大菩薩嶺・三角点2,057m
中里介山の大菩薩峠から始まるこの章には、この長編の書き出しや机龍之介という登場人物名は出てくるが、小説のなかみには触れず、深田が初めて登った時のこと(初鹿野{JR甲斐大和}から嵯峨塩温泉、雁ヶ腹摺山{というのは牛奥ノ雁ヶ腹摺山だろう}、小金沢山を経て大菩薩峠というのは20㎞もある)、青梅街道はかって大菩薩峠を通じていたこと、その廃道がハイキングコースとして復活したこと、樋口一葉の方が先に大菩薩峠について書いていること、など雑多な話が思いつくままに書き連ねられていく。
「展望はすばらしく雄大だし、それに2,000mの高さの空気を吸うことができる」と語ったかと思うと、大菩薩嶺の縁起、「新羅三郎義光の八幡大菩薩」という「甲斐国志」の抜粋を引く。
深田が冒頭と終盤に2度触れている「雲峰寺」には最初に登ったときの帰りに寄ってみた。今は登山口からだいぶ離れていると思うが、この章で書かれていたのを記憶していたので、道脇に駐車してお参りした。山寺などではなく、ずいぶん大きな立派な寺だった。
深田が二度目に登ったときに泊まった「勝縁荘」というのは、最初に登った時に見た4軒の山小屋(福ちゃん荘、富士見山荘、勝縁荘、介山荘)のうちの一つだったが、今はもう営業していないのかもしれない。
深田の2度目の登山のときの最後の記述「延々たるハイカーの行列・・・・・カヤトのあちこちに群がって」というのは私の二度の登山のときと同じだが、今ではもう「ズック靴・・・レイン・コートに短靴、手提げ」ではなく、きらびやかな登山福に登山靴の山ガールと山ボーイたちである。
私が二度目に登ったのは北側の大黒茂谷の沢コースで、ここはさすがに誰もいない一人旅。作業道に上がってテントを張り、翌日10時前に大菩薩嶺に達すると、そこは大勢の先客で一杯だった。
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中里介山の大菩薩峠から始まるこの章には、この長編の書き出しや机龍之介という登場人物名は出てくるが、小説のなかみには触れず、深田が初めて登った時のこと(初鹿野{JR甲斐大和}から嵯峨塩温泉、雁ヶ腹摺山{というのは牛奥ノ雁ヶ腹摺山だろう}、小金沢山を経て大菩薩峠というのは20㎞もある)、青梅街道はかって大菩薩峠を通じていたこと、その廃道がハイキングコースとして復活したこと、樋口一葉の方が先に大菩薩峠について書いていること、など雑多な話が思いつくままに書き連ねられていく。
「展望はすばらしく雄大だし、それに2,000mの高さの空気を吸うことができる」と語ったかと思うと、大菩薩嶺の縁起、「新羅三郎義光の八幡大菩薩」という「甲斐国志」の抜粋を引く。
深田が冒頭と終盤に2度触れている「雲峰寺」には最初に登ったときの帰りに寄ってみた。今は登山口からだいぶ離れていると思うが、この章で書かれていたのを記憶していたので、道脇に駐車してお参りした。山寺などではなく、ずいぶん大きな立派な寺だった。
深田が二度目に登ったときに泊まった「勝縁荘」というのは、最初に登った時に見た4軒の山小屋(福ちゃん荘、富士見山荘、勝縁荘、介山荘)のうちの一つだったが、今はもう営業していないのかもしれない。
深田の2度目の登山のときの最後の記述「延々たるハイカーの行列・・・・・カヤトのあちこちに群がって」というのは私の二度の登山のときと同じだが、今ではもう「ズック靴・・・レイン・コートに短靴、手提げ」ではなく、きらびやかな登山福に登山靴の山ガールと山ボーイたちである。
私が二度目に登ったのは北側の大黒茂谷の沢コースで、ここはさすがに誰もいない一人旅。作業道に上がってテントを張り、翌日10時前に大菩薩嶺に達すると、そこは大勢の先客で一杯だった。