この美しい名前の山を「ひかりたけ」でなく「テカリタケ」と読むことに私は正直やや残念に思ったが、深田はこのことを「光と書いてテカリと読ませるところに味がある・・・・夕日にテカリと光るのが下界から認められる」という、これこそ実に味のある文章で表現してみせる。凡庸っぽい事柄を文学的に何か高尚なもののように変身させてしまった。
光岳は遠目には目立たない、さえない山だと思うのだが、この深田の文学的表現、それに「2,500m以上の山はここをもって終わりとする・・・・南アルプスは・・・・光岳をもってその俊英の気を収めるわけである」という枕詞もあいまって、この山は一躍有名になってしまった。
深田が南アルプスを光岳までにしてしまったので、それよりも南にある大無間山、黒法師岳、黒沢山、朝日岳などは「深南」と呼ばれている。
今では比較的楽に登れる光岳についても、深田の頃はずいぶん大変だったようだ。易老渡から易老岳へは「道らしくもない道」、「易老と光の鞍部の三吉小屋跡と呼ぶ林間の空地にテント」、ところがそこで雨が降って二日間足止めされ、三日目にようやく光岳の頂上に立つが、今回は眺望はなし。
仕方がないので深田は、最後の2ページで「日本最南端、いや世界最南端の匍松」のことを書く。なお、深田が「全山黒木に覆われて匍松のありそうな気配がない」という「南へ峰続きの加加森山」というのは光岳のほぼ西側にあり、南側にあるのは信濃俣2,332mや大無間山2,330mである。ハイマツは光岳よりも南で見つかったという記事をどこかで読んだ記憶があるのだが、ネットを見ると「光岳がハイマツ最南端」が確定しているようだ。
今では易老渡から九十九折の道が易老岳まで伸びており、東の大井川沿いの畑薙大吊橋を渡って茶臼岳経由の道もある。私は易老渡の少し先にある便ヶ島から西沢沿いの道を登り、聖岳、上河内岳、茶臼岳を経て三日目に光岳に達し、四日目に易老渡に下った。今では良く登られている周回コースだと思うが、深田がこれを聞けば「隔世の感」と言うだろう。
最後に深田は「その頂上に再び立つ機会の私に恵まれることがあるだろうか」と書いていて、おそらく果たせなかったのだと思うが、私は是非もう一度、光岳に登り、その裏にある光石を訪れてみたい。
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この美しい名前の山を「ひかりたけ」でなく「テカリタケ」と読むことに私は正直やや残念に思ったが、深田はこのことを「光と書いてテカリと読ませるところに味がある・・・・夕日にテカリと光るのが下界から認められる」という、これこそ実に味のある文章で表現してみせる。凡庸っぽい事柄を文学的に何か高尚なもののように変身させてしまった。
光岳は遠目には目立たない、さえない山だと思うのだが、この深田の文学的表現、それに「2,500m以上の山はここをもって終わりとする・・・・南アルプスは・・・・光岳をもってその俊英の気を収めるわけである」という枕詞もあいまって、この山は一躍有名になってしまった。深田が南アルプスを光岳までにしてしまったので、それよりも南にある大無間山、黒法師岳、黒沢山、朝日岳などは「深南」と呼ばれている。
今では比較的楽に登れる光岳についても、深田の頃はずいぶん大変だったようだ。易老渡から易老岳へは「道らしくもない道」、「易老と光の鞍部の三吉小屋跡と呼ぶ林間の空地にテント」、ところがそこで雨が降って二日間足止めされ、三日目にようやく光岳の頂上に立つが、今回は眺望はなし。仕方がないので深田は、最後の2ページで「日本最南端、いや世界最南端の匍松」のことを書く。なお、深田が「全山黒木に覆われて匍松のありそうな気配がない」という「南へ峰続きの加加森山」というのは光岳のほぼ西側にあり、南側にあるのは信濃俣2,332mや大無間山2,330mである。ハイマツは光岳よりも南で見つかったという記事をどこかで読んだ記憶があるのだが、ネットを見ると「光岳がハイマツ最南端」が確定しているようだ。
今では易老渡から九十九折の道が易老岳まで伸びており、東の大井川沿いの畑薙大吊橋を渡って茶臼岳経由の道もある。私は易老渡の少し先にある便ヶ島から西沢沿いの道を登り、聖岳、上河内岳、茶臼岳を経て三日目に光岳に達し、四日目に易老渡に下った。今では良く登られている周回コースだと思うが、深田がこれを聞けば「隔世の感」と言うだろう。
最後に深田は「その頂上に再び立つ機会の私に恵まれることがあるだろうか」と書いていて、おそらく果たせなかったのだと思うが、私は是非もう一度、光岳に登り、その裏にある光石を訪れてみたい。
p362 船越好文:「雪線・日本アルプス写真集」「雪煙をついて」などのカタログが多数