吉田 茂 の自問 2016.9.25

吉田 茂 の自問 2016.9.25

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十年前、近くの千里金蘭大学の公開講座「日記に見る戦後60年の軌跡」を受講、元阪大教授多胡圭一先生(近代外交史専攻)を囲み、5人の少数のため、ゼミ形式で、円卓にてわいわい議論し、各人が関連する本を一冊ずつ紹介せよ、ということになりました。

小生の当番のとき、発表した小論「吉田茂の自問」は、戦後日本の現在、未来を考察するとき、未だ参考となり、賞味期間を過ぎていないと考え、ここに提示します。

なお,多胡先生からは、書を読み書きする際、FactとFiction又はImaginationのMIXには、特に留意すること、そのMIXの許される範囲(小説、随想、小話など、歴史小説は小説として読むこと。)と否との区分を見分ける力、それが教養の基本要素の一つだと教わりました。

[ 吉田 茂 の自問 ]

敗戦、そして報告書 「日本外交の過誤」 302ページ。小倉和夫。2003年9月30日初版。藤原書店。

1 本報告書 「日本外交の過誤」は、1951年1月(昭和26年)、月末に講和条件を話し合うダレス特使の来日を控え、又、朝鮮戦争を背景として持ち出される日本再軍備問題への対応を腐心していた吉田首相が、外務省政務局の若手課長を呼び、

“日本外交は、満州事変、支那事変、第二次世界大戦と幾多の失敗を重ねてきたが、今こそこの失敗の拠ってきたところを調べ、後世の参考に供すべきものと思う。これらの外交に当たった先輩にその意見を聞くのもよし。調査は上司とではなく、若い課長の間で行い、その結果を報告してもらいたい。“

命を受けた政務課長斉藤鎮男と若手同僚課長等は、約3ヶ月の日時をかけ、満州事変以来の日本外交の歩みとその過誤につき、分析評価をとりまとめた。

2 上記分析評価は、外務省機密文書とされ、約50年後の2003年4月、初めて公表された。文書は、満州事件など主な重要事件を8項目に区分、時代順とし、最後に総括として結論を含めた約50ページの本文、即ち調書が中心をなしている。

加えて、本調書に対する外務省先輩の所見を、斎藤課長の後任藤崎万里課長が次の6名についてその要旨を記している。

堀田正昭大使、有田八郎大臣、重光葵大臣、佐藤尚武大使、林久次郎大使、芳沢謙吉大使。

又、本調書作成の過程では、大量の作業ペーパーが作られ、これをベースに同一人物が調書を纏め上げた由。作業ペーパーは、対中外交、対ソ外交、対南方政策のように地域別にまとめられ、事実経緯と批判部分が明確に分けられている由(本書には、この作業ペーパーは掲載されておらず、著者が本書付録2で解説している調書と作業ペーパーのニュアンスの違いは、ここでは確認できない。

3 著者、小倉和夫(1962入省、元フランス大使、現青山学院大学教授)は、本書の構成を、検証の今日的意味としての前置きに続き、調書の各章の前に、当該事件の背景、一般情勢、事実関係、外交的コメントを著者の視点、分析から述べている。

以下の取り上げた問題点、分析、コメント等は、その文章を含めて大半著者からの引用である。但し、対象が広範囲であるため、前置き、第1章、第2章、結論、に絞り、小生(田中)の関心の在るところに止めた。

調書の重要事件8項目の区分は以下の通り。

① 満州事変、国際連盟脱退

② 軍縮会議脱退、日独防共協定締結

③ 支那事変

④ 日独伊三国条約締結

⑤ 日ソ中立条約締結

⑥ 仏印進駐、蘭印交渉

⑦ 日米交渉

⑧ 終戦外交

そして、結論。

4 前置き

日中戦争、日米開戦、そして全面降伏、この悲劇は「軍部の暴走」という舞台装置のみで演じられた訳ではない。

戦争は、常に軍略であると同時に、外交の所産である。(注)クラウゼヴィッツの戦争論1832は政治の戦争に対する優位性を述べ、後世の戦争感に決定的な影響を与える。即ち、戦争は、他の手段による政治の継続である。戦争は外交の一側面。

第2次世界大戦以降、81件の戦争の内、64件が内戦(1985の資料)、死者の割合では、軍人対民間人では、第1次世界大戦で95:5、第2次世界大戦で52:48、朝鮮戦争で15:85、ベトナム戦争で5:95である故に、戦争の悲劇における外交のあり方、是非を問わねばならず、過去を学び、現在の問題の本質を考えねばならぬ。例えば、

イ 米英主導の國際秩序は、果たして公平なものであるのか、その秩序を守る側に日本が立つとすれば、その反対側にいるのは果たしてテロ集団と悪の枢軸だけなのか。

ロ 日米同盟の意味は時代とともに変わってきており、その機能も変わらざるを得ないものなのか、同盟における真の信頼とはなんなのか。

ハ 中国のナショナリズムは、日本にとり、又国際社会にとり、警戒すべきものなのか、それとも中国をして大国の責任を果たさせ、国際社会の安定に寄与してもらうために、ナショナリズムはむしろ良き触媒となりうるのか。

ニ ロシアは今や民主国家として、真に我々のパートナーとなる国家に成長したのか、ロシアと日本が同じアジア人として協力することは可能なのか。

今日、平和憲法の改正や、自衛隊の海外派遣の是非等種々の議論が盛んだが、如何なる事柄もタブーを乗り越えて議論されること自身は健全なことである。しかし、過去とは違ったもう一つのタブーが、静かに、しかし、深く広がっていないか。

そのタブーは、日本の過去の反省に基づく理想主義的な平和外交の理念である。

多くの識者が、現実主義を説き、世界の変化を説き、日本の国際的役割を説く。しかし、吉田茂が考え抜いた日本の外交の基本路線は、極めて現実的な考慮に基づくと同時に、過去の反省に基づく理念と理想を等閑にしないものであった。

理念と計算、理想と現実の間にあって、どのような外交的選択が可能であり、それがどのような結果をもたらしたか。それが本調書を検証する目的である。

(注)この肝心なところを小生良く理解できない。著者が何を言いたいのか現在の対米追従の度が過ぎることを心配しているのか。

5 満州事変、国際連盟脱退について

調書の骨子を抜粋する。

“根本原因は日本国内の情勢にあった。当時の日本としては、武力進出策に出る以外に生きる道がなかったかと言えば、そう断定するだけの根拠はない。むしろ、国内的、特に政治的な要因をしばらく度外視して考えれば、日本が満州を含む中国において英米と競争しつつ平和的に経済進出をする事は、十分可能であったと見るべきであろう。いわゆる幣原外交なるものも、このようなことを前提としてのみ考えられうるものである。

さらに、当時の中国の特殊事情からして、ある程度の武力行動は、仮に已むを得なかったとしても、満州国を独立せしめ、さらに、国際連盟を脱退するところまで突っ走ったのは、勢いの赴くところとはいえ、何等利するところでない。

国際連盟脱退は、日本が米英と袖を分かつ発端となったが、42票対1票というような事になっても連盟に止まるというだけのよい意味の図太さがあってよかった。この種の潔癖さは、現実政治には、禁物と言うべきであろう。“

当時の関東軍は、東京の軍首脳の言うことすら聞かぬ有様で、勝手なことをしており、外務省の出来ることはほとんど無い、との堀田大使のコメントもあるが、例えば満鉄平行線の交渉で張学良と腹を割った話をすることは出来なかったか。また、行詰まる中で、事態を打開する方途があったとすれば、それは、英国、又は米国と日本が組んで、国際的圧力によって蒋介石と直接取引きするしか無かったろう。

しかし、そのためには、中国に死活的権益を持つ英国と協議し、租界返還や旅順、大連の租借権など「我が国の大陸における地位に関するもの」を見直し、中国ナショナリズムの要求に、どこまで応ずるか、その腹にかかっている。

作業ペーパーは、日本のとるべき対中政策につき次の通り言う。

「基調は道義を重んずべきものでなければならない。日中両国は偽りのない平等互恵の親善友好関係を結び、経済提携を行うべきであった。」

ここでいう道義とは、

イ 日本が中国を犠牲にして、強国の地位を保持しようとしない事

ロ 中国の領土主権を尊重し、内政に干渉しない事

ハ 中国の経済的繁栄を認め、日本の脅威とみなさない事

現実には、日本の対中国基本方針は上記と反対であり、未だ帝国主義外交と権益を捨てがたい英米と同一方向を取った。又、米国の「理想主義」の裏には、人種主義が潜み、日米間に十分な信頼関係は見えなかった。

また、作業ペーパーは言う。「国際連盟の如き会議外交においては特に大義名分が重要である」と。日本の満州支配は、いかに当時の日本にとって重要であったとしても、国際社会における大義名分を欠いていた。国権回復を主張する中国の明快な大義に抗せられなかったとしても、孤立無援のなか国際連盟に止まる図太さ、計算高さを日本は持つべきではなかったか。

1933年2月24日、リットン報告書を討議する最後の連盟総会で、松岡洋右代表は大演説をぶって退場した。演説の要旨は

イ 中国の現状は、各勢力が争う不安定な状態にあり、だからこそ外国軍隊が駐留している。

ロ 日本の行動は、かつて英米が中国でやったことと異ならない。つい5年前、中国の対米ボイコットを阻止するため、米英は軍隊を出動させ、南京で中国と衝突したではないか。

ハ 日本の行動は主義において英米と同じく、両国も認めるがごとく、自衛権は自国の外の領域にも及ぶ、と。

今日の問題として、現在、国連やその付属機関(OECD、WTO、IMFなど)で、日本はどの程度貢献し、影響力をもつのか。財政的寄与(現在の国連予算では米22.0%、日本19.5%、ドイツ8.7%,英6.1%,仏6.0%、中国2.1%、ロシア1.1%,その他34.5%)では飛び抜けているが、人材面の拠出では、淋しい限りと言える。

リットン報告書の採決に当たり、明治の日本が体験し苦しんだ欧米の植民地主義の圧迫をその他諸国に訴え、又、日本自身が非圧迫国への同情、共感を持てなかったか。それは、日本の政治、外交における理念、信念を、常に実際上の利益や個々の面子の前に、引っ込めたことによる。力とは,軍事力や経済力だけではない。妥当な理念、大義を苦しくとも固持してゆくそのスタンスが他諸国の共感と支持を得る最善の道ではないか。日本は孤立していた。

6 軍縮会議脱退、日独防共協定締結

調書の骨子を抜粋する。

”日本は、国際連盟脱退後、その翌年にはワシントン海軍軍縮条約を廃棄し、一年おいた昭和11年には、ロンドンの軍縮会議からも脱退した。日本と米英との国力格差を冷静に見れば、いずれも纏めた方が有利だったはずである。

一方、国際的に孤立して行った日本とは反対に、ソ連は、経済も回復して国力が充実していくにつれ、国際連盟加入や、欧州隣接諸国との間に各種条約を結び、国際的位置を固めて行った。仮想敵国たるソ連への対応を考えていた日本に、同様な利害関係を持つドイツから打診があり、日本外務省も、協定の性格として、ソ連を過度に刺激せず、又、列強特に英国に対しては他意なき物とすることで、昭和11年11月、日独防共協定が締結された(日本は英国、オランダに参加をもとめ、失敗。イタリアが参加を求め翌年加入。)。

当時の世界情勢から見て、この協定は、英米仏を中心とする民主主義諸国に対抗するブロック協定とみなされ、日本が独伊と結んでいく第一歩とならざるを得なかった。結局、日本の國際的孤立を脱却したいという願望を満足させた以外、何の利益もない協定であった。“

日英同盟を解消し、同時に日本だけを孤立させぬ目的で調印された四カ国条約(1921年12月13日、日米英仏が調印。別名ワシントン軍縮条約)から1935年のロンドン会議に至る一連の軍縮会議は、表面は海軍の主力艦や補助艦の隻数を制限する交渉ではあったが、本来の目的は “軍備は戦争を起こすための物ではなく、戦争の危険を避ける為の物でなくてはならぬ” との考えに基づいた國際秩序の形成と國際協調の試みであった。

しかし、主力艦5:5:3の比率に日本海軍は不満を持ち、現状を変えようとし、一方米国は、極東へ進出欲があり、これ以上アジアにおける日本の台頭を認めがたく、容易に日本に妥協しなかった。

軍縮条約というものは、極めて政治的条約であるが、日本の海軍も外務省もこうしたニュアンスを十分に理解していたとは言えない。軍縮交渉は、いうなれば、相互のCIVILIAN CONTROLの検証の過程とも言え、日本の軍縮条約の破棄や軍縮会議脱退は、まさに日本におけるCIVILIAN CONTROLの脱落の過程であった。

一方、ソ連はスターリン政権も安定化し、対独安全保障を懸念する仏と1935年、仏ソ相互援助条約を締結し、又、極東の軍備も増強していった。

こうしたなか、ナチスのリッペントロップから駐独陸軍武官大島浩に打診があり、やがて外務省間に折衝が移った。当時の有田外務大臣の回想録などによれば、ドイツとの漠然たる防共同盟であれば、ソ連への牽制となり、英国も場合によってはついて来る可能性もあり、と考えた由。

とはいえ、民主主義陣営とはいえ未だ既得権益確保を志向する英米仏、コミュニズム、ファシズム、の利害の錯綜する諸国の中にあって、日本外務当局が出来れば英国を含めた日独英ソの協調を実現したいと願ったことは、理念またはイデオロギーに立脚した国家間の動向と紛争を、日本が見誤ったと言えよう。

7 結 論

調書の骨子を抜粋する。

”何事も後から批判することはたやすい。反省し、そこから教訓をくみとって初めて批判の意味も理解しうる。外交に当たる者として、常に心すべき点を挙げれば

イ 全て根本が大切である事。外交は、単なる技術ではなく、また内政を離れて外交を考えることは出来ない。

ロ 常に物事を現実的に掴む事。日本の対外政治、軍事の現状判断は、数多く希望的思考で曇らされた。リスクとチャンスの軽重を国益に照らし、冷静に掴む事。

ハ 機会を掴むに敏なる事。ソ連の参戦前に終戦の機会を逸したことはその最たる例である。ソ連への仲介依頼という愚策。

ニ 最後に、決断力と実行力の重要性。見切るべきところを先延しし、深みに嵌まる。満州事変以来の日本の行き方がそうであり、外務省の身の処し方がやはりそうだった。不評判でも、軍の力が如何に強くとも、日露の講和に見る如く、外交の筋を通すべきだった。“ と。

著者は、結論に当たり、日本外交の過誤を解剖して、次の三点の誤った判断を示す。

イ 中国大陸におけるナショナリズムの高揚への理解が不足し、いたずらに中国の反日、抗日、侮日を問題としたこと。アジアの半植民地化した国々の自己統治能力と自己管理能力への不信と、西欧列強に日本が伍すことが日本の国際的地位を保つと誤信したこと。

ロ 欧州のBalance of Powerの面で、ナチファシスト諸国と民主諸国の間の争いを、前者の勝利と判断したこと。

ハ アジアに対する米国の政治、外交政策についての日本の判断ミス。

著者は、加えて、政策選択の過誤、外交の理念の欠如、これに伴うパートナーの選択上の問題点につき分析、コメントしている。

又、調書にある日本の中国撤退による対米和平などの仮説につき、第二次世界大戦におけるスペインの事例を述べ、日本には内乱、内戦はなかったが、皮肉にもそれが日本を大戦争へ導き、また内乱なき終戦を実現したとしている。

最後に「過誤」の原点に触れ、それは軍部の独走であり、これを抑えられなかったのは軍の指導部、外務当局、そして政党政治の力の欠如としている。

その根底には資源に乏しく人口増加に苦しむ日本に対し、アジアで少し強くなると忽ち起きた米国での排日、英連邦における日本品締め出しへの感情的反発があった。

とはいえ、日本外交の真の問題は、そうした底流の感情ではなく、他のアジア諸国を排斥して欧米帝国主義の仲間入りを果たそうとした事にあったとしている。

以 上

【個人的追記(田中)】

1 満州事変に至る道程を理解するためには、やはり明治維新、日清日露戦争を理解する必要があり、それ以後およびアジアの現状を理解するのに、以下の自伝が有益であると考える。

福沢諭吉 「福翁自伝」 岩波文庫

アーネスト サトー 「一外交官の見た明治維新」上下 岩波文庫

上塚 司編 「高橋是清自伝」上下 中公文庫

重光 葵 「外交回想録」 昭53年8月 毎日新聞社

石井猪太郎 「外交官の一生、対中国外交の回想」 昭47年7月太平出版社

ジョージ F ケナン「回想録 対ソ外交に生きて」上1925~1950、下1950~1963 昭48年12月 読売新聞社

フォーリン アフェアーズ ジャパン編訳「フォーリンアフェアーズ傑作選」 アメリカとアジアの出会い 1922~1999上下 朝日新聞社

2 今回の外務省文書と同様なものに「ペンタゴン文書」があり、以下はその概要。

1967年半ば、当時の米国防長官ロバート S マクナマラは命を下し、ベトナムにアメリカが何故これほど深く介入する事になったか、インドシナに於けるアメリカの役割に関するまれな政府の自己分析書となった極秘文書の編纂を命じた。

作成に約一年半、国務、国防両省のベテランの文官と軍人やシンクタンクの防衛問題担当官等36名で、概して客観的かつ学究的に分析し、匿名の政府史家として働いた。

文書は、トップリーダー達の覚書、電報、命令文などを含み、第二次大戦中のFDルーズベルトの発言から、1968年夏のパリ和平折衝にいたる間のアメリカの東南アジア政策に関わる全てで、附属文書を含め47巻、約三千ページの歴史的叙述と約四千ページの附属資料類からなっている。

但し、関係者への所見を求める事は固く禁止された為、文書への個人的所見はない。

これら文書は、余りにも率直かつ機微にわたるため(一人又はグループの歴史にあるような一貫した記述ではなく、ばらばらとはいえ)、報告書は15部しかコピーされず、極秘文書とされた。

しかしNYタイムズがこのコピーを入手し、ニール シーハンらベテラン記者が一般読者に理解しやすい形にその骨子を要約して、1971年6月13日より、アメリカの力の乱用を生々しく示す記事として掲載された。

NYタイムズ編「ベトナム秘密報告 米国防総省の汚い戦争の告白録」上下 サイマル出版会

以上

2006 7 25 多胡教授公開講座での発表要旨

田中 慎造

多胡圭一先生近況および略歴(管理人)

多胡圭一先生の頁(本サイト内・上記URLデータのコピー)

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田中 慎造 兄

下條 剛一2016.9.26

掲題の貴殿の力作を拝見しました。

十年前の受講記録とは言え、今日でも、いや永遠に生きるテーマで、感心しました。

小生も以前より、満州事変、支那事変、太平洋戦争の原因について関心を持っていましたので、

実に興味深く読ませてもらいました。

特に、日本が国際連盟脱退のきっかけとなったリットン調査団報告書(訳文)は数年前じっくり

読んだ記憶があります。

確か論点として、下記のような趣旨だったと思います。

〇 柳条湖事件とその後の日本軍の活動は自衛行為とは言い難い(つまり、侵略行為)。

〇 日本の満州における既得権益、居住権、商権は認める。

〇 中華民国の満州に関する名目的主権は認めるが、民国の統治能力が乏しい状況下、

国際連盟の委任統治とする。

このリットン調査報告書の提言は、冷静に考えると中々良く出来ていると解釈されるのですが、

時の日本政府、特に軍部は血が頭に上ってカッとなり、連盟脱退となってしまい、日本が

世界の厄介者と見做される結果となってしまったのですね。

貴兄の寄稿に触発されて、又、歴史の勉強に力を入れたいと思っています。

下條 剛一

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・田中拝 2016.9.28・・・・・・・・・・・・・・

下 條 兄

前略、申し遅れましたが、貴兄のコメント中の指摘(リットン調査団報告の中心論点の第一項、自衛権)により、 1933.2.24の連盟総会で、松岡代表が大演説をぶった三点の論旨が、小生に明瞭に理解できましたこと、深く御礼申し上げます。

英国は、この大義をもって、アヘン戦争(1840~42)以来、数々の権益を中国より取得しており、日本の主張も一理あるものの、米国の参入や時代の変化により、このような折衷案(1~3項)となったと考えられます。 貴兄の申すとおり、日本がこれを許容すれば、別の良き将来があったでしょう。

まずは御礼まで。 田中拝 2016.9.28

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