33pcネットが健在であった頃、数回「国立だより」を出したことがあった。
久しぶりでニュースらしきものがあったので写真添付でお送りします。
黄色い旗の行進は国立老人クラブ連合会です。・・・・・・・・・・・・・・・大島昌二
国立駅に北口ができたのは昭和34年、われわれが卒業した翌年である。
北口は住宅街として開けたが今でも町の中心は南側である。
南口の駅を背にして中央にご存知の大学通り、左右に放射線状に旭通り(左)と富士見通り(右)が放射線状に伸びている。・・・・・・・・・・・・・・
大学通りを挟んで中央を一橋大学の東西キャンパスが占拠しているので町の東と西の往来は不便である。東に住む私などは通常は旭通りを駅前まで歩いてから富士見通りへ出る。
もっとも外出は駅までということが多いし、たいていの用事は旭通りですませられるから大学通りに出ることはあまりない。
11月5日に如水会支部の秋の総会が佐野書院であったので、大学通りを大学の先で横切ることになった。ちょうど国立は秋のお祭りで天下市の最中、広い大学通りを次から次へと山車やパレードが通りすぎでいた。今年は市政50周年だから特別かと思って聞いてみると、「それで国立に住んでいるの?」という顔をされて「毎年ですよ」という返事である。
大学の門の前には舞台が設えられて「日頃鍛えし練習の」出来栄えを競っている。
なるほど国立は歩くのに不便な町だと思っていたがお祭りには良くできている。
広い大学通りはパレードに最適。これならば阿波踊りにも持って来いだ。せまっ苦しい高円寺の駅前などの阿波踊りはもう行き詰っている。
思い返せば2011年の市長選挙で左側の関口博市長が駅前のロータリーを車輛乗り入れを禁止して市民の憩いの広場にしようという夢を見たのだった。そんな夢想を掲げて再選を目指したのだがこれという財源がない市政は火の車、あっけなく敗北を喫した。
その後を継いだ佐藤市長は低姿勢だったが間もなく突然死去、あわただしく行われた選挙ではその衣鉢を継ぐと宣言した永見理夫氏が副市長から持ち上がった。その後、市政に話題を提供したのは今はやりのセクハラで悪名高い市会議長があっさりと辞任を申し出て受け入れられたことぐらいか。
なぜ選挙の話になったかというと駅舎もそうだが市街のプランニングもヨーロッパ仕込みで元々お祭り向きに出来ているという発見をお伝えしたいのである。
市役所の和田賢氏は、国立の街並みの設計モデルは「中心に大聖堂があって広場があり、そこから目抜きの通りが伸びる」ドイツの学園都市ゲッティンゲンだったという説を紹介している(東洋経済on-line 5月17日)。
私はゲッテインゲンを知らないのでどなたかにご教示戴きたいのだが、イギリスの伝統的な村では中心に”village green”という芝生があってそこで”May pole”などのお祭りが行われる。
村によってはクリケットの球技も行える。私のいた会社では毎年ある村との親睦対抗戦をしていたが、私はクリケットのルールは知らないからと言ってさぼっていたのを今になって後悔している。
いずれにせよこれで関口元市長の夢がどこから湧いて出たかが想像できる気がする。
それにしても天下市の人出はすごかった。田舎町国立にどこからこれだけの人が湧いて出るのかと驚くばかりであった。例年文化の日を挟んで一橋祭が行われていたが今年からは4学期制が採用されることに伴って直後に試験を控えているために日程がずらされ、共催は見送られた上でこの有様である。
如水会の国立国分寺支部では「一橋植樹会」顧問の福嶋司農工大名誉教授の講演、副学長の中野聡教授の「大学の近況」など盛りだくさんの話題があったが、その間をぬって永見市長から国立名物の赤い三角屋根駅舎の再現計画を話してもらった。
それを以下に要約すると、この2月に、駅舎の南側、大学通りのほぼ真正面に600平米の用地を取得した。防災指定地域に木造の駅舎を建設することには難色があったが文化財の復元ということで漸く認可が得られた。
来年中に契約にこぎつけ2020年完成の予定である。
内装を大正末のグレードにするためにコストがかさみ予算は1億2,000万円です。
この費用はすべて(ふるさと納税を含む)寄付(現在進行中)でまかなう予定である。
完成すれば弁当箱のような味気ない駅舎周辺にも少しは美観らしきものが加わることであろう。
(せっかく市のホームページがありながら、広報のみでこのような情報は皆無である。不肖大島が挙手によって善処を求めた次第であった。)
*****参考(管理人)***********************************************************