この山について深田は「詩人墨客のたくいは何か作らずにはおられなかったろう」と書き、頼山陽、日本書紀、孝女白菊の歌、夏目漱石の「二百十日」を引き合いに出し、この山が多くの文人に注目され、題材にされてきたことを記している(墨客〈=絵画師〉の方の名前はなし)。
江戸時代の学者、頼山陽は士官せずに私塾と独学の学者・文人だったようだが、九州を1年間周遊して詩作しており、阿蘇の詩もそのときのものだろう。因みに、「砥モ如カズ」とは砥石のようにまっ平ということ、「青蕪」とは青々と茂った草原のこと。
日本書紀の景行天皇は12代天皇で日本武尊の父だから、景行天皇が訪れたときアソツヒコ、アソツヒメ以外に誰もいなかったのに、それから数十年でクマソタケルが九州を制圧していて、それを日本武尊が討ちに行ったことになるのか?
孝女白菊の歌というのは、明治21年国文学者落合直文が井上哲次郎博士(東大教授)の漢詩を新体詩として書き直したもので、出版当時から評判になり、英語やドイツ語にも翻訳されたらしい。
そして夏目漱石の「二百十日」では「圭さんと碌さん」という二人が漫才か落語の雰囲気で会話し、その中に「ふり返る、後(うしろ)は知らず、貫(つらぬ)いて来た一筋道のほかは、東も西も茫々(ぼうぼう)たる青草が波を打って幾段となく連(つら)なる後(あと)から、むくむくと黒い煙りが持ち上がってくる」という雄大な阿蘇の風景が描写されている。
「しかしもう圭さんと碌さんの時代ではない」と話を切り替えた深田は「駅前に騒々しく群がる観光客」に虚を突かれ、まず外輪山の大観峰へいって阿蘇の全景を俯瞰し、翌日「雑踏に我慢して」観光バスとロープウェイで「労せずして」噴火口の上縁に達する。厳しい登山を経験してきた深田には、こんなのは登山ではないという気持ちもあったろう。
だが、「名山の資格」は深田自身が定義したとおり「高きをもって尊しとせず」であり、「登る山と遊ぶ山」があるのである。一面の霧氷で覆われていた高岳、ゴツゴツした山容の根子岳、火口がいくつもある中岳、広大な砂千里浜、美しい曲線美の米塚というのもある。これらは赤城山や美ヶ原のように遊ぶ要素をたくさん持っている。
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この山について深田は「詩人墨客のたくいは何か作らずにはおられなかったろう」と書き、頼山陽、日本書紀、孝女白菊の歌、夏目漱石の「二百十日」を引き合いに出し、この山が多くの文人に注目され、題材にされてきたことを記している(墨客〈=絵画師〉の方の名前はなし)。
江戸時代の学者、頼山陽は士官せずに私塾と独学の学者・文人だったようだが、九州を1年間周遊して詩作しており、阿蘇の詩もそのときのものだろう。因みに、「砥モ如カズ」とは砥石のようにまっ平ということ、「青蕪」とは青々と茂った草原のこと。
日本書紀の景行天皇は12代天皇で日本武尊の父だから、景行天皇が訪れたときアソツヒコ、アソツヒメ以外に誰もいなかったのに、それから数十年でクマソタケルが九州を制圧していて、それを日本武尊が討ちに行ったことになるのか?
孝女白菊の歌というのは、明治21年国文学者落合直文が井上哲次郎博士(東大教授)の漢詩を新体詩として書き直したもので、出版当時から評判になり、英語やドイツ語にも翻訳されたらしい。
そして夏目漱石の「二百十日」では「圭さんと碌さん」という二人が漫才か落語の雰囲気で会話し、その中に「ふり返る、後(うしろ)は知らず、貫(つらぬ)いて来た一筋道のほかは、東も西も茫々(ぼうぼう)たる青草が波を打って幾段となく連(つら)なる後(あと)から、むくむくと黒い煙りが持ち上がってくる」という雄大な阿蘇の風景が描写されている。
「しかしもう圭さんと碌さんの時代ではない」と話を切り替えた深田は「駅前に騒々しく群がる観光客」に虚を突かれ、まず外輪山の大観峰へいって阿蘇の全景を俯瞰し、翌日「雑踏に我慢して」観光バスとロープウェイで「労せずして」噴火口の上縁に達する。厳しい登山を経験してきた深田には、こんなのは登山ではないという気持ちもあったろう。
だが、「名山の資格」は深田自身が定義したとおり「高きをもって尊しとせず」であり、「登る山と遊ぶ山」があるのである。一面の霧氷で覆われていた高岳、ゴツゴツした山容の根子岳、火口がいくつもある中岳、広大な砂千里浜、美しい曲線美の米塚というのもある。これらは赤城山や美ヶ原のように遊ぶ要素をたくさん持っている。
p406 墨客:[ぼっかく]書画をよくする人。ぼっきゃく。
p408 頼山陽:京都に住みついた山陽は私塾を開く一方、『日本外史』の手直しや詩作に専念します。仕官することを望まず、自らの才覚で道を切り開いていきました。 文政元年(一八一八)三月、父春水の三回忌を終えた山陽は、九州に向けて出発し、一年にわたって周遊し、多くの詩を詠みました。中でも長崎から熊本に向かう途中に一時停泊した天草(あまくさ)富岡(とみおか)(現在の熊本県天草郡苓北(れいほく)町)で詠んだ「泊天草洋(あまくさなだにはくす)」は傑作とされ、山陽の代表作の一つになっています。文政九年(一八二六)、四十七歳になった山陽は『日本外史』二十二巻を完成させ、翌年、松平定信にこれを献上しました。定信からは「穏当(おんとう)にして中道(ちゅうどう)をうる」(無理がなく理屈にかなっており、偏(かたよ)っていない)ものとの評価を受け、『日本外史』は天下に認められることになりました。 その後は、文政十三年(一八三〇)に聖徳太子から豊臣秀吉にいたるまでの歴史上の人物や出来事を題材にした詩集『日本(にほん)楽府(がふ)』を刊行し、政治経済を論じた『通議(つうぎ)』を著し(山陽の没後に出版)、また神武(じんむ)天皇から後陽成(ごようぜい)天皇までの時代について編年体で著した歴史書『日本(にほん)政記(せいき)』の執筆に精魂(せいこん)を傾けましたが、労咳(ろうがい)(=結核)を患(わずら)い、天保三年(一八三二)九月二十三日、五十三年の生涯を終えました。 (広島県教育委員会)
p406 砥モ如カズ:日本語の慣用句で、「砥石の表面のように平らである」という意味を持ちます
p406 青蕪:セイフ゛ 青く茂った草。 また、草のあおあおと茂った草原。
p407 景行天皇:日本の第12代天皇で、在位期間は景行天皇元年から同60年までです。彼は、日本武尊の父親であり、熊襲と蝦夷を討伐して東国を平定したとされます1
p408 孝女白菊:「阿蘇の山里秋ふけて…」と始まる孝女白菊の物語詩は、明治21年国文学者落合直文が井上哲次郎博士(東大教授)の漢詩を新体詩として書き直したものです。歌詞が長編で内容がロマンチックな孝女の物語なので、家庭小説の読み物として構成され、続々出版されました。またドイツ語、英語に翻訳され、世界的にもダンテの「神曲」と比べられるほどすばらしいと讃えられた名作です。この詩は三章からなり、七五調の詩形としては非常に長いもので、522行にも及び、おそらく世界最長の詩と思われます。明治・大正から戦前にかけて全国的に一世を風びした懐かしい孝女白菊の物語、その舞台がこの南阿蘇一帯とされ、村内に眠る「妙喜尼」が白菊のモデルといわれており、墓を訪ねる人はあとを絶ちませ ん(南阿蘇村)
p408 夕まぐれ:日本語で「夕暮れ」を意味する言葉です。この言葉は、太陽が沈んでから暗くなるまでの時間帯を指します。
p408 漱石の「二百十日」:(碌さんと圭さんの落語調の会話)「構うものかね、おかしいたって、屋根にかぼちゃの花が咲くさ」「そりゃ唄うたかい」「そうさな、前半は唄のつもりでもなかったんだが、後半に至って、つい唄になってしまったようだ」「屋根にかぼちゃが生なるようだから、豆腐屋が馬車なんかへ乗るんだ。不都合千万だよ」「また慷慨こうがいか、こんな山の中へ来て慷慨したって始まらないさ。それより早く阿蘇あそへ登って噴火口から、赤い岩が飛び出すところでも見るさ。――しかし飛び込んじゃ困るぜ。――何だか少し心配だな」「噴火口は実際猛烈なものだろうな。何でも、沢庵石たくあんいしのような岩が真赤になって、空の中へ吹き出すそうだぜ。それが三四町四方一面に吹き出すのだから壮さかんに違ない。――あしたは早く起きなくっちゃ、いけないよ・・・・・一時間ほどで林は尽きる。尽きると云わんよりは、一度に消えると云う方が適当であろう。ふり返る、後うしろは知らず、貫つらぬいて来た一筋道のほかは、東も西も茫々ぼうぼうたる青草が波を打って幾段となく連つらなる後あとから、むくむくと黒い煙りが持ち上がってくる。噴火口こそ見えないが、煙りの出るのは、つい鼻の先である。 林が尽きて、青い原を半丁と行かぬ所に、大入道おおにゅうどうの圭さんが空を仰いで立っている。」