塩野七生著"逆襲される文明-日本人へⅣ"を読んで

坂本 幸雄 2017.10.28

<はじめに>

・この本は、月刊文芸春秋の初めの部分に掲載される随筆集の欄に、司馬遼太郎サン亡き後を見事に引き継いで、塩野七生氏(以下女史と記す)が毎号執筆されている随想をベースにした論評であります。小生は、文春を毎号手にして真っ先にこの女史の随想をワクワクしながら読んでいるのですが、上記の本を読みながら、時には「はてなぁ?、この論調一度読んだことがあつたのでは?」と思いながらも、その面白い展開にはつい“はまってしまう”のです。

・なぜそんなにも“はまってしまう”のか。それは多くの場合、女史がその論評を展開されるに当たって、女史が長年研究されている古代ギリシャやローマ時代の政治家や哲人たちの深淵な言葉を引用しながらその主張を展開されていることが多く、それがまたそれを読む読者の胸にストンと落ちてくるからであります。今回、この本を読み込んで感銘した女史のそんな論評を以下に三つほど紹介します。

1.イタリアとドイツのナショナルチーム同士のサッカーの試合

・イタリアとドイツのナショナルチーム同士のサッカーの試合では、もう長年の間、いつもドイツがイタリアの前に苦杯を喫しているのである。たかがサッカーの話ではある。でもなぜ、優秀な選手を数多く擁しているドイツのナショナルチームが、どう見ても、このドイツよりも優れているとは思えないイタリアチームに勝てないのか。不思議なことと思いながら、簡単に言ってしまえば、それは両国民の文化の違いによるのであろうか、と思うのである。言うならば結局それは、両国民の考え方や生き方の違いによるものであるとしか思えないのである。

・初めからあらゆる事態を想定しておかなければ気分が落ちつかず、その実施に際しても規則正しく律儀に進めるのが何よりも好きなドイツ人と、反対に自らの想像力に身を託して行動するのが大好きで、それ故にたとえ作戦にあったとしても、試合場に出るとそれを忘れてしまうイタリアチーム。秩序と無秩序と言ってしまえばそれまでではあるが、秩序好きには手の内を敵に読まれる欠点もあるのである。

・ドイツ・サッカー連盟の会長が、「もはやイタリアとの試合には、それが親善試合であろうとなんであろうと関係なく、それにはドイツの威信と名誉がかかっている」と言って選手たちを叱咤激励しているにもかかわらず、そのドイツチームはイタリアチームに勝てないのである。

・守備と攻撃の分担が明確なドイツチームに対して、そんなことなど関係あるものかと守備も攻撃も一丸となったゴールに殺到するイタリアチーム。「カテナッチョ」(注)を突破できたと喜んだ途端に、イタリア側の守備陣の巧妙な動きでオフサイドにされて悔しがるドイツチーム。

・とはいえイタリアチームにも欠点はある。夢見る如き思いにはもともと、うまく行きそうだと感じた途端に花開く性質がある。だから,ドイツがイタリアに勝つためには、試合が始まるやいなやたて続けに5点ぐらい点を入れて、フアンタスチックに試合を進め、試合に臨むイタリア側に試合の勝ち進む意欲をつぶしてしまえばよいのだ。1点や2点ではダメ。それぐらいならイタリアは容易に挽回してしまう。両国のサッカーは、たかがサッカーなどとは言えないのである。ドイツ人にとっては、サッカーでイタリアに勝つことは、最早威信と名誉にかかわるほどの問題になっているのである。

(注:「カテナッチョ」という言葉をググってみると次のように説明されている。1950〜1960年代にイタリアで流行したサッカーの戦術であり、ディフェンスラインの後ろで左右に動くスイーパーの動きがかんぬきを差す動きに似ていたところからそう名付けられた。 また、カギを掛けたように守備が堅い戦術という意味もある。 ほとんどの選手が自陣に引いてしっかり守るという堅い守備で、前線の数人だけで素早く得点を取るというイタリアのカウンター・サッカーの戦法をこう呼ぶ)。

感想:

・「たかがサッカー、されどサッカー」。両国の最強チーム同士の勝負となると、それぞれの国民性や人生観まで試合に顕れるのだそうである。両国はアルプスを境に北国と南国という関係もあり、その昔18世紀に、モーツアルトなどは若き日にイタリアで音楽の神髄を学び、その成果ともいうべき数々の名曲をマンハイム、ウイーン、ザルツブルグなどのドイツ語圏で作曲し、今日われわれは、その成果を、例えばオペラの「魔笛」や「フイガロの結婚」などでも楽しんでいるのである。そんなことを考えても、ドイツは、その昔からイタリアに大いに学んでいたのである。

・そこで、両国の関係についてググッテ見ると、「日本なんかは、明治維新で、土佐人、長州人、会津人などのアイデンティティを潰して、“日本人”というアイデンティティを刷り込むことに成功したのであるが、イタリアはそれに失敗している。それは、みんな“イタリア人”であると同時にジェノヴァ人、ヴェネチィア人、ローマ人、ナポリ人、シチリア人等など、二重のアイデンティティを持っていたからである」などという記述に出合う。それを読んで小生は、「それだけにイタリア人の国民性、文化性には様々な多様性という遺産が今も色濃く残り、上記サッカーの事例にも、それが見事に受け継がれているのであろうか」と、思ったのである。

2.「ニコロ・マキアヴェツリの「名言」:「現実的な考え方をする人が間違うのは、相手も現実的に考えるからそんなバカな真似はしないに違いない、と思ったときである」。

・女史は下記の例でそれを説明されている。

・民主政が危機に陥るのは、独裁者が台頭してきたからではない。それは民主主義そのものに内包されていた欠陥が、表面に出てきたときなのである。

・古代ローマの研究から始まった私(女史)の仕事も、多神教の古代が終わって中世に移ったら、そこはもはや多神教ではなく、一神教の世界である。そこでの神となれば最高神であるから、他の宗教の最高神は敵対関係になる。おかげで中世は、キリスト教とイスラム教が激突する世界である。それで考えたことがある。それは宗教とは、人間が自信を失った時代に肥大化する。従って、宗教が人々を助けようとする本来の姿であり続けるべきだと思うのであれば、政治でも経済でも、それぞれにその機能が発揮し続けられなければならないから、これらの俗事を馬鹿にしてはならない、ということである。

・今から二千年も昔になるローマ時代に、皇帝トライアヌスは、失業者救済のために増税するよりも収益の三分の一をその広大なローマ帝国各地から、本国イタリアへの投資を課する法を成立させた。この人は五賢帝の一人とされているが、彼が皇帝である資格は、帝国の領土を最大にしたことよりも、帝国の中心たるイタリア半島の空洞化を阻止きたことであると思っている。

感想:

・以上の女史の言葉は、民主主義に於いては、相手も自分と同じような現実的な考えをするであろうという安易な信じ込みが、得てして失政に繋がるという、ありがちな事態が起きることを戒めた言葉であろうか。皇帝トライアヌスが二千年も昔に、ローマ帝国の版図が、イギリスのエジンバラ辺りまで及んで最大になった時点で、多くの周りの官僚が、領土拡大の終了で軍隊という職を失った人々を救済するための増税を考えていた中で、トライアヌスは、ただ一人、この領土を保全する上で大切な方策は何かを熟慮し、その広大なローマ帝国各地から、本国イタリアへの投資を課する法を成立させた。その結果、首都ローマとその周辺の経済的繁栄が促進され、それが帝国そのものの繁栄にも繋がった故事を引用し、「宗教が人々を助けようとする本来の姿であり続けるべきと思うのであれば、政治も経済も充分に機能し続けていかなければならないから、これらの俗事を馬鹿にしてはならない」の例として、更にまた、それが百花争鳴の議論という、民主主義が陥りがちな衆愚政治の危機をも救った事例として、上記の話を引用されたのではなかろうか、と小生は考えるのである。

3.EU連合の本質的な問題点

・ヨーロッパ連合というEUの組織は、二度とヨーロッパ内で戦争を起こさせないという高邁な理想を掲げてスタートした組織である。が、昨今のヨーロッパ各国には、「EU懐疑派」という党派や運動が雨後の筍のようには輩出している。この状況を見て考えるのは、民主制が危機の陥るのは、独裁者が台頭したからではなく、民主主義そのものに内包されている欠陥が、表面に出てきたときなのであるということであろう。EUの本部が小国ベルギーの首都ブルッセルに置かれている一事が示すように、ヨーロッパ連合に参加している各国はいずれも平等な権利を有しているのである。人口は五百万でも五千万でも、国内総生産に対する借金の上限を3%と決めていることも、各国平等の精神を見事に示している。そのうえEUには、リーダー國があってはならないことを建前としているのである。しかし、この考え方は理想的かもしれないが、決して現実的ではないのである。なぜなら、人類は、現代までの2500年に亘ってあらゆる政治体制、つまり王制から共産主義まであらゆる統治体制を考え出す実験を行ってきたが、指導者のいない統治体制だけは考え出すことができなかったからである。成程、そうかと思うのである。

4.日本に必要な「負けないための知恵」と日本が経験していない難民問題

・自分(女史)は、五十年もの間ローマ史などを勉強しながら、こうも平凡な結論にしか達しないのにはがっかりしているのである。その平凡な結論とは「自ら力を活用できた国だけが勝ち残れるという一事」である。今までの歴史の中には、古代ローマのようにナンバーワンを長年続けられたケースもあるし、ナンバーワンでなくても強国の一つとして、長年政治的独立と経済的繁栄を維持し続けたヴェネチア共和国のような例もある。しかもローマもヴェネチアも、そのような状態にあった歳月は、半端ではないほどの一千年にも及ぶのである。それにしても、「自らの持てる力を活用する」とは、もしかすると人間にとって最も難しい課題なのかも知れない、と思うのである。だからこそ、多くの国が歴史に登場しながらも失敗してきたのではないだろうか。ちなみに、持てる力とは広い意味の資源であるから、天然資源に限らず人間や技術や歴史や文化等々である。これら全てを活用する「知恵」のあるなしが鍵、というわけである。わが祖国日本に願うのもこの一事である。

・その観点からいえば、中国を追い越そうなど、忘れたらよい。GDPが何位になろうがそんなことを気にする必要はない。大国にふさわしい外交などに気を使う必要など不要なのではなかろうか。もともと「和を持って尊しとなす」が國外でも通用すると疑わない日本人に、外交大国になる力は必要なのであろうか。「外交」ではなく「外政」というベきだったのではなかろうか。しかしそれは、よほど腹の座った外交官でも出てこない限りは無理である。

・そう考えると、日本にとって今最も重要なことは、二度と負けないこと、勝たなくてもよいが負けないことではなかろうか。

・只今の日本にも国内外の多くの問題があるにしても、他の先進国に比べて有利な点が三つある。

政治が安定していること。

失業率が低いこと。

難民問題に悩まずに済んでいること。

・この三つは大変なメリットを内包している。なぜなら、負けないでいて、しかもそれが長く続き、自由と秩序という本来的には背反する概念のバランスをとることによって、双方のメリットをも発揮しており、しかもその上に、国民の所得格差が限度内に留まっているのである。このような状況下ならば、二度と負けないための諸政策を民主制で守りながら進めていけるのである。

・更に女史は、古代からの西洋の歴史に親しむことによって得た確信にはもう一つあると主張。それは、強圧的で弾圧的で警察国家的な恐怖政治は短命に終わる、ということである。

・ところがである。日本の次に私(女史)が愛しているイタリアには、この日本が持っているこの三つのメリットが全て無いのである。失業率は、全体では10%を超え、しかも若年層では40%。そのうえ、地中海をはさんだ北アフリカから、昨年1年間だけでも二十万人もの難民が押し寄せている。こうなると、革命までは起きなくても、政治不安は確実に起きる。イタリア人も、個々人として考えてみれば、日本人にも負けない能力の持ち主である。が、政治の不安定、高い失業率、押し寄せる難民、といった悪条件に邪魔されて、充分にその力量を発揮できないのが現状である。しかもこのような状況は他のヨーロッパ諸国でも大同小異である。だから、これらの国々に比べれば、日本は相当に恵まれているのである。二度と負けないための「知恵」ぐらい、考えられないことではないのではなかろうか。

感想:

・以上のような論点に関し、女史は、今最も西欧諸国を悩ましている難民問題に関して、更に古代ローマ帝国がそれにどう対処したかについても以下のような論説を展開されている。

・殺されるからという理由にしろ、食べられないからという理由にしろ、難民は古代から存在していた。古代ローマ帝国がそれにどう対処していたのか。入って来るのを阻止する壁があった訳でもないので、難民が入るのも、入った後の行動もすべて自由であった。が、その難民に対しても、ローマ帝国は、帝国の法だけは絶対に守ることを強制したのである。そしてそれに反しようものならば厳罰を課し、その上いかなる理由であれ難民には特別の保護は与えず、難民の生存は、全くそれぞれの自助努力によるものと決めていたのである。難民には、ローマ市民権所有者に等しく保障されていた餓死しない程度の小麦の無料配給もなく、衣食住が保証され納税義務のない奴隷よりも、難民はより厳しい環境で生きなければならなかったのである。

・EUを悩ませている目下の難民問題の解決に、このような古代ローマ帝国の前例をなぜ真似することができないのか。それは下記の二つの状況がそれを阻止しているからである、と女史は指摘。

まずもってEUには強大な軍事力がないということである。シリアもリビアも、内実はどうであれ独立国なのである。その両国の内乱鎮圧に、“ありもしないEU地上軍”を投入することなどできないのであるから、事態はますます悪化する方向に向かっているのである。

人権尊重の理念によって、難民にももともとから住んでいる市民と同じ権利を保障しなければ、としたことから、EU市民側の反発を呼んでしまっているのである。即ち、何人と言えども、人権は尊重されるべきであり、それが故に難民が享受すべき権利もEU市民と平等であるべきであるという、今まで自分たちの進歩した文明であると信じ込んでいたこのような崇高な理念にヨーロッパは今や逆襲されているのである。

・だからこそヨーロッパにとっての難民問題は、ギリシャ問題よりもよほど性質(たち)が悪い難題なのである。女史がこの本の題名を「逆襲される文明」とした所以である。

追伸

・H29.10.9の日経紙は「欧州、再び大衆迎合の波」と題する記事を掲げ、下記のように書いている。

・ドイツ、オーストリア、チェコはいずれも経済が堅調で、失業率も低下傾向にあり、現政権に追い風が吹いてもおかしくない状況である。が、くすぶり続ける難民問題への不安がポピュリズム政党の伸長につながっている。欧州市民の間では、中東やアフリカからの移民が治安や財政を悪化させるとの不安が根強い。(坂本幸雄 H29.10.9記)

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