私がこの山に登ったのは2005年3月、深田が本章の最後で「スキーが盛んになって弓池附近までケーブルがついた」というのは西側にある万座温泉スキー場のことだと思うが、私は東側の草津温泉スキー場のゴンドラに乗って、深田が帰りに辿った殺生河原の付近からスキー・シールでまず本白根山2,171mに登り、次いで草津白根山2,160mに登り、湯釜の薄緑を見た。
当時のメモ「シールをつけ、雪上車のルートを歩く。回っていくと白根山が見えてくる。雪上車が行き、ヘリコプターもやってきて観光客を乗せている。山頂は西側の尾根のようなのでそちらに向かう。何本もスキーの跡がついているが、尾根まで登ると薄青い湯釜が見えてくる。この寒いのに凍り付いていない。確かに印象的な色である。強風の中を白根山頂に到達。スキーを外して写真を撮る。横手山に笠ヶ岳の姿」。
このときは「薄青」と書いているが、「薄緑」と言うべきか。深田が「古代ローマの円形劇場(コロシウム)を思わせる」と表現している本白根山の大きな火口も、真っ白になっているのを見降ろしたが、あいにく遠景は霞んでいた。「そこから見下ろした六里ヶ原の大観・・・・・目の届く果てまで、大原野がさまざまの屈曲をみせて伸び拡がっている」というのは見なかったが、次第に晴れて来て、スキー場から下るとき、噴煙をあげている「浅間山が帝王のようにそびえている」のを見た。
深田が引用している安積良斎(あさかごんさい)は福島の安積(あずみ)の出身だが、「学問を志して江戸に出奔」したというから篤学の士。ネットに「良斎先生研究室」というのがあるから割と有名なのかもしれないが、そのサイトにも深田が引用したことが出てくるから、百名山人気の一環なのかもしれない。
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私がこの山に登ったのは2005年3月、深田が本章の最後で「スキーが盛んになって弓池附近までケーブルがついた」というのは西側にある万座温泉スキー場のことだと思うが、私は東側の草津温泉スキー場のゴンドラに乗って、深田が帰りに辿った殺生河原の付近からスキー・シールでまず本白根山2,171mに登り、次いで草津白根山2,160mに登り、湯釜の薄緑を見た。
当時のメモ「シールをつけ、雪上車のルートを歩く。回っていくと白根山が見えてくる。雪上車が行き、ヘリコプターもやってきて観光客を乗せている。山頂は西側の尾根のようなのでそちらに向かう。何本もスキーの跡がついているが、尾根まで登ると薄青い湯釜が見えてくる。この寒いのに凍り付いていない。確かに印象的な色である。強風の中を白根山頂に到達。スキーを外して写真を撮る。横手山に笠ヶ岳の姿」。
このときは「薄青」と書いているが、「薄緑」と言うべきか。深田が「古代ローマの円形劇場(コロシウム)を思わせる」と表現している本白根山の大きな火口も、真っ白になっているのを見降ろしたが、あいにく遠景は霞んでいた。「そこから見下ろした六里ヶ原の大観・・・・・目の届く果てまで、大原野がさまざまの屈曲をみせて伸び拡がっている」というのは見なかったが、次第に晴れて来て、スキー場から下るとき、噴煙をあげている「浅間山が帝王のようにそびえている」のを見た。
深田が引用している安積良斎(あさかごんさい)は福島の安積(あずみ)の出身だが、「学問を志して江戸に出奔」したというから篤学の士。ネットに「良斎先生研究室」というのがあるから割と有名なのかもしれないが、そのサイトにも深田が引用したことが出てくるから、百名山人気の一環なのかもしれない。
p182 安積艮斎(あさかごんさい):没年:万延1.11.21(1861.1.1) 生年:寛政3.3.2(1791.4.4) 幕末の儒学者。昌平坂学問所儒官。名は重信,信,字は思順,子明,通称祐助。号は艮斎,見山楼。陸奥国安積郡郡山(福島県郡山市)の郡山八幡の神職の家の3男として生まれ,文化3(1806)年16歳のとき他家に婿に出されたが,翌年学問を志して江戸に出奔し,佐藤一斎の学僕となって学んだ。20年には林述斎の塾にも入門を許され,その翌年ごろ私塾を開いた。天保3(1832)年『艮斎文略』を出版してから名声が高まり,7年郷里の二本松藩の「出入儒」となって3人扶持を給せられ,14年には藩学教授となって150石を給せられた。嘉永3(1850)年幕府の学問所付儒者に取り立てられた(切米200俵と15人扶持)。ペリー来航の際には国書(漢文)の和訳にも関与した。艮斎は特に文章をもって知られる。著書には上記『文略』および続編のほか,『艮斎閑話』正続,随筆『南柯余編』などがある。<参考文献>石井研堂『安積艮斎詳伝』(コトバンク)
p182 骨立無膚:(こつりつむふ)江戸後期、草津白根山に登った儒者安積艮斎(あさかごんさい)は「骨立無膚(こつりつむふ)」と表現した。草木が生えていない湯釜と周辺の風景のことだ。 (良斎先生研究室)
p184 六里ヶ原(ろくりがはら):群馬県西部、浅間山(あさまやま)の北斜面で、吾妻(あがつま)郡嬬恋村(つまごいむら)と長野原町(ながのはらまち)の標高900~1400メートル前後の裾野(すその)をいう。長い間シラカバ、カラマツ、ナラ、クマザサなどに覆われていたが、1928年(昭和3)県による開墾移住が試みられ、その後養狐(ようこ)業も行われた。第二次世界大戦後開拓者が入植して畑地化した所が多く、最近は別荘も増えてきた。夏も冷涼で、浅間、白根(しらね)、四阿(あずまや)の三大火山を一望に収める雄大な風景が展開する。