この日光の山を語るのに深田はその半分(2ページ)を、日光の開祖、勝道上人の1500年前の初登頂の記載に費やしている。その理由は、伝説めいた話の多い中で「記録の一番実証性がある」こと。そして、登頂を果たした時の「一たびは喜び、一たびは悲しみ、心魂持し難し」という感動表現に登山家の心を見つけ、それを「勝利の最初の歓喜の後に悲哀の感情がきた。山は屈したのだ、誇り高い頂は津に屈したのだと」という、ナンダ・デヴィに初登頂したときのティルマンの言葉と同じだと知ったからだろう。
私にはまだ頂上に達して喜ぶことはあれど、悲しみを覚えたことはない。下山するときに、せっかく到達した頂上を去り難いと感じることはあっても、頂上に到達したこと自体で悲哀を感じるほど苦労したことはないということだろう。
次に深田が語るのは山名についてで、男体山の別称、二荒山(ふたら)は梵語、補陀洛(ふたらく)から来たのではないかと推理し、男体山については「二峰並立の山を一を男神とし他を女神とする習わし」によるのではと推理する。確かに日光には女峰山があり、連峰を巡る峰修行にも都合が良かったのであろう。
一つ不思議なのは、すぐ近くに奥白根山があり、日光では一番高いのに、勝道上人はこれには登ろうとせず、峰修行の対象にもならなかったことである。昔は奥白根はまだ噴火していて、近寄れなかったのだろうか。
ともかく深田は最後に、勝道上人が初登頂したときのルートに最も近い表参道を登って頂上に達し、「頂上は細長く鎌の形に伸びていて、眼下何十丈の深さに爆裂火口が落ち込んでいた」と書いている。頂上に登らなければ見ることができないこの爆裂火口を私は北側の登山道を登ったとき、そして大真子から女峰山まで縦走したときに見た。それは深田が書いている通り「湖畔から眺めただけでは想像できない男体山の荒々しい姿」であった。
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この日光の山を語るのに深田はその半分(2ページ)を、日光の開祖、勝道上人の1500年前の初登頂の記載に費やしている。その理由は、伝説めいた話の多い中で「記録の一番実証性がある」こと。そして、登頂を果たした時の「一たびは喜び、一たびは悲しみ、心魂持し難し」という感動表現に登山家の心を見つけ、それを「勝利の最初の歓喜の後に悲哀の感情がきた。山は屈したのだ、誇り高い頂は津に屈したのだと」という、ナンダ・デヴィに初登頂したときのティルマンの言葉と同じだと知ったからだろう。
私にはまだ頂上に達して喜ぶことはあれど、悲しみを覚えたことはない。下山するときに、せっかく到達した頂上を去り難いと感じることはあっても、頂上に到達したこと自体で悲哀を感じるほど苦労したことはないということだろう。
次に深田が語るのは山名についてで、男体山の別称、二荒山(ふたら)は梵語、補陀洛(ふたらく)から来たのではないかと推理し、男体山については「二峰並立の山を一を男神とし他を女神とする習わし」によるのではと推理する。確かに日光には女峰山があり、連峰を巡る峰修行にも都合が良かったのであろう。
一つ不思議なのは、すぐ近くに奥白根山があり、日光では一番高いのに、勝道上人はこれには登ろうとせず、峰修行の対象にもならなかったことである。昔は奥白根はまだ噴火していて、近寄れなかったのだろうか。
ともかく深田は最後に、勝道上人が初登頂したときのルートに最も近い表参道を登って頂上に達し、「頂上は細長く鎌の形に伸びていて、眼下何十丈の深さに爆裂火口が落ち込んでいた」と書いている。頂上に登らなければ見ることができないこの爆裂火口を私は北側の登山道を登ったとき、そして大真子から女峰山まで縦走したときに見た。それは深田が書いている通り「湖畔から眺めただけでは想像できない男体山の荒々しい姿」であった。
表参道のある二荒神社の鳥居から見上げる男体山
奥白根山の頂上から見る男体山。青空の絶景。頂上左に爆裂火口が見えている
大真名子山途上:千鳥返しというところから、背後に大きく男体山。爆裂火口がくっきり見える。
赤薙山途上より:左手には男体山が美しい姿を見せている。やや斜めになった頂上、白い雪の斜めの筋模様。
p162 勝道上人:世界遺産に登録をされている日光東照宮の入り口には、銅像があります。この銅像は、勝道上人であり、日光に関係のある人物として知られています。青銅製の像の高さは2.1メートル、台座は3.6メートルととても大きなものでいかに日光に深くかかわり、重要な人物であるかを物語っています。台座の岩は黒がらす石と呼ばれすこし不思議な石が特徴的であり、黒色というよりも少し青みがかかった黒色で、水に濡れると輝きを増すといわれています。実はこれは31トンの重さがあり、台座の表には「日光開山勝道上人之像」、裏には銅像の建設記が刻まれています。
p162 性霊集:平安初期の漢詩文集。正しくは『遍照発揮(へんじょうほっき)性霊集』。10巻。空海作。弟子の真済(しんぜい)が編纂(へんさん)したもので、当初10巻であったが、巻8以下の3巻が散逸し、1079年(承暦3)に済暹(さいせん)が逸文を拾集して『続(ぞく)性霊集補闕鈔(ほけつしょう)』3巻を編み、ふたたび10巻に編纂した。空海の作品として確実なもの108編。詩、碑文、願文、表白などに分類されているが、その華麗豊贍(かれいほうせん)な詩文に作者の卓抜した才能がうかがえる。後世僧侶(そうりょ)たちが詩文の手本にしたが、また当時の漢詩文を知るうえで貴重な資料である。
p164 ナンダ・デヴィ: (Nanda Devi) インド 第二の高峰で、インドの中に山全体があるものの中では最も高い山である。 ( カンチェンジュンガ はインドと ネパール の国境にある)。 この地理のため、1808年に西欧人が ダウラギリ の高さを測るまで世界最高峰だと考えられていた。 主峰と東峰が猫の耳のように見える双耳峰が特徴。 シッキム州 が インド連邦 に参加する前はインドの最高峰でもあった。 クマオン・ヒマラヤの一部であり、西はリシガンガ谷、東はゴリガンガ谷に挟まれ、 ウッタラーカンド州 に位置する。 その名は無上の喜びを与える女神を意味する。 その頂上は、ウッタラーカンド・ヒマラヤの守護神のように考えられている。