阿寒岳もおそらく、深田が百名山に選んだことで劇的に変わった山の一つだろう。深田の文章には「阿寒湖には名物が二つある。それはマリモと啄木の歌碑」とあり、「観光客は湖のそばに立つ雄阿寒・雌阿寒岳には滅多に登らない」とあるが、今や人々は雄阿寒・雌阿寒岳めざしてやってきて、そのついでに阿寒湖やマリモを見ているに違いない。
2007年に小雨の雄阿寒岳に登った時は「二つある駐車場はどちらも一杯で、最奥になんとか停める。・・・・・・準備していると一台やってきて、親子3人が軽装で歩いていった。・・・・・2合目のあたりから降りてくる人に会うようになっていたが、7合目あたりまでが一番多かった。」、2009年に雌阿寒岳に登った時も「(阿寒冨士の)頂上には人が行きかっている。西の斜面のはるか下には登山道があるらしく、登ってくる小さな人影が見える。・・・・・・コルからオンネトーに向かって下る。・・・・・・・下っていく人たちを何人も追い越す。」とあり、どちらの山も登山者で賑わっていた。
深田が「旅行者はその歌碑のあるところまでぞろぞろ行列をし、碑の前で記念撮影」をしていたという石川啄木の歌碑と「所を得ている点ではこの詩碑に勝るものはない」と絶賛した松浦武四郎の詩碑については、私は2009年に雌阿寒岳に登った時に立ち寄り、下記の当時のメモのとおり状況は一変していることを知った。
「深田久弥が日本百名山の中で松浦武四郎詩碑の方を称賛しているためか、松浦武四郎詩碑は遊歩道沿いに説明標識付きで立っていた。出会えたのは感激。・・・・・石川啄木歌碑は深田久弥の文章とは逆に、遊歩道から外れ、雑草の中にひっそりと説明書きもなく立っていた。周りには雑草が生え、観光ルートになっているとは思えない。だが、私にとってはどちらの史跡も、山に登るのと同等に、探索の楽しさ、発見があり、感動することができた。」
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阿寒岳もおそらく、深田が百名山に選んだことで劇的に変わった山の一つだろう。深田の文章には「阿寒湖には名物が二つある。それはマリモと啄木の歌碑」とあり、「観光客は湖のそばに立つ雄阿寒・雌阿寒岳には滅多に登らない」とあるが、今や人々は雄阿寒・雌阿寒岳めざしてやってきて、そのついでに阿寒湖やマリモを見ているに違いない。2007年に小雨の雄阿寒岳に登った時は「二つある駐車場はどちらも一杯で、最奥になんとか停める。・・・・・・準備していると一台やってきて、親子3人が軽装で歩いていった。・・・・・2合目のあたりから降りてくる人に会うようになっていたが、7合目あたりまでが一番多かった。」、2009年に雌阿寒岳に登った時も「(阿寒冨士の)頂上には人が行きかっている。西の斜面のはるか下には登山道があるらしく、登ってくる小さな人影が見える。・・・・・・コルからオンネトーに向かって下る。・・・・・・・下っていく人たちを何人も追い越す。」とあり、どちらの山も登山者で賑わっていた。
深田が「旅行者はその歌碑のあるところまでぞろぞろ行列をし、碑の前で記念撮影」をしていたという石川啄木の歌碑と「所を得ている点ではこの詩碑に勝るものはない」と絶賛した松浦武四郎の詩碑については、私は2009年に雌阿寒岳に登った時に立ち寄り、下記の当時のメモのとおり状況は一変していることを知った。
「深田久弥が日本百名山の中で松浦武四郎詩碑の方を称賛しているためか、松浦武四郎詩碑は遊歩道沿いに説明標識付きで立っていた。出会えたのは感激。・・・・・石川啄木歌碑は深田久弥の文章とは逆に、遊歩道から外れ、雑草の中にひっそりと説明書きもなく立っていた。周りには雑草が生え、観光ルートになっているとは思えない。だが、私にとってはどちらの史跡も、山に登るのと同等に、探索の楽しさ、発見があり、感動することができた。」