として亡くなられた方々のお名前であります。

私どもは年2回「戦没学友を追悼する会」を開いています。春は5月の第三土曜日に佐野書院の碑の前で、秋には10月の21日に、如水会館にあるこの碑のレプリカの前で追悼会をやっております。この10月も21日に追悼会を行いますので、皆様のご参加をお願いしたいと思います。戦没学友が826名と申しましたが、彼

らについて、3年ほど前から調査始めております。只今の吉田先生のお話にありました戦没年次について、一橋大学・東京商科大学の戦没学友はどうなっていたかをお知らせしますと、昭和17年の10月に大学として、それまでの戦没者の追悼会をやっております。その追悼会で対象になった方々は100名に満たない、たしか80名ぐらいの方々でした。ですから全体826名の方の10%程度の戦没者の 追悼が17年の10月になされています。先ほどのお話の19年以降の戦没者の数は、戦没年次が分かっておられる方々が664名おられまして、そのうち528名の方が19年(1944年)以降に亡くなられた方々です。つまり80%がそれにあたります。そ のうちの約20%の方がフィリピンで亡くなられました。特攻隊で亡くなられた方々も6名おられまして、この方々はいずれも沖縄ないし、南西諸島方面で亡くなられ ました。

この528名の中には、8月15日以降に亡くなられた方々が93名おられます。終戦も知らずに戦闘ないしは病気で倒れた方もいらっしゃいますし、病気で帰還されて本土に戻って来られてから亡くなった方、あと多いのは、シベリア抑留で亡くなった方々です。また、戦犯としてシンガポールで刑死された学友もおられます。

戦没学友にはお一人一人こうした物語がございまして、調べたことを3年前から一橋祭で発表をしております。今年の一橋祭では沖縄戦を取り上げます。沖縄戦で亡くなられた学友は、先ほどの特攻隊員6名を含めまして38名おられます。この中から10名の方々の生い立ち、小平や国立での学園生活、軍隊でのこと、亡くなられた状況などを個人史としてまとめております。調査には一橋新聞の現役学生も加わっていただき、また若手の如水会の方も一名今年から参加して頂いております。一橋祭は11月の23から25日に行われますので、是非皆さんお誘い合わせの上ご来場いただきたいと思います。

最後にもう一つお願いがございまして、本学の戦没学友の基礎資料、先ほども 先生の基礎資料が大事だというお話が ありましたが、多くの先輩の手で作られた2001年版の戦没学友名簿というのがございます。この名簿をより正確なものにしようということで、3年計画で調査を進めています。未登載の方もおられまして、その未登載が判明されますと、記銘碑に も追加して国立にお迎えするということをしております。このプロジェクトには、お金と人手がかかりまして、如水会会報で

「いしぶみの会」から時々ご寄付のお願いをしておりましてご支援を頂いております。さらなるご協力をお願いしたいと思いますので、よろしくお願いいたします。それでは10月21日、ここ如水会館で行われます秋の追悼会で皆さんにお会いできることを楽しみにして、私の発言を終わりたいと思います。

どうもありがとうございます。

以上

【質疑応答】

Q1:インパール作戦で牟田口中将、佐藤少将の評価については、今では佐藤さんは人間味があり牟田口さんは只やれやれの人というものです。そういう評価が定着するのは1970年代央、30年も経ってからのことで、それまでは、牟田口が良くて、勝手に引き上げた佐藤が悪いとなっていました。そういう評価が30年も続いたのは非常に不思議に感じます。何故そんなに長い時間が必要だったかお教えて頂ければと思います。

A:資料の問題が大きいと思います。敗戦直後、その前後にですが、陸海軍の資料が大量に焼却されています。そのあと、ただ全部を焼却できなくて、米軍が押収しているのです。米軍が押収した陸海軍の資料はアメリカに持ち帰りました。それの第一次の返還が始まるのが60年代ぐらいだったと思います。その重要な陸海軍の資料のほかに、また旧軍人さんから集め、提供を受けた資料があります。これは、当時は市ヶ谷でしたが、市ヶ谷の駐屯地の中の防衛研修所の戦史室、のちの戦史部、そこが保管し、保管というか、管理し、使用していたのです。それはほとんど外部の研究者は見ることができませんでした。研究者の世代で言えば、一般の研究者が、防衛研修所戦史室を曲がりなりにも利用できるようになったのは1970年代です。私が卒論のために市ヶ谷の駐屯地に行ったのが77年です。修士の時は夏休みにもう毎日のように通いましたが、その頃からようやく研究者が、陸海軍の公文書を見られるようになったという事態があって、一般の研究者の場合、端的に言えば、見られない。80年代に入って漸く見られるようになる。それも全てではない。という形で資料が独占されていたことが大きいと思います。

むしろそういう問題に精力的に取り組んでこられたのは、ジャーナリストの方です。インパールでいうと高木俊朗さん。彼が「インパール三部作」という有名な聞き取りに基づく、今でも重要な意味をもつ本ですが、ああいう調査を始めて、それでようやく実態が一般の方の目にも触れるようになってきたという状況がやはり大きいのではないでしょうか。

Q2:資料⑨で大陸命と大陸指のお話がありましたが、大陸命は昭和17年6月に出ているのに対し、他方大陸指の方は昭和19年1月です。この間1年半位もあります。どうも空き過ぎではないかという感じが致します。またインパール作戦が起こる頃インドの独立運動をやっていたチャンドラ・ボースが大東亜会議にインド代表で出てきました。彼はインド独立の志向を持っていました。それが東条英機を動かしたのではないかという説(深田祐介)があります。その辺の事情を教えて頂けたらと思います。

A: この大陸命、昭和17年に出された大陸命、これは初期作戦が成功に終わった後の、その後の一般的な作戦方針を示した大陸命なのです。だからこれが大陸指の根拠には本当はならないはずです。それを無理やり根拠付けている。該当するような大陸命がこれ以外になかったのだろうと思います。そのために無理やりこれを持ってきて、大陸指を出す根拠にして、というふうに読めます。

本来ならばこんな曖昧な大陸命じゃなくて、先ほどお話ししましたように、天皇が、インパールを攻略せよという命令を大陸命で下して、それを受けて参謀総長が大陸指の方を出すべきはずのものを、極めて曖昧な大陸指を、なおかつ、根拠のはっきりしない大陸命を持ってきて根拠付けて、それで命令を発していますので、命令の形の上では相当無理なことをやっている、というふうに思います。本来別物なのです。大陸指の根拠になる大陸命ではないと思います。

それからチャンドラ・ボースの件ですが、やはりこの作戦は一方で無謀だという凄く反対の声がありながら、それでも実行に移された背景の一つは、各戦線とも押され気味で、どこかで一つ大きな戦局の転換を図る。その場合にインパールを占領して、インドの独立運動に火をつけるという政治的な判断が東条の側にあったというのは、今までの研究を見ると、どうもそうだと思います。だから東条もかなり迷ってはいるようですが、やはり最終的には強硬な牟田口司令官のその要望を受けてしまう背景には、そういう政略的な配慮というのですか、純軍事的な作戦上の立場からの許可ではなくて、政略的な、ある意味では政治的な判断があって、それでこの作戦を認めてしまったのではないかというふうに思います。その点ではやはり東条とチャンドラ・ボースとの関係はかなりはっきりあると思います。

Q3:戦没者数のご説明で軍人・軍属230万人のうち5万人位が朝鮮・台湾とおっしゃいましたが、その人達は靖国神社が持っている祭神名票の中にも入っているのでしょうか。

A:これは裁判になっているのではないでしょうか。靖国に合祀されています。日本人軍属、軍人軍属であった台湾人・朝鮮人。その合祀を取り下げて欲しいという韓国側から、遺族からの要求があるのですが、これを靖国の側は「一度合祀した者は、外せない。合祀は取り下げができない」というふうに答えているのが現状です。だから、これは本来ならば、やはり大きな問題だと思います。

それから、遺骨の問題をついでにお話しますと、ちょっと書名が出てこないのですが、最近遺骨に関する本が出ました(楢崎修一郎『骨が語る兵士の最期』、筑摩書房)。南方地域の遺骨の収集に当たっていた法医人類学の専門家の方が書かれた本です。今はもうほとんど遺留品などは消滅してしまって、骨しかない状況です。骨と歯の現状況で、この人は欧米系の人、この人は現地の人、この人はアジア系の人、と見分けて、アジア系の人の骨を持ってきて、遺族が判明した場合には遺族に返す。判明しない場合には千鳥ヶ淵の戦没者墓苑に骨を納める。ということをやっているのですが、僕は専門家じゃないので断言できませんが、日本人と朝鮮人の方の区別ってできるのですかね。アジア系と括られるだけで、できないと思うのです。そうすると、実は千鳥ヶ淵の戦没者墓苑に日本兵の骨として、もうこれ砕いて、クラッシュして詰め込んであるのですが、その中に実は朝鮮人の軍人軍属の骨が、とくに南方地域の場合は飛行場の建設で大量の朝鮮人軍属を動員していますので、含まれている可能性もあります。

Q4:特攻について、陸軍は天皇の裁可を得られなかったが、海軍の方は天皇が裁可しているとのご説明でしたが、この陸海軍の差というのは一体どういう理由でしょうか。仮に片方にだけ裁可していれば、すでにこの時点では特攻は一般にも知られていたので何故そういう差別が起こっていながら誰も不思議に思わなかったのか、その辺を質問させて頂きます。

A: これは未だ分からないです。陸軍の側の議論はここに書いてあるように、天皇の名前で特攻を命じるのはあまりにもひどいと。天皇の徳を汚すという考え方ですが、海軍の場合そういう形での議論がなされた節というか、資料があまりない。ただ海軍の方が非常に大規模な特攻隊を、例えば「神雷」という部隊。「桜花」という爆撃機の下に吊るしていくグライダーですが、ロケット噴射機付きのグライダー、特攻機ですが、専門の特攻機を作って、かつかなり大規模な部隊、「神雷」部隊というのを編成しているのです。その関係があるのかなとも思いますが、ちょっとわからない。

とくに考え方の面で、海軍はどういうふうにこの問題を考えていたのか。天皇の責任の問題とのかかわりでどう考えていたのか、ちょっとわからない。あとは、根拠になっている部隊を編成する軍令です。これが全部どうも残っていないようなのです。本来はもっとあるはずだ。この後藤さんは相当調べられているようですが、自分でも調べてみないと今のところそれ以上は残念ながらわからないです。今後の課題にしたいと思います。

Q5:実は私の叔父が南方に行って帰還しておりますが、うちの父がよく「兄貴は 南方ボケだから」とか「南洋ボケだから」と昔言っていました。伯父も父も故人になってしまったので詳しい話は聞けませんでしたが、これも「戦争神経症」だったのでしょうか〔笑〕。後で思うと「あれは何だったのだろう」と思うのですが。

A:それはありえますね。米濱泰英さんが如水会に寄せられた会員からのたよりをまとめられた本が出ていますが(『一橋人からの陣中消息』、オーラル・ヒストリー企画)、その中にもやはりそういう戦地ボケと言われるような症状の人が出てきます。そういう点でその可能性はあります。精神科医の専門の人にその戦記とかを読み直してもらって、そのなかでこれはどうも戦争神経症ではないかというふうに分析していく必要があると思いますが、その可能性はやはりかなりあります。

それから遺族会なんかでの回想を見ていても、夫がずっとうなされている。寝ているときに毎晩のようにうなされているという経験、体験をしている人の手記とか回想記とか、かなりたくさんあるのです。何か戦争体験の中で非常につらい経験をもった方々がやはり戦後までその問題を引きずって来たということは確認もできますし、あり得ることです。

それから戦争神経症の患者はそのまま国府台の陸軍病院に送られたのですが、戦後もずっと、かつての陸軍病院というのは、戦後国立病院に皆改変されて行きます。国府台病院も国立病院になって、つい最近まで、敗戦後も病院にいた兵士がいるのです。戦争神経症を発症したまま、引き取り手もいない。やはり遺族が、というか、家族が引き取らないのだと思うのですが、そこで敗戦後もずっと病院にいた人たちがいて、数年前の報道でも、何名、数名とかという報道がなされていましたので、すごく重い問題ですが、戦後もそういう形で、治らないという問題があるのです。

それと、脱線しますが、戦争神経症の場合、問題がなかなか難しいのは、軍医の側は疑って見ているのです。これは詐病ではないか。病気を詐称して軍隊を逃れようとしているのではないか。というふうにして疑っていますので、そこがもうすでにお医者さんと患者の関係じゃなくて、恩給をたくさんもらいたいのではないかとか、こういう摘発する目線で見ちゃうので、そういう人たちが、負った心の傷の深さ、それが日本社会の中では十分気づかれないまま、PTSD(Post TraumaticStressDisorder:心的外傷後ストレス障害)の問題が出てきてようやくそういう問題にも注目が集まるようになった。というような状況です。

ただし、詐病もいます。それも抵抗の一つの仕方だと思いますが、終戦と同時に、元気になっちゃう人が出るのです。これは意識的に軍隊を拒否するために病気を装っている。それはそれで僕はその人たちの信念だと思うので、卑怯だとか臆病だとかいう価値観で判断すべき事柄ではないと思いますが、そういう人達の存在も一方ではある。

それから脱走した人。これも別のシンポジウムで脱走兵のことはどうなっているのですかと聞かれて、脱走兵の場合、例えば軍人恩給とか遺族年金とか、これがもらえるのかどうか。そうすると日本社会では貰えていないとすると、日本社会としては、脱走した人はいまだに不名誉な軍人であるというふうに社会として判断していることになりますね。

70年代にブーゲンビル島という島でもうこれも飢餓の島なのですが、この島で処刑された兵隊さんたちがいて、これはもう食料不足になってしまったので、みんなバラバラになってジャングルの中に散らばって、食料をかき集めながらなんとか生きていた。その人たちが、終戦と同時に出てくる。それを、敵前逃亡だと言って、軍法会議の手続きを省略して、射殺しているのです。これ結構事例が多いのです。明らかな違法行為です。これは国会で問題になって、その射殺された、軍法会議での手続きを踏まないで射殺された兵士たちに関しては、名誉回復がなされて、確か恩給等々も遺族の方がもらえるようになったと思うのですが、それ以外の人、脱走兵のことも「どうなっているのだ」ということを韓国の研究者から聞かれて「よくわからないのです」とタジタジとなりましたが、やはり調べていく必要があると思っています。

Q6:資料②に「持続期間、投入兵力の投下資金、死傷者数、日本および関係各国に与えた影響力などあらゆる点で日中戦争は有史以来日本が経験した最大規模の戦争であった」とありますが、前の頁の軍人軍属の戦死者230万人のうち日中戦争は46万人で20%と書いてありますので、死傷者数などからいうと日中以外の方が遥かに大きいのではないか思いますが、ここで「あらゆる点で日中戦争が…最大の戦争であった」とおっしゃっている点についてもう少しご解説願えればと思います。

A:これは僕の文章ではなくて防衛研究所の等松さんの文章で、おそらく日中戦争以前の戦争、近代日本が体験した戦争の中では、日中戦争が多いという意味だと思います。これまでの戦争の中で、という意味で。ただ、たしかに戦死者数では少ないのですが、一つは、この本の中でも書きましたが、日中戦争で初めて臨時軍事費というのが成立するのです。臨時軍事費というのは日清戦争、日露戦争、第1次世界大戦、日中戦争。この四つで成立した特別会計。これは軍事機密という理由で、内容の審査が議会もできないし、大蔵省の審査もできない、そのためにどんぶり勘定でダーッと議会で20億とかで通って、戦費として使うのです。

最近わかってきたのは、その戦費の大部分は、日中戦争の戦費として使わないで、つまり、日中戦争の戦費として成立した臨時軍事費を日中戦争に関するその戦費だけではなくて、大部分は軍備の充実、対米軍備、対ソ軍備の充実に転用しているということが確認されています。日中戦争の戦費という名前で巨額の予算をとって、それを対米戦とか対ソ戦準備に順次転用しているのです。その日中戦争がなければ、アジア・太平洋戦争というのはありえなかったというふうに言われるのですが、その軍備の充実によって、少なくともアジア・太平洋戦争の開戦時には、太平洋においては、アメリカを凌駕する、上回る軍事力を当面は持っていたのです。

それは日中戦争の結果であって、日中戦争の臨時軍事費がなければ、アメリカと戦争するということにはまずならなかったと思います。そういう点で、日中戦争が非常に重要だということと、連合国の中から中国がやはり脱落しないということ。これは中国の国民政府はかなり動揺します。アジア・太平洋戦争の場合で言えば、大陸打通作戦という大規模な作戦を日本軍が展開しますし、共産党と国民党との対立が激化して、一部では武力衝突が起こる。その中で動揺するのですが、それでも連合軍として踏みとどまっている。そのために日本軍は常時、多いときで100万近く、少ないときでも70万ぐらいの兵力を常に大陸戦線に中国戦線に貼り付けておかなければならなかったのです。そのことの意味、中国の抗戦のもっている、抵抗の持っている意味ですが、これはやはり重視すべきだと思います。

ただ繰り返しになりますが、この等松さんの文章は、少し意味の取りづらい文章ですが、これまでの戦争の中では最大の戦争というふうに僕はよく読みました。

Q7:昨晩のNHKテレビでノモンハンのことをやっていまして、そこでも同じようなことが起こっているようでした。例えば上官が曖昧な判断を下すと指示も当然曖昧になるのですので、そのせいで下の兵隊レベルの人達が非常に苦労するという事態がありました。先程のインパールでも同じようなことがあった。どうしてそういうことになるのか。それが日本人の何処か奥に潜んでいる特徴が出てくるものなのか。最近の国会で問題になったように官僚の責任の形は取られるが、政治家の責任は取らない、表に出てこない。現代もそうだとすれば、ずっと日本人の底にそういうものが何かあるのかど うか。その辺どの様にお考えになるか、お聞かせ下さい。

また遺骨に関してですが、米軍機が毎月来るのでラオスの空港を整備するということがありました。米軍機はベトナム戦争の遺骨収集に来る。先般の北朝鮮とトランプの会談でも遺骨の話が出ましたが、アメリカ人は遺骨を大事にすると感じられました。日本人の場合と遺骨に対する考え方の違いがあるとすれば、どういうものか教えて頂ければと思います。

A:遺骨の方ですが、一応日本人の場合は遺骨、遺体がないお葬式の場合、それは非業の死と言われるのです。だから必ず遺骨なり、遺体なりが戻って来るということを前提にして死者を弔う、というふうになっているのです。ただ、厚生省の方針、政府の方針との間には、そういう感覚とずれがあって、あまり熱心に取り組まれてこなかった。むしろ遺族会とか戦友会の人たちの強い要望があって、漸く本格的な遺骨の収集にとり組んだという面があります。

アメリカの場合は僕も最近初めて知ったのですが、やはり行方不明者の調査、これすごく徹底的にやっているのです。今でもアジア・太平洋戦争の行方不明者とかのデータを集めて調査する大規模な部局があって(国防総省捕虜・行方不明者調査局)、そこは日本側とかなり違うなと思います。

それから私の本が曲がりなりにも売れた一つの理由は、やはり今発言されたように、そういう要素がいろいろ組織の中にあるのではないかと、その面では日本の組織の体質は今も変わってないのではないかというふうに感じる方がいて、そういう方に大分読まれているようなのです。

確かに何かやはり組織の問題、組織文化の問題として、変わらないものがあると一方で思いますが、ただこの問題でいうと、やはり制度、システムにも問題があって、戦前の制度でいうと、各軍司令官は天皇に直属なのです。参謀総長に直属しているわけじゃなくて、だから参謀総長の指揮下に入っていれば参謀総長が命令を発することができますが、あくまで参謀総長の立場というのは、形式上は天皇が発するという大陸命、海軍でいえば大海令、これを補佐する。天皇の発する統帥命令を補佐する立場、「補翼」といいますが、それに過ぎないのです。そういう関係にあって、各軍司令官は天皇に直属している。連合艦隊司令長官も天皇に直属している。だから、軍令部総長や参謀総長の権限が逆に弱い。制度上弱い。というところがあって、そこがやはり大きな問題なのではないかと思います。

少なくとも、参謀総長のもとに、各軍が組み込まれるような体制でなければ、や はり軍司令官が牟田口のように「どうしてもやるんだ」と言った場合はなかなかブレーキがかからない。海軍でも連合艦隊司令長官の山本五十六が「ミッドウェー島を攻略する」と、「真珠湾を攻略する」というふうに言えば、それはなかなか止められない面があるのです。これは博打、とくに真珠湾の場合はかなり博打に近い作戦ですが、そういう面で批判が当然あるのですが、それに歯止めがかからないのは、各軍司令官や連合艦隊司令長官が天皇に直属していて、参謀総長や軍令部総長の権限が弱いという制度の問題の両方あるように思います。

Q8:ご著書の中に、あるパーセンテージの日本兵が自ら降伏し少なくとも抵抗することなしに捕えられたという事実があると。その理由として無能で責任を果たそうとしない将校への批判の高まりなどがあったという米軍のレポートを紹介されていますが、こういった事態を避けるための軍法会議の、不法行為を働けば 上官を訴える裁判の件数が増えて行くとか、もしくは判決からそういう傾向が読み取れるとか、もし何か、軍法会議の有効性についてお調べになられたことがありましたらお教え願えませんでしょうか。

A: 最近難聴気味なので正確にお答えできるかどうかちょっと自信がないのですが、軍法会議の資料自体はやはりこれずっと非公開だったのです。二・二六事件という、あんな大事件の軍法会議の判決書すら10数年くらい前になってようやく公開された。各軍の軍法会議の資料は、各地検だったと思うのですが、地検が保管をしていた。数年前にそれがようやく国立公文書館に移管されました。それで軍法会議についての研究が進む前提ができてきたのですが、ただ、おそらく実際に始めた場合に、一番ネックになるのは個人情報だということです。

今公開されている軍法会議関係の報告書の類で簡単なものがいくつかネット上でもアジア歴史資料センターで見られますが、個人名は全部墨塗りになっている。そういうことがあるので、国立公文書館が軍法会議の資料をどこまで開示するかどうか。それが今後大きな問題になってくるのではないかと思います。

軍法会議自体に関しては、北博昭さんという在野の研究者の方がこつこつと調べられただけで、殆どまとまった研究はありません。NHKがやった『戦場の軍法会議』(NHK出版)、それは軍法会議の手続き抜きの処刑に関して追っている。北さんの研究とこの本が殆んど唯一の 成果ではないかと思います。

(拍手)

(この「抄録」の文責は新三木会事務局にあります)

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