チンギス・ハーンの世界帝国とその遺産

P大島昌二2017.12.14

「河西回廊 西安から敦煌まで」の写真レポートを書き終え、その後で20世紀初頭のタクラマカン砂漠に眠っていた財宝をめぐる歴史を書き継いだ後で受け取った感想の中に次のような一文があった。

「最後となりましたが 『逆説のユーラシア史』杉山正明著 を読まれたでしょうか。私はマルコ・ポーロについて、元寇について、元碑について、その他諸々驚きの連続のうちに読みました。」

この友人がなぜ一足飛びにチンギス・ハーンの世界に思いを馳せたのかは明らかでない。たしかに中国の歴史は一面では北方の遊牧諸民族との抗争の歴史であるし、天山山脈の北に広がる「草原の道」はタリム盆地とシルクロードにこだわるあまり、気になりながらほとんど視野に入れることができなかった。チンギス・ハーンはこれらの交易路を西進して世界制覇へと向かったのであった。(注1)

いずれにせよ私はこの本を読んでいたからすぐに反応することができた。

「杉山正明氏の本は『モンゴル帝国の興亡』(講談社現代新書上下2冊)を、テーマに惹かれて読んでいました。モンゴルは東西交易のルートを完成・維持した政治勢力であったように書いてありますがなお疑問が残りました。確かに西洋人も当時は野蛮でしたが文化的に疎遠なモンゴルを実際以上に野蛮と受け取ったことは間違いないでしょう。しかし、ロシア史の「モンゴルの軛(くびき)」などを知るとセカンド・オピニオンが欲しくなります。その後に出た『逆説のユーラシア史』も読みましたが少しトーンが抑えられたような読後感がありました。『マルコ・ポーロについて、元寇について、元碑について』どんなことが書かれてあったかは忘れていますのでもう一度読んでみようと思います。今読めばもっと興味深いだろうと思います。」

この友人のお陰で興味本位でしかなかった私の読書は活を入れられたのであった。ほとんど再読ということをしない私が『逆説のユーラシア史』を読み返し、その勢いで岡田英弘著『世界史の誕生』をこれまた再読した。この岡田氏の本も一度は読んでいた本でしたが今回は「セカンド・オピニオン」の役割も果たしてくれた。

実はこの友人の問いに対して私はとりあえず次のような返事を出していた。

「杉山正明著『逆説のユーラシア史』を読んで大いに刺激を受けました。論調は記憶していても具体的な記述は記憶に留まっていなかったので有益でした。岡田英弘という歴史家をご存知と思います。彼は『世界史の誕生』という本で世界史はチンギス・ハーンが天命を受けた1206年に始まったと主張しています。この本は1992年5月に刊行されていますから1996年に始まる杉山氏の『モンゴル帝国の興亡』以降の所説に数年先んじています。同じようにモンゴルの世界史への貢献をクローズアップする本でありながら杉山氏が岡田氏の所説に触れていないのはなぜだろうかと思う。また一昨日は通りがかりの古書店でウェザーフォードという人の『パックス・モンゴリカ』という本が目に止まりそれを手に入れて来ました。『チンギス・ハーンがつくった新世界』という副題で同じテーマを追っている本格的な研究書のようです。」

ここで杉山氏の著書について氏の論調が少し後退したようなことを書いていたのはこの本が幾つかの雑誌に寄稿された論文から構成されており、その隙間に吹いている風から私が受けた印象に過ぎなかっただろう。同氏の『モンゴル帝国の興亡』は労作の名に値するもので、そこに展開される論旨は手堅く、また説得力に満ちている。しかしここでは拙速を顧みずに先へ進むことにしたい。それはこれに続けて読み進んだ岡田英弘氏の『世界史の誕生』、さらにはその後に読了したジャック・ウェエザーフォード氏(Jack Weatherford)の『パックス・モンゴリカ』(原題は“Genghis Khan and the Making of the Modern World”)のより大胆な論述を見ていきたいからです。

ここであらかじめお断りしておかなければならないことは、モンゴル史に関して資料となる文献は、その占める時間の長さ、空間の広大さ、意義の深さに比して、きわめて乏しいということです。主なものとしては、『元朝秘史』(解読チームの1人であったウェザーフォード氏以外は軽視)、『集史』(ペルシャ語で書かれたモンゴル帝国の「正史」。世界史の初の試みとしても貴重とされる)、それに漢文の『正史』(『史記』以来の中華思想に囚われている)に止まるようです。

ウェザーフォード氏も、著書の題名から明らかなように、チンギス・ハーンの世界制覇が今も世界の規範の根底にあること、つまり岡田氏ほど大胆にではないが、世界史の屋台骨はチンギス・ハーンが組み立てたことを西洋の史家の目で説いています。この著書からは世界の歴史や現代の政治と切り結ぶ豊富な論点があふれ出さんばかりです。その説くところの多くは岡田、杉山両氏の論点を現地モンゴルの歴史家を巻き込んだフィールド・リサーチと西側の文献によって裏書きするものと言えます。

モンゴル軍がなぜ無敵の強さを誇ったかもウェザーフォードの著書が明らかにしてくれます。歩兵のいないモンゴルの騎馬隊はそのスピードを攻撃ばかりでなく退却にも活用する術を心得ていた。攻めあぐねて逃げると見せて敵をおびき出し、折を見て反撃するなどの戦略にもたけていたし、初歩的ながら火力も効果的に使うことができた。戦いを求めるのではなく兵力を温存するためにまず使節を送り交渉によって戦果を挙げることに努めた。その一つの方法は威嚇作戦ともいうべきもので、自らの戦力や戦果、あるいは残虐性を誇大に広めて敵方の戦意を失わせることであった。

モンゴルの世界制覇の歴史については常に「残虐、野蛮、冷酷、非情」という表現がついてまわります。この問題に関してウェザーフォードの著書の監訳者である星川淳氏は同書の「あとがき」に次のように書いています。

「われわれアジア人でさえ、『残虐な暴君』、『冷酷非情な侵略者』といったヨーロッパのまなざしで捉えがちだったチンギス・ハーンとモンゴル帝国について、ルネサンスから近代世界の端緒を開いた役割を掘り下げる内容は、文字通り目から鱗の連続だ。」

軍人の残虐性は古今東西を通じて見られるものであり、遠隔操作によって残虐性を糊塗しているだけで21世紀の現在の戦闘の残虐性はむしろ高まっていることを認めなければならない。もちろんモンゴル軍の残虐性については争いようがない。ウェザーフォード氏の著書はモンゴル軍による大規模で、時としては異様な虐殺手段をたんたんと書き連ねている。

ただしこの点に関して以下のような点を指摘しておくことが必要と考える。チンギス・ハーンの軍の送った軍使は再三にわたって外交の場で殺害されている。(元寇に先立って使者を断罪した北条時宗は決して例外ではない。)新首都サマルカンドをはじめポカラ、メルブ、ウルゲンなどインドからヨーロッパへの通商を独占して栄えたホラズム王国(トルコ系軍事政権)での大量虐殺と富の略奪は際立っているが挑発して宣戦の口実を与えたのはホラズム王であった。王はチンギス・ハーンが通商を求めて派遣した全隊商(商人と従者450人からなるキャラヴァン)を殺戮して財宝を奪い、その後で責任者の処罰を求めて送られた使者も殺されるか傷を負わされて送り返された。(オトラル事件)。これに憤激したチンギス・ハーンは自ら征西の途に上り(1219年秋)ホラズム領内の諸都市を襲って略奪と破壊をほしいままにした。ペルシャの歴史家ジュワイニーはオトラルの事件はキャラヴァン隊を抹殺しただけでなく「全世界を破壊することになった」と記している。チンギス・ハーンの破竹の進撃はホラズムで止まらなかった。(注2)

西洋人の目から見たチンギス・ハーン以下のモンゴル軍は、少なくとも当初は、ただ酷薄で非情な侵略者ではなかった。『パックス・モンゴリカ』は西洋の文芸や科学の歴史をたどりながらわれわれの蒙を啓いてくれます。英国中世の大詩人チョーサー(Geoffrey Chaucer, c.1345-1400)は『カンタベリー物語』の「近習(騎士の盾持ち)の話」としてチンギス・ハーンを「自分の言葉に忠実で、慈悲の心があり、名誉を重んじました。…そしていつもとても王らしく立派にふるまったので、どこを探してもこのような人はほかにいませんでした」と絶賛している。外交官としてフランス、イタリアを幅広く旅してまわったチョーサーは、自分の作品の読者であるイギリス国民の多くよりも、ずば抜けて広い国際的な視野をもっていた。(p373)。クビライ・ハーンの宮廷を訪れたマルコ・ポーロの『東方見聞録』(完成1298/99年?)もクビライとその宮廷の賛美にあふれている。

「ルネサンスの文人や冒険家はチンギス・ハーンとモンゴル人を率直に賛美したが、十八世紀の啓蒙運動の時代になると反アジア思想が高まり、とくにモンゴル人に非難が集中した。」フランスの哲学者モンテスキューは1789年に著した『法の精神』で、モンゴル人をアジアの悪徳を代表する民族として非難した。ヴォルテール(1694~1778)は、フランス王を批判するために、その身代わりとしてチンギス・ハーンを無知で残酷な悪者に仕立て上げたのであったが、ほかの作家たちもこれにならいモンゴル人は文学と科学からの集中砲火の標的にされてしまう。モンゴル人に対する近代の呪詛の幕を切って落としたのはヴォルテールであったがこのような偏見に理論的支柱を提供したのは当時の啓蒙運動の機運に乗って大量生産された科学者たちだった。このように西欧自体の歴史に内在する事情が世界史におけるモンゴルの位置を不当に貶めたことは十分に考えられる。(これはそのこと自体が興味深い現象ですがこれもここで深入りすることは避けることにします。)

チンギス・ハーンの軍勢は7年に及ぶ大遠征によってホラズム王国を王もろともに滅亡させ、中央アジアと中東地域の大半を支配下に収めて凱旋した。しかしそれに先立って1224年2月に帰還したチンギス・ハーンはホラズム戦に協力を拒んだタングート族(チベット系)への懲罰戦に向う途次に死亡した(1227年8月)。この後、これまでチンギス・ハーンの下で一枚岩に見えた一族の間に不協和音が生じ、かつてはチンギス・ハーンの下の翼賛会議に過ぎなかった「クリルタイ」(王侯諸将の集会)は合議による国策決定機関となった。1241年12月の太宗オゴダイの死に当ってヨーロッパ征服の途上にあったモンゴル軍が突如、進軍を中止して引き揚げたのはその後の政権の在り方を決定するクリルタイが招集されたからであった。

この後、権力、権益をめぐる一族の争いは激化し、モンゴル軍の西方への進撃は頓挫した。モンゴル帝国は4つの主な行政区画に分裂し、一族の諸侯はそれぞれの領土の統治に専念しなければならなかった。しかしモンゴルの支配はウクライナ、ロシアに及び、南西ユーラシア大陸を包みこむまでになっていた。(添付地図参照)

ロシアの歴史家は「イヴァン雷帝がタタール人(モンゴル)の軛からロシアを解放した」という。「タタールの軛(くびき)」(”Tatar yoke”)はモンゴルの圧政の象徴としてヨーロッパ史の記述にも引き継がれているがここには2つの誤りがある。イヴァン雷帝は戦闘によってモンゴルに勝利したのではなく、モンゴルの一族ジョチ家の皇子をツァーリ(ハーン)に推戴した上でその譲位を受けて、つまりモンゴルの皇子から禅譲を受けた形で、ツァ-リの正統性を確保したのであった。また「タタール人の軛」については英文のウィキペディアに、「この言葉は苛酷な抑圧を思わせるが、実際にはこのモンゴリアからの遊牧民侵略者はそのような残酷な搾取者ではなかった。」彼らは定住したわけではなく、住民との間に直接の接触を持たなかった。彼らは占領地の国勢を調査し、税制、年貢を定めたが徴税は通常現地の貴族にまかせていた。

「タタール人の軛」の最たるものはスラヴ人に対する奴隷狩りであろう。(「軛」という言葉もそれに連動していると思われる。)しかし、オットマン帝国との奴隷貿易を目的としたスラヴ人に対する奴隷狩りが顕著になるのは14-15世紀であり、「黄金のオルド」(東ヨーロッパのスラヴ諸国)のモンゴル人はそれまでに小さな遊牧民の群れに分裂し、盟友のトルコ人と融合した幾つかの性格を異にした民族集団となっていた。

ウェザーフォード氏は元時代の中国について、岡田英弘の「中国人に残されたモンゴル帝国最大の遺産は、かれらが残した中国という国そのものである」という言葉を引用した上で「モンゴル人が治める新しい国は、国民が中国語だけを使う文明国、宋の五倍の大きさがあった」と書いています。この時の元の領土が今日の中国に引き継がれているわけです。それでは「領土のほかに、モンゴルは中国史に何をもたらしたか」が問題になりますが岡田氏はその中国あるいは中国人について独特の見方を持っています。以下に『世界史の誕生』によってその見解の骨組みだけをごくかいつまんで追ってみることにします。

歴史の事実に徴して見れば中国世界(天下)が成立して統一が達成されたのは紀元前221年の秦の始皇帝の時代である。しかし『史記』を著し「歴史の父」と呼ばれる司馬遷は、中国の歴史を「五帝本義」(黄帝に始まり堯、舜に至る五帝の治世)の神話的世界から始め、夏(東夷、東南アジア系)・殷(北狄、北方狩猟民)・周(西戎、西方遊牧民)を実際に中国を統治した秦の始皇帝や漢の皇帝たちと並べて「本紀」(帝王の在位中の政治的事件の記述)に記載している。それは被支配者の同意を得るための根拠としての「正統」(中国世界の統治権)という観念が必要だからである。それが五帝から夏→殷→周→秦→漢と伝わったとする。この正統を伝えるのが「伝統」であり、伝統の手続きとしては世襲が原則である。司馬遷がここで主張していることは、皇帝は別の名前ではあってもその支配する「天下」とともに歴史の最初から存在していたということである。

司馬遷が「天下」(今で言う中国)と呼ぶ地域は彼が仕えた漢の武帝の支配の及ぶ帝都長安(西安)がある陝西省の渭河(いが)の渓谷から、河南省、山東省の黄河の中下流域へかけての東西に細長い地帯に限られる。王族とは縁のない庶民から出た漢の高祖劉邦には世襲や禅譲とは別の正統性が必要であった。そこで生まれた(史記が記述する)正統の根拠が天命を受ける「受命」、天命が革まる「革命」の理論である。(この「革命」は日本語の「革命」と似て非なることに注意する必要がある。)しかし天命は抽象的なものだから、それを裏付ける証拠として、自然の怪異現象が重視される。そのことから武帝の時代には祭祀や占卜や予言が異常に盛んになった。

『史記』には「本記」と並んで「われわれには外国の歴史を記述するように見える一群の『列伝』がある。しかし中国世界は国家ではなくて一つの世界だから、国境という観念はなく、したがって外国という観念もない。ただ皇帝が直轄の都市を持つ地域と、持たない地域があるだけである。こうした皇帝の直轄地以外の地域の住民が、皇帝とどんな関わり合いを持ったかを記述するのが、こうした特殊な『列伝』の趣旨であって、これらもやはり皇帝の歴史の一つの表現である。」(注3)

中国の歴史を読んで混乱させられるのは、このようにして広い領土内に時には乱立する「王朝」の数である。時代区分の数もそれに従って多くなる。隋、唐は後漢に隣接して続くのではなく、後漢の後には三国時代、西晋、五胡十六国、東晋、南北朝時代が370年にわたって展開し、唐から宋へ移行する間にも五代十国、53年の間隔がある。この間、支配民族の変遷にも目まぐるしいものがあった。「しかし、中国世界は国家ではなくて一つの世界」、つまり一つの文明であったから多様性は一つの天下に吸収されることになる。今日、中華人民共和国の民族識別工作に漢族が94%以上を占めるという事実はこのような中国独自の歴史によるものとしか思えない。

河西回廊の旅でガイドの楊さんは「隋、唐の王朝は外来異民族の王朝だったと教えてくれた。その根拠としては「ほとんどが鮮卑族の夫人をめとっていたことが名前からわかるからです。鮮卑は羌(チベット系)の一族です」ということだった。岡田氏は「鮮卑は最初に五胡十六国の乱を平定して華北を統一し、最後に南北朝を統一してまったく新しい第二期の中国を作り出した」と書いている。この第二期の中国を作り出したとはどういうことか。それはこのようにして(南北朝時代の後)中国の再統一を果たした「隋の時代の新しい中国人は、秦・漢時代の中国人の子孫ではなく、北方から侵入して定住した人々の子孫である」ということによっている。

岡田氏はこの説の根拠として次の2点をあげている。一つは北朝の鮮卑族が漢人の南朝に勝利した後に成立した隋の文帝は、楊という漢人風の姓を持ってはいるが、実際は鮮卑と見られることである。もう一つは秦の始皇帝が統一した字音(じおん:それぞれの漢字には意味に関係なく一音節の名前が一つだけついている)の保存が危うくなったため発音辞典が編まれるようになったが、それでみるとアルタイ系の言語(トルコ、モンゴル、トゥングース語)にはない二重子音が消えているなどの発音の変化がみられ、中国で話される言葉の性質がすっかり変ってしまったことである。

このようにして現実の推移を見ると、『史記』や『漢書』によって完成された皇室を中心とする正統性を基にする中国の歴史観が破綻していることは明らかである。しかしいったん確定した枠組みに代わるものを見つけられないままに、まったく同じ形式の紀伝体、同じ皇室中心の平板な「正史」が1735年の『明史』にいたるまで、歴代の王朝によって書き継がれて「二十四史」と総称されることになった。おそらく、ここで「歴史とはなにか」、さらに進んでは「歴史記述はどうあるべきか」をあらためて考える必要があるだろう。その場合、今までわれわれが学んだ中国史はどう書き替えられるだろうか。(注4)

岡田氏は中国史の第二期を作り出した鮮卑の役割を論じる傍ら、ヨーロッパ史の表舞台を「地中海世界」から「ヨーロッパ世界」へと転換させた北方遊牧民族、フン族の動向をも視野に入れる。フン人が東方から侵入した結果、ヨーロッパではゲルマン人の大移動が始まった。ゲルマン人の傭兵隊長オドアケルは、476年、西ローマ帝国の皇帝を廃位して西ローマ帝国を滅亡させた。

ローマ人に代わって西ヨーロッパ世界の主役になったのはゲルマン人である。中国世界でそのゲルマン人に相当するものはこれまでに見たように鮮卑であるから、中央ユーラシア草原から侵入した遊牧民の活動が新しい中国世界と新しい西ヨーロッパ世界を誕生させたことになる。「どちらも以前の世界から引き継いだ、独自の歴史の伝統を持つ文明である。この二つの世界が合流して、単一の世界史が可能になるまでには、もう一段階が必要であった。」言うまでもなく、それを可能ならしめるのはチンギス・ハーンとその一族の働きであったとするのが岡田氏の説である。

先に述べたように岡田氏は『世界史の誕生』で世界史はチンギス・ハーンが天命を受けた1206年に始まったとしています。それはユーラシア大陸の東西でそれぞれ独自に発展を遂げてきた文明を一つに結びつけ、現在に及ぶ世界共通の歴史を形作った功績をチンギス・ハーンの世界帝国に認めるものだと言えます。チンギス・ハーンを「近代世界の誕生」(Making of the modern world)と併記して著書の表題としたウェザーフォード氏も同じことを示唆していると見てよいでしょう。文明の起源を一か所に限らず、文明は数か所で生れ、それぞれが独自の発展を遂げたとする史観と通じ合うものと言えます。その最も著名な歴史家がアーノルド・トインビーで、彼は”Society” と名付けた総計21の「文明圏」を想定しています。

ここまでの論を進めてきてなお残る問題がある。一つは遊牧民の生態と彼らの好戦性の所以である。この問題に関しては明快な解答がある。農耕定着の生活に入った中国人の祖先は彼らの居住圏(域)を城壁で囲って「國」とした。この領域に侵入するものは「北狄、東夷、南蛮、西戎」として排除すべき「化外の民」である。部族単位の小規模な遊牧民グループにとって、生活圏は広大な草原であり、異なった遊牧民グループとの間に境界はあっても城壁はない。人口圧は常により広大な牧草地を求めさせる。部族間の抗争は部族の連合という形で決着をつけることができる。ところが彼らのフロンティア―に突如として現れた城壁はただの障害物に見えたことであろう。

「紀元前221年に秦の始皇帝の中国統一の直後に、モンゴル高原に匈奴の最初の遊牧帝国が出現したのは、まったく中国に対抗する必要から、冒頓単于(ぼくとんぜんう)を中心として遊牧民が団結した結果であった。」多くの人口と家畜が一か所に集中すると当然、家畜に食べさせる草は不足する。遊牧民の君主たるものは中国を軍事力で脅迫して経済援助を提供させるか、中国の辺境に侵入して略奪を行うのである。匈奴の軍は紀元前166年から何度も漢に対して大規模な侵入をくり返した。このことは匈奴の単于からモンゴルのハーンまで変っていない。(注5)

もう一つの問題は、モンゴルの世界帝国はユーラシア大陸の諸国、とりわけ中国の社会と文化に何をもたらしたかということである。これはこれまでに批判してきた司馬遷によってレールが敷かれ、中華思想の枠内にとどめられてきた中国の歴史を書き直すことにつながる。それは中国人の歴史認識、世界認識に影響を及ぼすことにほかならない。ここでモンゴルの支配が中国の社会と文化に何をもたらしたかについて具体的に触れるべきであるが、そのためにはこれまでに読み込んだ3人の著書に再び戻らなければならない。ウェザーフォード氏の著書は中国ばかりでなくヨーロッパ世界にもたらした文化への言及もある。

岡田氏の著書は常に「歴史とは何か」についての考察の上に立っている。そこから現代の世界には「歴史のある国」と「歴史のない国」とがあるという。そして「歴史という文化は、その発祥の地の地中海文明と中国文明から、ほかの元来歴史のなかった文明にコピーされて、次から次へと『伝染』していったのである」という。そして驚くべき発言がこれに続く。「アメリカ合衆国は、十八世紀の当初から、歴史を切り捨てて、民主主義のイデオロギーに基づいて建国した国家であった」、「ソ連の前身のロシア帝国は、本来モンゴル帝国の一部でありながら、その歴史を否認して、地中海文明の歴史を借りてきて接ぎ木しようとして、結局うまく行かなかった国家であった。それをロシア革命で歴史を切り捨てて、イデオロギーに置き換えた国家がソ連であったのである。現代の世界の対立の構図は、歴史で武装した日本と西ヨーロッパに対して歴史のないアメリカ合衆国が、強大な軍事力で対抗しているというのが、本当のところである。(『世界史の誕生』ちくま文庫、p48)。」1992年5月の初刊ながらここに中国の姿が見えないのは不思議である。

(注1)「ユーラシア大陸の中央に広がる草原地帯。モンゴル高原から中央アジア高原、ロシア南部草原、ウクライナ南部草原、さらにはマジャール平原と、緑豊かな草原地帯が茫々と広がり、古くから,さまざまな遊牧・騎馬民族が行き来していた。」(『ユーラシアの地政学』石郷岡建p5添付地図参照)西へ向かう草原の道はヘロドトスの引用する叙事詩によってすでに紀元前8世紀に開けていたことが知られている。

(注2)この略奪とその余波は『パックス・モンゴリカ』に詳述されている。杉山正明氏はこの通説とされるものを否定して、チンギス・ハーンの攻撃は計画的なものであり、ユーラシアに興りつつあった二つの新興勢力の激突は不可避であったとする。

(注3)列伝には「匈奴列伝」、「南越列伝」、東越列伝」、「朝鮮列伝」、「西南夷列伝」、「大宛列伝」がある。

(注4)岡田英弘氏によれば、「中国も中国人も19世紀末まで存在しなかった」。「中国史を世界史に組み込んで、まともな世界史を創り出すためには、いいかげんに『正史』の見かけにだまされることをやめて、『正史』の枠組みにおさまりきれなかった現実を取り上げなければならない。」

(注5)遊牧民部族間の縄張り問題は、ドキュメンタリー・フィルムでよく見る野生の鳥獣の縄張り争いを想起させる。またよく比喩に使われる「狩猟民族と農耕民族」の対比はそれが必要なら「遊牧民族と農耕民族」の対比とすべきではないかと思われる。確かに英文でも”hunter-gatherer”という言葉は時に目にする。しかし日本人が典型的な狩猟民族とする西洋人のほとんどは日本人よりも早い時期に農耕生活に入っていた。

「草原の道」石郷岡建『ユーラシアの地政学』より

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