写真(8点)説明
0103 渋沢栄一の生家は門構えの奥。
010 生家を背後の庭から見る。
0104 門内にある若き日の栄一像。
0108 渋沢邸の裏ののどかな光景。この小川はやがて利根川に注ぐ小山川。利根川はこの畑地の右側を流れる。
0109 渋沢の号、青淵は尾高惇忠の命名。「昔の淵は今は瀬になる」のたとえ、今は小さな湧水池である。
0111 手前の誠之堂は渋沢の喜寿、先方の清風亭は2代目頭取佐々木勇之助の古希を記念して建てられた。
0115 2006年に稼働を終えた日本煉瓦製造会社の工場(部分)。製品は小山川の舟運を利用して各地に輸送された。
0102 地産地消、これは深谷駅の駅舎。日本煉瓦製造会社の煉瓦は東京駅や赤坂迎賓館に使われた。
渋沢栄一『雨夜譚』を読む
P大島昌二
国立国分寺支部の月例山歩会の写真レポートは4月の「奥多摩むかし道」を最後に中断されていましたがこれは7月までは私が参加できなかったせいでした。会そのものは近隣支部からの参加を得てますます盛んです。小生が最年長に近づいたという意味では徐々に若返りも進行しています。会としては5月には足尾銅山鉱毒事件の産物である「渡良瀬遊水地」を訪れ、6月の「忍野八海と富士講」は雨天順延、7月は一泊で「姫川源流から塩の道」を歩いています。
8月以降は9月に予定された富士青木ヶ原樹海が雨天で不催行となったほかは、乗鞍岳(8月)、西沢渓谷(10月)、渋沢栄一の生地、深谷市(11月)、東久留米市のスリバチ地形と湧水群(12月)が計画され、私もなんとか遅れずについて歩きました。今回はこれらの中から一橋の歴史に欠かせない渋沢栄一ゆかりの深谷市散策、ひいては渋沢の口述による自伝『雨夜譚』を読んでその業績を偲ぶことにしたい。
深谷市と言ってもすぐにこれというイメージが浮かぶ人は少ないだろう。現在人口は14万3千人ほど、埼玉県の都市の中でも14番目に位置する。かつては中山道69次のうちで板橋から数えて9番目の宿場で天保14年(1843年)の絵図によれば本陣1、脇本陣4、人口も1,928人を数え、中山道随一の宿場であった。
渋沢栄一の生家「中の家(なかんち)」(現在の建物は明治28年の再建)はここ深谷市血洗島にあり、また近くの深谷市下手計(しもてばか)には青少年期の栄一に大きな学問上の感化を及ぼした従兄であり義兄でもある10歳年長の尾高惇忠(じゅんちゅう)の生家が残されている。われわれが訪れたのはこの2ヶ所のほか渋沢栄一記念館、誠之堂・清風亭、旧煉瓦製造施設である。深谷市教育委員会ではこれらの施設をめぐるスタンプラリーを主催しており、われわれ一行は期せずしてその道筋をすべてたどったのであった。
これらの施設にはボランティアーが駐在していて丁寧に応接案内してくれた。われわれが渋沢ゆかりの一橋大学のOBであることを知った記念館のボランティアは大歓迎をしてくれたが渋沢と一橋の関係についてはそれほど正確な知識を持っているようには見えなかった。
渋沢の一族は甲州からここ血洗島に移り住んだもので、「なかんち」という呼び名は他の渋沢家との位置関係に由来するという。血洗島という地名の由来は諸説あるが近くを流れる利根川の氾濫にさらされる荒蕪地であることに関連づけるものがそれらしいもののように思われる。渋沢家はもともと一小農に過ぎなかったが祖父の代に畑を増やし、商品経済の浸透につれて父市郎右衛門(元助)の代には養蚕、藍玉の製造販売に精を出し、2丁歩足らずの小地主ではあるが村内2番目の資産家と評されるまでになった。かつて小農を評するに「五反百姓」という言葉があった。米作が可能であれば2丁歩の土地があれば自営農家としては大農家に分類することが可能と思われるが、渋沢家は地味の薄い土地であっても養蚕、藍玉、さらには質屋、金貸しを営んだので十分に豪農の名に値する家柄であった。栄一は14~5歳のころから家業に携わり、一方において青雲の志を抱きながらも、家業を督励する父の言いつけにしたがって20歳前後までには「藍の商売については年に四度ずつはたいてい自分が引受けて、信州、上州、秩父の三か所を巡回する」(以下引用分はすべて『雨夜譚』から)多忙な生活を送るようになった。このようにして若くして家業に精を出したことが商業の感覚を育み、後年一橋慶喜の家臣となってから頭角を現す上で大きな力となっている。
深谷市での見聞は渋沢ゆかりの建造物と陳列物を別とすれば、およそ渋沢が血洗島を出奔するまでの揺籃時代、渋沢と深谷市とのかかわりについてであった。それまでに渋沢は多角的な農業経営の後継者としての才能を身に着けたのであるが、それ以前には漢学、さらには武術についてもひとわたりの教育をうけていた。明治黎明期の民衆の思想を掘り起こし、新しい歴史のジャンルを切り拓いたと評される色川大吉の『明治精神史』が想起される。渋沢栄一もその時代の思潮の中で育まれた一人としてとらえることができる。
ペリーの来航した嘉永6年(1953)は渋沢13歳の年、国情騒然として和議と攘夷をめぐる論議の白熱する中で万延元年(1860)の桜田門外の変が起った。水戸学の流れをくむ尾高惇忠とともに尊王攘夷に傾倒する渋沢は高崎城を乗っ取って武器を奪い、兵を起こして横浜を焼き討ちして外国人を皆殺しにする謀議にのめり込む。渋沢の徳川幕府に対する評価はこの時点ばかりでなくその後も一貫してきわめて低い。慶喜の家臣となってからも恩義を蒙った慶喜が幕府と共倒れになることを危惧し続けるのである。父にたいしてそれとなく別れを告げようとして述べた言葉の中に次のような一節がある。
「…一体今日武門の政事がかくまで陵夷して次第に腐敗する有様になった以上は、もはやこの日本はどうなるか分かりませぬ、もし日本の国が陸沈するような場合になったと見ても、己は農民だから徴(すこし)も関係せぬといって傍観して居られましょうか、(中略)もはやこの時勢になった以上は、百姓、町人、または武家の差別はない。血洗島村の渋沢家一軒の存亡に頓着なさることはなかろう、いわんや私が一身の進退上についてはなおさらの事のように存じます。」
すでに功なり名遂げた人の回想としてすべてが文字通りにとれないとしても『雨夜譚』に一貫して渋沢の人と為りをつたえるものは身に備わった農民的リアリズムであり、省略は多々あるとしても、功を誇るための作為のなさである。渋沢の父、市右衛門も教養のある篤農家であり栄一の考えをたしなめはしても押さえつけることはしなかった。当時の日本人としては卓越した考えの持ち主といえる。
武装蜂起の謀議は尾高家の2階で進められ、武具も着々と買い整えられ、いざという場合の武具持ち出しの手はずも決められていた。文久3年(1863年)10月29日、計画がいよいよ大詰めを迎えた夜、滞在先の京都から戻った惇忠の弟、尾高長七郎が惇忠、栄一ら5人の首謀者の密談に招き入れられて意見を求められた。そこで身を挺しても挙行を阻止するという長七郎の覚悟が「事の成敗は天に任せて」という栄一らの計画の無謀さを論破してついに蜂起を思い止まらせることに成功した。
ここで血洗島の時代は終り、われわれの深谷市散策のかなめの部分は終る。『雨夜譚』に即して言えばその巻之一が終わる。この後、渋沢は徒党を解散し、幕府の目を逃れて、舞台は江戸から京都へと移る。渋沢の最大の転機はここにあった。この時、渋沢は23歳、彼の事業として後世に知られるものはまだその糸口にも着いていない。
岩波文庫の『雨夜譚』が私の本箱にあったのは上出来だった。さもなければ渋沢の生地やゆかりの旧跡を訪れていても私はこの本を読むことはなく渋沢の大事業がどのようにして達成されたかを知ることはなかっただろう。私はこの本を知らぬままに「うやたん」と読んでいたが、本の題名には「あまよがたり」と仮名がふってある。間違えたかと思いながら同書の解説を読むと渋沢一族ではこの本を「うやたん」と呼びならわしていたと書いてあるので一安心した。私は渋沢記念館で「うやたん」と言いながら質問していたのだった。
この本を読んで思い出すのは『福翁自伝』である。福沢諭吉は渋沢の6年年長の同世代人である。『福翁自伝』が面白かったので慶応出の友人に「面白かった」と言ったら「面白い?」と怪訝な顔をされたことがあったが、『雨夜譚』も間違いなく面白い。江戸幕府の将来を信じられない者が幕臣となり、求めずして明治政府の高官となり、やがて実業界の巨頭として雄飛する。当然ながら渋沢の業績を知るには巻之一よりは巻之二から最後の巻之五までが面白い。本書には末尾に「維新以後における経済界の発達」が添付されているが、渋沢はわざわざそれに関連する各種の統計を付け加えるように指示している。『雨夜譚』もこのようにただの「問わず語り」ではなく隅々まで配慮の行き届いた自伝と言ってよい。
『雨夜譚』の面白さは渋沢の波乱に富んだ生涯にあるが、それに劣らず面白いのは渋沢が身をもって示す幕末から明治初期にかけての日本人の考え方、さらには日本人同士の間柄である。ぎすぎすした身分制社会の約束事をよそ目に、思いのほか自由な言論が行き交っていたことが知られる。ただここでは、渋沢の生涯がどのようなものであったかを主題としたいので渋沢の生涯の転機がどのようにして訪れたかをかいつまんで見ておくことにする。
江戸から京都への長旅をするにあたって渋沢は道中の便宜のために同行の渋沢喜作とともにかねて懇意にしていた一橋家の用人、平岡円四郎の家来を名乗る許しを得て百姓でありながら士分として振舞っていた。これが血洗島を出てからの第一の転機を用意した。やがて家を出るにあたって父からもらった百両も江戸、京都で安逸な生活を送る間に残り少なになった。そこへかつての同志、尾高長七郎が仲間と江戸で捕縛され、身に着けていた渋沢の手紙から渋沢に反幕府の嫌疑が及び渋沢は喜作とともに平岡の尋問を受ける。しかしそれが終わると平岡は一転して二人に一橋家への仕官をすすめる。そのさいのセリフはつぎのようなものである。「この一橋の君公というは、いわゆる有為の君であるから、たとい幕府が悪いといっても一橋はまたおのずから差別もあることだから、この前途有為の君公に仕えるのなら草履取りをしてもいささか志を慰むる処があろうじゃないか。節を屈して仕うる気があるなら拙者あくまでも尽力して周旋しよう。」
渋沢ら二人はこの話を持ち帰って議論を重ねる。節をまげたと見られることは心外この上ない。薩摩か長州へ行くのが上策に違いないがこれという伝手もない。しかし無為に死を迎えるよりは先々の行為によって赤心を示そうではないか。喜作はあくまでも江戸に帰って獄に下った人々を救い出そうと主張する。これに対して渋沢は一橋家の士となれば浪々の身にまさる救済の手段が見つかるではないかとして喜作の説得に成功して2人は一橋家の家臣となった。
次の転機は慶応2年12月(1867年1月)の一橋慶喜公の十五代将軍への就位である。幕府の命脈の長くないことを信じる渋沢は喜作とともに当然のごとくこれに反対の論陣を張る。その論拠とするところは、今日の徳川家は家屋にたとえて言えば土台も柱も腐り、屋根も二階も朽ちた大きな家のようなものであり大黒柱一本を取り換えたところでどうなるものでもない。目下のところ天下の人はそろって皆幕府の役人が悪いとばかり言っているから攻撃の焦点が定まらないでいるが賢君がこれを相続すれば「百般の感応力が著しく強くなる」(標的を明らかにするようなものである)というものである。
これまでにも無能な同輩の間で建言、建策によって身を処してきた渋沢である。そこでこの累卵の危機にある幕府を一日でも長く存続させるには一橋公は相続を辞退して他の親藩から幼弱の人を将軍として選んで自らは京都守護職としてその補佐の立場にとどまるのがよいというものであった。一橋家の用人筆頭はこの案に同意して渋沢が慶喜に直々に拝謁して建策する運びになったがその翌日慶喜はにわかに大阪へ下ることになって拝謁は実現しなかった。
このようにして慶喜が将軍職に就いたことによって渋沢は一橋家を離れて幕臣となるが失意のまま悶々とした日々を送ることになった。一橋家での2年半を回顧して『雨夜譚』は次のように述べている。「辛苦経営していささか整理に立ち至った兵制、会計等の事もみな水泡に帰したのは実に遺憾の事であった。しかし勘定所の事務だけは丁寧に後任者に引継をして、その中にも藩札の始末はかくすべし貢米の事はこうするが好いという意見を留めて一橋家を立ち去った事である。」
幕臣としての渋沢について特筆すべきことは将軍慶喜の名代、徳川昭武(慶喜の異母弟)に随行したパリ万博への参加である。これを契機として渋沢の在外生活は慶応3年正月(1867年2月)フランス船アルヘー号に乗って横浜を離れてから慶応4年12月(1968年12月)に帰国するほぼ2年間にわたっている。この外遊経験もまた渋沢の人生にとっての大きな転機というべきである。かつて攘夷の熱情に燃えた渋沢もそれまでには欧米の文物を学ぶ志を高めており、混乱のさ中にある日本に戻るよりは、せっかく手に入れたこの機会に昭武とともになお4~5年は在留を伸ばすべく画策に務めた。しかし新政府からの帰国命令に続いて水戸の君公(斉昭の子、慶篤)の死が報じられ、跡継ぎとなる昭武に迎えの使者が来仏するに及んで万事休した。故国では渋沢の帰国前に戊辰戦争が起っており、渋沢は会津落城の報を香港で聞き、帰国した時には政権は新政府に移っていた。
渋沢は『雨夜譚』ではパリ留学時代の詳細には触れず、それは同行した杉浦靄山(あいざん)との共著になる『航西日誌』に譲るとしている。この日記は全6巻、渋沢らの旺盛な好奇心、研究心が披歴されているというが、この数年後に続く岩倉使節団の『米欧回覧実記』(久米邦武著)のように広くは知られていない。渋沢のパリ滞在は転機であっただけでなくそれによって国家の乱を避け得ただけでなく今後の糧となる見聞を広める好機であった。
渋沢の転機はこれでもまだ終らない。『雨夜譚』巻之五の冒頭で渋沢はこれまでの顛末を振り返って、農民から身を起こして浪人となり、一橋家に仕えた後に幕臣としてヨーロッパへわたり、帰国して慶喜の蟄居する静岡に帰り、そこに幽棲するつもりであったことを述べ、そこまでが自分の身上についてもっとも変化の多い時分であったという。渋沢の静岡での業績は西洋から導入した共力合本法(株式会社制度)を普及させ、自ら商法会所の頭取に就任して藩財政を安定させたことなどである。それがある日突然、太政官に呼び出されて大蔵省の「租税司の正」に推され、慶喜と新政府の微妙な関係から断ることもならず政府の役人になったという。事志と異なって幕府の禄を食み今や自らを亡国の臣と呼ぶ渋沢には自分を誰が官僚に推挙したかは謎であった。渋沢は得心のいかぬままに大隈重信(大蔵大輔)に面会して辞意を申し入れるが駿河という一地方ではなく日本全体のためにこそ力を尽くすべきであると諭されて翻意した。渋沢が後に聞いたところでは、彼を推したのは大蔵卿の伊達正二位と郷純造と言ういずれも面識のなかった人たちということだった。慶喜の膝元での働きが漏れ伝わったものらしい。
ここからしばらくは大蔵官僚として幣制改革を始めとする新政府機構全般の多様な仕事に携り、やがて官を辞した後は黎明期の産業界のリーダーとしての才能を開花させる。渋沢が日本の産業界に残した抱えきれぬほどの遺産のほとんどはここに始まると言ってよい。渋沢が退官したのは明治6年5月(1873年)、まだ33歳の若年で余命はなお58年を残している。『雨夜譚』はここで終るが「退官後の方針」として早くも「三井、小野両家の人びととも協議して」銀行創立の事務に従事している。また森有礼とともに一橋大学の前身である商法講習所を設立したのはその2年後のことである。渋沢はかねてより商業教育の必要を痛感しており「官途を退いて一番身を商業に委ね、およばずながらも率先してこの不振の商圏を作興し、日本の商業に一大進歩を与えよう」と望んでいた。
『雨夜譚』の末尾には共に退官した井上馨と連名の建白書「財政改革に関する奏議」が添えられている。政策マンとしての渋沢の面目躍如である。先に言及した「維新以後における経済界の発達」には第一国立銀行(明治6年8月開業)以下の国立銀行設立の経緯がある。渋沢はその後43年にわたって第一国立銀行の頭取であった。日本銀行の設立は明治15年。また株式取引所の設立、日本における保険事業の起源をなす東京海上保険会社の設立はいずれもそれに先立つ明治12年のことであった。
(注1)ウイキペディアの下記のリンクには渋沢栄一の経歴および設立に関与した事業の全容が網羅されている。教育ばかりでなく福祉にも貢献していることがわかる。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%8B%E6%B2%A2%E6%A0%84%E4%B8%80
(注2)渋沢栄一の孫、渋沢敬三は日本銀行総裁を経て戦後幣原内閣の蔵相に就任したが時を経ずして公職追放となった。追放解除後は幾つかの要職に就いた。若くして柳田国男に私淑した民俗学者でもあり、著書『忘れられた日本人』で名高い宮本常一の民俗学研究を物心両面で支えた。なお若き日の渋沢栄一のメンターであった尾高惇忠は後に富岡製糸場の初代場長を務めた。
(注3)『雨夜譚』を読むと薩長の新政府のことはあっても天皇については一言も触れていない。意図せずして仕える仕儀になった慶喜公に対する忠義の念の厚いことと対照的である。
2018.12.31
『雨夜譚』
岩波文庫
『雨夜譚』
1048円