「今さら槍ヶ岳について語るのも愚かなくらい周知の山である」に始まるこの章の2/3を深田は槍ヶ岳の開祖、播隆の足跡について詳細に語っており、これは現在ネット掲載されている播隆の解説と変わらぬどころか詳しいほど。今ではこのテーマも新田次郎の小説がものにしているようだ。
当時は大滝山、蝶ヶ岳を越えて上高地に下り、槍沢の岩屋(現在の坊主岩小屋)を根拠にしたというが、ここには私も5月に登った時に見た覚えがある。深田の初登頂は、近代登山が始まった1878年のウィリアム・ガウランドや1892年のウォルター・ウェストン、1902年の小島烏水を経て24年後の1922年で、燕尾根から向かったがまだ東鎌の道は開かれておらず(翌年拓かれた)、「常念に廻り、一ノ俣谷から中山峠で二ノ俣谷へ越え、それから槍沢へ出た」というのは、おそらく常念小屋から谷を下って一ノ沢に入り、その下流には滝があるので中山2,492mの鞍部2,269mを越えて二ノ俣谷に入り、そこを下って今の槍沢沿いの道に出たのだろう。「その頃ただ一つきりの小屋であった殺生に泊って、翌日晴天の槍の頂上に立った」とある。
私が登った時、殺生小屋も立派に立っていたが、今では槍ヶ岳山荘が頂上直下にできてしまっているため、大半の登山者はそっちに寄っている。昨年夏に登った時は台風が来ていて強風と霧だったのにテント場も盛況だった。深田の頃には既に「上高地から槍までの途中にいくつも小屋ができ、夏は登山者が列をなしている」とあるが、今はそれ以上だろう。昨年の霧の頂上へは列に並んでハシゴを登り、頂上標識の前は順番待ち。5月のときはそれほどでもなかったが、大勢が登っていた。もう一度5月に登り、今度は飛騨沢を滑走する機会はあるだろうか。
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「今さら槍ヶ岳について語るのも愚かなくらい周知の山である」に始まるこの章の2/3を深田は槍ヶ岳の開祖、播隆の足跡について詳細に語っており、これは現在ネット掲載されている播隆の解説と変わらぬどころか詳しいほど。今ではこのテーマも新田次郎の小説がものにしているようだ。
当時は大滝山、蝶ヶ岳を越えて上高地に下り、槍沢の岩屋(現在の坊主岩小屋)を根拠にしたというが、ここには私も5月に登った時に見た覚えがある。深田の初登頂は、近代登山が始まった1878年のウィリアム・ガウランドや1892年のウォルター・ウェストン、1902年の小島烏水を経て24年後の1922年で、燕尾根から向かったがまだ東鎌の道は開かれておらず(翌年拓かれた)、「常念に廻り、一ノ俣谷から中山峠で二ノ俣谷へ越え、それから槍沢へ出た」というのは、おそらく常念小屋から谷を下って一ノ沢に入り、その下流には滝があるので中山2,492mの鞍部2,269mを越えて二ノ俣谷に入り、そこを下って今の槍沢沿いの道に出たのだろう。「その頃ただ一つきりの小屋であった殺生に泊って、翌日晴天の槍の頂上に立った」とある。
私が登った時、殺生小屋も立派に立っていたが、今では槍ヶ岳山荘が頂上直下にできてしまっているため、大半の登山者はそっちに寄っている。昨年夏に登った時は台風が来ていて強風と霧だったのにテント場も盛況だった。深田の頃には既に「上高地から槍までの途中にいくつも小屋ができ、夏は登山者が列をなしている」とあるが、今はそれ以上だろう。昨年の霧の頂上へは列に並んでハシゴを登り、頂上標識の前は順番待ち。5月のときはそれほどでもなかったが、大勢が登っていた。もう一度5月に登り、今度は飛騨沢を滑走する機会はあるだろうか。