2008年 (2022年11月19日読了)
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これもまた、地元の山を愛する登山愛好者による山岳誌、「若いころに情熱を傾けた山の記録と現在の登山ガイド」である。出版のとき、著者の一人、蟹江健一が既に亡くなっていて、それは67歳だったというのは、今年の私の年齢である。私にとって既に登った山もいくつかあるが、おそらく、標高は低いが登るのは難しい山がたくさんあるだろう。そのうちのいくつかでも、なんとか登ってみたいと思う。
1975年に出版した「雨飾山」というのが本書のオリジナルで、それが評判になったことが改訂再出版の理由らしい。当時はともかく、今ではもう雨飾山は有名な山であり、それは深田久弥の百名山人気がきっかけに違いない。海谷の山に登ればどこからでも雨飾に出会えるだろうが、この山にももう一度登ってみたい。
これは蟹江健一が1993年に執筆したものであり、頸城の山々のうち深田が百名山に選んだ雨飾山、火打山、妙高山への深田自身の登山およびそれ以外の登山記録について詳細に記載されている。冒頭には私が富士写ヶ岳で見た深田の詩「山の茜をかえりみて一つの山を終わりけり、なんの俘のわが心、早も急かるるつぎの山」が掲載されていて、これは郷里大聖寺の江湖神社の文学碑に彫られているらしい。いつか寄ってみたい。
焼山 頸城三山から最初に蟹江が取り上げ、「登山の紀行文としては雨飾山、妙高、火打山のいずれよりもたくまず自然な文章」と絶賛するのは焼山。これは「山頂山麓」という本に収められているらしいが、私は読んだことがないと思う。「・・・・描写はたくまずして美しい文章でほのぼのとしてしまう」「山を見る目は正確で地形の表現と登山道の描写には漏れはない」という反面、当の深田は笹倉温泉から焼山まで11時間もかかっており、それは「あまりに天気の良すぎたせい・・・・山が見えてくる毎に立ち止まっては見惚れた」ということらしい。
海谷の四季 これはタイトルからは想像できないとんでもなくハードな登山記録、著者の蟹江もかっては登ったのだろうが、触れられているのは高田高校パーティ、早稲田大学ワンダーフォーゲル部、GDM、心岳会、渡辺厳・渡辺義一郎といった超上級者らしき面々である。「ハイライトはやはり東・西両山稜の縦走といえよう」というのはもう素人の世界ではない。
近代登山史以前 蟹江の話は上杉謙信の頃から始まる。謙信は春日城を居城とし、千丈ヶ岳北尾根末端にも出城を築いていたという。地理院地図に山名の出ていないこの山への登山記録がヤマレコに出ていた。今年(2020年)3月19日残雪尾根を辿り、距離10km、標高差1,200mを往復11時間。やはり千丈ヶ岳は海川の右岸、阿弥陀山の西にある1,203m峰だったが、この登山はかなり厳しそうだ。登山道は無く、踏跡程度とある。
ここで初めて、海谷は「うみだに」と読むことが分かり、海谷山塊とは、東に昼闇山、鉢山、阿弥陀山、烏帽子岳、千丈ヶ岳、西に鋸岳、鬼ヶ面山、駒ヶ岳の山々と記載がある。つまり、雨飾山や頸城三山、金山や天狗原山も含まれないということだ。まあ、これは狭い範囲でということだろう。
p196の雨飾山の写真を見ると、猫の耳はかなり小さく見えている。その下の駒ヶ岳の写真には私がたどった大岩壁の下の「バンド」がくっきり写っているが、この写真を撮った「大神堂ルート」というのは私も歩いたルートのはずだが、こんな風景は見なかった。たぶん樹木が茂ってかくしてしまったのだろう。
直江津雪稜会とは、「直江津高校と高田工業高校の山岳部OBが頚城の山の未踏ルート開拓のために設立した山岳会」であり、ここには1970年代初頭頃の沢・岩登り、積雪期登山の記録が載せられ、誇れる初登攀もいくつかあるという。
積雪期千丈ヶ岳~阿弥陀岳(1969年3月9日) 蟹江は小林敏明と二人でスキーをかつぎ、粟倉から不動川を渡って千丈ヶ岳の北尾根を登る。途中の細尾根が厳しそうだが、「尾根にでたところはちょっとしたカラマツ林、前方はヤセ尾根で慎重な行動を要求される。約500mで細尾根は終わり、高度を上げるためスキーをつけた」とあるから、細尾根はスキーを担いで歩き、その先の広い急斜面をシールで登ったのだろう。
吉尾平より鉢山、昼闇山、富士見平(1971年2月28日~3月1日) これは蟹江が小林敏明と渡辺義一郎と三人で行った記録。笹倉温泉のあたりで早川の左岸台地に登るあたりは今のコースと同じ。
厳冬期、海谷山塊横断(1972年2月11-13日) これは珍しく蟹江のいないパーティで、メンバーは渡辺巌と渡辺義一郎だが、やはりすさまじい登山。なにせ厳冬期の雪の降る中を、駒ヶ岳へは南西尾根の岩壁を登り、ラビーネンツークという雪崩の通り道を覗き、「広い雪面に出る。17時。雪の斜面を削り半雪洞を掘りツェルトを張」ったのは、今のルートのバンドのすぐ下あたりらしい。そこから駒ヶ岳までは「広い雪面のバカ尾根」という記載しかないから、私などが苦労したバンドところなどは物の数ではないのだろう。
海谷山塊・不動川遡行 これは2年がかり、延べ7回を費やした阿弥陀山頂上までの記録である。この困難なことは次のように表記されている「谷は狭く、両岸とも切り立ち、いったん入渓したら進むに進めず、巻くに巻けないという地形・・・・・滝はどんなに小さなものでもすべて深い釜をもちトロになってるところが多い。岩はリスが少なく、ハーケンを十分に打ち込めず、ボルトが必要となる」
KKKKKKKKKKKKKKKKKKKKKKKKKKKKKKKKKKKKKKKK
はじめに これもまた、地元の山を愛する登山愛好者による山岳誌、「若いころに情熱を傾けた山の記録と現在の登山ガイド」である。出版のとき、著者の一人、蟹江健一が既に亡くなっていて、それは67歳だったというのは、今年の私の年齢である。私にとって既に登った山もいくつかあるが、おそらく、標高は低いが登るのは難しい山がたくさんあるだろう。そのうちのいくつかでも、なんとか登ってみたいと思う。1975年に出版した「雨飾山」というのが本書のオリジナルで、それが評判になったことが改訂再出版の理由らしい。当時はともかく、今ではもう雨飾山は有名な山であり、それは深田久弥の百名山人気がきっかけに違いない。海谷の山に登ればどこからでも雨飾に出会えるだろうが、この山にももう一度登ってみたい。
p3 直江津雪稜会・・・・・直江津は現在の上越市
これは蟹江健一が1993年に執筆したものであり、頸城の山々のうち深田が百名山に選んだ雨飾山、火打山、妙高山への深田自身の登山およびそれ以外の登山記録について詳細に記載されている。冒頭には私が富士写ヶ岳で見た深田の詩「山の茜をかえりみて一つの山を終わりけり、なんの俘のわが心、早も急かるるつぎの山」が掲載されていて、これは郷里大聖寺の江湖神社の文学碑に彫られているらしい。いつか寄ってみたい。
雨飾山 ここには最初に深田が雨飾山に登ろうとしたS16年から16年後に登頂を果たした間の記録、およびそれ以前に登頂していた冠松次郎、三田尾松太郎、松岡忠太郎の記録が述べられており、松岡が登った越後側からのルートおよび冠、三田尾、深田の登った信州側・荒菅沢のルートを蟹江は自身でも登っており、そのときのルート図が掲載されている。まさしく「素人の登れる山ではない」ことが分かる。そして日本百名山後に有名になったこの山について、終盤に蟹江が「深田久弥の雨飾山は違う、違う」とつぶやくのは、越後側、信州側共に登山道が開かれて楽に登れるようになったが、「それら楽な雨飾山へのルートは、深田が迷い、艱難辛苦の末に辿ったルートとは違う」ということのようだ。「雨飾山は深田久弥の登山人生において最も印象深かった山ではなかったのか」と語る蟹江の口調には、この山に対する誇りを感じる。私にとってはそれは八甲田山ということになる。「我が愛する山山」の冒頭でまだ学生の深田が登った八甲田もまた、彼が愛し、どうしても登ってみたかった山だった。
「私(蟹江)は戦後もしばらくたった昭和31年10月(これは深田の初登頂よりも1年早い)、山口集落から歩いて(松岡忠太郎のルートを辿り)日帰り登頂した。梶山温泉の板戸は固く釘付けされていたし、ヨケジの滝を巻く踏跡がついていた・・・・・・(荒菅沢ルートについては)深田久弥の登山から遅れること9年、登山道開通の1年前の43年9月22日、このルートで登ったが、そのときの記録によると荒菅沢に入るとすぐ4本の滝が連続していた・・・・・この上流はたんたんとした河原に変わり、ついで柱状節理の発達した小廊下、ついてフトンビシが正面に展開する源頭になる」
焼山 頸城三山から最初に蟹江が取り上げ、「登山の紀行文としては雨飾山、妙高、火打山のいずれよりもたくまず自然な文章」と絶賛するのは焼山。これは「山頂山麓」という本に収められているらしいが、私は読んだことがないと思う。「・・・・描写はたくまずして美しい文章でほのぼのとしてしまう」「山を見る目は正確で地形の表現と登山道の描写には漏れはない」という反面、当の深田は笹倉温泉から焼山まで11時間もかかっており、それは「あまりに天気の良すぎたせい・・・・山が見えてくる毎に立ち止まっては見惚れた」ということらしい。ここは来週、もう一度読もう。
「新町から三里の道を歩いて笹倉温泉に入るが、この間の描写はたくまずして美しい文章で、ほのぼのとして心をうつ。『夕食のなんとうまかったころだろう。酒もビールもお生憎様だった。たいした料理だってあったわけではない。純米がおいしかったのだ。戦争前はこんなにうまいものを並記で食っていたのかと疑われるほど、この混じりけのない御飯が世にも珍味に思われた』・・・・純米という言葉を今の若者たちはわかるだろうか」
「焼山の西の肩にある乗越」というのは今の富士見峠のことだろうか。当時深田の見た「左、焼山登山道、右、富士見茶屋」のうちの富士見茶屋はおそらく金山方面ではなく、笹ヶ峰に下る道の途中にあったのだろうが、どのあたりにあったのだろう。「尾根を下りきると谷川に出会い、道は消え」、日が暮れたので野営し、翌朝、谷を下り、ゴルジュに阻まれて左岸に登り返し、道を見つけたというのは、おそらく標高1,650mから1,600mのあたりだろう。ここの道の状況は蟹江氏の時代にも変わっていないらしいが、今はどうだろう。焼山は今、登山禁止ではないから、笹ヶ峰牧場か笹倉温泉から登っている人は少なくないはず。笹倉温泉の標高は450m、笹ヶ峰牧場からはいったん下って1,250mくらいからだから、こっちのほうが大いに違いない。この焼山登山は深田にとって「会心」の部類に近かったというのは、紅葉もあるだろうが、秋の好天が続き周囲の名山の眺望がすばらしかったことが大きいのだろう。それが影響したためか、初日は頂上まで11時間(頂上が14時だから、野営したのが20時とするとトータル17時間!)、二日目も下山途中から妙高温泉についたのが20時(朝5時としてもトータル15時間)という、距離に比べてえらく時間をかけた旅だったようだ。トータル10時間を越えると確かにきつい。蟹江氏はこの焼山紀行がえらく気に入っているらしいが、雨飾山に近い、焼山も百名山に入れてほしかったのだろう。
「『一度でいいから会心の登山をしてみたい、と書いた人がいる。人々によって会心の内容は違うだろうが、この焼山登山は僕の会心の部類に近かった。満月を仰いで登り、万山の紅葉の盛りを眺め、そして絶好の天気に幸いされて頂上からあくことのない眺望を享受した』・・・・・これだけ堪能し、心にしみる山行であったのになぜ日本百名山に選ばなかったのか。深田久弥の個人的山行の印象は百名山の選択基準にはなく、後期にある四つの基準によって選定されたのであった」
p26 焼山
妙高山 最も標高が高く、ネームバリューもある妙高について、蟹江はあまり書いていなのは、深田の妙高山が過去文献詮索主体で、紀行文が少ないためらしい。だが、頂上からの景観賛美は相当なもの。蟹江はそれをロマンティシズムと感じている。まあ、感動しやすいということだろう。
「頂上に立ってまず狂喜(誇張ではない)したのは妙高山背後の火打山、焼山がまだ多量の雪を被って明るい陽の下に燦々と輝いている姿だった。これほど見事だとは全く思いがけもしなかった・・・・感激した。一生を合計して30分とはあるまい貴重な感激であった」「これでもか、これでもかと、と感激を重ね、狂喜している。程度は多少違っていても、どの山でもこれに近い喜びようなのであり、文学者として売り出したころの深田の特徴はそのロマンティシズムにあったというが、分かるような気がする」
火打山 この山に深田が登った時の状況は、他の三山(雨飾山、焼山、妙高山)のときとはずいぶんかけ離れたものとなり、山岳界で有名になっていた深田は、各地への講演に合わせてその地の山岳会の強力なバックアップを得て登山するようになっていた。こういう登山の記録は北海道の斜里岳にも見られる。昭和36年に深田が高田にやってきたときの講演を蟹江は聞いていて、火打山登山にも参加を誘われたが、休みが取れず、参加できなかったらしい。文面にはないが、蟹江はかなり悔やんだに違いない。なにせあの深田久弥と一緒に登山するチャンスを逃したのだ。火打山は意外に目立たない山らしく、五万分の一地形図の発行まで山名が確定しなかったらしい。その火打山が今ではこれほどもてはやされるのは、深田久弥が百名山に選定したからに違いない。蟹江はそのことを「頚城から三つの山を選んだことは、いつまでも記憶にとどめておきたい」と書いて感謝している。
「ただ私がフラリと高田に下車するだけですべての登山態勢が整っているという結構なお膳立てを作り上げてしまっていた。私はありがたくその厚意を受けた」
「こんなに一点の汚れもなく真っ白になる山は私の知る限り加賀の白山と火打山以外にはない。だが、それよりなにより心憎いのは火打山が私に向かって昂然と頭を上げていることだった。・・・・火打だけがまだ不落を私に誇っているのである。山の連なりを眺めて、そこに取り残した山のあることは山気違いにとっては一種の苦痛である」
赤倉の宿というのは、妙高山「赤倉の東の外れ近く」にあった和田荘というところで、深田が定宿にしていたらしいが、今ではどこにあったのか不明(和田荘というのはグーグルマップでも妙高には無い)。そこに籠って深田は「ヒマラヤ登攀史」を書いたらしい。
「最後に(和田)アキさんは『クズカゴに丸めてあった原稿用紙をなぜとっておかなかったのかしら。こんなに有名になるとは思わなかったわ』と笑っていられたのが印象的だった」
光明石の伝説 「猟師が熊を追っているうちに阿弥陀様に会った」という話は立山にもあったと思うが、雨飾山の「蘇鉄が岩屋」に逃げ込んだ熊を追った猟師塩六もそこで阿弥陀様に会う。雨飾山の阿弥陀様はなかなか過激で、猟師塩六に自分を背負わせ、西に8㎞も離れた姫川沿いにある大網まで飛び降りさせている。大網にあった光明石のところに着地し、そこにお堂が建てられたらしいが、ネットには出ていない。この話には後日談があって、大網に火事があったとき、火の玉になった阿弥陀様が雨飾山に帰っていったという。だから今はもう、大網にはいないわけだ。
阿弥陀堂の話 先の話にかなり似通っていて、譜代某という猟師が熊を追って「蘇鉄が岩屋」に入り、三阿弥陀像三体を見つける。三日後に三体を背負って下山し、重いので一体を大網の、一体を白岩の阿弥陀堂に安置し、中土の自宅に帰宅すると、なんともう三年が経っていた。このうち大網の阿弥陀像は光明を放って雨飾に戻った・・・・というのも先の話に通じる。
天狗の足跡 これは雨飾山に住んでいた天狗が、大網の人々を苦しめていたウワバミのところまで飛び降りて踏みつけて退治したという話。天狗の足跡が残っている大網分校の所は、たぶん先の光明石とは違うのだろう。
p43 うわばみ:大きなヘビのこと。漢字では蟒蛇と書くこともある。特にボア科のヘビを指す。伝説上の大蛇(おろち)を指すこともある。(weblio)
法眼の寄進した阿弥陀様 これは根知村字梶山の奥の雨飾山に三尊の阿弥陀様を祠ったのは糸魚川の法眼であったという話。いろいろあったが「とうとう頂上まで担いだ」とあるから、雨飾山の北峰にある石仏のことなのだろう。
p44 法眼:【ほうげん】 ... 日本の僧位の一つ。僧綱(そうごう)の中級位。法眼大和尚(かしょう)位とも。僧都に授けられる位で,官位でははじめ正3位に相当 (コトバンク)
これは、1973年に、もう一人の作者、渡辺義一郎氏が小谷村中土の大宮諏訪神社の宮司杉本好文に見せてもらった三つの古文書「雨錺山蘇鉄ヶ岩洞の縁起」「あまかざり拾三仏の縁起」「大網村・中谷村・白岩此三ヶ所阿弥陀の縁起」の話である。蘇鉄ヶ岩洞や阿弥陀仏は先の「むかし話」と共通しているが、まず注目すべきは原文に雨飾山を「天錺山」と記していることであろう。深田は日本百名山で雨飾山の名前の由来について「雨飾という珍しい名前はどこからきたものか。小谷温泉へ行く途中で道連れになった婆さんはアマカサンと呼んでいた・・・・・・『国群全図』の越後国の地図では雨節山となっている」など、いろいろ考えあぐねているが、この古文書によれば、もともと「天錺山」すなわち「天にかかた飾り、かんざしやしめ飾り」をイメージして名付けられたものを、同じ読みの漢字に置き換えて「雨飾山」としたことは明らかだと思う。深田は1971年に亡くなっているから、この大発見を知ることができなかった訳だ。だが深田が語る「山の名前は複雑ではない、昔の人は見たままの姿で名付けている」というのはここでも当たっている。二つ目の古文書に現われる「二ノ肩」というのは今の笹平であり、「みたらし池」というのは「原の池」という名で笹平に現存している(私が登った時は笹平は雪で覆われていた)ということだが、一つ目の古文書の「二ノ肩」と「剣ヶ峰」というのは雨飾山・P2とそこから頂上に至る岩尾根にあるピークのことではなかろうか。スキーブーツではとても辿れない岩尾根だが、夏山で登っている記録はある。十三仏(不動明王、釈迦如来、文殊菩薩、普賢菩薩、地蔵菩薩、弥勒菩薩、薬師如来、観世音菩薩、勢至菩薩、阿弥陀如来、阿閦如来(あしゅく)、大日如来、虚空蔵菩薩)が担ぎ上げられたというのは登山者と僧侶の署名が残っているので真実であろう。今は西峰に三体しか残っていないが、昔は東峰にも数体あったという。むかし話にも出てくる「蘇鉄ヶ岩洞or岩屋」がどこなのかは興味津々だが、おそらくP2の麓のあたり、もしくはフトンビシのあたりなのだろうか。解説も「雨飾山の南面にサイガ岩屋というところがある・・・・・そうだが詳細は不明」としている。この「蘇鉄ヶ岩屋」に聖武天皇(在位724-749)の頃から仁明天皇(在位833-850)の時代までこもって修行したのが「行基菩薩」と一つ目の文書にあるが、行基が生きていたのは668-749であり、越後に行ったとしても布教活動や灌漑事業を伴う山林修行であったと思われる。
p45 錺:飾・餝・錺(読み)かざり[1] (動詞「かざる(飾)」の連用形の名詞化)① 飾ること。また、そのもの。装い。装飾。※万葉(8C後)二〇・四三二九「八十国(やそくに)は難波につどひ船可射里(カザリ)吾(あ)がせむ日ろを見も人もがも」② 実質に関係のない、表面だけの美しさ。虚飾。※人情本・英対暖語(1838)四「世間へのかざり、意地づくの様になりて柳川の許へ通ひ」③ 商品などをきれいに並べること。飾りつけ。※浮世草子・日本永代蔵(1688)六「かやうの花車商ひは、かざりの手広きがよし」④ 頭髪。かみ。→飾りをおろす。※今昔(1120頃か)一「過去の諸仏も菩提を成むが為に餝(かざり)を弃(す)て髪を剃給ふ」⑤ =かざりうま(飾馬)①※宇津保(970‐999頃)祭の使「よき御馬二つ、一つはかざり、一つはまうけ御馬にて」⑥ 新年の祝いに飾りつける松飾り、注連(しめ)飾りなどの総称。《季・新年》
p48 文政五年=1822年
p58 一丈六尺=約4.8m
p63 行基:没年:天平勝宝1.2.2(749.2.23) 生年:天智7(668) 奈良時代の僧。その事跡は,『大僧上舎利瓶記』『続日本紀』『日本霊異記』『行基年譜』などから知ることができる。河内国(大阪府)大鳥郡蜂田郷(のち和泉国に属す)の生まれ。父は高志才智,母は蜂田古爾比売。ともに中国系帰化人の氏族である。天武11(682)年,15歳で出家。『瑜伽師地論』『成唯識論』などの経典を学び,たちまち理解したという。8世紀初めごろまでは山林修行に力を注いだ。生馬仙房,隆福院など彼の初期の院はその伝統をひくものである。やがて広く各地を周遊し,布教活動を行って多くの信者を得た。しかし,養老1(717)年,政府から名指しで糺弾された。指に火を灯し,皮膚を剥いで写経するといった活動が異端的呪術とみなされ,また路上での布教活動がとがめられたと考えられる。しかし,このとき還俗とか流刑といった具体的な刑罰は科されなかった。行基はこの弾圧に,呪術を穏当なものに変えるなどによって柔軟に応じ,それまでの路上活動から院を中心とする活動に転換していった。 同7年,三世一身法(田の開墾を奨励し,開墾者の私財権を一定期間保障した法)が発布されると,これに対応して池造りなど灌漑事業に取り組み,また船息(港),橋,布施屋(旅人の休息所)を多数造立した。こうした活動は郡司クラスの地方豪族と結びついて広範に展開され,政府も容認し登用するところであった。彼の集団に加わる信徒は1000人を数えたという。『日本霊異記』に描かれたような呪術も得意としたらしく,しばしば「霊異神験」を示したといい,行き通う人々は彼を礼拝したという。人々から「菩薩」と仰がれた。天平3(731)年には従う者のうち老齢者に官度が認められた。同15年には東大寺大仏造立のため勧進活動を行い,同17年には大僧正に任じられ,400人の官度が与えられた。天平勝宝1(749)年死去。時に大僧正,薬師寺僧。その道場は畿内に四十余所,行基四十九院と呼ばれている。畿外の諸道にも建立したらしいが詳細は不明。著作はない。死後,行基信仰が発生した。
海谷の四季 これはタイトルからは想像できないとんでもなくハードな登山記録、著者の蟹江もかっては登ったのだろうが、触れられているのは高田高校パーティ、早稲田大学ワンダーフォーゲル部、GDM、心岳会、渡辺厳・渡辺義一郎といった超上級者らしき面々である。私が登った海谷は今年3月の昼闇山で、それは海谷東側の早川の上流に登るもので、勿論登山道はなく、残雪をたどるのだが、蟹江が語る「海川のシンボルであり、ベースである取入口高地」というのは海谷西側の海川中流にあるダム上流付近のことだろうか。そこは両岸が高い崖になっており、下流の崖から辿る破線がダムまであるだけ。そんなところに「4月下旬から5月にかけて海谷は年間を通じて最もにぎわいをみせる・・・・それは道のない峰々に登頂するのはこのときをおいて外にないからである」と語り、「ハイライトはやはり東・西両山稜の縦走といえよう」というのはもう素人の世界ではない。夏にも果敢な登山をしたパーティがいたようだが、秋に「峡谷の紅葉の美しさを知っていて、ハイキングを兼ねて取水口まで・・・大勢がやってくる」というのは私にでもできそうだ。
「駒ヶ岳の西の岩壁には100mにおよぶ大つららが下がり、根知梶山の人たちは十一面のカネコロンと呼ぶ。早川谷側のアケビ平から見る烏帽子、阿弥陀山にはヒマラヤヒダがかかり、吉尾平はバルトロ氷河みたいだ。冬の海谷は神秘的である」
「厳冬期の登山を展望しよう。東海谷(ひがしうみたに)は烏帽子岳から阿弥陀山、鉢山、昼闇山、焼山、雨飾山のルートが考えられる。西海谷では駒ヶ岳から雨飾への縦走がファイナル・トレースだ。・・・・・これら両ルートを雨飾、焼山縦走で結び、U字形の冬季縦走こそ、20ピッチと推定される千丈ヶ岳のルンゼ状壁と共に海谷四シーズンを通じての最高課題だ」
p73 海川、早川と東西海谷R1
不動川ロマンの谷 これは渡辺義一郎氏が友人と二人で、海川の支流、不動川を遡行して上流にある広河原に達したこと、その前に、海川との合流点にある集落、粟倉で聞いた話の断片である。地理院地図で見ると、この不動側というのは最初からゴルジュの谷をくぐっている感じで、その源流は烏帽子岳と阿弥陀山に向かっている。不動川を遡行して二人が辿りついた広河原というのは、いったい地図のどこにあたるのだろう。おそらく最奥手前の標高800mくらいのあたりだろうか。そこまでは滝の高巻きとゴルジュの泳ぎらしい。昔話にでてくる千丈ヶ岳、千丈ヶ原というのは地図に出ていないが、どこなのだろう。千丈ヶ岳は粟倉集落から見えるらしいから、たぶん阿弥陀山西尾根にある1,203m峰あたりだろうか。「千丈ヶ原にはいい道があって田植えの前後にゼンマイを取りに行く」とあるから、これはおそらく粟倉に近い、千丈ヶ岳の北尾根の末端付近のことだろうか。
p80 不動川
海谷にて-1972年 今度は蟹江健一氏の武勇談。1年の間に蟹江はいくつもの高度な登攀を行っていて、内容は深田久弥の山旅とは対極の、それこそ登攀技術と体力を最大限に発揮し、登山道とは無縁のルートを切り開いていく、スリル満点のクライミングである。一つ目は5月、海川の取入口高地から鋸岳に残雪を登るもの。蟹江は「今年の夏か秋にはもう道がつけられてしまうであろうから、やぶこぎの末達する最後の鋸岳の頂であった」と言う。私はこの6月に少ない残雪に悩まされながら登山道をたどって(垂直ぐらぐらハシゴというのもあった)鋸岳に登ったのだが、登山道をたどるだけで十分に大変だった。「海谷の峰々のうちでは最も登頂困難であった」と書いてくれているのがせめてもの救い。二つ目の「高地岳第一ルンゼ」というのはどこなのだろう。岩登り最高難度らしいこのルートを蟹江は「山岳会あぶみ」の遠藤甲太氏らと4人で登っている。三つ目は旗振山南壁のルンゼ。ここも取入口高地から登り、稜線から「左に寄れば阿弥陀沢の側壁に出てしまう」とあるから、おそらく阿弥陀山の西尾根のピークなのだろうが、地図をみるといかにも急峻。四つ目は10月に蟹江が単独で行った沢登りで、これは笹ヶ峰から裏金山谷を遡って裏金山に登るもの。先の三つに比べるとだいぶ親しみがもてるが、小雨の悪天の中を一度は退却を考えたが、「進め、進め、と心は叫んで」、頂上まで達している。気力と根性を感じる。
(海谷続き)五つ目。二週間後に二人で裏金山沢の左俣に入り、源頭で日帰りのパートナーと別れ、金山を越えて焼山の西コルにある泊岩に泊まり(十人くらい泊まっていたというから、大きいのだろう)、翌日は尾根を戻って雨飾山に繋がる繁倉尾根を辿り、コルから北に、海谷西俣右の沢を下る。この沢を単独で、しかも下ったのは初めてだったという。途中で滑落して頭を打つが、それも初めてではない。たぶん一人で怪我をしたときは心細かったと思うが、周囲の景色を見て歩き出し、下っているうちにペースを取り戻す。20mの滝も25mザイルを灌木にかけて2ピッチで降りているのは、たぶん私と同じやり方なのだろう。東俣・西俣出会いに着いたのは15時というのは、ややペースが落ちたのか、いや、もともと難しかったのだろう。それでもこの日、雨飾山から同じ沢を下ってきた二人よりも速かったらしい。取入口から村へ下ったあとはバスもなく、どうやって帰ったのかは書いていない(たぶんタクシーだろう)。最後の六つ目は10月、雨飾山北面の神難所沢に三人でトライしたが一人が負傷したため諦め、負傷者を梶山新湯(今の雨飾温泉)に残して二人で、このときはもう存在していた登山道を伝って鋸岳に登っている。だが、蟹江たちはそこまでマイカーで行ったのではなかったようで、鋸岳から下り、負傷した友人と共に歩いて梶山新湯から下っている。なんともすさまじい沢登り、クライミングの世界。私にはとても無理な、別世界の話だが、そんなクライミングを試みながら、蟹江は随所に山の風景、自然の美しさを表現しようとしている。クライミングとの段差がおおきくてしっくりこないが、そういう心を忘れない人だったことはよく分かる。
「妙高は三田原山の台形の上に心岳をかまえ、その色彩はいいようがない。火打になると赤茶けた色が山頂付近に目立ち、中腹はまさに金銀おりなす色彩の饗宴の真最中だ。私はこういうケンラン豪華な色より、秋のうすいカスミのフィルターを通して得られる遠方の妙高のいいようのないデリケートな色彩の方が好きだ。更に11月、全ての落葉樹が裸になって初冬の光をあび薄く白く弱って光っている山肌のほうをより愛する」
p91 牽強付会:自分の都合のいいように、強引に理屈をこじつける
「あのときのことは一部の会員に語り伝えられているらしいが、私の身体は河原にたたきつけられて良くはずんだ・・・・・・『バカヤロ、傷は浅いぞシッカリシロと言え』としかりつけるほどの余裕があった。そこには私のミエと責任感があった」
「南側の主稜線にでて木々の間から昼闇山を望む。落葉広葉樹林帯の尾根道は秋がすばらしい。カサコソと鳴る落葉の物音しか聞こえない世界。色彩がかもし出す秋の山の情景はいうまい。『別世界』とはこのためにある言葉だと思う」
p90 裏金山沢・左俣から海谷西俣右の沢R6
海谷のひとり猿 これは鉄砲で脅されて一匹になってしまった猿を憐れむショートショート。群れと離れたのはボスザルになれなかった雄猿なのだろうが、群れはたぶん引っ越してしまったんだろう。「お嫁さんが見つかるといいですね」というのはあまりありそうもないが、誰かが餌をやったか、人家の近くで餌をとるようになったのか。秋の夕暮時の話としてはしんみりしていて味がある。「タバコの煙が夕日に消えていった」というのはもう世情に合わないが。
ここでは蟹江が雨飾山に言及した過去の記録と、登山記録を紹介している。糸魚川に発見された2万年前の旧石器時代の発掘品から始まり、小谷温泉が1,556年頃、梶山元湯は1,755年頃に開かれ、漁師の目印にされていたこと、そして江戸時代に信仰登山が行われ、1822年に13体の石仏が頂上に担ぎ上げられたこと。この後、話は少し脱線し、信州と越後の領地争いの話になり、ナキガマという鎌の刃が境界の印として使われ、その写真が掲載されている。明治に入って、全国測量と三角点設置が行われ、雨飾山にも三角点が設置されたが、頸城三山と異なり、雨飾山の測量記録はないらしい。当時から書かれ始めた登山書、志賀重昂の「日本風景論」、高頭仁兵衛の「日本山嶽誌」にも雨飾山は載らず、明治44年になって、日本山岳会の高野鷹蔵の「山岳第6年6号」に初めて載った。高野氏は登山計画を検討したが、登らなかった。雨飾山を目にして初めてその山容を評価したのは大島亮吉(大正8年)。彼の文はいつもの通り、絢爛豪華。これなら蟹江は躍り上がるほどに嬉しかったにちがいない。(続)
「『内鎌』とは薙鎌(なぎかま)とも言い、6年毎に諏訪大社から奉持され、両村代表立ち合いの上、境界に近い信州側神社の杉の大木に鳥の頭部、ノコギリ歯様のギザギザをきざんだ鎌の刃を打ち込み、両方で領境を確認するものであり、今は民俗資料となってしまった」
「吾々の眼は群がる山々を圧して丁度写真に見るマッターホルンのごとき怪偉な姿をして聳律(しょうりつ)する巨人のごとき豪快な山の姿を見た。その絶頂近くは雪も積り得ない程の悽愴(せいそう)な急崖となって黒い岩壁を露出している。その下は眼に痛い程輝く雪肌が空の紺青色に劃然(かくぜん)たるスカイラインをなしている。全く周囲の群峰を超越した征服者の観ある雄々しい独自の姿である。早速はるか上に登っていく常吉に『おおい、あれはなんていう山だ』とそれを指示して大声で問うと、『雨飾だ』という答えの声が谷の静けさを破って聞こえた」
p106 宛然:えん‐ぜん そっくりそのままであるさま。よく似ているさま。よく当てはまるさま。
(承前)昭和3年になって関西の有力団体RCCがスキーで頸城の主稜線上の山々は雨飾を残して全部登頂した。雨飾には南尾根に取付き、頂上直下まで登るが、そこから先「ザイルの準備がなかったのと、メンバーが揃っていなかったため」登れなかった。「フトンビシを右に、前沢奥壁を左に配した1ページ大の南尾根上部の写真」を載せ、「本当の雨飾を語らんとする者は南尾根から登らなくても嘘だと思う」と煽ったが、この南尾根は昭和38年まで登られなかったらしい。一方、昭和6年に荒木勇氏が黒滝沢の尾根(これは今の登山道のある尾根らしい)からスキーとアイゼンで登り、これが積雪期雨飾の初登頂ということのようだ。
無雪期の登山記録は、昭和7年に冠松次郎が荒菅沢を遡って登頂しているのが初登頂らしい。深田久弥が弟を連れて梶山新湯からトライしたのは昭和16年、そして梶山新湯側から初めて登ったのは昭和18年の松岡忠太郎だった。この後戦争による中断をはさみ、岩壁登攀が昭和38年南尾根、39年フトンビシ、厳冬期登山が48年に記録されたが、一般登山道も昭和37年に梶山新湯から、昭和44年に小谷温泉から黒沢の尾根に開かれ、急速に登山者が増えたとある。蟹江はこれに加えて、海谷西山稜の縦走路、つまり駒ヶ岳から雨飾山までが結ばれ、この道を歩く人があらわれる、と書いているが、先日登った限りでは、鋸岳から雨飾山への道はあまり歩かれていないようだ。梶山新湯から鋸岳への道を開いたのは梶山新湯の従業員たち(当時は朋文堂)だったらしいが、今は雨飾温泉と名を変えて、地元の人が経営にあたっているとのこと。当時から変化は激しかったらしく、笹ヶ峰と小谷温泉を結ぶ車道は昭和49年秋に崩壊(今も崩落している)、スキー場のロッジができ(今はどうだろう)、梶山集落は過疎化が激しいとある。
これは1974年の渡辺義一郎の作。海人族の安曇族が南方から日本にやってきたのは弥生時代よりも以前のことらしく、ネットには「大和朝廷以前、弥生時代の頃から重要な地位にあったと伝えられている 」とある。渡辺は彼らが雨飾山周辺に住み着き、この山を「アマ(海人族)の山」と呼んだのではないかと推論する。時代を下ると信仰登山や漁業農業の目印となったことを記した古文書が残っており、方角によって双耳に見える越後からは「ネコの耳」と呼ばれ、双耳であることから「両粧山」(ふたつかざり)と記した文書もある。江戸時代の文書には漢字を飾っているものもあるが、文政五年の雨飾山の十三仏建立の集団登山では『天錺山』(あまかさり)と記されており、これに『アマカざん』と横にふりがなを付けたものもあるという。これは深田久弥が「日本百名山」の雨飾山のラストで述べている、「小谷温泉へ行く途中で道連れになった婆さんは、アマカサンと呼んでいた」というのに一致している。渡辺はさらに、塩の道や役小角、行基を引き合いに出して、雨飾山と出雲神話の関連について指摘している。そこに澄んでいた海人・安曇族がそもそも出雲神話の信者だったとすれば、不思議ではない。
「海人族のなかで最も古い安曇族は焼畑農業を主として漁撈を行い、南方から日本列島沿いに漂着したと言われる。そのうちのいくつかの集団は九州から隠岐を経て高志(越前、越中、越後)の国にたどりついた・・・・・・糸魚川周辺や雨飾山麓にこれら海人族が定住したその地から、あるいは姫川沿いの古い道沿いに、くっきりと見える特徴ある山、雨飾山。この山を彼らはアマ(海人族)の山と呼んだのではあるまいか」
「信州側の戸土、押廻、中又、横川では、毎年5月5日に全戸が・・・雨飾山へ「風祭」の登山をする。ルートは湯峠道から仙翁沢の雪渓を詰め、途中から二ノ肩へ出て頂上に至るもの・・・・・・越後側の大久保では雨飾山の双耳峰をネコの耳と呼び、「ネコの耳に雪が降った」といって初雪のきたことを話し合い、冬ごもりの仕度をする」
「雨飾山は『天飾』で目印となった山であり、天を飾るごとく、遠くからでも目印となった山ではなかろうか・・・・・・越後側では『両粧山』(ふたつかざり)と呼ぶとの注釈の書き込みは、越後側山口あたりからの雨飾山はたしかにはっきりした双耳峰に見え『両粧』と呼んでもおかしくない形をしている・・・・」
「文政五年の雨飾山の十三仏建立の集団登山記・・・・・では『天錺山』(あまかさり)の字である・・・・・文政七年の『天錺山蘇鉄ヶ岩洞の縁起』では・・・・『そもそもアマカざんそでつがアなともすハ』と横にふりがなが付けられている・・・・・当時この土地の人々が雨飾山をそう呼んでいたことを物語る・・・・雨飾山と対峙する駒ヶ岳が『お駒さん』と呼ばれるがごとく、『アマカざん』の名も広くそうよばれていたのであろう」
「地元に残る雨飾山蘇鉄ヶ岩屋に関する民話の中に、中谷の漁師塩六が出てくる・・・・塩六という名は、塩が生活のカテとして貴重品であった時代に、山村の人たちが塩に対する多くの願いを込めて子供につけた名であろう。『六』の字は大国主命・・・など出雲系の神社では神聖な数字とされている・・・・・・塩六や役小角、行基などの出雲神話や塩に関係のある人物・・・・いつか雨飾山古文書にみられるような話として完成したのではないだろうか」
近代登山史以前 蟹江の話は上杉謙信の頃から始まる。謙信は春日城を居城とし、千丈ヶ岳北尾根末端にも出城を築いていたという。謙信の死後、1597年に大きな山崩れが起こり、土砂が流れをせきとめて山中に湖水ができ、村人はこれを「うみ」と呼んだが、「うみ」は上流二俣まで及んでいたという。蟹江は書いていないが、これが「海川」の名の由来なのだろうか。1830年代以前に昼闇山を通る主尾根に山道が通じていたこと、1755年頃に梶山元湯が開かれたことも書かれている。明治に近い頃、現在の取入口高地「うみだいら」より鉢山と阿弥陀山の鞍部を経て早川谷に通ずる山道があり、早川谷の人たちが御前山への参拝ルートに使ったとある。そして1930年、電気化学工業青梅工場が海谷に発電所を建設したのが海谷を本格的に開くきっかけになったらしい。「駒ヶ岳の山中を貫く土木工事」というのは地理院地図に破線で示されている水力発電用の水路なのだろう。だが蟹江は、これ以前から海谷の岩場は登攀されていた、それは槙柏取りの植木屋と根知の猟師たちらしい。「今でもこれらの人々の足跡をよく見る」と蟹江は書いている。最後は信仰との関係で、千丈ヶ岳と駒ヶ岳の大岩壁に仏教的な地名がたくさんついていること、千丈ヶ岳には「八千八不動」「ぜんまい地蔵」があり、駒ヶ岳には四つの仏教的な伝説があるという。
p131 千丈ヶ岳:地理院地図に山名の出ていないこの山への登山記録がヤマレコに出ていた。今年(2020年)3月19日残雪尾根を辿り、距離10km、標高差1,200mを往復11時間。やはり千丈ヶ岳は海川の右岸、阿弥陀山の西にある1,203m峰だったが、この登山はかなり厳しそうだ。登山道は無く、踏跡程度とある。
p129 明治に近い頃現在の取入口高地「うみがたいら」より鉢山と阿弥陀山の鞍部をへて早川谷に通ずる山道があった.早川谷の人たちが御前山への参拝ルートにつかったのであるR1ss
近代登山史 ここには日本アルピニズムの初期に活躍した登山家やパーティがこれでもかというほど並べられる。日本山岳会の智野秀雄「西方には奇峰天を衝いて鋸歯のような烏帽子火山群も見えてきた」、RCC(ロッククライミング・クラブ)の新井久之助「鬼ヶ面の岩壁が写真にあるアルバータのように見えて、鬼ヶ面の名も相応しく随分我々の登高欲をそそった・・・」、冠松次郎は海谷山塊をその名で初めて紹介したが奥には入らなかったため、概念図の取入口から奥には「ウミ」の湖水が描かれていた。昼闇山については、昭和4年頃に四高山岳部によって登られていることが山岳所「ベルグハイル」5号に記載されているという。
蟹江は、海谷山塊の核心は東側の笹倉温泉や早川、西側の根知や姫川からのルートではなく、あくまで取入口高地からたどるものと考えていた。そしてそこで行われた近代アルピニズムの最初の記録として、饒村義治氏と高田高校山岳部を紹介している。そしてここからは蟹江自身の直江津雪稜会を含め、全国の登山会とアルピニストたちの海谷山塊の主要な初登攀への挑戦が成功と敗退を含めて列記され、末尾は7ページに及ぶ「海谷山塊登山史年表」で締めくくられている。これを全部書いてみても仕方がないが、この登山道の無い急峻な岩尾根の山塊へのバリエーションルートはもちろん沢と雪をたどるもので占められていて、これらの記録が「山と渓谷」「岳人」などで世に知られるようになってから、S47年頃から糸魚川山岳会、糸魚川労山が中心となって登山道の開伐を開始したらしい。この華々しい登山記録を見ると、多いのは駒ヶ岳、鬼ヶ面山、鋸岳を狙ったもので、この中で標高の一番高い鋸岳がメイン・ターゲットのようである。海谷山塊で一番高い昼闇山への登頂記録もいくつかあり、蟹江の名前も入っているが、海谷の東端にあるこの山よりも海川の右岸にある阿弥陀山、鉢山の方がどうやら主流らしい。直江津雪稜会には北尾根から千丈ヶ岳、阿弥陀山、スキー縦走の記録があり、蟹江には鉢山、富士見峠スキー縦走という記録もある。DGM(グループ・ド・モレーヌ:長野県長野市の山岳会 )はじめ東京心岳会などは海谷の岩壁をほとんど登ったとしているが、「駒ヶ岳東面カール・マルクス大フェース」というのはどこなのだろう。S36年の日本女子大山岳部による、雨飾山登頂後の鋸岳、鬼ヶ面山、駒ヶ岳の縦走というのは驚き。極地法で達成したとあるから、まさにヒマラヤ登山のようなおおがかりなものだったのだろう。
「(饒村義治氏と高田高校山岳部の海谷への挑戦により)現在海谷山塊の地名として定着、ひろく使われている『ヒロノスケ尾根』『岡次沢』『トミフ沢』『コスガ滝』『ニムハルの滝』などは29年卒業部員の名前をとってあり、『旗振山』は山頂と取入口高地間で手旗信号を交わしたことからつけられた」
p136 極地法:最初に安全な地点にベースキャンプを設け、そこから比較的連絡のとりやすい距離に次々と前進キャンプを設営する。隊員はキャンプ地間を行き来して、必要物資を運搬する。また必要に応じて移動困難箇所のルート工作を事前に行う。
これは蟹江健一による上杉謙信から昭和の初め頃までの海谷登攀の調査記録である。謙信は千丈ヶ岳北尾根末端に粟倉城を建設したが、謙信の死後は維持されなかったらしい。そして1597年の大きな山崩れで海川がせきとめられ、山中にできた湖水が「うみ」と呼ばれた。蟹江は明記していないが、かって大和川と呼ばれていた海川がそのように呼ばれるようになったのは、これが起源なのだろう。湖水の水は徐々に流出しで「うみ」はなくなった。この他にも雪崩や盗伐の記録が残っているらしいが、1830年頃に早川と小谷をつなぐ山道があり、いったん荒廃したが、一人で牛を連れて開削した記録が残っており、それは早川の砂場集落から烏帽子・前烏帽子のコル、吉尾平、鉢山・昼闇山コル、昼闇山、富士見峠、金山、天狗原山、ブナタテ尾根、小谷温泉だったというからたいへんな山道。前後するが、梶山新湯が開場したのは1751年。明治に入ると山崎直方博士が地質調査で海谷山塊に触れ、綺麗なスケッチを残している。大正に入ると電気化学工業青梅工場が海谷渓谷に四つの発電所を建設し、取入口ができ、県道が伸びたらしい。だが、観光の対象にはならず、海谷に入るのは漁師と槙柏取りだけだったらしい。蟹江は舟浦山東壁に「鶴の舞い」と呼ばれた見事な槙柏があり、地元の槙柏取りは手を出せなかったが、本場四国から来た人が見事に登り切って手に入れたことを記している。この山は駒ヶ岳の北にある772mの山で、ネットには残雪期に西側から登った記録があった(gekiyabu)。千丈ヶ岳北尾根西壁にある「ぜんまい地蔵」のあたりにも槙柏取りが入ったらしいが、現在の海谷渓谷は観光名所となっており、「三峡峠から眺められる千丈ヶ岳の大岩壁には、左方へ傾く地層がよくわかります。展望台のほぼ目の高さに、『ぜんまい地蔵』と呼ばれる浸食によってできた奇岩」を見ることができるらしい(糸魚川ユネスコジオパーク)。さて、「登山者」による海谷の記録が始まったのは明治42年の日本山岳会員・知野秀雄の報告であったと蟹江は記しているが、それは焼山から見た海谷山塊であった。次は昭和4年まで飛んでRCC新井久之助の雨飾山から見た海谷山塊。昭和12年の冠松次郎。その他数人の人々の記録が記載されているが、どれも傍観したもので登ってはいない。だが駒ヶ岳の名の由来らしき「お駒とかお駒様とか言っている中腹の岩壁に白く馬が左上へ駆け上る姿が見え、鬼ヶ面は右肩の突起が鬼の面のようだから」という松岡忠太郎の記録(山と渓谷S18)は注目に値する。
p149 海谷:「海谷」の読み方 については、一般的に「 かいや 」の他に「 かいたに,うみや,うみたに 」とよみます。
p149 海谷渓谷:素朴なたたずまいを見せる海谷渓谷は、フォッサマグナが海だったころ (約300万年前)にできた海底火山噴出物(海川火山岩類)を刻んでできあがりました。切り立った壁には、海底火山の内部構造(火山灰や溶岩が流れたあと)がよく保存されています。三峡峠から眺められる千丈ヶ岳の大岩壁には、左方へ傾く地層がよくわかります。展望台のほぼ目の高さに、「ぜんまい地蔵」と呼ばれる浸食によってできた奇岩があります。海川の上流域には砂防施設が一切なく、川の浸食作用と堆積作用が自然のままですすんでいる数少ない渓谷です。海谷高地(732高地)と呼ばれる広い川原は、1597(慶長2年)の地すべりによって、せき止められてできた湖沼が埋め立てられたものです。季節ごとの新緑と深緑、紅葉が渓谷を美しく変え、ハイカーたちの目を楽しませています。(糸魚川ユネスコジオパーク)
これは蟹江健一による、かなりマニアックな調査報告である。海谷に(登ったのではなく)触れた文献の「書き様」について、蟹江がすぐれていると考えた文章を細かく引用している。最初の二つは稀覯本であったものが復刻されたもの。おもしろいのは、江戸時代は早川や海川には橋がかかっておらず、「芭蕉が元禄二年直江津から糸魚川に向かう途中、早川の渡渉でしたたかにころんで衣を濡らしたことが『奥の細道』に見えている」という蟹江の一文。もう一つは「海川」の名の由来で「海川の上流山峡の地は岩石にて閉塞され湛えて湖水をなす。之を海と称えたり・・・・・来海沢海川の称は此処より起こりしならん」。駒ヶ岳の名の由来については、「駒の形あり」とあるが場所が定かでない。「南西壁の岩塔『大障子』にあったものが剥落した・・・・しかし、別に残雪のころ、雪形か土形かの馬が現われるのかもしれない」と蟹江は記している。次は学術書で、蟹江は山崎直方の「大日本地誌」明治36年を、高頭式の「日本山嶽誌」明治39年よりもすぐれていると讃えている。より詳しく書かれていて、蟹江は山崎の文章を三つも引用している。古文体で今は読みにくいと思うのだが。最後も海谷渓谷についての長い引用でしめくくられる。いやはや。まだあと100p。
今度は渡辺義一郎による文献調査の報告。ここで初めて、海谷は「うみだに」と読むことが分かり、海谷山塊とは、東に昼闇山、鉢山、阿弥陀山、烏帽子岳、千丈ヶ岳、西に鋸岳、鬼ヶ面山、駒ヶ岳の山々と記載がある。つまり、雨飾山や頸城三山、金山や天狗原山も含まれないということだ。まあ、これは狭い範囲でということだろう。更に、「早川に沿って早川谷の村々、海川に沿って西海谷の村々、姫川の支流根知川に沿って根知谷の村々」が海谷山塊をとりまくとある。鉢山の西面にある岩場、嫁倉と西下にあるピーク海老倉には砂場集落から槙柏や五葉松を取りに行く植木取りがいたという。烏帽子岳については、「夜星山」とも呼ばれていたらしい。「神代ニハ此山ニ地神夜星武ト云悪神住テ」という記述が引用されている。砂場集落から烏帽子と前烏帽子のコル、昼闇山、富士見峠から小谷温泉に抜けた六左衛門の道の話がここにも出てきて、砂場の善正寺近くに記念碑があることが付記されている。次は海川の支流、不動川と不動滝についてで、「不動明王はヒンズー教の最高神であるシバ神の別名」であり、「滝の連続で何物をもよせつけない」この川の名にぴったりとしている。確かに地理院地図を見てもゴルジュの中の険しい川である。千丈ヶ岳南西壁にあるゼンマイ形の岩がゼンマイ地蔵と呼ばれること、当時の五万分の一地形図には粟倉から千丈ヶ岳頂上まで道記号があったが「沢を三本渡ると踏跡は消える」とある。(以降、翌週)
p167 海谷(うみだに)山塊・・・・・・・・・・・・・・ここに来て初めて、海谷の読みがでてくる
(p184)文献に基づく地誌が続く。来海沢(くるみざわ)は海谷の起点にあり、「大昔は海が湾入していた」ことが名の由来だという。その南にある御前山(ごぜんやま)にも言い伝えがあり、泰澄禅師がここ(当時は前山と呼ばれていた)で読誦念珠していると観音菩薩が駒ヶ岳の岩窟から来迎したことから、御前山と号し、雲台寺を建立し、十一面観音菩薩と地蔵菩薩をおさめたという。その後、雲台寺を訪れた行基も十一面観音菩薩を彫っておさめたという。取入口高原についても触れられていて、「登山基地、夏のキャンプに最適・・・・海谷左岸の山々の登山道が完成すればその登山基地ともなる」と書いているが、その駒ヶ岳から鬼ヶ面山、鋸岳までの登山道は、かなりの上級者コースだと思うが、今はもう完成している。海川がせき止められて「うみ」ができたことにも触れていて、それは豊臣秀吉の全国統一の少し後であり、人々は大洪水が起こらないよう、神仏に祈ったらしい。最後は根知谷の梶山集落で、過疎が進んでいることを挙げているが、私が行ったときも集落は少ないが田圃はたくさんあったから、通勤農業の形態が進んでいるのかもしれない。梶山から見た駒ヶ岳や鬼ヶ面山の手前のピークや沢の名前、そして梶山元湯というのが駒ヶ岳と鬼ヶ面山の間にあったこと(地理院地図には温泉マークがついている)。p196の雨飾山の写真を見ると、猫の耳はかなり小さく見えている。その下の駒ヶ岳の写真には私がたどった大岩壁の下の「バンド」がくっきり写っているが、この写真を撮った「大神堂ルート」というのは私も歩いたルートのはずだが、こんな風景は見なかった。たぶん樹木が茂ってかくしてしまったのだろう。
p169 海老倉R1(このページの写真)
p185 来海沢、御前山R4
p192 根知谷、梶山R3
ここでは駒ヶ岳、取入口高地、鬼ヶ面山、鋸岳を巡る6つのコース(①御前山ルート、②大神堂ルート、③駒ヶ岳-鬼ヶ面山-海谷渓谷、④海谷渓谷・取入口高地、⑤海谷西山稜縦走:駒ヶ岳-鬼ヶ面山-鋸岳、⑥雨飾温泉から鋸岳コース)が紹介されている。このうち私が辿ったのは⑤海谷西山稜縦走で、たぶん一番の難関。苦労した二つの箇所については「駒ヶ岳・鬼ヶ面間の最大の難所・・・谷底まで切れ落ちている感じ」および「15mほどのキレット・・・・長い鉄バシゴがあり少し緊張させられる・・・・安全上ザイルがあるとよい」という記載があり、「一日たっぷりかかるコースで健脚向きである」と記されている。なお、③の鬼ヶ面山から海谷渓谷に下る分岐については、残雪に隠されていたのか、気づかなかった。地理院地図にも記載がないから廃道になっているのかもしれない。とにかく、取入口高地には是非行ってみたいし、登り損ねた鬼ヶ面山・北峰にはもう一度トライしたい。
小谷温泉コース、梶山新湯コース、大網コースの三つが紹介されている。大網コースというのは未舗装林道で湯峠の西にある登山口から登るらしい。地理院地図にも破線があるが、NHKにっぽん百名山では見たことがない。残雪期についても触れられている。笹ヶ峰牧場から金山を経て雨飾山という縦走路を歩く人は少ないとある。残り50ページは驚異の登山記録。次回からじっくり読もう。台風11号は朝鮮半島に向かったようなので、明日から9月ツアー。
直江津雪稜会とは、「直江津高校と高田工業高校の山岳部OBが頚城の山の未踏ルート開拓のために設立した山岳会」であり、ここには1970年代初頭頃の沢・岩登り、積雪期登山の記録が載せられ、誇れる初登攀もいくつかあるという。
積雪期千丈ヶ岳~阿弥陀岳(1969年3月9日) 蟹江は小林敏明と二人でスキーをかつぎ、粟倉から不動川を渡って千丈ヶ岳の北尾根を登る。途中の細尾根が厳しそうだが、「尾根にでたところはちょっとしたカラマツ林、前方はヤセ尾根で慎重な行動を要求される。約500mで細尾根は終わり、高度を上げるためスキーをつけた」とあるから、細尾根はスキーを担いで歩き、その先の広い急斜面をシールで登ったのだろう。尾根が広く緩くなると「樹木を交えた一大雪原で、スキーのパラダイス」となり、千丈ヶ岳に着く。そこから阿弥陀山の間にあったコブ「二時のピーク」(14時に着いたからそう名付けた)からは「コブからコルへスキーで下るには我々の技術では勇気のいることであった・・・・阿弥陀山・北峰へは緩い登り、10分たらずに見えた」が「コルから南峰へのルートは描き出せないほど厳しい」ということで、北峰に15時に到達している。帰りは「二時のピーク」でシールを外して滑走開始、「大滑走に入る。稜線を外して不動川側をトバし夢に見た海谷不動川斜面のスキー滑降を実現した」。急斜面をトラバースして細尾根に出て、そこもスキーのまま通過。「粟倉集落への最後の斜面で真っ暗」だったというが、19:40ならそう悪くはないだろう。今でもこのルートを登っている記録を見た覚えはあるが、まあ、千丈ヶ岳までだろう。
p214 千丈ヶ岳、阿弥陀山R5ss
吉尾平より鉢山、昼闇山、富士見平(1971年2月28日~3月1日) これは蟹江が小林敏明と渡辺義一郎と三人で行った記録。笹倉温泉のあたりで早川の左岸台地に登るあたりは今のコースと同じ。「大きな第一の沢・・・・すぐには渡れないので沢に沿ってしばらく行く・・・・スノーブリッジを使って段丘へ出る。この台地はかなり広く、奥行き2㎞位もありそうだ」というのは、今は橋のかかっている西尾野川の支流とアケビ平だろう。今のルートはそこから昼闇谷に下るのだが、蟹江たちは第二の沢(昼闇谷だろう)を渡り、吉尾平に出て、更に第三の沢を渡り、孫鉢1,230mと小鉢1,408mと名付けられたピークの東側を登り、ガスの中で先々週の赤布を見つけて主稜に達する。そこから蟹江たちはスキーやザックをデポし、ザイルを持ち、雪庇の崩れた雪壁をアンザイレンして登る。「五葉松の雪稜」とあるので、尾根上を外し、斜面をトラバースしたのだろう。鉢山頂上からは左下にエビクラの頭1,430mが見えていたという。ここで蟹江は日帰りの小林と別れ、渡辺と二人で昼闇山に向かい、この日は広い稜線(たぶん1,610m地点)にテント(裏返したスキーの上にツエルトとある)を張る。「厳しい冷え込みの朝を迎えた。二人ともほとんど眠れぬまま3時起床」というのは、ツエルトにダウンなどの防寒具もないからだろう。私にはとても耐えられまい。「頂下20mでついにスキーでは進めなくなり、キックステップで直登・・・・昼闇山まで1時間とふんでいたが予想外の時間をくい、金山mでの目標は怪しくなった」というのは、私も経験済。私はスノシューだから割と楽に登れたのかもしれない。しかし蟹江はえらくすばらしい晴天に恵まれたようで、「朝日はやっと金山、雨飾の頂に輝き、北アルプスも全山はるかに並び・・・」とある。昼闇山頂上に達したのはこの時点で2~3パーティ、厳冬期は蟹江たちが初めてだったようだ。そこから二人は金山に向かうが、大きなアップダウンで時間をくい、富士見峠までで引き返している。富士見峠からボーゲンで坊抱岩、そこから昼闇に登り返し(笹倉温泉に下らなかったのは、テントサイトに戻る必要があったため)、昼闇山頂上からはスキーを担いで下り、緩斜面からスキー。テントを撤収してからボーゲンで吉尾平を下降とある。まあ、当時のスキーだとそんなところだろう。「終バス15分前、計算通りの時間に着く」というのもなかなか新鮮というか、今では考えられない出来事。今ならマイカーで何でもすますだろう。
p223 ラビーネンツーク:(らびーねんつーく) 雪崩の通り道。
p218 鉢山、昼闇山R7
根知川元湯の沢(イゾウ沢)より鬼ヶ面山、駒ヶ岳(1972年2月14日-15日) これまた厳冬期のツエルト・ビバーク・ツアー。しかも目指すのがあの鬼ヶ面山と細尾根、垂直壁の先にある駒ヶ岳とは・・・・・。どうやら蟹江氏には「緩斜面のらくちんシール登行」などというのは頭にないらしい。梶川集落から見上げる鬼ヶ面南西尾根は「三段の壁がありこれの突破は手ごわい印象をうけ・・・・接近してみると相当な悪相なので」この尾根を諦め(そりゃあそうだろう)、「美しく稜線に突き上げているこの谷をつめる」。だが、沢のシール登行は下は楽そうでも上は傾斜が高まってきて行き詰まる。「沢の傾斜は上部で30度を越え、クラストした上に積もった新雪が不安定で、スキー登高は緊張の度を加える・・・・・稜線直下の樹木に入る地点でついにスキー・デポ、ワカンで稜線に出た。そこは駒の南峰の直下の鞍部でブナの大木が点在する地点」。私は駒ヶ岳・南峰から固定ロープを垂直に下ってこのコルに降りた。そこから鬼ヶ面山への夏道ルートは根知川を巻いていたが、蟹江たちは「食料と登攀用具、カメラのみを持って鬼ヶ面へ向かう・・・・根知側を巻いて登るのがルートだと思っていたが・・・・ワカンをアイゼンに変え・・・・・ブッシュの中をダイレクトに登攀・・・・・頂下40mでアンザイレンして60度くらいの壁を登ること30分、天と地のよわいを行く感じの頂にぽっかり出た」。いやはや、なんともすさまじいが、これはその第一幕。そこまで先行してくれた小林敏明は日帰りで去り、蟹江は駒ヶ岳・南峰と鬼ヶ面山のコルに、なんとシュラフなしのツェルトのみで、ただ一人ビバークする。すさまじい寒さのはずだが、「寒気は身にしみなかった」というのは、当時の蟹江は37歳くらいでまだ若く、なんといっても登山に対する人並外れた気迫を持っていたからに違いない。蟹江は翌日、まず鋸岳に登る予定だったが、悪天候のため目的地を駒ヶ岳に絞る(両方とも登るつもりだったのだ)。鬼ヶ面山と鋸岳の間にはあの「ぐらぐら垂直ハシゴ」があり、それで細尾根の垂直壁を迂回しているので、蟹江がそれに向かわなかったのは安心したが、鬼ヶ面山から駒ヶ岳・南峰の間にも垂直壁がある。それを蟹江は「ワカンは持たずにピッケルとストックの装備でキャンプより南峰の海谷側の斜面をまく。岸壁の終わる地点から部分的に40度を越える雪面を直登して頂に出た・・・・ヤセ尾根を慎重に進み、コルへ急降下する。コルから北峰への登りは問題ない。」確かに、夏道も北峰から南峰までは楽だった。さて、ビバーク地点に戻り、スキー・デポ地点からは滑走なのだが、「雪質悪く、そのうえ両岸壁から出た雪崩で快適な滑降は望めなかった。下部で雨となり、悪雪と重荷とポンチョを着ての下降は忍耐のピッチとなる。」せっかくスキーで登ったのに、帰りの滑走が楽しめないという経験は私にも多い。「忍耐のピッチ」というのはその通り。耐えるしかないのだが、それもまた代えがたい良き思い出になるものだ。素晴らしい山登り人生。
p228 根知川元湯から鬼ヶ面山、駒ヶ岳R2
雨飾山・前沢奥壁中央リッジ(1969年6月11日) これは夏道や積雪期ルートのある東側の荒菅沢とは反対側にある前沢を遡り、その最奥にある岩壁を登攀するというもので、岩登りはやったことのない私には無縁の世界。蟹江たちも前沢は初めてだったらしく、発電所のある横川沿いの道に出るのにやや迷っている。「深夜のため迷って、駅前のガード下にやっと道を見つけた」というのは私にも何度も同じような経験がある。明るいときに下見をしておけばいいのだが、何度も行くことになるから、簡単ではない。前沢の沢登については一切記載なし。そんなものは問題ではないのだろう。そして「次第に奥壁が見えてきた。・・・・・奥壁は右手から陽をあび、中央にピナクル群があり、それを結ぶリッジが今日のルートだ・・・・・・40mザイル3本に多田、小林、高沢、渡辺、蟹江のオーダーで入る。」どうやら多田氏がリーダーで、彼が登路を定め、ハーケンを打ってルートを作っていく。だが「うろこ状に剥げ落ちる岩とアンサンドロック(不安定な岩壁。節理で固く締まった岩ではなく、つかめば岩片が抜けたりする)に悩まされ、ラストの2名は落石の雨をあびた」。こいつは危ない。「岩質はますますはげやすく、ハーケンも利かないため、断念、下降に決定する。」気迫満々で気力、体力があっても、諦めざるを得ない登山はあるものだ。だが、この日の経験は次に生かされるに違いない。
p233 雨飾山・前沢奥壁中央リッジR3
初夏の真川・地獄谷より天狗原山-金山-雨飾山-荒菅沢(1969年6月1日-2日) これも基本的に沢登と思われるが、沢を登る詳細はこれまた一切なし。笹ヶ峰牧場から真川の橋まで歩き、そこから旧道をたどり、旧道が消えてしまうところからいかにその先にある旧道を再発見し、旧道が左岸に登っていくところからいかに地獄谷に入ったかの説明に終始。地獄谷は雪渓に埋まっていたが「二ヶ所滝場が口を開けていて、右手を巻く」。そしてその先で蟹江が見たのは「地獄谷は地形的に不思議な谷で、稜線に出たと思ったらその先にまた広い圏谷」であり、「裏金山東面の壁に10本に近いルンゼとなって消え、長い細い滝となっている。いずれも登攀困難なため、丘状地に出て富士見峠に向かう。」富士見峠から金山、天狗原山を経て小谷温泉に向かうが、「ブナ立尾根を下り始めると身動きが取れない竹ヤブに入ってしまい、あきらめて天狗原山に戻る。」なんと蟹江はビバークの準備をしておらず、「ツェルトもシュラフもない。ササヤブに潜り込んで着の身着のままのフォーストビバーク」ついでに「夜半一時雨と風」というから災難だった。私も同様に沢登りのツメで日が暮れてしまい、フォーストビバークしたことが二度ある。幸い、二度とも雨もなし、寒くも無しの山中泊だったが。翌日、蟹江は金山から雨飾山に行き、「雨飾の肩からグリセードで一気に荒菅沢を下る」。前日の苦労を一気に吹き飛ばすグリセードだったに違いない。
p236 真川・地獄谷より天狗原山、金山、雨飾山R12
海谷遡行・焼山(1960年10月9-11日) この年、蟹江は25歳のはず。電車で女学生と一緒になり、糸魚川でバスに乗り遅れてハイヤーに乗ったというのをわざわざ書いているのが蟹江らしい。もう10月で暑くはないはずだが「気がせいてけっこう汗をかく」とある。発電所から海谷に下り、取入小屋からは道がなくなり、右岸を進んで1日目は鋸岳の下あたりでキャンプ。「装備は登攀用具の他ツエルトを持ち、シュラフの代わりに小型の毛布を使用して荷物の小型化を図った」とあるが、今のシュラフは小型の毛布よりも小さいだろう。2日目、最初の二俣を左俣に入り、(地理院地図に記号はないが)F1の少し先で二つ目の二俣。ここは右俣に入り、F2、F3、F4と抜けるが、F5からは高巻きとなり、F7から先は高巻きも難しい(沢に下れない)状況となり、尾根を登ることにする。最初は常緑樹だった尾根はやがて3mもの笹ヤブとなり、二日目は笹ヤブの中にキャンプとなるが、「この夜、笹の葉がよく燃え、数十回の渡渉で濡れたものも乾かしてくれた」一方「水筒の水は明日に備えて手をつけなかった」ため「喉の渇きが辛かった」とある。3日目、笹ヤブこぎの先頭を交替しながら登り、「小沢を見つけてこれを登るとひょっこり夢のような池があった。『奥海の池』と命名する」とあり、そこから「焼山の泊岩下の道がすぐそこに見えた」とあるから、無事に焼山に登って、笹倉に下ったのだろう。
p240 草いきれ:夏の 炎暑 のころなどに、 草 むらの中が高温多湿になる現象をいう。 日射 が強く、風速が弱いときは 葉 温は 気温 より5℃以上も高くなっている。
p239 海谷遡行・焼山R6
海谷・鉢山海老倉南壁・くの字ルンゼ(1971年10月24-25日) 多田勇三という岩登りの実力者をトップに、蟹江は計画のプランナーとなり、3人パーティのラストを登る。「海老倉ノ頭は鉢山の西にある」という表記は蟹江だけでなくヤマレコにも書かれているが、地図を見る限り海老倉ノ頭は鉢山の南だと思う。ともかく、海老倉ノ頭には西と南に岩壁があり、三体のバットレスで構成される西壁は東京心岳会が第二フェースを登り、南壁も心岳会によって登られていて、彼らが「全く快適」という「くの字ルンゼ」を登ることにしたとのこと。1日目、海谷渓谷から海老倉ノ頭の東から南に流れて本流に注いでいる「一ノ沢」を登り、その途中からルンゼ取付点に出る。ルンゼに入り、残置ハーケンも使って登るが、蟹江が想定したよりもずいぶん難しい岩場だったらしく、トップの多田氏は苦労してルートを切り開く。「時間のかかったことを納得できた。美しい垂直の一枚岩が頭上手を伸ばして一杯のところで鋭角的なヒサシとなり、足元はズバリと切れている。ヒサシの下に打たれたピンにアブミが下がっていた。多田の実力に感心・・・・」と語る蟹江は、文末で「会員の皆様には大変ご迷惑をかけてしまった。プランナーとして深くお詫びします。」と反省している。こうして海老倉ノ頭に着いたのは15:50。そこから東稜を下り、一ノ沢の河原でビバーク。翌日、雨の中を下山する。
p245 海谷・鉢山海老倉南壁・くの字ルンゼR3
厳冬期、海谷山塊横断(1972年2月11-13日) これは珍しく蟹江のいないパーティで、メンバーは渡辺巌と渡辺義一郎だが、やはりすさまじい登山。なにせ厳冬期の雪の降る中を、駒ヶ岳へは南西尾根の岩壁を登り、ラビーネンツークという雪崩の通り道を覗き、「広い雪面に出る。17時。雪の斜面を削り半雪洞を掘りツェルトを張」ったのは、今のルートのバンドのすぐ下あたりらしい。そこから駒ヶ岳までは「広い雪面のバカ尾根」という記載しかないから、私などが苦労したバンドところなどは物の数ではないのだろう。駒ヶ岳からは南峰の下の鬼ヶ面沢を雪崩に気をつけ「できるだけブッシュのあるところを選び急いで」下り、「昼過ぎにあこがれの冬の取入口高地、海川の川原に出る。・・・・・取入口高地はとても静かだった・・・・・本流は一条の水の溝でしかなかった」とある。そこからの阿弥陀山・南峰への登りもすさまじく、ヒロノスケ尾根というのを登り、尾根の途中で「ビバークプラッツが見つからず、ゴヨウマツの木の下をなんとか平らにして尾根上にツェルトを張る。」「食糧の軽減を考え・・・・忍者食なるもの・・・・」というのは、今ではたくさん出ている行動食や非常食を自前で作っていたということだろう。3日目は強風になやまされ、さしもの渡辺パーティも阿弥陀山・南峰登頂を諦めて吉尾平に下っている。午後に待ち合わせをしていたサポート隊に出会えなかったのは、当時はスマホやGPSが無いことを思えばやむを得ないだろう。だが、「暗くなる寸前にサポート隊のスキーのトレールを発見。ありがたかった」というのは本当に良かった。一人で長時間苦労して歩き続けていると心が少しづつ砕けていく。そんなとき、人の気配、例えばピンクリボンとか古い祠とかを見つけると、無性に元気づけられるものだ。彼らも「ヘッドランプを灯け、そのままトレールに導かれ、暗くなった北山集落に出た」。幸いなるかな、苦難に立ち向かい、見事それをやり遂げし者。
p250 厳冬期海谷山塊横断R4ss
海谷山塊・不動川遡行 これは2年がかり、延べ7回を費やした阿弥陀山頂上までの記録である。この困難なことは次のように表記されている「谷は狭く、両岸とも切り立ち、いったん入渓したら進むに進めず、巻くに巻けないという地形・・・・・滝はどんなに小さなものでもすべて深い釜をもちトロになってるところが多い。岩はリスが少なく、ハーケンを十分に打ち込めず、ボルトが必要となる」
第1&2回 不動川下部・ゴルジュ帯遡行(1971年7月11-12日&8月1-2日) これは不動川出会いからF1~F16の先にあるアブキの河原までの遡行記録である。パーティは渡辺巌と義一郎の強力コンビ。F1には用水路の取入水門があり、道がついていたらしいが、その先でゴルジュとなり、F2を大高巻きしてF4の上に降り、F5も巻き、F6とF7は楽だったようだが、F8は「釜が大きく腰まで冷たい水に入って右岸へ流木を立てかけボルト2,ハーケン1本を打ちアブミでへつる」。降雨のため、1回目はここで終了。左岸尾根を下る。2回目は千丈ヶ岳北尾根=右岸尾根を登り、事前に目印をつけておいたところからF7とF8の間の川原に下降。ボルトとアブミでF8を越え、その先の滝群の釜を泳ぎ、ボルトを打って越え、F13のあたりから核心部(これまでは核心部じゃなかったんだ)。疲れてきたので「左岸尾根へボルト2本で逃げ・・・・ブッシュの中でビバーク」。翌日はそこから高巻きし、F16の先にあるアブキの河原に下降。そこには「河原の底に鉄筋」、2箇所のビバーク跡があったというから、彼ら以外にもそこまで入り込んだ人はいたようだ。2回目はここまで。
第3回 不動川上流部廊下(1972年7月29-31日) これもまた渡辺巌、義一郎コンビ。「用水路沿いの道を行き、途中より桟道へ上がりアブキの河原にでる」というのは、2回目と同じ千丈ヶ岳北尾根の道と思われる。F17を越え、F18とF19では残置ボルト利用(1本追加で打つ)とあるから、ここまで登った人もいた訳だ。F20、F21はショルダーで越えるが、F22は直登不可能で右岸大高巻き。高巻きの途中に適所が見つかり、ビバーク。p264にF18の写真が載っているが、それは前後3つ連なったゴルジュというか岩斜面に穿たれた連続した穴を流れ落ちる三つの滝で、これらがF17、F18、F19だとすれば、二人はこれらを全て直登で越えたことになる。いやあ、なんとも凄い。二日目はF22からF26までを巻いて下降し、F27、F28を越え、F29からのゴルジュは右岸高巻き、F31の上に下降。この先に釜の深い小滝があり、左岸をトラバースしてF33の上に下降。ここでようやく沢は平凡になり、岩屋に草を敷き詰めてビバーク。「源頭はすぐそこである」というのは、もう終了間近ということ。三日目、F34を左岸から巻くと、「本流は阿弥陀北峰東壁下へ消え、雪渓が残っていた」が、「沢を離れ、烏帽子、阿弥陀間の稜線よりヤブこぎで阿弥陀山北峰に立つ。」ここには感動の言葉はないが、「阿弥陀沢左俣を下降路に使い、取入口高地より御前山に下山した。不動川遡行を成し遂げたという大きな満足感が湧きあがってきた」というのは、頂上に立っても気を許さず、下山にも心を配ったということだろう。全くもって見事の一言。
p256 不動川遡行R7ss