「チンギス・ハーンの世界帝国―旅から学んだ歴史」(2)

P大島昌二 2018.3.3

なんで今頃チンギス・ハーンだ?」と問う人がいるだろう。答えは少なくとも2つある。

みすず書房の月刊広報誌『みすず』は毎年年頭に「読書アンケート特集」を出している。今年号は貸し出しをしないから一年前のものを借りてきた。日本の150人もの知識人(外国人も数人)がその年に読んだ本を5冊、できればコメントを付して推薦するという企画です。私はそのリスト、つまり750冊ほどを斜めに読んでみたのですが、なんと東洋史の本は一冊もない。東洋関係では写真集が一冊だけあった。中野美代子訳『バーバリアン・レンズ―中国における西洋廃墟の写真史』です。これは何を意味しているだろうか。開いた口がふさがらないと言うべきだろう。東洋についてのわが無知のよって来たるところである。私ばかりではない「日本人の」と言っても過言ではないだろう。この無知は正さなければならない。

第二に最近、明治維新150周年を前にして維新史の見直しの機運がある。維新史は「薩長史観」によって粉飾さていることに気づき始めている。時代を遡っても、われわれの少年時代の英雄は忠義の臣、楠木正成だった。正成の銅像は戦中の金属供出を免れて今でも皇居前の広場に残っている。高校の修学旅行では大阪から船で神戸へ行き湊川神社の「嗚呼忠臣楠子の墓」に詣でた。(その覚悟の死は今では逆賊徳川に対峙した真田丸の幸村の死にとって代わられた。)

思想家では門下から維新の英雄を輩出した吉田松陰がナンバー・ワンだった。今回何度か引用した藤堂明保氏は松蔭の『講孟余話』によって、松蔭は孟子の「民を貴しとなす」の条で君臣一体を説き、明治以来の日本を支配した「国体論」の原型を示しているという。曰く「(君臣一体の)この義を弁ぜずして、この章を読まば、毛唐人の口まねして、天下は一人の天下に非ず、天下の天下なりなどと罵(ののし)り、国体を忘却するに至る。」(藤堂明保『狂——中国の心・日本の心』より)

松蔭はここからさらに「余をして志を得せしめば、朝鮮支那はもちろん、満州蝦夷およびオーストラリアを定め、その余は後人に留めて、功名の地となさしめんのみ」と進む。藤堂氏はこのような大言壮語を目にするたびにショックを受けた。「私どもが育った昭和の初年に、日本を支配していた思潮というものは、すでに松蔭においてあらまし整っていたのである。」これは歴史の教訓。島国の独善主義は今に残っている。

フビライ・ハーンの世界帝国

さて再び「チンギス・ハーンの世界帝国」に戻る。前稿ではチンギス・ハーンに対するヨーロッパからの一面的な評価を是正することに力を注ぐ必要があった。チンギス・ハーンが築いた帝国はただの嵐として吹き荒れただけだったのだろうか。これに関して思い起こされるのは北欧のヴァイキングである。情け容赦のない海の支配者として知られるヴァイキングも厳しい自然条件の下にあって人口の増加、耕作地の不足、食糧難、部族抗争の激化によって通商と掠奪、植民へと駆り立てられたのであった。

近年、英国ではヴァイキングの跳梁が英国社会に残した影響を学び直している。9世紀末にはヨークシャー北部からテムズ川にかけた一帯はデンマーク人の支配下にあった。記憶によって一例をあげると‘Yorkshireman” (ヨークシャーの男)は独立自尊の頑固者という世評を耳にしていた。これをウイキペディアで確かめると、ヨークはヴァイキング王国の首府であり、ヨークの都市名もヴァイキング由来である。「ヨークシャーマンの容貌はサクソン人よりははるかにデンマーク人、あるいはヴァイキングに近い。」イギリス人の知人からは、ヨークシャーでは北欧系の言語の影響があって、会話がさっぱり聞き取れなかったと聞かされたばかりである。

(ヴァイキングはイギリス諸島に限らず、大河や湖沼に乗り入れてヨーロッパの内陸に広く深く浸透している。ロシアではスェーデン渡来のヴァイキング〈ロシア語ではヴァリャーグ〉がキエフやノヴゴロドを建設し、主としてデンマーク人からなるヴァイキングはフランスにノルマンディー公国を築き、その延長線上にシチリアのノルマン王国を建設している。)

中国の西域進出は先に見たタラス河畔の唐軍の大敗によって一頓挫をきたしていた。その後、モンゴル帝国の登場が事態を一変させることになるのであったが、モンゴル軍はポーランド、ハンガリーの攻略を目前にしながら太宗オゴダイの死(1241年12月)に際会して突如兵を引き、後継者争いに忙殺されることになる。これによって西洋は救われ、モンゴルとの北西の境界が確定した。またクビライの治世の始まった1260年にはエジプトのマムルク王国がモンゴル軍に勝利して南西の境界線も定まった。

モンゴルの世界帝国で最も著名なのは言うまでもなくその世界帝国建設の英雄、チンギス・ハーンである。しかし、中国元朝の初代皇帝として歴史にその名を残し、元寇によって日本人の心胆を寒からしめた世祖フビライの功績にはチンギス・ハーンに匹敵するものがある。チンギスの孫であるフビライはモンゴル帝国の第5代皇帝(在位1260~94)であると同時に元の初代皇帝(在位1271~94)として君臨した。

ジャック・ウェザーフォード氏は以下のように言う。「フビライ・ハーンのすぐれた特質は、いかにモンゴル軍が強大で、その武器が進んだものであっても武力だけでは中国全土を征服できないと悟っていた点にある。祖父のような軍事的技量には欠けていたにせよ、クビライが一族のだれよりも知力にすぐれていたことは明らかだ。……彼はこれらの才能を自分の領土の経営に用いたが、さらに重要なのは、領土を南方に拡張するのに活用したことである。」(中国の元時代の治世に関してはウエザーフォード氏の『パックス・モンゴリカ』の第8章(「フビライ・ハーンと新モンゴル帝国」)および第9章(「黄金の光」)、が最も詳しい。したがってここからしばらく引用は同書からであり、内容も大筋において同書の記述に従っている。)

ウエザーフォード氏が岡田英弘氏の「中国人に残されたモンゴル帝国最大の遺産は、かれらが残した中国という国そのものである」という言葉に賛意を示していたことはすでにご紹介した。ウエザーフォード氏はこの岡田氏の言葉に続けて以下のように言う。

「モンゴル人はさまざまな中国語の方言を話す地域をすべて結び付けただけでなく、隣接するチベット人、満州人、ウイグル人の王国と、数十におよぶ小王国や部族国家をそこに加えた。モンゴル人が治める新しい国は宋の5倍の大きさがあった。表面に現れた公式の中国的な国風はたしかにモンゴルのものではなかったが、中国のものでもない。クビライ・ハーンが創造したのはハイブリッドの文化だった。そして彼の努力により、この文化は予想を超えた規模と重みで世界に影響を及ぼすことになる。」

これまでわれわれの念頭にあったモンゴル帝国の領土の拡張は西方に向ってのものだった。フビライは南宋を滅ぼしてチンギスのなし得なかった中国の統一を果たした後、日本、ジャワなど海外への遠征には失敗したものの、安南、ビルマを従え、高麗を服属させた。そして泉州港からホルムズまでの海上交易路を整備し、海外移民を奨励し、海洋国家への道を開いた。海上ルートで開かれた市場では砂糖、象牙、シナモン、綿などの新奇な物品を手に入れることができた。

元王朝は確かに征服王朝であった。しかし、その重点は征服国家から交易国家へと転換していることが見てとれる。遊牧経済とは多分に交易に拠って立つ経済であるが変革はそればかりではなかった。松田教授のいう「交易のための統制組織」、つまりオーガナイザーとしての能力が発揮されたものと見てよい。

「モンゴルの商業的影響力は、その軍隊よりはるかに遠くまでおよび、フビライ・ハーンの治世のうちに『モンゴル帝国』から『モンゴル株式会社』への移行が起った。13世紀から14世紀はじめにかけて、モンゴルは国中に交易路とほぼ30キロから50キロ間隔に置かれた駅を維持した。駅では輸送動力としての動物ばかりでなく、難路を行く商人の道案内も提供する。」

シルクロードの観点からすれば、この交易路と隊商宿のネットワークが重要である。モンゴル政府は初歩的なパスポートとクレジット・カードを組み合わせた通行証を発行して旅行者の安全を保障した。私が2002年9月、トルコでカッパドキアからコンヤへ向かった道は旧シルクロードだということだった。その途次で見学した隊商宿(キャラヴァンサライ)は宿というよりは平地に建つ城であった。堅固な城壁のような壁で守られた建物の内部には中庭がありその中央には小型のモスクが建っている。突き当りには教会ほどの広さの天井の高いホールがあり、ロバ、ラクダ、ウマを収容した。その明り取りのある天井の下、壁面の黒ずんで汚れたままの内部は往年のたたずまいをそのままに伝えるもののようであった。中庭の両側は宿泊施設で250人まで収容できた。男女別のトルコ風呂もあり旅人は国籍を問わず3日まで無料で滞在できた(添付写真参照)。

西暦1368年までの10代98年に及ぶ元代の政治をウエザーフォード氏によって具体的に見ると以下のようになる。

—―それまで貶められていた商業の地位を引き上げ、封建遺制からの脱皮を可能にした。商業の振興は工業の振興につながった。また遊牧民の伝統的な生活様式を変えて農業促進局を創設し、収穫量の改善を図り、それぞれの地域の気候、土壌、水はけの状況に最適の作物の栽培を奨励した。移植する野菜の種類を増やし、新しい品種や交配種を開発した。農作物以外にも織物の原料となる綿などの作物や染料、油、薬品などの原料にも関心を払った。紙幣を導入してその流通を促進し、広い領土内での金融の円滑化を推進した(後出)。

初等学校制度を整備した。旧来の科挙を廃止して幅広い外国人、とりわけイスラム教徒を重用し、ペルシャのフレグの王国から官吏を大量に雇い入れた。可能な場合はマルコ・ポーロのようなヨーロッパ人も雇った。返事は得られなかったがローマ教皇やヨーロッパの諸侯に学者と知識人を派遣してほしいと繰り返し要請した(後出)。幅広い文芸活動を許可し、一般人が使う口語体の作品を奨励した。元曲で知られるように戯曲の黄金時代を築いた。

各種の行政部門には中国人と外国人が混在するようにしてどの役人も自分と異なる文化、異なる宗教の人間に囲まれる状況を作った。官僚政治のかわりに小規模のクリルタイをモデルにした大小の協議会を開かせた。決定は1人の役人によってではなくグループによってなされた。学究的な無給の役人が依頼人から法外な報酬を受け取る古来の制度を廃止して有給の役人をこれにあたらせた。(協議会の活用と役人を有給にする制度はモンゴルの統治が終るとともに姿を消した。それは明王朝が権力の座つくやいなや廃止され、伝統的な上意下達の官僚制度に逆戻りし、参加型行政の実験は20世紀までふたたび試みられることがなかった。)

モンゴル帝国衰亡史

モンゴル帝国の衰退についてウエザーフォード氏はペストの流行をその原因を真っ先に挙げている。体内の酸素不足と皮膚の下の乾いた血液のせいで、患者の身体は黒く見える。その劇的な症状から、黒死病として知られるようになるこの病気はノミの体内に生息するバクテリアは、明らかな証拠はないが華南に発生しモンゴル兵が北に運んだと信じられている。(ヨーロッパ社会を恐怖のどん底に陥れた黒死病はアジア伝来というのは通説ではあっても中国の華南という説はここで初めてお目にかかった。)

年代記編者の記録によれば1331年には華北の人口の90パーセントが死亡し、1351年までに中国は人口の2分の1から3分の2を失ったという。このペストは交易に伴う伝染病となり、モンゴルの道路やキャラヴァン隊は絹や香料のような奢侈品ばかりでなくノミの交通網となって疫病を運んだ。船の狭く閉鎖された環境はバクテリアの理想的な培養器となり、ペストは船と同じスピードで伝播した。その波は1348年にはイタリアの諸都市を席巻し、6月にはイギリスに上陸し、さらに北大西洋を渡って1350年の冬までにグリーンランドに達して同地のヴァイキング集団を滅亡させている。

1332年にモンゴルの夏の都、上都で宮中を大混乱に陥れ、大ハーンの交替が相次いだ原因は曖昧なままに残されているが、この疫病だったと見られる。疫病は中国を疲弊させ、人々の生活基盤を覆した。病気の真の原因も感染経路も不明なままに人々は都市に出入りする商品や人の流れを閉ざした。ペルシャやロシアに住むモンゴル人は中国やモンゴルに住むモンゴル人から隔絶され、モンゴルを支配する「黄金家族」は交易と貢物を絶たれ、その存続も危機にさらされた。地域ごとの政治的な結束は緩やかでも、モンゴルの支配家族は物質的利益を相互に保証し合う制度を発展させて、文化と交易のうえでは統一された帝国を維持していた。しかし事ここに至って帝国の中枢は瓦解し、複雑な制度は崩壊を始めた。

チンギス・ハーンは死の直前に、貴金属や絹によって裏打ちされた紙幣の流通を承認していた。フビライの先代であるモンケ・ハーンは財務省を創設して紙幣の管理を集中的に行うことにした。フビライは重くてかさばる金銀や硬貨に代わる紙幣を帝国内のどこでも使える流通システムを構築して交易の促進を図った。マルコ・ポーロが訪れた頃、桑の樹皮で作られた紙幣は広く活用されていた。「それ(紙幣)を拒めば死刑になる。しかし、大半の人びとは紙幣で支払らわれるのをまったく厭わなかった。…何でも紙幣で購入できたからである。」

紙幣のあるところには当然、信用取引と金融破綻の可能性が生ずる。元王朝の崩壊を端的に物語るのはその支配者たちが世界に先駆けて、細心の注意を払って築き上げてきた貨幣制度が急速に信用を失ったことである。紙幣の価値が下落し、激しいインフレーションが起り、1356年には紙幣はまったく無価値なものになっていた。

チンギス・ハーンの築いたモンゴル帝国がその広大な領域をどのように支配したかを見たからにはそれがまた帝国の四つの行政区分でどのように瓦解して行ったかかも見なければならない。急激な崩壊はまずイル・ハン国(ペルシャ)で起こった。そこではモンゴル人は殺されるか吸収されるかして姿を消した。元(中国)では1368年に大ハーンのトゴン・テムル(順帝)と6万人ほどのモンゴル人が明の暴徒から逃れてモンゴル地方に逃げ帰った。黄金のオルド(ロシア)ではモンゴル人は盟友であったトルコ人と融合してトルコ・モンゴル系の幾つかの異なる民族集団となって生き残った。モグーリスターン(モンゴルの領土の意のペルシャ語)はチンギス・ハーンの血を引くと称するティムールがサマルカンドを都とするティムール帝国(1370~1507)を建設してモンゴル帝国の復活を図った。ティムールは横暴、残虐で知られ、それがモンゴルを代表する汚名となって長く残った。

ティムールの帝国が滅びた後にティムールの5世の孫バーブル(チンギスの次男チャガタイの13代目の孫でもある)が1519年に建てたムガール帝国(1526~1858)はその孫アクバルの下で最盛期を迎えインドに繁栄をもたらした。ムガール王朝は最後の皇帝がイギリスによって退位させられる1858年まで存続した。

エドワード・ギボンの著した『ローマ帝国衰亡史』(”The Decline and Fall of the Roman Empire”)は世紀を越えるベストセラーとして世に残った。モンゴル帝国の衰亡史も、ローマには遠く及ばないまでも、語るべき多くのものを持っている。その傷跡はモンゴル政権下でイスラム化したユーラシア世界の不安定な政情にも残されている。

西ヨーロッパの歴史に及ぼしたインパクトも忘れてはならない。モンゴル帝国が崩壊した後々まで「人々はモンゴルがもはや存在しないことを容易に信じようとしなかった。なかでもヨーロッパほど、モンゴル帝国の存在を人々が長く信じ、重要視していた地域はほかにあるまい。」(これには後年のティムール帝国も一役買っているかもしれない。)

以下、幾分横道にそれることになるが、西洋を西洋たらしめた(西洋を今日の歴史の途上に導いた)コロンブスのアメリカ発見にも言及しておきたい。

コロンブスがアメリカ大陸発見の航海に乗り出したのは1492年8月、元王朝の崩壊から数えて124年後のことである。彼はマルコ・ポーロの旅行記を携えてイスラム圏を回避するモンゴル帝国への海のシルクロード探索の旅に出たのだった。コロンブスが目指したのはもちろんアメリカ大陸ではなく、またインドでもなく、モンゴルの宮廷だった。(当時インディア、またはインディアスはインドだけではなくヨーロッパから見てさらに東のアジア全体を意味していた。)コロンブスはイザベル、フェルディナンドの両国王に宛てた書状で次のように述べていることからもこれは明らかである。「…私は両陛下に、インディアの地、ならびに我らのロマンス語で諸王の王を意味する大汗王(グラン・カン)と呼ぶ君主についてご報告申し上げましたが、この王並びにその先代たちはたびたびローマに人を派して、我らの聖なる教えを教示する博士をおくられるようにと要請したにもかかわらず、教皇はこれを聴許されなかったのであります。」(『コロンブス航海誌』バルトロメー・デ・ラス・カサス)

ラス・カサスの写本で提督と記されているコロンブスはキューバで「現在居る場所が大陸であることは確かであり、サイトとキンサイから、それぞれおよそ100レグア離れた地点にある、…」と述べている。この2つの地名はマルコ・ポーロが『東方見聞録』で紹介したものでそれぞれ泉州と杭州を指している。

1970年代初頭の石油ショックの後に私はサウジ・アラビアを訪れたことがあった。財務省は首都のリヤドへ移る直前でまだジェッダにあった。ジェッダの空港の目の前には多数のマンションが立ち上がっていたが遊牧のベドウイン族はそこへ移り住まずに広場の星空の下で野宿していた。

石油の供給を絶たれれば西洋文明は行き場を失うが、アラブ人は砂漠へ帰ればそれですむのだと言う人たちがいた。モンゴルの故地に戻ったモンゴル人はそこでフェルトで包まれたユルト(ゲルあるいはパオともいう)の生活に戻った。「戻った」というのは正しくない。彼らは大都(北京)でも広大な紫禁城の敷地内のユルトで生活していたのだった。

外国公館はまだジェッダに残っていて、私は同僚たちと一緒に英国大使館の婦人たちによるギルバート・アンド・サリヴァンの「ミカド」の上演を見学した。この演目はロンドンでの初演当時、日本の皇室を侮辱するものとして強い抗議を受けた歴史をもっているがここでは日本大使館の婦人たちが衣装などを援助して協力していた。(繁文縟礼の官吏の中に、誰か昔の外交事件を知っている人はいただろうか?)

帰路、英国航空が上空に飛び上がるや否や乗客の間で歓声が沸き起こった。ようやくアルコールが解禁されるのである。久々のアルコールを口にしながらも私は眼下に広がる景色にも目を奪われた。紅海が真下に広がるかと思ううちに細長いナイルの水路が長く続いていた。これは脳裏に刻まれた生涯の絶景のひとつだったと言ってよい。

添付写真

1) キャラヴァンサライの中庭。Sultanhanはアラビア語で「サルタンの隊商宿」。写真が見当たらないので絵葉書で代用した。写真左上は正面入り口、左下は中庭の小モスク。

2) モンゴル帝国の地図(再録)。黄金のオルドは「ジョチ・ウルス」、イル・ハン国は「フレグ・ウルス」、モグーリスターンは「チャガタイ・ウルス」とも呼ばれる。元は「大元ウルス」である。

3)付録:中国の絶景10選。自前の写真の不足を補うためにユーチューブのリンクを貼付した。中には今回の旅行で眼底に焼き付けたものもある。

https://youtu.be/m9BhKD44B_o

西安から敦煌まで(続)…P 大島昌二 2017.9.26

西安から敦煌まで…P 大島昌二 2017.9.20

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