1896年 (2021年4月17日了)
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序の日付は1896年だから明治に入ってまだわずか。こんなときによく日本アルプスに登ったものだ。第1章でウェストンは友人のベルチャーと共に初めて日本アルプスに向かう。といっても当時の鉄道の終点横川から「鉄道馬車」に乗って軽井沢に行き、そこでまず浅間山に登っている。そこでの案内人はまるで役に立たなかったようだが、ウェストンは浅間山の頂上から巨大な噴火口を見降ろし、日本アルプスを見ている。下山も案内人は役に立たず、自力で下るが、旅館では隣で宴会が行われていて、うるさくて眠れなかった。旅館の主に文句を言う英国紳士の姿が目に浮かぶ。案内なしで、磁石を頼りに登山道もないときの浅間山に登る技量をもちながら、人間の悪癖には耐えられない。それをここまで事細かに記載しなくてもいいような気はするが。
ウェストンとベルチャーは上田で汽車を降り、人力車で松本に向かう。そしてその途中で初めて北アルプスを見て感動する。
「午後6時に海抜1,350mの山頂に着いた・・・・小さな円い丘に立つと、あの大連峰の全景が初めて眺められたが、その景観に我々の心は惹きつけられた。・・・・その壮麗さにはただ驚嘆するばかりだった。・・・高さ3,000mないしそれ以上の雪襞のある尾根や気高い峰々が落日に映えたオパール色の空を背景に紫の輪郭も鮮やかにそびえている。日本のマッターホルンである槍ヶ岳やペニンアルプスの女王ワイスホーンの縮図を思わせる優美な三角形の常念岳、それより遥か南のほうにはどっしりした双峰の乗鞍岳がそびえ、それぞれ特徴のある横顔(プロフィール)を見せている。」
第9章ではいよいよ穂高岳(穂高山と記している)に登る。ウェストンはついに嘉門次に出会う。宿に着くまでの苦労話や宿での話などをいつものように細々とおしゃべりした後、安房峠を越えて穂高に向かい、天気が悪いので嘉門次は最初は中止を提案したが、ウェストンの決意を知ると決然とした態度に変わり、ウェストンの前でヤブを払って進む。ウェストンが山稜から見たのはどうやら涸沢カールで、そこに下り、カール底から頂上に取付いたようだ。奥穂高に登っているようにも読めるが、ウェストンが登ったのは前穂高だったようだ。景色の記述がないのは、たぶん天気が悪くて見えなかったのだろう。帰りには嘉門次と二人で蜂に刺された話、松本で床屋に行ってヒゲを剃ってもらうが、あまりに下手なので途中で金を置いて逃げ出した話。いろいろと脱線談が多い人だ。
「案内人として一番適任者だと教えられていた嘉門次という漁師・・・・二週間前に彼ともう一人の猟師が政府の役人(陸軍省の調査官)といっしょに行ったが、・・・この時、最高点への最初の登山に成功した・・・・・彼が話してくれた一つの話は『雑炊橋』という村の橋の奇妙な名の由来を説明するものだった」
「嘉門次のぐんぐん行く歩きぶりから判断するに、彼は穂高山の荒涼とした絶壁の上で今夜を明かす考えは毛頭ないらしかった。彼は急流の岸辺の藪を重い刀で断固とした態度でなぎ倒しながら路を開いた」
「山稜の一端から覗くと、非常に大きな峡溝(クーロワール)あるいは涸れ谷(ガリー)を見下ろしているのに気づいた・・・・ゆっくりと一歩一歩踏みしめて峡溝の底へ降りた・・・・10時半に峡溝の右の壁に差し出た絶壁の基部に達した。・・・・1時間経って、2,550mの高度にある最初の雪渓にさしかかった・・・・・12時45分には険しい瘦せ尾根に達した。1時半になる前に最高の岩峰に着いた。・・・・小さな標柱があった。これこそ数週間前に陸軍省の調査官が登山した印だった」
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序の日付は1896年だから明治に入ってまだわずか。こんなときによく日本アルプスに登ったものだ。第1章でウェストンは友人のベルチャーと共に初めて日本アルプスに向かう。といっても当時の鉄道の終点横川から「鉄道馬車」に乗って軽井沢に行き、そこでまず浅間山に登っている。そこでの案内人はまるで役に立たなかったようだが、ウェストンは浅間山の頂上から巨大な噴火口を見降ろし、日本アルプスを見ている。下山も案内人は役に立たず、自力で下るが、旅館では隣で宴会が行われていて、うるさくて眠れなかった。旅館の主に文句を言う英国紳士の姿が目に浮かぶ。案内なしで、磁石を頼りに登山道もないときの浅間山に登る技量をもちながら、人間の悪癖には耐えられない。それをここまで事細かに記載しなくてもいいような気はするが。
「雄大な噴火口の端に着いた。この内壁は蜂の巣のようになっていて、そこから硫黄を含む水蒸気のおびただしい渦巻きが恐ろしい不気味さであるいは起こり、あるいは消える響きといっしょに捲きあがっている。遠くで聞くとその響きは大きな滝の水音のようであり、あるいはまた太平洋の岸辺に打ち砕ける浪の轟きを夜の静寂に聞くに似ている。その噴火口の周囲は1,200メートルほどで、その底知れない深さはそれよりももっと深いだろうと思われる。夜この噴火山に登り、下に火の燃えている洞穴のような深い淵を覗き込んだ人は、その後私もそうしたが、この世のものとも思われないその光景を、生涯忘れないだろうと思う」
ウェストンとベルチャーは上田で汽車を降り、人力車で松本に向かう。そしてその途中で初めて北アルプスを見て感動する。あの、南北に連なる大障壁の景観に興奮する様子。松本から二人は梓川沿いに西に向かい、島々のあたりで漁師を三人雇う。身軽な最年長者というのが嘉門次なのだろうか(違っていた)。彼らと共に徳本峠を越えたウェストンは、そこからの穂高の眺めを深田久弥と同じく、日本で最高の山岳景観と評している。槍ヶ岳を目指したウェストンたちは、途中で槍沢ではなく、横尾谷経由で槍ヶ岳に向かい、雨の中を登って槍ヶ岳の根本のあたりまで達したらしいが、漁師の最年長者に諫められ、引き返す。
「午後6時に海抜1,350mの山頂に着いた・・・・小さな円い丘に立つと、あの大連峰の全景が初めて眺められたが、その景観に我々の心は惹きつけられた。・・・・その壮麗さにはただ驚嘆するばかりだった。・・・高さ3,000mないしそれ以上の雪襞のある尾根や気高い峰々が落日に映えたオパール色の空を背景に紫の輪郭も鮮やかにそびえている。日本のマッターホルンである槍ヶ岳やペニンアルプスの女王ワイスホーンの縮図を思わせる優美な三角形の常念岳、それより遥か南のほうにはどっしりした双峰の乗鞍岳がそびえ、それぞれ特徴のある横顔(プロフィール)を見せている。」
「清水屋の主人はしばらく捜してから二人の屈強な漁師を連れてきた。・・・・もう一人・・・・その三人のうちの一番年長者は軽快で活発な男で、もう二度も槍ヶ岳に登ったことがあるが、日本人としては珍しく無口であった」
「私たちは5時には海抜2,100mの徳本峠の一番上に達した。・・・・この峠の最高点近くからの展望は日本で一番雄大な眺望の一つで、・・・・穂高岳の高い姿は目の前にそびえ、その南の麓を幅広い梓川の白い小石の川床が流れている。これは日本で一番高い花崗岩の峰で、海抜3,045mに達し、雪襞のある尾根からそびえ立つ岩峰や尖った峰の姿から「立穂の山」という美しい名がついているのである。」
ウェストンとベルチャーは槍ヶ岳を諦めて引き返し、ババ平の赤沢岩小屋に泊まり、翌日松本へ戻った。この岩小屋はこの頃から漁師たちに使われていたようだ。ウェストンとベルチャーは今度は御岳と木曽駒に向かう。犀川(信濃川)と木曽川の分水嶺がある鳥居峠を越え、まず御岳に登ったらしいが、此の床の様子は13章に譲り、上松から木曽駒に向かう。
「駒ヶ岳をただ1日で横断する準備・・・・・宿の主人は私たちの遠征は失敗すると予言した・・・・この登山は登り降りともそれぞれ2,200mあるばかりでなく、50㎞以上も歩かなければならないと注意し・・・・人夫として一番優れた3人の物を世話しようととりかかった」
木曽駒の西側にある上松から人夫を雇って二人は木曽駒の頂上に達し、そこから白山、浅間山、南アルプス、そして富士山を俯瞰する。そして伊那部に下り、飯島の南にある時又から川下りの舟に乗って天竜川を下り、浜松に出る。二人が雄大な景色を楽しんだちょうどそのころ、木曽駒で遭難事件があった話、そして勇壮な天竜川の川下りをウェストンは詳細に記載している。車で走ってしまえばなんてことはないが、当時は平地の移動にずいぶん手間と時間がかかっていたことが分かる。
「ベルチャーと私はこの小屋から約150m高い頂上へ二人だけで登った。・・・・岩の割れ目には二三の高山植物が密かに咲いていた。その一つは色も形もエーデルワイスによく似ていた。最高点は錫杖ヶ岳「クロイザー司教杖の峰」と言われている・・・・頂上には『山の霊』を祀る質素な松材の小さな祠があって、そこからは雄大なパノラマが展開している・・・・直径ほとんど240㎞もあるこの大パノラマの中で一番雄大な姿は甲州白根山の三つの頂のうちの二つの間におぼろげに見える、あの偉大な截頭円錐形の富士の大山頂である」
「時又の梅ノ屋旅館についた。これは小さな綺麗な宿屋で、天竜川の激流をかなたの海へと下る舟の出発点に近かった・・・・・・舟と船頭を雇う費用はこの際は20ドルだった。初めはちょっと高いような気がした。けれども「下り(シュート)」は一日のうちに終わるが、帰りはその十倍も手間取ることが分かった・・・・・この旅はどんなに金を出しても決して高くないように思った。急流で名高い日本中のほとんどすべての一番有名な激流を下ってみた後で、私はこの急流に比べればほかのは緩やかだと確かに主張できるのである。」
第4章では岐阜から高山を経て乗鞍岳に登る。岐阜から飛騨川沿いを遡って高山に入り、同行した医者のミラーが病人を診てやると喜ばれた。高山から平湯温泉、そこから鉱山に寄っているが、どのあたりだろう。十石山のあたりだろうか。そこから乗鞍へは南に尾根を歩いたのだろう。「大丹生池の暗緑色の水の美しい風景が眺められた」とあり、そして「双子の峰の一番北の一番高い峰(3,018m)に達した」というのが乗鞍岳・剣ヶ峰なのだろう。温泉に何度も入っているのは好きなのだろうが、日本の風呂の風習をいろいろと何度も書いている。
「飛騨の首邑高山・・・・・封建制度の昔日本の国中で大名や侍のいなかったと誇れるただ一つの国・・・・ここの住民は日本のどの地域の人々よりも西欧文明に影響されていることが少ない・・・・」
「この地点の向こうで、明らかに少しの理由もなく川の名が変わる・・・・大池という緑色をした池から流れ出る時はそれは阿多野郷川と言われている。それが久々野と小坂の間で大きくなるにつれて益田川という名に変わる。けれどもずいぶんおかしなことだが、その川の生まれた国である飛騨を離れ、美濃に流れて来て初めて、・・・・飛騨川という名になる。・・・太田の近くで中仙道に達すると・・・・木曽川と合する・・・」
「近くの丘陵の一角にぼかし絵のように白山が格好の良い円錐形の山頂が飛騨高原の境界を越え、一直線に西のかなた100キロ離れたところに2,700mの高さにそびえていた・・・・・数知れない雪消水の流れ路のついた白山は澄み渡った夏の空を背景に、白と紫の輪郭もくっきりとそびえている。」
第5章、槍ヶ岳への再挑戦。前年と同じ清水屋に泊まり、同じ漁師の兄弟3人を連れ、徳本峠から梓川(槍沢)を遡り、前年は雨のために断念したところを登り、槍ヶ岳の頂上に立つ。そこからは富士山や穂高、乗鞍、御嶽、それに浅間の煙が見えていた。ここでも旅の記録の大半は宿に着くまでの風景や温泉、住民の様子。
「去年私が雇った漁師の一人が橋場の村はずれから来て、去年もう少しのところで成功できなかったあの遠征を今度こそやり遂げるため、彼と彼の二人の兄弟は喜んでできるだけのお手伝いをすると言ってくれた」
「梓川を5キロ遡ってその夜キャンプした・・・・やがて星が空に輝き始め、月は澄んで冷たく・・・・後ろの方には穂高山の青白い花崗岩の絶壁と雪が幻のようにそして雄大に浮かび上がっている」
「なお十数歩進むと、全てのものは私たちの眼の下にあった。私たちはついに槍ヶ岳を征服したのである。私たちは富士の英峰を除いては、この山岳帝国の全表面のうちで最も壮大な地点に立っているのである」
第6章では赤石山(赤石岳)に登る。登路は西の大河原(鹿塩の南隣)から小渋川を遡り、広河原から尾根を登って大聖寺平経由で赤石岳に登るもの。現在は広河原に小屋があり、大聖寺平まで登山道があるが、大河原から広河原の間は途中から道が無く、沢を遡らないといけない。2018年の記録によると、駐車地点から広河原小屋まで2時間、小屋から大聖寺平まで3時間。ウェストンはここを猟師の案内と人夫を引き連れて頂上まで登り、白根三山を見ている(悪沢岳の記述はなし)。天気が悪化して下山し、雨の中を油紙とマントでキャンプ。この後、山梨に回り、鰍沢で船に乗って太平洋岸に出ている。街道沿いは宿泊費が高いこと、安かった食事のこと、道沿いで風呂に入っていることなど。案内や馬車を待つときは「ミコーバーのように待っていた」というのは、望みの少ない幸運を待つということらしい。
「あるヨーロッパの婦人が『・・・・常々、登山なんていうものは軽い狂気の種類だと思っています。・・・』と言ったのを聞いたことがある」
「村長に頼むと、代わりのものは『唯今』参りましょうと付け加えた。この唯今という言葉は一般に『すぐ』ということを意味するように想像されているが、事実は『今とクリスマスの間のいつか』と訳すのが一番よいのである。この時は『二時間半』」
「デイヴィッド・コパフィールド(David Copperfield)語り手、物語の主人公。逆境を乗り越えて世に立つ。『無垢』から『経験~自己発見』の過程を、周囲の人々の運命をない混ぜて語る。」「ウィルキンズ・ミコーバー氏(Mr Wilkins Micawber)慢性の金欠病でしばしば苦境に陥るが、不撓不屈に棚ボタ的開運を期待する楽天的人物の典型。夫人エマも楽天女性版。」(dickens.jp)
「(小渋川)時として流れの水はその狭間のはしからはしまで深くなっていたので、その時私たちは澄んだ緑色の淵にさしかかる絶壁の面を伝っていったが、それは素晴らしかった。不幸なことに、人夫たちはこの方法で進んでいくのを嫌った・・・」
・小渋川の広河原には「広河原小屋」があり、そこから赤石岳に登山道があるが、西の車道へは沢歩きとなるようで、地理院地図に破線はない。ヤマレコ(小渋川ルートで行く赤石岳、荒川三山)
「甲府・・・・長養亭という料理店・・・で新鮮な肉と上手に料理されたご馳走とを食べた・・・・オムレトゥとチキンカトレトゥとパンケーキとラムネ・・・・しかも値段はただの1シリング三ペンス・・・・」
第7章 針ノ木峠 山越えの汽車に乗って長野、そこから大町を経て針ノ木峠に向かう。今回は同行者なしの一人。人夫の猟師は二人から四人に増え、ウェストンは雪渓を登り、漁師たちは岩場を登って針ノ木峠を越え、黒部川を渡り(当時はまだ湖はなかった)、ヌクイ峠とザラ越(ヌクイ谷の北の尾根からザラ峠だろうか?)を越えて富山の神通川を遠望し、ザラ峠の西にある湯川に下り、温泉に入っている。昔の道が廃道になって久しく、何年かぶりの快挙だったらしい。
「機関車は後ろに付いていたので、窒息の心配もなく窓を開けておいた」
「新町から25キロの間、絵のように美しい所を旅していくと、針ノ木峠の東側にある大町に着いた。・・・大町まで歩いていくとき、記憶の画廊を飾るたくさんの美しい絵の中で一番美しいのは日名部落の風景画である。・・・そこで私たちは深い谷間を見降ろしたが、木のこんもりと茂った高地を背景に、遥か下にエメラルド色の犀川の水が、その両岸に平和に引きこもって暮らしている黒ずんだ家々の間をほとばしり流れていた」
「20年ほど前にこの峠が初めて開かれるまでは、日本海の南80キロの距離にわたって、信州と越中の国の間には実際何の交通手段も無かったのである・・・・雪崩、地滑り、それに加えて秋の豪雨がまもなくその峠路を全く分からなくなるまで破壊した。」
「荒れた急流は籠川であり、私たちのルートはその川の水源まで、右岸か左岸に時にはその凹凸の多い川床の上に沿っている」
「表面の滑らかなこの雪渓の角度は、ほとんど38度に切り立っていた・・・・・私は午前9時には信州と越中の国境と針ノ木峠頂上を示す木の柱のそばの尾根の窪みに立っていた。」
「南の方にはこれから降りなければならない谷間が傾斜している。その手近の斜面にはおもに赤楊(はんのき、ハリノキ)と五葉松の低く這った枝で覆われていた。この赤楊があるのでこの峠は針ノ木と呼ばれているのである」
「ヌクイ谷峠をよじ登った・・・・ザラ越(2,190m)の頂上に10時半に着き、・・・荒れ果てた混乱の向こうの西に眼をやると神通川の銀のような流れ・・・日本海の青く輝く水・・・・すっかり安らかな気持ちになる」
第8章では立山に登り、次いで笠ヶ岳に向かう。立山は信仰登山で栄えていて、比較的楽に登れたようだ。登ったのは今のケーブル、バスの道で、姥石や材木坂の記載がある。だが、富山に下ったルート(竜山下、鬼ヶ城、原、上滝)はよく分からない。弥陀ヶ原の南に鬼ヶ城谷というのがあるので、そこを下ったのかもしれないが、今は道はないようだ。続いて南に下り(このとき、加賀の白山を見ている)、蒲田から笠ヶ岳に登ろうとするが、日照りの雨乞いのために猟師たちが出払っており、またもや断念。
「有坂左衛門(最初に立山登山をやり遂げた)の妻は・・・・この女人堂の境界を越えて実際の頂上に達しようとした。けれども彼女のこの向こう見ずな行いは当然の罰を受けてたちまち姥石に変えられてしまった」
「昔々、地の神をまつる社が建てられるときに、たくさんの木が倒され、この地点に準備されてあった。不注意にもそこまで迷ってきた一人の女が横たえてあった材木の上を踏み越えた。女が踏み越えるのは神聖を汚すことなので、材木はたちまち石に変えられた。このことがあってから、この場所は今言う材木坂という名がつけられた」
「学校へゆっくり歩いていく幼い子供たちは良い作法を教えられているとみえて、突然止まって、自分から進んでお辞儀をするのだった」
白山「徳川時代のある時、この有名な峰は・・・・三人の大名によってそれぞれ自分のものだと主張された。この論争はついに将軍のところまで持ち出されたが、それは加賀の大名が将軍に申請したのである・・・・代理の役人が将軍に『私は加賀の白山の所有権の問題について参りました』と言った。すると『加賀に白山があるならばそれで争うことはないではないか』と将軍が答えた。それで『加賀の白山』という名でそれ以来ずっとこの山が知られているのである」
第9章ではいよいよ穂高岳(穂高山と記している)に登る。ウェストンはついに嘉門次に出会う。宿に着くまでの苦労話や宿での話などをいつものように細々とおしゃべりした後、安房峠を越えて穂高に向かい、天気が悪いので嘉門次は最初は中止を提案したが、ウェストンの決意を知ると決然とした態度に変わり、ウェストンの前でヤブを払って進む。ウェストンが山稜から見たのはどうやら涸沢カールで、そこに下り、カール底から頂上に取付いたようだ。奥穂高に登っているようにも読めるが、ウェストンが登ったのは前穂高だったようだ。景色の記述がないのは、たぶん天気が悪くて見えなかったのだろう。帰りには嘉門次と二人で蜂に刺された話、松本で床屋に行ってヒゲを剃ってもらうが、あまりに下手なので途中で金を置いて逃げ出した話。いろいろと脱線談が多い人だ。
「二週間前、左右ノ沢(ソーノサワ)の暑い坂道で出会ったあの田舎の人がしてくれた経験」というのがどれなのか、ページを戻って読んで探したが、分からない。
「案内人として一番適任者だと教えられていた嘉門次という漁師・・・・二週間前に彼ともう一人の猟師が政府の役人(陸軍省の調査官)といっしょに行ったが、・・・この時、最高点への最初の登山に成功した・・・・・彼が話してくれた一つの話は『雑炊橋』という村の橋の奇妙な名の由来を説明するものだった」
「嘉門次のぐんぐん行く歩きぶりから判断するに、彼は穂高山の荒涼とした絶壁の上で今夜を明かす考えは毛頭ないらしかった。彼は急流の岸辺の藪を重い刀で断固とした態度でなぎ倒しながら路を開いた」
「山稜の一端から覗くと、非常に大きな峡溝(クーロワール)あるいは涸れ谷(ガリー)を見下ろしているのに気づいた・・・・ゆっくりと一歩一歩踏みしめて峡溝の底へ降りた・・・・10時半に峡溝の右の壁に差し出た絶壁の基部に達した。・・・・1時間経って、2,550mの高度にある最初の雪渓にさしかかった・・・・・12時45分には険しい瘦せ尾根に達した。1時半になる前に最高の岩峰に着いた。・・・・小さな標柱があった。これこそ数週間前に陸軍省の調査官が登山した印だった」
第10章は富士山と恵那山。富士山にウェストンは何度も登っているようで、ここには2度、登った時の記載があるが、いずれも春の残雪期で、当時、日本では山開き前の登山は行っておらず、ずいぶん反対されたのに、ウェストンは祟りや古い言い伝えを無視して登っている。草履しかない人夫たちは雪は苦手だったのだろうが、鋲のある革靴のウェストンたちは、暑い夏よりも涼しい雪の上の方が歩きやすかったようだ。1回目は1892年5月、モンタギュー・フォーダーム氏と、2回目は1893年5月、ケンブリッジ・トリニティ大学の評議員、バクストン氏とオゥラーク氏と共に登っている。恵那山にも春に登っているが、このときは柔らかい雪にやや苦戦。だが、恵那山にも富士山にも軽々と登ってしまう。ヒザが痛かったとあるが、相当にタフな人だったようだ。2度目に剣ヶ峰に立ったウェストンはミルトンの詩を思い浮かべる:「これらは汝の栄えある作なり、善の親よ、全能なるものよ。この宇宙の結構は汝のものなれば・・・・・」。下山後、御殿場でウェストンは旅券が期限切れになっているのを咎められるが、なんとか切り抜けている。警官の方が正しいような気がするが、当時はおおらかだったのか。
「夏の間に富士山に登ることは危険でも困難でもない・・・・ところが夏登るのに一つの障害になるのはひどい暑さである・・・・・しかしながら春のさなかの晴天の日に登山期でない時、登ることくらい面白いことはない・・・・・雪のある部分の下のへりまでは、つまり海抜2,700mまでは万事都合よくいった。強力たちは実際、私が山頂に着けるものかとあざ笑い続けていた。・・・・・ところが私たちが雪を越えて・・・・噴火口のヘリの頂に立っているのを見て驚いてしまった。」
「彼はあの聖山(恵那山)へは神主・・・が六月にいつもの山開きで正式に山を開くまで登るようなことはしないほうがいいと熱心に忠告した・・・・・雪が登山の助けになるからあったほうがよいと言うのを聞いて彼はまた驚いていた」
「1530mの高さに達すると最初の雪を見た・・・・・このあたりの雪は柔らかだった・・・・ほとんど一歩ごとに膝まで埋まり、時にはもっと深く埋まった・・・・・2205mの最高点に達して山嶺の東側に二、三歩降りてみると、春爛漫と輝く暖かい自由な地にやってきた・・・・この山頂・・・・は三つの峰からできている。北の端が一番高く、これと真ん中のにそれぞれ小さな祠がある」
「翌朝になると、当てにしていた予想は見事に的中した。一点の雲もない青空が高く濃い緑の松の上から見え、空気はこのうえもなくひやりと澄んでいた・・・・・午前7時に小屋を出発・・・・・午後1時15分に私たちは火口のへりに達した。それから今度は剣ヶ峰へ通じる雪の険しい斜面に来た。そして1時45分には日出づる国の中で一番高い本当の絶頂に達した。」
「これはいけません。あなたの旅券の期限は切れています」「イギリス公使に郵便でその旨をすぐ告げ・・・・・宮ノ下に・・・・万事この問題を解決する手紙が来ていると思う」「我々はすぐあなたに神戸に行くことを命じます」「この親切な暗示にその通り従った。」
210116 第11章では再び北アルプスへ。まず最北の子不知親不知のあたりを歩き、それから蓮華温泉に入り、病気のハミルトンをそこに残し、大蓮華(白馬岳)に登っているが、どうやらまだ現役だった鉱山道を登ったようだ。それにしても、4時に起きて蓮華温泉を出て、10時に白馬岳というのはどうにも早すぎる気がする。歩きやすかったのか?
「蓮華温泉に着いた。ここには1,500mの高度の山腹から噴き出す熱い硫黄泉のまわりに原始的な浴場が群がっている」
「瀬戸川の奔流を降りて行ったが、この川を丈夫な蔦かずらでしばった危なっかしい丸木橋で渡った・・・・・2時間の登りで蓮華銀山にやってきた・・・・・もう一つ150mの坂を登ると、西の雪倉岳と東の大蓮華をつないでいる尾根の木のない安山岩の岩場に出た。午前10時に最高点(1940m)に着いた・・・・・一つの雪の痩せ尾根が西南の旭岳という秀麗な岩峰へと続いている」
第12章でウェストンは三度目の笠ヶ岳に向かう。過去2回は蒲田村で案内を拒まれ、登れなかった。今回も断られたのだが、ある猟師のグループが村に内緒で案内を引き受けてくれた。穴毛谷を遡っていったらしいが、その穴毛谷に入る前にヤブに苦しめられたとある。今では立派な舗装林道が通じているのだが、当時は新穂高温泉のあたりがひどいヤブだったのかもしれない。それにしても、「日本で一番困難だった」と語る割には、午後3時前に頂上に到達し、その日のうちに帰着している。真っ暗な帰り道を照らす松明とそれに映える猟師たちの着物。ウェストンは頂上到達のところはいつもそっけなく書いている反面、小さなことでも心に刻まれたことを丹念に書き残している。彼はたぶん作家ではないのだろうが、詩人にはなれたかもしれない。
「藪が通れないような状態になっていたので、進行ははかどらず、このうえもなく困難だった・・・・この藪をもがき進んでいた時間はたった1時間だったが、長い年月のように思えた。それで私は、日本の内外で山を放浪している間に費やした時間のうちで、これが一番つらい時間だったといつまでも覚えていることだろう」
「やっと湿って暗い牢獄から抜け出て、また日の光を仰ぎ見てほっとした・・・・・この峡谷を猟師は穴毛谷と言っていた。・・・・ある雪の斜面・・・・を登って山の主尾根に着いた・・・・この地点で漁師は止まり・・・・頭を下げてうやうやしく手を合わせ、山の霊に祈りを捧げた」
「穂高山と槍ヶ岳をつなく壮麗な岩稜は日出づる国にその比を見ない高さ2,000~3,000mの城壁のような巨大な絶壁の線を表わしている。灰色の水蒸気の渦巻く帳がそこここにゆらゆらと立ち昇っているが、北には立山、南には富士がその間から見えた。頂上へは2時45分に達したが・・・・その猟師たちを除いては、・・・私たちが頂上に足跡を残した最初の登山者だと話してくれた」
「湿った地上に時々黄金色の火花を小さい滝のようにふらす燃えさかる松明を猟師たちが頭の上に高くかざして行くときに、彼らの着物は絵のように美しくなり、見るもまばゆい光景だった。午後10時には私たちはあの猟師頭の家へ戻った。そして私の日本でのすべての放浪のうちでかって企てた一番困難なこの探検に成功したことに心からの暖かい祝いの言葉をうけた」
210130 笠ヶ岳に登った夜、猟師の家に泊まって天気予報の方法などを聞き、翌日は蒲田村の人々を驚かせないよう、東に焼岳(焼山と言っている)を越えていく。どうやらついでに焼岳にも登ったらしい。川のほとり(たぶん梓川)で嘉門次の仲間の猟師に会い、松本に出たウェストンは、今度は常念岳に向かい、頂上付近に野営して翌日山頂に立っている。このときの野営も楽しかったらしく、常念岳の名前の由来(勤行を務めている僧侶の声が鐘の音に混じって気味悪く聞こえてきた)を聞いたらしい。12章では結局、3山(笠ヶ岳、焼岳、常念岳)に登ってしまった。
「上天気の印・・・・虹が東にかかるとき・・・・雨天の印・・・月が低く見える時・・・・次のような時には風が吹く・・・・星が星座でゆらめくように見える時・・・・」
「私たちの通る鞍部の名は焼山峠という・・・・峠の頂上近くになると・・・草やハイマツが焼山の最高点を覆っていた・・・・・この鞍部から数百メートル上の頂上に登ると、東側の岩の穴から蒸気や硫黄の焔が出ており、火山活動の形跡を発見した・・・北西には笠岳、真北にしかもすぐ近くには穂高山の雄大な展望が眺められた」
「先年私の案内人だった一人の人の姿が目に映った。彼は渡渉点を渡って嘉門次の『狩小屋』に行くところだった。彼はまもなく私の姿に気づきちょっと話をしに岸辺にやってきた。」
「野営地から1時間で常念岳の頂上に来た。こうして初めて外国人の鉄の踵がこのごろごろした山頂にその跡を残した」
第13章は御岳。ウェストンはこの山に巡礼登山者たちとともに東側から登り、王滝に下っている。御岳の風景や景観の記述は多くなく、ほとんどが日本の巡礼登山の様子。祈りや指を使った印結び、霊媒に神様が降臨する様子などを詳しく記述している。中国と戦争中の日本における行き過ぎた愛国心の高まりについて、やや懐疑的、批判的な記述。最後に日本アルプスの絵のような美しさについてラスキンの文章の一節を掲載している。
「日本の巡礼はほとんどいつも信仰的な遊山の気分を帯びている・・・・・登山季節が始まる少し前に・・・・誰がこの聖山への巡礼に代表として行くかを籤で決める。このようにして選ばれた代表者の費用は共有の資金から出される」
「日本で巡礼登山者の好んで登る山々は富士山と御岳などである。もっとも大和の大峰山もそれより低いがずいぶん登る人がいる」
「東から御岳へ行く巡礼者の主な出発点である福島はこの峰の頂上から37キロ離れた絵のように美しいところである。・・・・・私たちの行く路は遥拝殿からこの偉大な山の東の支嶺をあちこちと曲がりくねっていた。・・・・女人堂からは噴火口のへりの東の壁が今は真上にそびえ立っていた・・・・・午後遅くに、私たちのパティは山頂(3000m)に着き、小さい神社やそれに付随してる一列の仏像や守護神や神に祀られた昔の偉人などをよく見ていると・・・・・頂上の下のところどころには巡礼者の草履で岩が文字通りおおわれていた。・・・・北には日本アルプスの遠い連峰の長い線がまるで白い雲の海から出てくる岩の島のように文字通り浮かび上がっているように見える。すぐ下には、・・・・六つの大噴火口の一番高いのがあった。この噴火口を満たしている湖水の水は病を治したり害を与えたりする奇跡的な力を持っていると思われている」
「これを見ると、バルマ(シャモニの案内者でモンブランに初めて登頂した)がモンブラン登山でやった世界的に有名な偉業を記念するシャモニの記念碑を思いだす」
「いかに数知れぬ深い喜びの泉がその峡谷や渓谷のあたりに集まっていることであろう。またその遥かの隅に咲くいともひそかな花の群れや、そのさまよう小川のいともゆるやかな水の跳躍・・・・」(ラスキン著『近代絵画』)
第14章は日本の神降し儀式について。キリスト教徒であるにもかかわらず、ウェストンはこの異教の儀式について興味を持ち、わざわざ1章を割いて記述しており、秘密降神会にも何度か出席しているようだ。これは弘法大師空海の真言宗(密教)から全国に広まったらしいが、空海はこれを中国で学んだと思われ、ヒンズーの瑜迦教(ヨウガ)にもよく似たものがあるらしいので、インド仏教が起源のようである。ウェストンはいくつか、秘密降神会の様子を記述しているが、中座(神が降臨した者)の無我の状態がどれだけ真実でどれだけ見せかけであるかは言い難いと言いながら、現実的な警察の取締令が出ていることを記しており、神の効力は見せかけであると暗に語っている
「弘法大師・空海(くうかい)によって開かれた真言宗は、仏教の中でも比較的中期から後期にかけて展開された「密教」であるといわれます。 (koyasan.or.jp)」
「警察の取締令・・・・・『神降しの会合で処方をもらってよい者はすでに医師の診療を受けている者に限る。』」
第15章は狐憑きについて。人が動物に憑かれたようになって錯乱することが当時の日本ではよく見られたらしい。前章の神降ろしと似た感じだが、無知無学がその根本原因であるとウェストンは考えていて、事実、教育が普及するにつれて狐憑きはなくなっていったようだ。
「狐の『憑く』力は一般に非常に恐れられているので、この動物を祀る神社や寺が国内ほとんどすべてのところにある・・・・実際狐はみんなかって稲荷様、つまり米の神に仕えたと思われていた。」
「奇妙な幻覚の詳しい話はほとんど数限りなくあるが、狐が人間に害を働きかける超自然的な力を持っているという信仰は教育と一般文化が普及したので非常に遅々としてではあるが、だんだんなくなってきている。」
第16章は日本で登山するときのアドバイス。衣服、履物、運搬具、ランプ、食料、薬、ちょっとした贈り物(ナイフや磁石、ハサミや人形)。意外なことに、ウェストンは日本アルプスではピッケルやロープは不要、丈夫な紐、それに杖があればよい、としている。ヨーロッパ・アルプスに比べてそれほど険峻ではないということか。案内人よりも友人の方がいい。もしくは信頼するに足る日本人の召使、というのも意外。穂高の嘉門次は大きな例外だったのだろう。いや、信頼するに足る人物だったということか。
付録はガウランド氏による日本アルプスの地質学的な記述。鉱石や鉱山、温泉、そして遺跡について。おもしろいのは黒岳に鉄鉱鉱床があるが、山深いので利用は難しかろうとしているところ。今では環境保護の観点から認められないだろう。次週で終了。
巻末には小島烏水の寄稿文、岡村精一の作者あとがき、そして水野勉の解説が収められている。ウェストンの「日本アルプス」はもともと日本人のためではなく、英国やヨーロッパのために書かれたものであったこと、それをたまたま目にした岡野金次郎がウェストンの存在を知り、ウェストンの勧めで、その3年後に小島烏水と共に日本山岳会を創立したこと、ウェストン以前にも登山の推進をした日本人や日本アルプスに登った外国人はいたが、スポーツ活動として日本アルプスに登り、その楽しみ方を広め、日本山岳会の創設を含め、登山の機運を一気に盛り上げたのはウェストンの功績であり、それゆえに彼こそが日本近代登山の父であること、というのが巻末文の趣旨だと思うが、カバーに記載してある「宗教的登山一色の山々に近代アルピニズムの新たなうねりを巻き起こした」というのが今の評価なのだろう。ウェストンは27才のときに初来日し、その後、3度目の来日のときは54才だったというから、まさに日本は彼の第二の故郷であったに違いない。ウェストンもまた、偉大なる山の先輩だが、「上高地の森にハンモックを吊るして露に濡れながら夜を過ごした」というのは今ではなかなかできないだろう。