「チンギス・ハーンの世界帝国―旅から学んだ歴史」(1)

P大島昌二 2018.2.23

敦煌への旅行を短い写真レポートとしてまとめるつもりだったものがそれだけでは終らず、タクラマカン砂漠周辺の秘宝争奪戦、さらにはチンギス・ハーンの世界帝国の建設へと話題を広げていました。そのうちしばらくしてからメールの宛先である1人の友人から彼が主催する討論グループにこれらのレポートをベースにして話をしてもらえないかという依頼を受けました。実は私自身も一段落をつけたつもりのレポートになお積み残しの荷物があることが気になっていたので、それを整理するよい機会として引き受けることにしました。

積み残した荷物とはシルクロードの一環としての「草原の道」をもっと身近なものにすることと、中国史を学ぶ上でとかく厄介者扱いをされる幾つもの遊牧民集団についてもう少し的確な理解を持ちたいということでした。そしてやがて分かったことはこの2つの問題の前に横たわっているのはユーラシア大陸を東西に分断する険しい自然環境だということでした。

そしてもう一つ。多彩かつ多面的であるために要約を拒んでいた「モンゴルの支配は中国の社会と文化に何をもたらしたか」について少しだけでも立ち入ってみたかった。

パミールと東部の大山脈

最大の難物はタクラマカン砂漠(タリム盆地)の西に聳え立つ「パミール」である。「パミール」は領域が定めがたい上にそれに付随する「高原」という言葉が混乱を招く。「タミール高原」は英語では単に”Pamirs”あるいは“Pamir Mountains” と呼ばれ、日本語が強く印象づける「高原」とは異なる。現実のパミールは平均標高 5,000mの山岳で、その抱える多くの氷河の中には北極圏外では最長の長さ77キロにおよぶものもある。 高原はその山上中央部にある台地(plateau)で短い夏季に牧羊に適した草原になる。(広大なパミールは幾つもの地域に分けられる。「高原」はこのplateau の訳語と思われる。)

地図上のパミールは主としてタジキスタン領にあるが北は天山山脈、南はヒンズークシ山脈に接している。その東にはコングール(高格爾)峰を擁するコンロン(崑崙)山脈へと続くのであるがコングール峰はコンロン山脈との間をヤルカンド渓谷によって隔てられているので東パミールに分類されることが多い。新疆で買った絵葉書には「パミール高原にそびえるコングール峰」という日本語の説明がある。この見方に従えばパミールの最高峰はイスモイル・ソモニ(7,495m)ではなく、中国領のコングール峰(7,694m)ということになる。

先にカラコラム・ハイウエイをパキスタンに向けて下り、ナンガ・パルバットに遭遇する途上で、ヒンズークシ、カラコラム、ヒマラヤの三大山脈を左右前後に一望する地点を通ったことをレポートしているが、その時でもどの山脈がどこまでと画然と見分けられたわけではない。(私は壮大なカラコラム山中を走ってきたつもりであるが、ヒマラヤとカラコラムの連続性に留意してカラコラムをヒマラヤ山脈に取り込んでしまう人もいる。)パミールを「世界の屋根」と呼ぶのはそれがこれらの大山脈を率いているという感覚から来るものであろう。

ユーラシアの大山脈の多くはパミールと同様に広大な山麓や山脈内部に大小の草原を擁している。(「西安から敦煌まで」(2)写真7551参照…クリック拡大)

また高原と同様に渓谷という言葉にも惑わされてはならない。森安孝夫氏は、なかんずく注目すべき天山山脈のパインプラグ草原は東西250キロ以上、南北百数十キロに及ぶ大草原であることを述べた上で次のように書いています。「これほどの規模ではないまでも、ユーラシアの背骨に当るパミール・天山山脈・崑崙山脈・カラコルム山脈・ヒンドゥクシュ山脈はもとより、満州とモンゴリアを分ける大興安嶺、モンゴリアとジュンガリアを分けるアルタイ山脈、甘粛省と青海省を分ける祁連山脈、チベットとインドを分けるヒマラヤ山脈、アジアとヨーロッパを分けるウラル山脈など、いずれもそういう自然景観をもっている。」

その上で、これがもう一つの重要な指摘なのだが、「こうした山脈は巨大な貯水湖であり、遊牧民の揺籃の地たりえたのである。中央ユーラシア史上に活躍したトルコ民族の古代語には、一般に「山」を意味するターグのほかに、『大山脈中の森林と草原、山中牧場』を意味するイッシュという語が厳然として存在する。中央ユーラシア最高の大草原地帯で幾多の遊牧国家勃興の本拠地となったモンゴリアのオトュケン山とアルタイ山脈、そして北魏から隋唐までの「拓跋国家」(下記注)を拓いた鮮卑系遊牧民集団の故郷である大興安嶺は、いずれもイッシュであってターグでないことに大きな意味があるのである。」(森安『シルクロードと唐帝国』p52~60)

(注)元来は大興安嶺周辺の草原森林地帯を原住地とし、徐々に南下して内モンゴルの草原地帯で成長した鮮卑族は、さらに集団で南下して中国全体を掌握し、中国を再統一し鮮卑族拓跋部の王朝を開いた。)

中国史における遊牧民集団

モンゴル出身の歴史家、楊海英氏は、日本人は中国に対するコンプレックスに悩まされ続けているという。中国は一衣帯水の日本海の彼方に聳える超大国で日本の文化は歴史的に多くのものを中国に負っている。これに対してモンゴルから見れば中国は隣国のひとつに過ぎない。北を下にして地図を見るといっそう明らかに見えるが、何世紀にもわたって広いユーラシアで移動を続けてきたモンゴル人からみれば中国はユーラシアの東端に固定された存在に過ぎない。中国との間の長い境界線もその相当部分は新疆ウイグル自治区とのものであり、その新疆ウイグル自治区は崑崙山脈を挟んでチベット自治区に連なって、この2つの自治区が青海省の西側を抑え込んでいる。たしかにモンゴル人は日本人よりもずっと古い時代から広い世界への展望を持っていた。

胡という文字が指す民族は時代によって変遷し明確さを欠くが漢以前には北方の匈奴(きょうど)を指した。騎馬遊牧民の宿命的ともいえる略奪行為にてこずった中国の王朝は万里の長城を築いて匈奴やその率いる家畜群に対する防壁とした(下記注)。しかし漢王朝の代には優勢な軍事力を率いて悪名を轟かせた冒頓単于(ボクトツゼンウ:単于とは匈奴語で君主を意味する)によって屈辱的な懐柔策を余儀なくされていた。

冒頓単于の死後、漢の武帝(在位BC156 ~BC87)がついに意を決して匈奴の討伐に乗り出すがその右腕となったのが霍去病であった(「西安から敦煌まで(1)」写真503参照)。武帝の代に活躍して歴史に名を残したもう1人が張騫である。霍去病が戦場としたのは当時匈奴の手中にあった甘粛省であったが、張騫は天山の北、烏孫国から「天馬」をもたらし、パミール(中国名は葱嶺)を西へ超えて西域探検の先駆者となった。西域に対する武帝の熱意はこれによって高まり、張騫の死後も年々、多人数、多数の探検隊が西方に派遣されてブドウ、クルミ、ザクロなどの中国にそれまでになかった植物や多数の文物が輸入された。なかんずく重要であったのは当時の軍事力のかなめである馬であった。(「西安から敦煌まで」(続)写真0553、7554参照)

歴代の中国王朝を苦しめ時には革命を招来した北方の異民族はもちろん匈奴だけではない。秦の王朝は西戎の出とされるし、後漢から隋にいたる目まぐるしい王朝の交代はそれら諸民族の興亡の歴史とも言える。この時期に現れる五胡十六国(~時代)の五胡とは匈奴(きょうど)、羯(けつ)、鮮卑(せんぴ)、氐(てい)、羌(きょう)を指す。またすでに紹介したように隋・唐の王朝が鮮卑系であることは定説になっている。森安孝夫氏が以下の文章に述べるように、多くの名称があって混乱させられるばかりと思われる遊牧民集団も似たような出自を背景にして、同じような生態的・文化的な基盤に立っていたと割り切れるならば、些細な拘りから脱け出すことができる。

「かつて中国本土の内部には内モンゴルの広大な草原だけでなく、さらにその南側にも広々とした草原地域があった。…そして内モンゴル草原と合わせたこれらの遊牧可能地帯には、匈奴、羯(けつ)、鮮卑、氐(てい)、羌(きょう)・稽胡(とうこ)・突厥(とっくつ)・沙陀(さた)・党項(たんぐーと)・吐谷渾(とよくこん)・奚(けい)・契丹(きったん)などさまざまな遊牧民集団がかつやくしたことを忘れてはならない。秦漢=匈奴拮抗時代から五胡十六国時代を経て、北魏・隋唐・五代(十国)にいたり、さらに遼・金・元朝へと続く中国史において、草原を本拠地とする遊牧民族は決して客人ではなく、農耕漢民族と並ぶもう一方の主人であったのである。…中国史を中華主義の呪縛から解き放つには、まずここが肝心なのである。」(同上、p59/60)

(注)松田寿男教授(1903~1982)は自著『蒙古遊牧民とその歴史的役割』(昭和12年刊)を振り返って以下のような趣旨を述べている。(「東西交渉とモンゴリア遊牧民」、『東西文化の交流』2005年刊所収)

遊牧民と農耕民の生産力には比較にならないほどの開きがあるだけでなく、遊牧には気候や環境の激変、あるいは疫病などによる家畜の大量死の危険があり、遊牧民は生活の急激な転落に常に脅かされていた。つまり遊牧民が依って立っていた遊牧経済は単純であり、それ自体では社会を発展させ、国家を拡勢させる力に乏しい。そのため遊牧民が社会を発展させ、国家を躍進させる原動力は遊牧経済にXが加わった結果であり、「遊牧経済+X=発展」という方式が成立する。このXこそは遊牧経済以外の「ある種の経済活動」でありそれはとりもなおさず他の生産地域との交渉、つまり掠奪のための軍事的結合であり、交易のための統制組織である。

「遊牧経済+X=発展」のXについて松田氏は別のところで以下のようにも説明している。「つまり『点』それ自体は発展力に乏しく、『線』を加えることによってのみ発展する(…)。いうまでもなく『線』はこのばあいキャラバン・ルートである。しかし政治力も軍事力も、ないし(ママ)経済・文化のすべてはその上を走る。いわば歴史の軸線であった。」

「シルクロード」再考

シルクロード」がドイツの地理学者リヒトホーフェンの用いたSeidenstrassen”(ザイデンシュトラーセン)の英訳名であることは広く知られている。西側の研究者から見ればシルクロードは中国と西洋を結ぶ交易路、西安に発して地中海沿岸地域に至る遠大な路線である。しかしその後研究が進むにつれて、シルクロードはユーラシア大陸の東西を結ぶ線ばかりではなく、南北をも結ぶ地域性も豊かな面としてもとらえるべきものと考えられるようになった。

シルクロード史を専攻する長澤和俊氏は、恩師である松田寿男は「シルクロードの範囲をあまり広く考えてはいけない」と繰り返し強調されたという。松田氏によれば「…アルタイ山脈から天山の裏側を通ってイランに達する往来は、前近代のアジア内陸部に恒久的に存在した枢軸線であった。したがって、中国から絹を運んで、パミールを越え、それを右の幹線に届けるまでの道こそ、シルクロードの本体と見なければならない。」長澤氏は中国新疆の学者たちと新疆各地を踏査してますますその感を深くしたという。(長澤和俊『シルクロード』p8)

「草原の道」に始まる歴史的シルクロードについては森安孝夫氏の以下のような要約をもって代表させることができる。

「1930年代以降、シルクロードは「オアシスの道」だけでなく、中央ユーラシアを貫く『草原の道』と東南アジアを経由する『海洋の道』とを含むようになっていく。その際、最も大きな役割を果たしたのは松田壽男博士の研究である。博士はまず、モンゴル高原~天山山脈の広大な草原の上に建てられた匈奴・鮮卑・突厥・ウイグルなどの遊牧国家の主要産物たる馬と中国の絹とが平和時には恒常的に交易されたという事実を掘り起こし、それに「絹馬交易(絹馬貿易)」という名称を与えた。そして中央ユーラシアの遊牧国家の発展にとって商業が必要不可欠の要素であったこと、とりわけ絹が商品とも貨幣ともなって移動した遠距離交易路としての「草原の道」がいかに重要であったかを明らかにした。」(森安同上書p63)

チンギス・ハーンが征西の軍勢を率いた道が草原の道、あるいはステップ路であることを具体的に示すものは多くはないが長沢和俊氏の『シルクロード』には以下の記述がある。ここに言う「天山北路」はウルムチを経由する「草原の道」である。

「(耶律楚材は)一二一九年、チンギス・ハーンの西征に従い、常に帝の左右に扈従(こじゅう)していた。その旅行記は『西遊録』と呼ばれ簡潔ながら中央アジアの歴史地理学上の重要な資料とされている。『西遊録』によればモンゴル軍はアルタイを越えてビシュパリクに出て、ここから天山北路沿いに、アルマリク、イリ、フスオルグ、タラス、を経てオトラルに至り、ここからサマルカンド、ブハラ、ウルゲンジ、パルクに達したことが分かる。」ほかにも『長春真人西遊記』、『劉郁西使記』などの天山北路を経由して参戦した高官たちの紀行文が残されている。

「内陸の時代」におけるシルクロード貿易は塩・穀物などの生活必需品の短距離輸送もあったが、あくまで絹や香料のような軽くて貴重な商品、すなわち奢侈品や嗜好品の中長距離輸送が主流であった。それはまた線ではなく東西南北のネットワークとしてとらえるべきであった。これに対して「大航海時代」以降、世界史が新大陸を取り込んで地球規模で動く時代になると、陸のシルクロードは相対的に落ち目になる。海洋の時代となれば、重くてかさばる食料や原材料や生活必需品の大量輸送が可能となり「海のシルクロード」の優位性が歴然とするのである。

このように「シルクロード」の名は依然として健在であるが、それは事実としてよりは、世界史に大きな刻印を残した長大な通商路をたどったシルクを記念する雅称としてにほかならない。忘れてならないことはシルクロードがまた物資ばかりでなく仏教など宗教や製紙法などの技術伝播の道であったことである。

中国の製紙技術が西洋に伝わったのは唐軍とイスラム軍(アッバース朝、首都バグダード)との間のタラス河畔の戦い(751年7月)が契機とされるがその伝播ルートは当時のイスラム世界を結ぶシルクロードに沿っていた。サマルカンドで始められた製紙法はやがてバグダード、ダマスカス、カイロへと伝わり、11世紀にはリビアを経てモロッコへ、12世紀にはモロッコからイベリア半島のバレンシア地方を経てフランスへ伝わった。カイロからは13世紀半ば過ぎにシシリー島へも伝わり、モンテファノを経由してドイツのニュルンベルグへというもう一つの経路が生まれた。いずれの場合も製紙技術がヨーロッパへ直接には伝わっていないことに注意が引かれる。ヨーロッパ全土に製紙法が広まるのは14世紀に入ってからのことであった。(薮内清『科学史から見た中国文明』など)

写真説明

1) パミール山塊の衛星写真。右にタリム盆地(53万㎢)、左にカスピ海(37.1万㎢)。Google Earth でより近くからの航空写真を見ることができる。

2)「タミールへ向う隊商」ユヌス作(ウズベキスタンの画家)。前途の白い山岳がタミールの山々。隊商を描く絵の多くは東から西へ向かっているがこれは西から東へ。

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