この屋久島にある山が九州で一番高く、西日本での3番目に高いということは、私は「日本百名山」を読むまで知らなかった。そういう人は多いだろう。だが今や、いやしくも山登りで宮之浦岳を知らない人はいないだろう。これもまた深田久弥の功績である。
深田が1939年に登った時は東海岸の安房に上陸し、材木運搬のトロリーに乗り、小杉谷斫伐所(しゃくばつ)に1泊目、黒味岳から宮之浦岳を俯瞰し、花ノ江河の小屋で2泊目、3日目に宮之浦岳に登り、永田岳を経て西海岸の永田に下り、永田で3泊目、4日目に宮ノ浦までバスで行って帰りの船に乗っている。
私は最初に登った時は飛行機で上陸(11月末で、青森空港は大雪だった)し、バスで移動して安房に宿泊。翌朝タクシーで淀川口まで移動、荒川登山口のバス停に下った。2度目は11月初めに鹿児島港からフェリーに乗り、車で淀川口まで移動した。
私の二度の屋久島はとにかく、登山者が溢れていた。麓にいるときは目に着かないが、登山口行きのバスターミナルなどは、二度目のときはザックに登山服スタイルの人たちで、まだ夜明け前だというのに、ごった返していた。主要な登山道を歩いていると、他の登山者は前から後ろから、ぞくぞくと現れる。おそらく島の人口を上回る登山者が上陸しているに違いない。
こういうのはアメリカのフットボール・スタジアム(オハイオのグリーンベイ)やイタリアの観光地(ブランカレオーネ等)などではよくあることだから、驚くほどのことではないのだろう。
深田は本章の最後に「もう鹿の声は聞こえなくなるだろう・・・・あの素朴な浦辺の村々もその趣を変えていくことだろう・・・・・土産物も絵葉書も無かった昔の屋久島の想い出に浸っていた方が賢明かもしれない」と書いている。
幸い、鹿は(増えすぎたのを狩っているとは思うが)まだたくさん健在だし、海岸沿いの集落も昔の雰囲気を保っているように見える。登山者や観光客のための施設のみが人で溢れ、土産物や記念品を揃えているが、それは屋久島の外観にはほとんど影響していない感じである。
私が、そんな屋久島への再訪(これまで3度行ったが、まだ歩いていないルートはある)の意欲を今のところ失っているのは、設置すべき公認のテント・サイトが無いためである。あれだけ広い範囲を日帰りで歩くのは、田中陽希くらいの体力がないと無理だ。私もまた深田同様、昔の想い出に浸っていることにしよう。
・・・・だが、その想い出だけでも数多く、また再訪してみたいと思う時が来そうな気もする:「宮之浦岳から見た永田岳は緑の山肌に白い岩峰をちりばめた姿だった 」「屋久島に近づくと、海岸沿いから盛り上がった陸地のはるか上に、宮之浦岳の双耳が見えてくる。その右のやや傾いたのが永田岳だろう。感激の再会」「左の樹間に高盤岳のトーフ岩が見えた。包丁で切ったような長細い岩が頂上に乗っている不思議な山」「烏帽子岳から背後に初めて七五岳を見たとき、そのあまりの鋭角に圧倒され、まさかあの頂上までは登るまい、いや、登れまい、と思った 」「ふと振り返るとローソク岩が見えていた。16年前にはまるで飛び上がろうとしているロケットに見えたこの細長い岩峰は、今回もまた実に印象的 」
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この屋久島にある山が九州で一番高く、西日本での3番目に高いということは、私は「日本百名山」を読むまで知らなかった。そういう人は多いだろう。だが今や、いやしくも山登りで宮之浦岳を知らない人はいないだろう。これもまた深田久弥の功績である。
深田が1939年に登った時は東海岸の安房に上陸し、材木運搬のトロリーに乗り、小杉谷斫伐所(しゃくばつ)に1泊目、黒味岳から宮之浦岳を俯瞰し、花ノ江河の小屋で2泊目、3日目に宮之浦岳に登り、永田岳を経て西海岸の永田に下り、永田で3泊目、4日目に宮ノ浦までバスで行って帰りの船に乗っている。
私は最初に登った時は飛行機で上陸(11月末で、青森空港は大雪だった)し、バスで移動して安房に宿泊。翌朝タクシーで淀川口まで移動、荒川登山口のバス停に下った。2度目は11月初めに鹿児島港からフェリーに乗り、車で淀川口まで移動した。私の二度の屋久島はとにかく、登山者が溢れていた。麓にいるときは目に着かないが、登山口行きのバスターミナルなどは、二度目のときはザックに登山服スタイルの人たちで、まだ夜明け前だというのに、ごった返していた。主要な登山道を歩いていると、他の登山者は前から後ろから、ぞくぞくと現れる。おそらく島の人口を上回る登山者が上陸しているに違いない。
こういうのはアメリカのフットボール・スタジアム(オハイオのグリーンベイ)やイタリアの観光地(ブランカレオーネ等)などではよくあることだから、驚くほどのことではないのだろう。
深田は本章の最後に「もう鹿の声は聞こえなくなるだろう・・・・あの素朴な浦辺の村々もその趣を変えていくことだろう・・・・・土産物も絵葉書も無かった昔の屋久島の想い出に浸っていた方が賢明かもしれない」と書いている。
幸い、鹿は(増えすぎたのを狩っているとは思うが)まだたくさん健在だし、海岸沿いの集落も昔の雰囲気を保っているように見える。登山者や観光客のための施設のみが人で溢れ、土産物や記念品を揃えているが、それは屋久島の外観にはほとんど影響していない感じである。
私が、そんな屋久島への再訪(これまで3度行ったが、まだ歩いていないルートはある)の意欲を今のところ失っているのは、設置すべき公認のテント・サイトが無いためである。あれだけ広い範囲を日帰りで歩くのは、田中陽希くらいの体力がないと無理だ。私もまた深田同様、昔の想い出に浸っていることにしよう。
・・・・だが、その想い出だけでも数多く、また再訪してみたいと思う時が来そうな気もする:「宮之浦岳から見た永田岳は緑の山肌に白い岩峰をちりばめた姿だった 」「屋久島に近づくと、海岸沿いから盛り上がった陸地のはるか上に、宮之浦岳の双耳が見えてくる。その右のやや傾いたのが永田岳だろう。感激の再会」「左の樹間に高盤岳のトーフ岩が見えた。包丁で切ったような長細い岩が頂上に乗っている不思議な山」「烏帽子岳から背後に初めて七五岳を見たとき、そのあまりの鋭角に圧倒され、まさかあの頂上までは登るまい、いや、登れまい、と思った 」「ふと振り返るとローソク岩が見えていた。16年前にはまるで飛び上がろうとしているロケットに見えたこの細長い岩峰は、今回もまた実に印象的 」