NYの林君と呼んでいた林君がお亡くなりになったとの報に接し、
戸山高校に通った妹と合わせ、いわゆる旧制東京府立中学ナンバー
スクールの#4~#6に世話になったことになります。
生徒を大人として遇し、学生もそれに応えた高校時代を懐かしく思います。
昔33PC Netの世話役をしていた時代の投稿記事を添付し彼の思い出とします。 羽島
*******************************************************************************************
当地(神戸)の新聞に載った小さな記事で、新宿西口の「しょんべん横丁」が火事になったことを知った。ラーメン屋「カワチ」が火元で、28店舗、680平米が焼けたと書かれていた。
昭和27年頃、都立小石川高校に在学中、酒を飲むようになった。房総の保田にあった高校の臨海学校の後片付けに学友とアルバイトがてら行ったときが最初だった。その後、秋の文化祭「創作展」や運動会前夜の泊まり込みの際や、写真部顧問教諭の家などでよく飲んだ。これらは、言わば世間から隔離された私的空間での飲酒であった。
当時、学校には公認の喫茶室兼喫煙室があったし、澤登哲一という名物校長の部屋には壁にしつらえられた飾り棚に沢山のウイスキーが並んで我々を誘惑していた。
ある日、写真部顧問の新先生に新宿の闇市の中に連れ込まれた。「小松」という焼鳥屋であった。そこに澤登校長がおられた。また、先客の新宿高校の教師が私に鋭い視線を送った。梅割焼酎といかがわしい材料で作った焼鳥をご馳走になり、ごく自然に店を出た。
池袋から17番の都電で通学していたが、時々16番の都電に乗ることがあった。飛鳥山に住んでいたE組の西宮君(元日本広告写真家協会会長)の家を訪ねるためであったが、時には王電(現都電荒川線)に乗り換える大塚駅前で居酒屋の江戸一に寄ることがあった。西宮君と一緒だった。A組の小澤恒彦君も時には加わっていた。いつの間にか、学生服のまま公然と飲み屋に入るようになっていたのだ。
コの字型のカウンターの向こう側に座っていたおじさんに「電気ブラン」をご馳走になり、店の前の電信柱を抱えて夜を明かす失敗も懐かしい。(今でも浅草の神谷バーで電気ブランを飲む)
二年ほど前、大田なにがしの書いた「東京の居酒屋」を読んでいて、大塚駅前「江戸一」が今も続いていることを知った。しかも、彼が挙げる「東京居酒屋九傑」に堂々と名を連ねているではないか。早速訪ねることにした。駅前の佇まいは何処でも見る風景に過ぎなかったが、店に入ると往時の記憶が蘇ってきた。居酒屋というものは本来一人若しくは二三人で、声高な会話を控えつつ周囲に気配りをしながら、店の雰囲気に溶け込むようにして飲むものだが、心得たもので六分ほど入った客人も静かに杯を傾けていた。いずれも常連客と見受けられた。
壁際に所持品を置こうとしたら隣の先客に、入り口の両側にある棚に置くようにとさり気なく注意をされた。3本ほど飲んだところで女将に聞くと、三代目だそうだ。電気ブランの話に及ぶと、いまは客に出してはいないが、ラベルが半分はげてしまったが壜だけはあるといって、態々取りに行って、雑巾で磨いた一升壜を見せてくれた。
その夜、山の手線内回りに乗って新宿のワシントンホテルに行こうと西口を出たとこで昔の記憶が突然蘇った。いつの間にやら「小松」の歴史を物語るカウンターに座っていた。
階段の下に押し込められた冷蔵庫の上に猫が丸くなっていた。息子の代に変わっていたが目に入るものは昔のままであった。昭和27年頃の話をすると、隣の上品な先客は「私は23年頃から通っているよ」と先輩面をすることもなく教えてくれた。新宿高校の先生方もよく来られていたことを懐かしく語り聞かせてくれた。多分、落合校長もその中の一人であったのだろう。小松でひとつだけ違和感があったのはカウンターの上に「味噌」が盛られていて、「もろきゅう」にでも付けるのかなと見ていると、焼鳥に付けていたことだった。七味や山椒なら分かるのだが。ところで「小松」は火事でどうなったのだろうか、案じられる。
新聞で今は「思い出横丁」と呼ばれていると知ったとき、上品ぶらんで昔馴染みの「しょんべん横丁」のままで良いのにとつぶやいていた私も、こう記してくると「思い出横丁」で良いんだよと得心しているのだった。
最近は上京の機会もめっきり少なくなってしまったが、一橋大33年会名簿に唯一人「趣味:酒」と書いた小生が好む居酒屋を挙げておく。(小生のほかにT組山下二朗君が以前「趣味:酒」と書いた)
大学同期でゼミ仲間の林祐三君(元東芝、現在NY在)からの読後感
この十年来新宿は完全に無機質の街になったものと思っていました。まだまだ、大変人間臭いところが残っているのですね。私は新宿高校に四年居ました(大変居心地が良く四年掛かってしまった)が、今から思うと、当時の新宿高は進学校であるにもかかわらず大変自由な雰囲気でした。
羽島兄のメールの通り、教師と一緒に酒を飲むのは良くあったことで、校則は在ったが教師、校長も大変おおらかで、うるさいことは何も言わず、自主判断、自治にまかせていたように思う。
今なら親御が子供に酒を飲ましたと言って大騒ぎになっていたでしょうね。
新聞の馬鹿が、書きたてて、2〜3人の責任者の首が飛ぶところ。
校長は落合と言う足の悪い人で、雨の日など生徒有志が集まって新宿駅まで傘を差し掛けて送り迎えをしたり、足が酷く悪い日はタクシー代をカンパして自宅まで送ったこともあった。(羽島補記:S33.4、沢登哲一校長は新宿高校長へ、新宿高落合嬌一校長は小石川高校長へ夫々転任。落合校長は羽島の高校同期の06E落合紀子さんの父親。)
生徒が糞面白くもない英文法の時間を削って、生の英語を学びたいと校長に直談判したとき、校長は受けてくれてそばにあった新宿アメリカ文化センターに出かけて、アメリカ人講師を連れてきた。ドイツ語、中国語を学びたいという生徒が居れば、小人数の課外クラスを設けてくれた。
私はけして軟派ではありませんでしたが、ちょっと好きな子がいて、6時間目をサボり、一緒に帝都座の6階にあった名画座で古いフランス映画を観た。学校が終わってからだと混んでいて人の頭しか見られなかったのです。また天気の良い日は、となりの新宿御苑に裏の網の破れ目から、しのび込んでいた。教師も生徒仲間も授業をサボってもデートをしても何も言わなかった。
私は課外クラスで、唐詩を学び一時期、ペーじいさんと呼んでいた酒飲みの詩ばかり作った白居易に凝っていました。講師はお茶大を出たばかりのびっこの先生。この先生、女性ながらめっぽう酒が強く、時々自腹を切ってのみにつれて行ってくれた。
私はこれがほんとの教育だったと今になって思います。戦後間も無いころで、軍国教育の反動で、教師も生徒を縛りつけるのが厭だったのですね。校長も教師も先ず最初に生徒の人格を認めてくれていたよね。一体何が日本の教育を現在の様に荒廃させてしまったのか。
然し新宿高は教育環境としては最悪。有名な赤線、青線の新宿三丁目のそばで、高校の前が4階だての連れ込み宿。お昼ころになると一見してそれと分かる女性がしどけない格好で学校の周りをうろうろ散歩していた。 実に猥雑な環境でした。