1702年(2024年11月17日読了)
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「月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり。舟の上に生涯をうかべ馬の口をとらへて老をむかふる者は、日々旅にして旅を栖(すみか)とす」この書き出しはよく覚えている。大学入試の練習問題にも良く出ていたという記憶があるが、高校の古文で読み、小林秀雄の文章などでも出会っただろう。毎月、車で旅行するようになった今の私には、この文章はまさに自分のことのように身近に感じられる。芭蕉のように住居を他人に譲ったり、友人宅に泊めてもらう必要はないが、衣服を用意したり、身体の手入れやトレーニングは欠かせない。二週間も自宅に籠っていると、芭蕉のように「漂泊の思ひ」が昂じて来て「取るもの手につかず」という気分になる。
曽良の句とある(注釈には芭蕉の代作とある)「剃捨てて黒髪山に衣更(ころもがえ)」というのは、奥州への芭蕉の旅の供をするにあたり、剃髪して出家し、墨染の僧の衣に着替え、名前も「惣五郎」から「宗悟」と改めた曽良の決意がこめられているようだ。「『衣更』の二字、力ありてきこゆ」というのは、この曽良の決意への芭蕉の感謝がこめられているのであって、背景を知らなければ分かるまい。「暫時(しばらく)は滝に籠るや夏(げ)の初め」は、日光三名瀑の一つ、裏見の滝のことで、当時は滝の裏に籠って修行している僧侶もいたのだろう。「解夏(げげ)」というらしいこの修行は三ヶ月間というから、結構厳しい。「夏の初め」どころではないと思う。
殺生石は私がまだ行っていない名所の一つだが、芭蕉はこの石については句を残していない。それよりも西行が「道のべに清水流るる柳陰しばしとてこそ立ちどまりつれ」と詠んだ柳が気になるようで、西行が立ち止まったのは夏の日差しをしのぐためであったに違いないが、芭蕉の「田一枚植ゑて立去る柳かな」というのは、西行への思いを馳せて去り難く、田植えが終わるまでそこに留まったということだろう。この芭蕉の句碑と、西行の歌を付した案内石板は那須連峰の登山口付近にあり、立ち寄ったことがあるので思い出深い。
義経が最後に立てこもった高館(たかだち)というのはこの金鶏山と中尊寺の間、北上川の川岸近くの丘の上にある:「さても義臣すぐってこの城にこもり、功名一時の叢となる。『国破れて山河あり、城春にして草青みたり』と、笠うち敷きて時のうつるまで泪を落とし侍りぬ。夏草や兵(つわもの)どもが夢の跡 卯の花に兼房みゆる白毛(しらが)かな 曽良」。中尊寺で芭蕉が訪れたのは経堂と光堂(金色堂):「かねて耳驚かしたる二堂開帳す。経堂は三将の像を残し、光堂は三代の棺を納め、三尊の仏を安置す。七宝散り失せて珠の扉風に破れ、金の柱霜雪に朽ちて既に退廃空虚の叢となるべきを四面新たに囲みて、甍(いらか)を覆ひて風雨を凌ぐ。暫時(しばらく)千歳の記念(かたみ)とはなれり。 五月雨(さみだれ)の降りのこしてや光堂」。ここにはもう、これ以上に言うことは見つからない。
この道を走ったとき、県境を越える箇所に芭蕉の句碑と休憩所があった。もちろん、芭蕉はそのあたりに泊まり、「蚤虱」に苦しみ、「馬の尿」の音を聞いたのだ。そこから「究竟(くっきょう)の若者」に案内されてたどり着いた「最上の庄」というのはR47沿いにある最上町でも新庄市でもなく、尾花沢市(注には北村山郡とある)だったというから、芭蕉はR47から県道28沿いのルートを南西に下ったのだろう。屈強の若者は今の山登りかもしれないが、「この道必ず不用の事あり、恙なう送りまゐらせて仕合せたり」というのは、ジョークのつもりだったのか? 一方、若者と歩き始めたとき、芭蕉は「今日こそあやうきめにもあふべき日なれ」と覚悟していた。だから「後に聞きてさへ胸とどろくのみなり」というのも私はジョークだと思う。本当にそんなに弱気では、こんな旅にでられたはずはない。たぶん芭蕉はスリルを楽しんでいたのではと思う
「松柏年旧り(としふり)土石老いて苔滑らかに、岩上の院々扉を閉ぢて物の音きこえず・・・・・佳景寂莫(じゃくまく)として心澄みゆくのみ覚ゆ 閑さや岩にしみ入る蝉の声」。「物の音きこえず」と言ったときは、芭蕉には確かに何も聞こえていなかったのだろう。それが、周囲の景色に囲まれて心が落ち着いてきたとき、突然、蝉がずっと鳴いていたことに気づいた。この刹那を捕らえることこそが芸術の極の一つなのに違いない。
岩登りで立石寺を訪ねた芭蕉は、今度は最上川の川下りに挑戦する。この川下りは今でも行われているが、スリル満点でジェットコースターのようなものだろう。風流を究めるはずの芭蕉がこんな川下りをやるとは・・・。やっぱり怖いもの大好きオヤジだったのか??? この前に芭蕉が書いている「芦角一声(ろかくいっせい)の・・・・わりなき一巻」というのは、指導を頼まれて四人(芭蕉、一栄、曽良、川水)で作った句集らしい。その発句が「五月雨を集めて涼し最上川」だったというのはなんとも意外。「涼し」を「早し」に変えたのは、勿論川下りでの体験によるものだが、この発句と句集はそれよりも前に作られたはず(それとも、違うのか?)。まあ、あまり詮索しても仕方がない。
「八日、月山にのぼる。木綿(ゆふ)しめ身にひきかけ、宝冠(頭を包む白木綿)に頭(かしら)を包み、強力(ごうりき)といふものに導かれて、雲霧山気の中に氷雪を踏んで登ること八里、更に日月行道の雲関に入るかとあやしまれ、息絶え身こごえて頂上に到れば、日没して月顕(あらわ)る。笹を敷き篠を枕として、臥して明くるを待つ」という一節は日本百名山で何度も読んだ。そして「雲の峰幾つ崩れて月の山」は、現代語訳には「山を幾重にも包んでいた白雲がいつの間にか崩れ去って」月山が現われたとあるが、私には「山のように空に浮かんでいる雲の峰がどれだけ崩れれば月山になるのだろう」という待っている心境、もしくは空想のように思える。とにかく、まだ月山は見えていないのだ。
芭蕉は酒田から歩いて象潟まで行く。そして象潟の全景も見渡す:「江の縦横一里ばかり、俤(おもかげ)松島にかよひて、また異なり。松島は笑ふがごとく、象潟はうらむがごとし。寂しさに悲しみを加へて、地勢魂をなやますに似たり」。これは地面隆起で象潟の風景がすっかり変わってしまい、そこに「寂しさ、悲しみ、うらみ」を感じたということか。だが、興奮のあまり俳句が詠めなかった松島と違い、象潟では二句を詠んでいる。「象潟や雨に西施が合歓(ねむ)の花」というのは、たまたまネムノキの花が咲いていたのだろう。西施が出てくるのはなぜ? 「汐越や鶴はぎぬれて海涼し」というのは、「つるはぎ」が脛の意味であり、海に立つ鶴を見て涼しさを感じたということだろう。
そして「荒海や佐渡によこたふ天河」。新潟の米山SAにはこの句を刻んだ芭蕉の句碑があり、盛りだくさんの案内もある。おそらく新潟の俳句師たちにとっては、この句は至宝なのに違いない。この日も夜空は晴れて満天の星空に天の川がくっきり見えていて、それを海岸に打ち寄せる波の音、それに強い風の音を聞きながら眺めたのだろう。佐渡は暗い海の上の黒いシルエットで、視角的にそれほど大きくないのではなかろうか。しかし、「佐渡によこたふ」というフレーズは流人はじめ、様々な連想を引き起こす。だが、この句の魅力は読んだ時に即、夜の海の上に輝く天の川の情景が頭の中に想起されることではなかろうか。一種のパワーをもつ句だと思う。
敦賀から7里あるという「種(いろ)の浜」というのは、今では「色浜」、法華寺の本隆寺も現存。敦賀発電所の近くにある。西行が拾ったというチドリマスオ貝は色浜でなくても拾える貝らしい。それはともかく、海上七里を人や弁当、酒を揃えて渡った「天屋何某」という回船問屋も俳人だったらしいが、このとき芭蕉を乗せたのがそのきっかけだったのか? おそるべき俳句の人脈というべきか。なにも無い浜の寺で、「茶を飲み酒をあたためて夕ぐれのさびしさ感に堪へたり」という遊興の境地に到れたのは、とにかくこの「天屋何某」のおかげである。芭蕉はおそらくかなり飲んで酔ったに違いない。「寂しさや須磨に勝ちたる浜の秋」というのはたぶん源氏物語を知らなければ分からない句だと思うが、「寂しさ(=侘しさ)」が須磨に勝ると言い切るのは、酔いが回っている証拠ではなかろうか。なにせ、曽良と二人きりではなく、寒村とはいえ、大勢で酒を酌み交わしているのだから。
芭蕉には多くの門人、俳句の知人があり、奥州への旅でもそういう知人を頼っている。一方、そういう人脈、同じ蕉門の中にも派閥ができ、師匠の芭蕉にも好き嫌いはあったようである。まあ、そんなことは人の人生にはつきもので、何かの都合やきっかけで人は疎遠になり、また親密になるものだ。それにしてもここで語られる多くの俳句師たち、曽良はともかく、一番信頼していたらしい去来、大垣では最初世話になり、やがて疎遠になった木因、深川に住んでいた杉風(さんぷう)など、どういうキャラクターであったのか、気になって仕方がない。
芭蕉の去来への遺言:「今日我病しきりなり、汝日ごろ此の集の求め深し。今将(はた)そこに譲りなん。不思議にも長らうるためしもあらば、写しとどめて本の書を返すべし。書は兄の慰みにとて故郷に残し置きぬれば、つとつとに謂送るなるべし」。51歳で死ぬとは、早すぎる。
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「月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり。舟の上に生涯をうかべ馬の口をとらへて老をむかふる者は、日々旅にして旅を栖(すみか)とす」この書き出しはよく覚えている。大学入試の練習問題にも良く出ていたという記憶があるが、高校の古文で読み、小林秀雄の文章などでも出会っただろう。毎月、車で旅行するようになった今の私には、この文章はまさに自分のことのように身近に感じられる。芭蕉のように住居を他人に譲ったり、友人宅に泊めてもらう必要はないが、衣服を用意したり、身体の手入れやトレーニングは欠かせない。二週間も自宅に籠っていると、芭蕉のように「漂泊の思ひ」が昂じて来て「取るもの手につかず」という気分になる。最初の句「草の戸も住替る代ぞ雛の家」は引き払った深川の家のことだろうが、たぶん幼子をもつ夫婦が入ったのだろう。
「弥生も末の七日、あけぼのの空朧々として月は有明にて光をさまれるものから、富士の峰幽かに見えて上野・谷中の花の梢又いつかはと心細し」3月27日に門弟、杉風(さんぷう)の深川別宅を出る。寒々とした叙景描写、枯れ枝の桜の木。「行く春や鳥啼き魚の目は泪」もよく見た句。春は始まったばかりだから、「行く」のは芭蕉。大勢の門弟が見送りにやってきて船に同乗し、次の宿、千住まで来てくれたというのは、当時の習慣だったというが、芭蕉が門弟たちに強く慕われていたことが分かる。「啼き」、「泪」を流したのはその門弟たちと芭蕉自身。
「ことし元禄二年(ふたとせ)にや奥州長途の行脚ただかりそめに思ひたちて呉天に白髪の恨を重ぬといへども耳にふれていまだ目に見ぬ境、もし生きて帰らばと定めなき頼(たのみ)の末をかけ、その日漸(やうやう)草加という宿にたどり着きにけり」の「頼みの末をかけ」というのは、「『頼みの末(わずかな期待)』と『末をかけ(将来をあてにして)』を掛けている」とネットに出ていた。この時の芭蕉は46歳だから、今なら現役バリバリというところだが、当時はもう老齢ということなのだろう。草加はまだ埼玉県。
「この神は木の花(このはな)さくや姫の神と申して富士一躰なり。無戸室(うつむろ)に入りて焼き給う誓のみ中に火々出見の尊(ほほでみのみこと)生まれ給ひしより室の八島と申す」という曽良の説明は記紀神話のもので、天孫ニニギの子を妊娠したが、姦淫の疑いを晴らすために火をつけた部屋で出産したという過激なもの。八島(ヤシマ)とは竈(かまど)のことらしい。
仏五左衛門とはこの日の宿の主。「いかなる仏の濁世塵土(ぢょくせぢんど)に示現してかかる桑門の乞食順礼ごときの人をたすけ給うふにやと、あるじのなす事に心をとどめてみるにただ無智無分別にして正直偏固の者なり」の前半で、芭蕉が自分のことを乞食同然と語っているのはどうだろう。もしかするとこの主人は松尾芭蕉のことを知っていて、それなりに尽くしたのかもしれない。なにせ江戸では大勢の門弟もいるのだから。ともかく、この主人を芭蕉が気に入ったのは確かで、「無智無分別」というのは脚注に逆説的表現とあり、ともかく「正直偏固」、どこまでも正直な男ということらしい。
仏教インドの補仏落(ふだらく)から二荒(ふたら)と名付けたものを、「にこう」と読み替え、日光の字を当てた、という歴史は「日本百名山」で読んだ。男体山を開いたのはもちろん空海ではなく勝道上人であり、以来、二荒と日光の両方を使ってきたらしい。「あらたふと青葉若葉の日の光」の「あらたふと」はたぶん「なんと尊い」であり、これは男体山を御神体とする日光東照宮をひたすら敬う句のようである。曽良の句とある(注釈には芭蕉の代作とある)「剃捨てて黒髪山に衣更(ころもがえ)」というのは、奥州への芭蕉の旅の供をするにあたり、剃髪して出家し、墨染の僧の衣に着替え、名前も「惣五郎」から「宗悟」と改めた曽良の決意がこめられているようだ。「『衣更』の二字、力ありてきこゆ」というのは、この曽良の決意への芭蕉の感謝がこめられているのであって、背景を知らなければ分かるまい。「暫時(しばらく)は滝に籠るや夏(げ)の初め」は、日光三名瀑の一つ、裏見の滝のことで、当時は滝の裏に籠って修行している僧侶もいたのだろう。「解夏(げげ)」というらしいこの修行は三ヶ月間というから、結構厳しい。「夏の初め」どころではないと思う。
p16 詣拝(けいはい): 神社やお寺などにお参りすること。参拝。
p16 補陀落(ふだらく、梵: Potalaka)は、観音菩薩の降臨する霊場であり、観音菩薩の降り立つとされる伝説上の山である。その山の形状は八角形であるという。
p17 裏見の滝:裏見滝は栃木県日光市にある滝。「裏見ノ滝」と表記することもある。 安良沢国有林の中に位置し、大谷川の支流である荒沢川にある。高さ19m。かつては滝の裏側に設けた道からも姿を見られたので、この名が付けられた。華厳滝、霧降の滝とともに日光三名瀑の1つとされる
p17 夏(げ):解夏(げげ)①僧が夏に一定期間、一か所にこもって修行すること。元来は陰暦4月16日から7月15日までの三か月間行われ、この間を一夏(いちげ)という。現在は主として禅宗の修行道場で行われる。夏安居(げあんご)。夏行(げぎょう)。夏籠(げごもり)。
街道(今のR4)から離れて「野越」をして向かった「那須の黒羽」というのはたぶん今の黒羽向町のあたりだろうか(那須郡黒羽町というのは今はない)。それは山越えではなく平野であり、今は黒羽街道というのもあるが、当時はただの野原だったのだろう。貸した馬が一人で戻ってくるというのものどかだが、鞍壺に代金を入れて返すというのは今なら物騒な話。こういうのを狙う盗人がいるほど、当時は人は多くなかったのか。「かさねとは八重撫子の名なるべし」という曽良の句も芭蕉の代作とあるが、ずいぶん子供っぽい軽い句。だから曽良の作にしたのだろうか。
黒羽の浄法寺高勝は俳号桃雪とあるから俳人であり、松尾芭蕉がやってきたとなれば、歓待するのは当然だろう。「玉藻の前の古墳」というのは「日本百名山」にも出てきた殺生石(大田原からは25㎞北)ではなく、大田原から北西4㎞ほどの玉藻稲荷神社の北に位置し、九尾の狐が埋められたとされている。一方、八幡宮(那須神社)は大田原から西に2㎞ほど。那須与一が祈ったという「別しては」とは「とりわけ」という意で、「とりわけ我が国の氏神正八幡」と屋島で矢を射る直前に祈った訳だ。「感応殊にしきりに覚えらるる」という表現は現代的。「夏山に足駄を拝む首途(かどで)かな」は光明寺の行者堂に安置されている役行者の一本歯の下駄のことらしい。ネットには「一本歯下駄クラブ」というのもあるが、芭蕉が参拝した役行者の足駄の映像は見当たらない。
p19 別して(べっして):[副]格別であるさま。特に。とりわけ
雲岩寺というのは大田原市内から東へ10㎞ほどのところにある。芭蕉の師だったという仏頂和尚の草庵というのは、絶壁に屋根を張り出したものらしく、西行庵よりも簡素で、確かに雨が降ると辛いだろう。「竪横の五尺にたらぬ草の庵(いほ)むすぶもくやし雨なかりせば」という仏頂和尚の歌に対し、「木啄(きつつき)も庵(いほ)はやぶらず夏木立」という芭蕉の句は対になっていて、夏木立に囲まれて和尚の草庵は健在しており、立派だ、と伝えたかったのだろう。
p20 仏頂和尚: 旧白鳥村(現鉾田市)出身の仏頂河南は松尾芭蕉の師匠でした。仏頂河南は「奇人」仏頂とも言われました。芭蕉はご存じ、元禄三大文化人(井原西鶴・近松門左衛門)の一人。その芭蕉の精神的・思想的師匠が「奇人」仏頂和尚だったのです 。精神的にゆきづまっていた芭蕉は、仏頂の説く禅の思想―生死も愛憎も虚であり実である―が心に染みました。仏頂の「物心一如」論・「仮想実相」論は、以後芭蕉の「不易流行」論となり、蕉風確立に大きく寄与していったのです。 (鹿行ナビ)
さて、芭蕉はようやく黒羽から出立する。馬の付け人に頼まれて詠んだ「野を横に馬牽きむけよほととぎす」というのは、たまたまホトトギスが鳴いていたのだろう。さあ出発だ、馬を引け、と威勢よく号令する出立の句。ほととぎすは見送りなのか。殺生石は私がまだ行っていない名所の一つだが、芭蕉はこの石については句を残していない。それよりも西行が「道のべに清水流るる柳陰しばしとてこそ立ちどまりつれ」と詠んだ柳が気になるようで、西行が立ち止まったのは夏の日差しをしのぐためであったに違いないが、芭蕉の「田一枚植ゑて立去る柳かな」というのは、西行への思いを馳せて去り難く、田植えが終わるまでそこに留まったということだろう。この芭蕉の句碑と、西行の歌を付した案内石板は那須連峰の登山口付近にあり、立ち寄ったことがあるので思い出深い。
p22 やさしき事:「優(やさ)し」には「姿や言語、振舞いなどに、こまやかな心づかいや、たしなみの深さなどが感じられるさま。 「やさし」は今日でいう「恥ずかしい」の意味から、恥ずかしく. 感じているような人々が外から見ても「優美だ」という意味に変わる
「白河の関跡」というのが白河市の南(R4からはだいぶ外れている)にあるが、蝦夷防衛拠点とされた頃の白河関がどこにあったかは不明ということらしい。那須塩原付近の標高250m程度が白河市に至ると標高400mを越えるから、当時の旅人たちは「関を越えていく」ということを実感したのであろう。「秋風を耳に残し、紅葉(もみじ)を俤(おもかげ)にして、青葉の梢なほあわれなり」というのは、それはまだ夏(6月)だったが、涼しい風が吹き、早い紅葉も見受けられたということか。「青葉の梢・・・あわれなり」というのはしっくりこないが、日差しに輝いているのではなく、風に揺れている様を言っているのか? 「卯の花をかざしに関の晴着かな」という曽良の句は、正装して(たぶん白装束)白河の関に臨んだという古来の習わしに沿ったもので、その前の「卯の花の白妙(しろたへ)に茨の花のさきそひて、雪にも越ゆる心地ぞする」というのも、この習わしから連想したのだろうか。それとも単に、涼しかったのか?
p23 奥州三関:白河、念珠、勿来(なこそ)
p23 勿来関(なこそ):古代から歌枕となっている関所の1つ。江戸時代の終わり頃からは「奥州三関」の1つに数えられている。所在地が諸説ある上、その存在自体を疑う説 もある ・・・・・福島県いわき市に勿来町があり勿来公園があるが、宮城県利府町にも勿来伝承地というのがある。
須賀川は白河と郡山の中間あたり、福島空港が近く、その東には蓬田岳がある。猪苗代湖はまだ遠いが、芭蕉は会津根(磐梯山)を見ている。等窮という俳人宅に泊まり、三人で連句を詠じているが、なんと42句。一人14句作ったことになる。本文に載せているのはその発句:「風流の初めや奥の田植えうた」。等窮が訊ねたのは白河の関のことで、芭蕉は旅がたいへんで俳句は作らなかったと答え、その場で一句詠じた訳だ。芭蕉が田植えを見たのは殺生石・遊行柳のところだが、白河のあたりでも田植えは見たのであろう。連句の中の他の二人の句:「六十の後こそ人の正月なれ」等窮、「ある時は蝉にも夢の入りぬらん」曽良。須賀川宿の近くの大きな栗の木に僧がいて、行基菩薩が栗の木を杖や柱に使っていたことを書いていた、というのは、たぶん栗の木の下の庵に、木片にでも書きつけてあったのだろうか。そのことを題材にして次の句を詠む:「世の人の見付けぬ花や軒の栗」。栗の花はススキやショウマみたいな姿なので、確かに花とは気づかず、見過ごすことが多いだろう。
芭蕉は安積山(あさかやま)という沼の多いところで「花かつみ」というのを探している。たぶん安積(あづみ)のあたりだろうが、安積山というのは無いが、葉ノ木池や新池など確かに池は多い。ネットを見ると、花かつみとは花菖蒲だと書いているのは愛知県阿久比市。しかし、郡山市サイトにはヒメシャガであるとされているので、ヒメシャガが正しいのだろう。芭蕉が福島で泊まる前に立ち寄った黒塚というのは大きな岩屋跡で、不治の病を治すために妊婦の肝を食べようと殺したが、それが我が子と知って気が狂い、旅人を襲うようになった。そしてある旅の僧が呼び出した観音菩薩により、鬼は征伐される:「鬼は僧を見つけると、恐ろしい速さに追いつこうとする。そしてもう少しで手が届くところとなり、祐慶はもはやこれまでと如意輪観音像を笈から取り出して経文を唱えた。すると、観音像が天高く飛びたつや、光明を放ちながら白真弓に矢をつがえて鬼婆を射抜いたのである」(日本伝承大鑑)。
p26 花かつみ:阿久比町ではアヤメ科の多年草で6月上旬から中旬にかけて鮮やかな紫色の花を咲かせる野花菖蒲(ノハナショウブ)のことを「花かつみ」と呼んでいます。 (愛知県阿九比市)
p26 花かつみ:明治9年6月17日、明治天皇の東北巡幸のさい、日和田の安積山の麓、横森新田のご休息所で、花かつみを「菖蒲に似て最(いと)些小(ちいさ)き花」なるヒメシャガを花かつみとして天覧に供しました。以後、「ヒメシャガ」が「花かつみ」とされ、昭和49年、郡山市の花に制定されました。(郡山市)
ここで芭蕉が訪れている「しのぶもぢ摺り石」というのは福島駅から東北東に4㎞ほどのところにある「信夫文知摺石」のことと思われる。現在も名所になっていて、ネットに出ている。この石には古今和歌集の歌の元となった伝説(都に帰ってしまった恋人を偲び、悲しみのうちに死んだ女のところに都から和歌が届いたというもの):「みちのくの しのぶもぢずり 誰ゆえに 乱れんと思う 我ならなくに」。芭蕉はこのことを知っていたからこそ、「里の童」の言う「旅人がこの石を使って麦草を荒らすので、山の上から突き落とした」という話を疑ったのに違いない。だから、「早苗とる手もとや昔しのぶ摺」というのは、麦草を荒らした旅人ではなく、恋人の姿を見たいと石を麦草で磨き続けた娘のことを偲んだ句に違いない。
p27 しのぶもぢ摺り:陸奥には古来よりもぢれたような紋のある奇石が多くありました。その上に細かく砕いた雑草や花弁、山藍などを置き、その上に布を被せ小石で布を打ち植物の色素を布に移します。(石の面のたいらなところを 利用する方法もあります。)その布を乾かし豆汁ややしゃぶしの汁などに浸し清水にさらすと、あら不思議!それはそれは鮮やかな模様が浮かび上がってきたそうです。(西陣の糸屋)
p27 信夫文知摺石:中納言・源融が陸奥国按察使として赴任していたが、ある時信夫で道に迷い、村長の家に泊まった。そこで娘の虎女を見初めて相思相愛の関係となった。しかし都に戻るよう命を受けた融は再会を約してその地を去った。残された虎女は融に一目会いたい一心で観音堂に願を掛け、文知摺石を麦草で磨き続ける。そして満願の日、ついに磨き込まれた文知摺石に融の姿を一瞬見いだしたのである。だが、そこで精根尽き果てた虎女は病の床に就き、そのまま亡くなってしまう。その死の直前に、都にあった融から一首の歌が届く。それが古今和歌集に残る “みちのくの しのぶもぢずり 誰ゆえに 乱れんと思う 我ならなくに”である。
佐藤庄司の「庄司」は荘園を管理する職のことを指しており、源義経に仕えた佐藤一族のことを指しているらしい。彼等は奥州藤原氏の一族であり、佐藤継信、忠信の兄弟は義経の従者として義経をかばって戦死、彼らの父、佐藤基治(この人が佐藤庄司を指すのだろう)は藤原氏を攻めてきた頼朝軍と戦い敗れている。これらはみな源義経にまつわる悲劇であり、江戸時代の文人にはよく知られていたのであろう。それにしても芭蕉はずいぶん涙もろい人だったようだ。「堕涙の石碑」というのは中国三国時代から西晋の頃の武将羊祜の徳を讃える碑文を見た者が皆泣いたという碑のことで、三国志演義に羊祜のことは出ていたらしいから、これも江戸の文人には知られていたのだろう。「什物(じゅうもつ)」は最初、什器のことだろうと思ったが、秘蔵の宝物という意味もあるとのこと。「笈も太刀も五月にかざれ紙幟」というのは、義経と弁慶を偲んで、笈や太刀の紙幟を作って五月の節句に飾ろうということなのだろう。碑文を作って涙を流すより、この方が健康的で元気も出る。芭蕉は泣いてばかりではなく、すぐに前向きに気分転換できる人だったようだ。こうでないとこの時代、奥州を歩いて一周できないだろう。
p28 佐藤庄司:「 庄司」は、荘園領主の代理人として荘園を管理する職のことで人名ではない。ここでは、信夫郡・伊達郡の庄司だった佐藤元治という個人を指している(山梨大学) 彼らは奥州藤原氏の一族であると同時に、家臣でもある。佐藤一族の中で最も有名なのは、源義経の従者佐藤継信(つぐのぶ)・忠信(ただのぶ)の兄弟である。2人は義経に従い、平家打倒に臨む。しかし、継信は屋島の戦いで義経をかばって戦死する。平家滅亡後、忠信は、頼朝に追われた義経を逃がし、自分は京都に潜伏したものの、見つかり自害している。 佐藤庄司は佐藤基治(もとはる)の別名である。彼は佐藤継信・忠信の父である。石那坂(いしなざか)で頼朝軍の常陸入道念西(ひたちにゅうどうねんさい)の息子らに敗北する。石那坂古戦場跡はこの石那坂の合戦に由来している。(NOVEL DAYS)
p28 堕涙の碑(だるいのひ):中国、晉代、襄陽の守であった羊祜の徳を慕い、その死後、羊祜の曾遊の地に碑を建てたが、これを見る者は皆感泣したという故事から) 碑文を読む者は皆涙を流すという碑。湖北省襄樊(じょうはん)市の峴山にある。堕涙碑。〔晉書‐羊祜伝〕
p28 羊祜(ようこ):中国三国時代から西晋にかけての武将。 字は叔子。 本貫は泰山郡南城県。 高祖父は司隷校尉羊侵。
p28 什物(じゅうもつ):1.日常使う道具類。什器(じゅうき)。2.秘蔵の宝物。什宝(じゅうほう)。
p29 紙幟(かみのぼり):① 紙製の幟旗(のぼりばた)② 五月の節供に戸外に立てる紙製ののぼり。鍾馗(しょうき)や武者の絵をえがいたものに竿をつけたもの。③ 江戸時代、罪人を引き回す時、または仕置場に、罪状を記して立てた紙ののぼり。
飯塚とは今の福島飯坂インターの北あたり、半田山や国見SAの南のあたり。今はもう住宅その他の建物がたくさん建っているが、芭蕉の頃は温泉があるばかりの田舎で、「蚤・虱」でなく「蚤・蚊」にたかられ、雨漏りもしており、「消え入るばかりになん」というのは「死にそうだった」ということらしい。現代でもこういうことは起こりうる。私は雪山のテントでえらく寒い思いをしたことが何度かあり、まさに「消え入るばかり」に震えが止まらず、辛かった。「羇旅」とは旅行のことで、和歌や俳句で強調のために用いられる言葉らしい(解説p175には「漢文訓読の影響による語法」「俳文体特有の表現」などの説明がある。私には難解)。ともかくここのハイライトは「羇旅辺土の行脚、捨身無常の観念、道路に死なん、これ天の命なりと、気力聊(いささ)かとり直し、路縦横に踏んで伊達の大木戸を越す」であろう。要するに、芭蕉は開き直ってずんずん歩くのだ。このときの芭蕉は46歳(ただし、51歳で死去)、今年70歳の私は、あまり頑張って足を動かし続けると立ち眩みに襲われるようになった。芭蕉の心臓はこのとき、まだ丈夫だったということだろう。「伊達の大木戸」というのをネットで調べると、今では奥の細道に因んだ碑が建っているようだから、今や古戦場の跡ではなく、芭蕉が訪れたことの方が有名になっている。
p30 羇旅(きりょ):1 たび。旅行。2 和歌・俳句の部立ぶだての一つで、旅情を詠んだもの。
芭蕉は私が訪れたことのある船岡の城跡には触れず(通過したはずだが)海に近い名取市に入り、藤原実方の墓のある笠島を訪ねようとする。藤原実方は中古三十六歌仙の一人であり、光源氏のモデルとも言われながら、陸奥守に左遷され、下馬せずに道祖神の前を通過したために神罰が下って死んだといわれる波乱万丈の人。これだけエピソードがあれば墓参したくなるだろう。西行は塚を訪れ、「朽ちもせぬその名ばかりをとどめおきて枯野の薄(すすき)形見にぞ見る」と詠み、芭蕉は遠くから眺め(おそらく拝んだだろう)「笠島はいづこ五月のぬかり道」と詠む。おそらく西行は秋に訪れ、ススキに実方の風流を見たのだろう(果たして彼はススキを詠っているのか?)。芭蕉の句には、笠島の塚まで行きたくても行けない悔しさがにじんでいる。
p30 藤原実方(さねかた):平安時代中期の公家・中将藤原朝臣実方は和歌に優れた才能があったといわれ、中古三十六歌仙の1人です。 また、源氏物語の主人公・光源氏のモデルともいわれています。 実方は藤原行成とのいざこざから、天皇より陸奥守に任ぜられ陸奥国へ下りました。 ある日、笠島道祖神前を通る時に、神前であるため馬から降りるべきところをそのまま通ってしまい、神罰が下って落馬し この地で亡くなりました。 この非運な死を哀悼して、西行法師や松尾芭蕉、正岡子規が名取の地を訪れており、墓の近くには実方を偲んだ西行の歌碑と 芭蕉の句碑があります。 (名取市観光物産協会)
ここには能因法師が歌に詠んでいる武隈の松がある。能因法師は出家して諸国を放浪するわが国最初の漂泊歌人として知られており、西行や芭蕉も彼に従って旅をしたようである。西行が出家したのも、能因法師の影響があったにちがいない。能因法師が陸奥守として来た時はこの松は無く、「武隈の松はこのたび跡もなし千年を経てや我は来つらむ」と詠んでいるが、その西暦1000年から約700年後(1689年)に芭蕉が訪れたとき、武隈の松は二木の姿で立っていた。岩沼市サイトによると、芭蕉が見たのは五代目の松、現在は七代目の松が立派に立っているようだ。松の寿命は300年から500年、きちんと世話すれば100~200年くらいで代替わりするのだろう。門下の挙白が江戸で詠んだ「武隈の松みせ申せ遅桜」の「遅桜」というのは師匠の芭蕉のことなのだろうか。ともかくこの句が無いと次の芭蕉の句を理解できまい。「桜より松は二木(ふたき)を三月越し」は江戸を発って三ヶ月後に見たのは桜ではなく、二股の松だったということだ。ここで「二木の松」と言わずに「松は二木」と表現しているのが、解説p175の「芭蕉は正格から破格へと表現を推敲した」「(これを元に戻すと)気韻生動が失われる」に当たるのだろうか。
p31 武隈(たけくま)の松:芭蕉が仰ぎ見て、「目覚る心地」を覚えた、根方が二木に分かれた樹形の老松(五代目)と、同様の樹形の松(七代目)が植えられている
p31 能因法師:大学で詩歌を学び漢文学や歴史学といった学問を研究する学者、文章生(もんじょうしょう)となりましたが、26歳の時、養父が郎党に殺害され、官途に望みがなくなりました。幼い子もいたようですが、恋人の死をきっかけとして、官職より歌の道の自由を求めて出家を決意しました。摂津国(せっつのくに:兵庫県)の古曾部(こそべ:今の大阪府高槻市)に住んだので「古曾部入道」とも呼ばれましたが、寺院に定住せず旅に暮らしました。最初の法名は「融因(ゆういん)」でしたが、後に「能因(のういん)」としました。藤原長能(ながとう)から和歌を学び、諸国を旅して歌を詠むわが国初の漂泊の歌人として、東北や中国地方、四国などを旅しています。新しい詠風を拓き、特に受領層の歌人たちを指導しました。能因は和歌を「歌道」ととらえた最初の人物です。彼の生き方に習い、「数寄(すき)」の道を確立し、出家する者が続出しました。後世の86番・西行法師や松尾芭蕉などからも深く敬愛されています。 (さくらのレンタルサーバ)
仙台に入って四五日逗留したのは旧暦5月4日(新暦6月20日)。画工加右衛門は探していた俳人大淀三千風の高弟だから、もちろん芭蕉のことはよく知っていたに違いない。彼に案内してもらって宮城野では萩、それに「あせび」を見ている。東歌の「みさぶらひ御笠と申せ宮城野の木の下露は雨にまされり」というのは、大量に咲いてぶら下がっているあせびから露が雨のように降ってくるので笠をかぶれということらしい。餞別に絵と紺の染緒をつけた草鞋をくれた加右衛門を芭蕉は「風流のしれ者、ここに至りてその実を顕はす」と書いているのは、もちろん誉め言葉。つまり、俳人のはずなのに彼は一句も詠まなかった(もしくは良い句が詠めなかった)のに違いない。「あやめ草足に結ばん草鞋の緒」というのは、句の代わりに紺の染緒の草鞋を送ってくれた加右衛門に対し、同じ紺色のアヤメ草(菖蒲)を草鞋に結んで答えた、ということなのか。とびきりの風流。
p32 画工加右衛門:芭蕉が仙台を訪れたのは1689年旧暦5月4日(新暦6月20日)、4日間滞在。探していた俳人大淀三千風(みちかぜ)に会えず、その高弟の木版彫刻業を営む画工、北野屋加右衛門と知り合うこととなりました。 (edu support office)
p33 あやめ草:サトイモ科のショウブの古名。一方に観賞用のアヤメもある。邪気を祓い、長寿をもたらす植物として見られ、端午の日に薬玉にしたり、カズラにしたりした。集中の「石田王の卒りし時に、山前王の哀傷して作る歌」(3-423)に、5月には菖蒲や橘の花を玉のように緒につらねてかずらにしよう、と歌われている。 (jmapps)
十符の菅(とふのすげ)というのは葉の長い草で、これで十符の菅菰(すげこも)という菅衣を編んでいたらしい。そして芭蕉は多賀城で壺碑(つぼのいしぶみ)を見る。聖武天皇の時代、西暦700年頃だから、芭蕉が旅した1,689年の約1000年前。武隈の松は代替わりしていたが、壺碑は4代目伊達綱村のときに多賀城跡から発掘されたらしい。「昔より詠み置ける歌枕」というのは、たぶん万葉集などに出てくるのだろう。そして、「山崩れ川流れて道あらたまり、石は埋もれて土に隠れ、木は老いて若木にかはれば、時移り代変じてその跡たしかならぬ事のみを、ここに至りて疑ひなき千歳の記念(かたみ)、今眼前に古人の心を閲(けみ)す。行脚の一徳、存命の悦び、羇旅の労を忘れて泪も落つるばかりなり」。万葉の歌でしか知らなかった歌枕の現物を目にした芭蕉の感激。やはり涙もろい人なのだ。
この「末の松山」という地名はグーグル・マップにも出ていて、仙台の東にある。もちろん松が生えていて、その中に「連理の枝を模した相生の松」も何代目か分からないが現存しているようだ。「松のあひあひ皆墓はらにで、翼をかはし枝をつらぬる契の末も、終にはかくのごときと悲しさもまさりて」の、「翼をかはし枝をつらぬる」というのは比翼連理の契りのことで、「二羽一体となって飛ぶ、互いの枝が一本につながっている」という固い恋の契りのこと。「入相の鐘」とは夕暮の鐘。「蜑(あま)の小舟こぎつれて肴わかつ声々に『つなでかなしも』と詠みけん心も知られて、いとど哀れなり」における、塩釜で見た漁師の声から連想した「つなでかなしも」は実朝の「世の中は 常にもがもな 渚(なぎさ)漕ぐ海人(あま)の小舟(をぶね)の 綱手(つなで)かなしも」のことであり、ここは芭蕉というよりも実朝の心情を探る必要がある。現代語訳はいろいろ工夫してあるが、「世の中は変わらずに過ぎていく、漁師の小舟の綱手は悲しいほど頼りなく見える」という意味では? 何かの拍子に世の中はひっくり返ってしまうと、実朝や芭蕉は考えていた。それを「かなし」と表現したのでは? 盲目法師の奥浄瑠璃とは、当時、奥羽地方の盲人たちによって、扇拍子、琵琶、三味線などで語られたとある。一方、平家琵琶(平家、平曲・平家琵琶)は、「平家を語り、琵琶を弾じる」、盲目の琵琶法師たちによって語り継がれてきた八百年続く日本の伝統文化、幸若舞とは、『平家物語』『義経記』『曽我物語』(『敦盛』が有名)といった軍記物語や神仏の縁起といった物語を、拍子を取り、節を付けて謡いながら舞う芸能で、戦国から安土桃山時代に流行ったらしい。 芭蕉はもちろん、そういう平家琵琶や幸若舞にも通じていたはずである。
塩釜神社(塩釜の明神)は岩手県塩釜ではなく、仙台市の西側にある。ここの芭蕉はやや興奮ぎみで、最初は伊達政宗が再興してきらびやかに輝いていた塩釜神社の立派さに感動する:「宮柱ふとしく彩椽(さいてん)きらびやかに、石の階(きざはし)九仞(きうじん)に重なり、朝日朱(あけ)の玉垣をかかやかす・・・・・いと貴(たふと)けれ」。だが、その中に義経に従って死んだ藤原忠衡が寄進した古い宝燈を見て、「かれは勇義忠孝の士なり」「人よく道を勤め義を守るベし。『名もまたこれにしたがふ』」と古人の忠孝を尊ぶ:「神前に古き宝燈あり。鉄(かね)の戸びらの面に『文治三年和泉三郎寄進』とあり、五百年来の俤(おもかげ)今目の前にうかびて、そぞろに珍し。かれは勇義忠孝の士なり・・・・・誠に人よく道を勤め義を守るべし。『名もまたこれにしたがふ』と言へり」。注にある「動モスレバ謗ヲ得、名モ亦之ニ随フ」というのはネットに出ていないので詳細不明。
ここで芭蕉が語る松島の情景は三つ。最初は海と島の情景:「松島は扶桑第一の好風(こうふう)にして、およそ洞庭・西湖を恥ぢず。東南より海を入れて江の中三里、浙江の潮(うしお)をたたふ。島々の数を尽して、欹(そばだ)つものは天を指(ゆびさ)し、伏すものは波に匍匐(はらば)ふ。あるは二重(ふたへ)にかさなり三重に畳みて、左にわかれ右につらなる・・・・」。二つ目は雄島が磯:「雄島が磯は海に出でたる島なり。雲居禅士(うんごぜんじ)の別室の跡、座禅石などあり。はた、松の木陰に世をいとふ人も稀々見え侍りて落穂・松笠などうち煙りたる草の庵閑(しずか)に住みなし、いかなる人とは知られずながら、まづなつかしく立ち寄るほどに、月海にうつりて昼のながめ又あらたむ」。そして芭蕉は川上に戻って宿に入る:「江上に帰りて宿を求むれば、窓をひらき二階を作りて風雲の中に旅寝するこそ、あやしきまで妙(たへ)なる心地はせらるれ」。松島で、芭蕉は興奮と感動のあまり俳句を残せなかった。代わりに曽良の句が載せてある:「松島や鶴に身を借れほととぎす」。松島の絶景の中にいると、わが身があまりに貧しく感じられ、鶴のように着飾りたい、という意味なのだろうか。興奮と感動で眠れない芭蕉は江戸で貰ってきた盟友素堂、原安適、杉風(さんぷう)、濁子(ぢょくし)らの句や歌を取り出し、「こよひの友」にしている。なるほど。これで60ページの約半分。だが、「近代の眼」100ページも残っている。
この寺はもともと天台宗の寺として建てられ、鎌倉時代に臨済宗に改宗しており、そのときの禅僧が芭蕉の言う「真壁の平四郎」法身禅師らしい。そして芭蕉の見た「七堂甍改まりて今癖荘厳(こんぺきしょうごん)光を輝かし仏土成就の大伽藍」に復興したのは伊達政宗らしいが、たぶんそれを知らなかった芭蕉はそこに「雲居禅師の徳化」を感じたのは自然なことだろう。瑞巌寺は松島町内にあり、松島海岸はすぐ近く。見物聖が庵住していたという雄島も近い。「雲居禅師の徳化(とくげ)によりて、七堂甍改まりて今癖荘厳(こんぺきしょうごん)光を輝かし仏土成就の大伽藍とはなれりける。かの見物聖の寺はいづくにやとしたはる」。
p39 瑞巌寺:瑞巌寺は正式名称を「松島青龍山瑞巌円福禅寺」といい、現在は臨済宗妙心寺派に属する禅宗寺院です。9世紀初頭、慈覚大師円仁によって開創された天台宗延福寺がその前身であると伝わっています。13世紀中頃、鎌倉幕府執権・北条時頼公が法身性西禅師を開山として臨済宗建長寺派への改宗を行い、寺名も円福寺と改めています。関ヶ原の戦い後、仙台に治府を定めた伊達政宗公は、仙台城の築城と併せて、領民の精神的拠り所とするため盛んに神社仏閣の造営を行いました。中でも戦国時代を経て衰退していた円福寺の復興には特に力を注いでおり、事業開始にあたり自ら縄張りを行い、平安の昔から「浄土の地」とみなされてきた紀州熊野に用材を求め、畿内から名工130名を招き寄せる等、政宗公の意気込みが感じられます。 (松島観光協会)
芭蕉は松島から平泉に向かうが道を間違え、石巻に入り、数百の船と港の奥にある島を見て「こがね花咲く」と大伴家持が詠んだ金華山を連想する。私は石巻と金華山への定期船が出る鮎川港に行ったことがあるが、柱にあるようにそこからは金華山は見えない。この付近は地形が複雑で狭くて切り立った入江や尾根が入り乱れていて、カーナビがないととても道は分かるまい。「宿からんとすれど更に宿かす人なし」というのが「富貴の地の薄情」であるというのは、注釈の説明がないと分からない。芭蕉はなんとか北のR45沿いの道を見つけ、「戸伊摩」(登米市)で北上川沿いのR4(たぶん当時の奥羽街道)に出て、そこからはたぶん順調に進んだのだろう。「三代の栄耀一睡の中にして・・・・秀衡が跡は田野になりて、金鶏山のみ形を残す」の金鶏山は標高72mで現存している。YAMAPによると頂上には登れるらしい(頂上に祠の写真、標高97、98.6などいろいろ??)。義経が最後に立てこもった高館(たかだち)というのはこの金鶏山と中尊寺の間、北上川の川岸近くの丘の上にある:「さても義臣すぐってこの城にこもり、功名一時の叢となる。『国破れて山河あり、城春にして草青みたり』と、笠うち敷きて時のうつるまで泪を落とし侍りぬ。夏草や兵(つわもの)どもが夢の跡 卯の花に兼房みゆる白毛(しらが)かな 曽良」。中尊寺で芭蕉が訪れたのは経堂と光堂(金色堂):「かねて耳驚かしたる二堂開帳す。経堂は三将の像を残し、光堂は三代の棺を納め、三尊の仏を安置す。七宝散り失せて珠の扉風に破れ、金の柱霜雪に朽ちて既に退廃空虚の叢となるべきを四面新たに囲みて、甍(いらか)を覆ひて風雨を凌ぐ。暫時(しばらく)千歳の記念(かたみ)とはなれり。 五月雨(さみだれ)の降りのこしてや光堂」。ここにはもう、これ以上に言うことは見つからない。高館と、経堂と光堂にも行ってみよう。
尿前の関は今の鳴子温泉付近だから、芭蕉は平泉から少し引き返したことになる。「美豆の小島」のある荒雄川は今の江合川で、R108が大崎市から鳴子温泉まで、R47が鳴子温泉から山形県新庄市に通じている。この道を走ったとき、県境を越える箇所に芭蕉の句碑と休憩所があった。もちろん、芭蕉はそのあたりに泊まり、「蚤虱」に苦しみ、「馬の尿」の音を聞いたのだ。そこから「究竟(くっきょう)の若者」に案内されてたどり着いた「最上の庄」というのはR47沿いにある最上町でも新庄市でもなく、尾花沢市(注には北村山郡とある)だったというから、芭蕉はR47から県道28沿いのルートを南西に下ったのだろう。その道も通ったことがあるが、山奥というイメージ。「大山」というのは一山ではなく、R47と県道28沿いに並ぶ山々(奥羽山766m、大明神山735m、大森山897mなど)だと思うが、一番高いのは私がこのとき登った翁山1,075mのようだ。今では里山。屈強の若者は今の山登りかもしれないが、「この道必ず不用の事あり、恙なう送りまゐらせて仕合せたり」というのは、ジョークのつもりだったのか? 一方、若者と歩き始めたとき、芭蕉は「今日こそあやうきめにもあふべき日なれ」と覚悟していた。だから「後に聞きてさへ胸とどろくのみなり」というのも私はジョークだと思う。本当にそんなに弱気では、こんな旅にでられたはずはない。たぶん芭蕉はスリルを楽しんでいたのではと思う:「高山森々として一鳥声きかず、木の下闇茂りあひて夜行くがごとし。雲端つちふる(p44 雲端につちふる: ( 杜甫の詩「鄭駙馬宅宴洞中」から ) 雲の端から土まじりの風が吹き下って、あたり一面が暗いようなさまをいう。 )心地して、篠の中踏み分けゝゝ水をわたり岩に躓いて、肌につめたき汗を流して最上の庄にいづ」この描写は全くもって山登り、道のないヤブ漕ぎの山登りの表現そのものだ。
芭蕉が尾花沢に行ったのは、清風という俳句の知り合いがいたからかもしれない。「かれは富める者なれど志いやしからず。都にも折々かよひて、さすがに旅の情をも知りたれば、日此(ひごろ)とどめて長途(ちょうど)のいたはいさまざまにもてなし侍る」というから、ずいぶん世話になったのだろう。10日間滞在し、名所旧跡は訪ねず、「涼しさを我が宿」という居心地の良い清風宅にこもり、俳句ばかり詠んでいたらしく、紀行文はなしで俳句が四句。だが、このうち二句は須賀川で作っていたらしい。さすがの芭蕉も、目に映る対象が無ければ、俳句は頭に浮かんでこないらしい。まあ、当たり前だろう。清風は「おくれ双六」という文を残し、江戸では芭蕉らと古式百韻などの俳句会で詠んでいるのに、ここで一句も詠んでいないのは残念。芭蕉のもてなしで良い句を思いつけなかったか? 「涼しさを我が宿にしてねまる(くつろいで坐る)なり」「まゆはきを俤(おもかげ)にして紅粉(べに)の花」。紅の花は果たして「まゆはき」に似てるだろうか? やや怪しい。
この寺には一度、私も訪ねた記憶がある。まだデジカメを持たない時期だったので詳細は分からないが、険しい山道を登った先の小さな寺だったと思う。今はきちんと道が整備されているが、芭蕉の頃は確かに「岸をめぐり岩を這ひて仏閣を拝」むようなところだったのだろう。「松柏年旧り(としふり)土石老いて苔滑らかに、岩上の院々扉を閉ぢて物の音きこえず・・・・・佳景寂莫(じゃくまく)として心澄みゆくのみ覚ゆ 閑さや岩にしみ入る蝉の声」。「物の音きこえず」と言ったときは、芭蕉には確かに何も聞こえていなかったのだろう。それが、周囲の景色に囲まれて心が落ち着いてきたとき、突然、蝉がずっと鳴いていたことに気づいた。この刹那を捕らえることこそが芸術の極の一つなのに違いない。
p46 立石寺:立石寺は、山形県山形市にある天台宗の仏教寺院。山寺の通称で知られ、古くは「りゅうしゃくじ」と称した。詳しくは宝珠山阿所川院立石寺と称する。本尊は薬師如来。 蔵王国定公園に指定されていて、円仁が開山した四寺を巡る「四寺廻廊」を構成しているほか、若松寺と慈恩寺を含めて巡る出羽名刹三寺まいりを構成する
岩登りで立石寺を訪ねた芭蕉は、今度は最上川の川下りに挑戦する。この川下りは今でも行われているが、スリル満点でジェットコースターのようなものだろう。風流を究めるはずの芭蕉がこんな川下りをやるとは・・・。やっぱり怖いもの大好きオヤジだったのか??? 「碁点・隼などいふ恐ろしき難所」はもう一つ、「三ヶ瀬」というのもあるらしい。この前に芭蕉が書いている「芦角一声(ろかくいっせい)の・・・・わりなき一巻」というのは、指導を頼まれて四人(芭蕉、一栄、曽良、川水)で作った句集らしい。その発句が「五月雨を集めて涼し最上川」だったというのはなんとも意外。「涼し」を「早し」に変えたのは、勿論川下りでの体験によるものだが、この発句と句集はそれよりも前に作られたはず(それとも、違うのか?)。まあ、あまり詮索しても仕方がない。ここで心に留めるべきは川下りの描写:「左右山覆ひ、茂みのなかに船を下す。・・・・・白糸の滝は青葉の隙々(ひまひま)に落ちて、仙人堂岸に臨みて立つ。水みなぎって舟あやうし。 五月雨をあつめて早し最上川」。江戸時代に、なんとリアルなスピード感のある句だろう。私は川下りはやるかどうか分からないが、文中に書かれている「板敷山」には是非登り、その頂上から最上川を眺めてみたい。国土地理院の地図には登山道表記は無いが、鉄塔点検路を登れるらしい。さあ、次は出羽三山だ。
p47 難所:三難所とは、村山市の最上川にあり、碁石を並べたように岩が突起する「碁点」、川底に細い岩礁が三層をなす「三ヶ瀬」、岩礁が川底全体をおおい急流になっている「隼」の3つの地点の総称です。この難所付近では昔から数多くの船が難破しました。特に隼は落差があるため急流になっており、上りは船を引かなければ通れませんでした。最上義光は天正八年(1580年)この三難所を開削して最上川舟運を発展させました。
紀行文風の記述で、6月3日に羽黒山に登り、会覚阿闍梨に拝謁。4日、本坊で俳諧興行を8人で行う。芭蕉の句は「ありがたや雪をかをらす南谷」だが、ここには「薫風南ヨリ来ル」という禅林句集の「霊地には異香妙香あり」という背景がこめられているらしい。5日に羽黒神社に詣で、いよいよ8日に月山に向かう。「八日、月山にのぼる。木綿(ゆふ)しめ身にひきかけ、宝冠(頭を包む白木綿)に頭(かしら)を包み、強力(ごうりき)といふものに導かれて、雲霧山気の中に氷雪を踏んで登ること八里、更に日月行道の雲関に入るかとあやしまれ、息絶え身こごえて頂上に到れば、日没して月顕(あらわ)る。笹を敷き篠を枕として、臥して明くるを待つ」という一節は日本百名山で何度も読んだ。「日月行道の雲関」というのは「太陽や月の軌道」のことらしいから、かなり大袈裟。湯殿山に下る途中で鍛冶小屋に寄っている。今の鍛冶小屋はその土台の一部が残っているだけだが、当時は小屋もあり、鍛冶師もいたのだろう。「桜のつぼみ半ばひらけるあり。降り積む雪の下に埋れて春を忘れぬ遅桜の花の心わりなし」というのはミネザクラのことらしいが、「炎天の梅花ここにかをうがごとし」というのも少し大げさな感じがする。そして、羽黒山の宿坊に戻ってから、「阿闍梨の需(もと)めによりて三山順礼の句々短冊(たんじゃく)に書く」。「涼しさやほの三日月の羽黒山」というのは、日中は暑かったが、夕暮になって三日月が出るころには涼しくなったということのように思える。そして「雲の峰幾つ崩れて月の山」は、現代語訳には「山を幾重にも包んでいた白雲がいつの間にか崩れ去って」月山が現われたとあるが、私には「山のように空に浮かんでいる雲の峰がどれだけ崩れれば月山になるのだろう」という待っている心境、もしくは空想のように思える。とにかく、まだ月山は見えていないのだ。
芭蕉は鶴岡で武士の家に泊まり、俳諧一巻を4人で作るが、そのときの句は載せていない。「川舟に乗りて酒田の湊に下る」というのはたぶん(最上川ではなく)赤川だろう。だから芭蕉は山形県内を北に向かっているのだが、酒田で詠んだ句は謎:「あつみ山や吹浦かけて夕すずみ」・・・・温海山は酒田の南どころか山形県の南端にあるから、40㎞以上も離れていて、しかも標高466mしかないから、酒田からはまるで見えないはず。単に「暑い」にかけ、この山に吹浦の風を吹きかけて涼むという洒落、つまり川柳のような句なのだろう。次の「暑き日を海に入れたり最上川」というのもいかにも暑そう。このときの芭蕉はたぶん夏の山形の日中の暑さによほど参っていたに違いない。
芭蕉は酒田から歩いて象潟まで行く。この30㎞は今はR7を車で30分ほどだが、芭蕉は「山を越え磯を伝ひ、いさごを踏みて、その際十里、日影やや傾くころ、汐風真砂を吹き上げ、雨朦朧として鳥海の山かくる」と苦労している。「蜑の苫屋(あまのとまや)に膝をいれて雨の晴るるを待つ」というのは能因上人の「世の中はかくても経けい象潟の海士の苫屋をわが宿にして」を踏んだもので、晴れた翌日にはその「能因島」に行って「三年幽居の跡」を訪れている。芭蕉は舟で島に上がり、その対岸で西行が「象潟の桜は波に埋もれて花の上漕ぐあまの釣舟」と詠んだ桜の老木を見ているが、今はそこはもう島ではなく、陸地になっている。更にその川上で、神功皇后(p53)の御陵のある「干満珠寺」に寄り、そこから芭蕉は鳥海山を見ている:「この寺の方丈に座して簾を捲けば、風景一眼の中に尽きて、南に鳥海天をささへ、その陰うつりて江にあり」。そして象潟の全景も見渡す:「江の縦横一里ばかり、俤(おもかげ)松島にかよひて、また異なり。松島は笑ふがごとく、象潟はうらむがごとし。寂しさに悲しみを加へて、地勢魂をなやますに似たり」。これは地面隆起で象潟の風景がすっかり変わってしまい、そこに「寂しさ、悲しみ、うらみ」を感じたということか。だが、興奮のあまり俳句が詠めなかった松島と違い、象潟では二句を詠んでいる。「象潟や雨に西施が合歓(ねむ)の花」というのは、たまたまネムノキの花が咲いていたのだろう。西施が出てくるのはなぜ? 「汐越や鶴はぎぬれて海涼し」というのは、「つるはぎ」が脛の意味であり、海に立つ鶴を見て涼しさを感じたということだろう。
p53 神功皇后:古代、朝鮮半島を服属下に置いたとされる「三韓征伐」(さんかんせいばつ)伝説を持つ「神功皇后」(じんぐうこうごう)。卑弥呼(ひみこ)と並び、古代日本の象徴的なヒロインのひとりであり、古代日本における女将軍の象徴とも言える人物です。 なかでも、「朝鮮の新羅(しらぎ)を帰服させよとの神託を受けた」ことに始まる「三韓征伐伝説」(新羅征討説話)は、その最たるもので、急逝した夫の仲哀天皇に代わり、神功皇后は女将軍として軍を率いて朝鮮半島に出兵。見事、新羅を征し、百済(くだら)、高句麗(こうくり)の三韓を帰服させたと伝わります。このエピソードは伝説の域を出ないものではありますが、古代日本の歴史を大きく彩る事柄です。興味深いのは、神功皇后だとされる絵画には、刀剣や弓矢を持った姿がはっきりと描かれていること。彼女自身、刀剣や弓矢で戦った女武将だったのでしょうか?(刀剣ワールド)
芭蕉は酒田から南に北陸に向かう。できればここから秋田、青森まで歩いてほしかったが、そうもいくまい。この間、山形南端の鼠の関から新潟西端の市振の関まで290㎞を(滞在日を除き)9日間で歩いているが、病気のため紀行文はなし。その代わりに句を二つ。「文月や六日も常の夜には似ず」というのは、特別の日である7月7日の前の7月6日の夜空もいつもの夜空とは違って見えたということらしいが、冒頭に「北陸道の雲に望む」とあるから、おそらく晴れて、満天の星座が見えていたのではあるまいか。山の中の真っ暗な夜に空が晴れていると、満天の星にいつも目が釘付けになる。そして「荒海や佐渡によこたふ天河」。新潟の米山SAにはこの句を刻んだ芭蕉の句碑があり、盛りだくさんの案内もある。おそらく新潟の俳句師たちにとっては、この句は至宝なのに違いない。この日も夜空は晴れて満天の星空に天の川がくっきり見えていて、それを海岸に打ち寄せる波の音、それに強い風の音を聞きながら眺めたのだろう。佐渡は暗い海の上の黒いシルエットで、視角的にそれほど大きくないのではなかろうか。しかし、「佐渡によこたふ」というフレーズは流人はじめ、様々な連想を引き起こす。だが、この句の魅力は読んだ時に即、夜の海の上に輝く天の川の情景が頭の中に想起されることではなかろうか。一種のパワーをもつ句だと思う。
p55 鼠の関から市振の関まで290㎞
芭蕉が越えた難所の「犬戻、駒返、親不知、子不知」は東からこの順と注にあるが、ネットでも確認できない。なお、北陸道のトンネルは東から子不知トンネル、親不知トンネルと逆になっている。同じ宿に遊女が泊まっていて、伊勢神宮にお参りに行く途中だが、同行していた老人が里に帰るので、芭蕉たちに同行させてくれと頼んできたが、芭蕉たちはこれを断わった。「我々は所々にてとどまる方おほし」という拒絶理由は、遊女を伴っていると宿の主人に迷惑がかかるということだろうか。確かに、芭蕉の知人宅に遊女を泊めれば妙な噂が立ちかねないから、そうすることはできないのだろう。つまりこれは、人付き合い、処世術、いや、当時の世の習わしに従ったということか。当時の僧侶、寺院の中には、こういう遊女たちをも救おうという人物や組織はあったのだろうか。少なくとも伊勢神宮は(参拝だけかもしれないが)受け入れていた訳だ。「一家(ひとつや)に遊女もねたり萩と月」という句は、この前段の経過が無くては意味が通るまい。「萩と月」というのは、遊女たちと別れて道を歩いているときに見たのだろう。萩のピンクの花は(マルバハギなど)山道でよく見かける。びっしり咲いていると豪華で、遊女のような感じに見えたのかもしれない。
「黒部四十八ヶ瀬」はたぶん今はもう無く、堤防工事などで黒部川は黒部市の中央を1本で流れている。ネットを見ると、今の1本川に纏められる前に、様々な治水工事が行われたらしい(*)。「那古という浦」は今は射水市、「担籠の藤浪」は氷見市というから、どちらも富山市の西側、高岡に近い。芭蕉たちはこれらの海岸沿いに行かずに、内陸の道をたどって(たぶん富山市から高岡市に、今の北陸道と同じに)加賀に入ったのだろう。「早稲の香や分け入る右は有磯海」というのは、意外に山越えになっている富山市から高岡氏の道を草木を分けて登っているときに、平野の稲の香が漂い、右手に富山湾が見えたということではなかろうか。北陸道の高架橋から富山湾はそれほど近くには見えないから、芭蕉たちの辿った道は比較的海に近かったのではないだろうか。もう一つ、「有磯」という地名は高岡市、つまり富山湾の西側に位置するようだが、今や「有磯海」といえば北陸道の「有磯海SA」であり、これは富山市よりも東側、SA上りは滑川市、SA下りは魚津市にある。だから芭蕉の句を読むと、どうしても「有磯海SA」を連想してしまう。まあ、富山湾全体ということにしておこう。
(*)p57 黒部川の歴史:江戸時代には安定した農業用水を確保するために椎名道三の指揮により、逆サイフォンの原理を応用した技術など当時としては高度な技術を用い、十二貫野用水が造られました。明治時代には、オランダ人技師ヨハネス・デ・レーケの設計による小摺戸堤など14か所の「霞堤」が各所に造られ、治水に大きな役割を果たしています。
「卯の花山」「くりから峠」というのは小谷部市と金沢の境界にあり、卯の花山というのはどの山なのか分からないらしい。8月末だからまだ暑かっただろう。一笑という俳人が金沢にいて、芭蕉の来訪を心待ちにしていたのに、前年に36歳で死んでいた。この悲報に対する芭蕉の句は驚くばかりの悲しみに満ちている:「塚も動け我が泣く声は秋の風」。芭蕉も会うのを楽しみにしていたのに、つい半年前に若くして死んでしまい、会えなかったのがよほど悲しかったのだろう。金沢での芭蕉の感性は活発で4句も詠んでいるのは、そういう環境、風景のためではなかろうか。「秋涼し手ごとにむけや瓜茄」というのは前作から一気になごんで家庭風。「あかあかと日はつれなくも秋の風」というのはたぶん歩いているときの句で、西日の夏の太陽に耐えながら歩く芭蕉が目に浮かぶ。彼の顔は秋風を感じて元気をだそうとしている。私も夏山を登っている時、この秋風に何度助けられただろう。「しおらしき名や小松吹く萩すすき」:今では「小松」と言えば重厚な大型機器や車両を連想するが、芭蕉の頃は単に「小さな松」というイメージだったのだろう。萩(マルバハギやヌスビトハギ)は山道で見かける花だが、当時の街道はまさに山道で、萩やススキが延々と続いていたのだろう。
p58 卯の花山: 芭蕉は越中から卯の花山や倶利伽羅峠を超えて金沢に入った。この「卯の花山」は古来歌枕の地とされてきたが、実際のところ、どこが「卯の花山」なのか、よく分からない。北国街道の富山と石川の県境には300メートル足らずの山地が横たわる。一般的に倶利伽羅峠と呼ばれる山地であるが、尾根部分が細く痩せていたり、険しい道筋があったりして、天然の要害地となっていたようだ。地名としては「倶利伽羅峠」「倶利伽羅山」のほかに「砺波関」「砺波山」「卯の花山」「矢立山」などがあり、それぞれ由緒ある地名であるが、混然と使用されてきた。「倶利伽羅峠」のことを単に「砺波山」と呼ぶいうこともある。また峠を関所に擬して「砺波関」とした例もある。現在の地図では、峠にある標高277メートルの特定の山を指して「砺波山」としている。「砺波山」の異称として「倶利伽羅山」「卯の花山」がある。「矢立山」は別の山で、「砺波山」の500メートル東にある。 (すさまじきもの、歌枕探訪)
小松市内にある多太神社には斎藤実盛の甲(かぶと)が奉納してあり、この源氏と平氏に仕え、幼時に救った木曽義仲に討たれた忠義の士を芭蕉は、その甲の立派さを褒めることで賞讃しているように思える。実盛はただの兵士ではなく、その忠義の行動はきらめき、強靭だった。「むざんやな」と言ったのは義仲の家臣の樋口次郎。「むざん」には三つの異なる意味があるが、ここでは「いたましい」「あわれ」しか考えらえない。だが、実盛自身は、信念を全うし、73歳まで生き、案外充実した人生だったのではと思える。「むざんやな甲(かぶと)の下のきりぎりす」:だが、生前は大活躍した見事なかぶとの下できりぎりすが鳴いているのを聞けば、確かに「あわれ」を感じるだろう。
p59 実盛:平安時代末期に活躍した武士。久寿2年(1155)、源義平が叔父源義賢を討った大蔵館(嵐山町)の戦いでは、義賢の子で2歳の駒王(後の木曽義仲)を保護し、木曽に送り届けたといいます。保元の乱、平治の乱では、源義朝につき活躍をしました。その後は、平家との結びつきを強くし、平家領である長井荘の荘官となったようです。治承3年(1179)には、妻沼聖天山を開いたとされます。源平の合戦(治承・寿永の乱)では、一貫して平家方につきます。治承4年(1180)の富士川の戦いでは、「東国の案内者」として、東国武士について進言したといいます。寿永2年(1183)、篠原の戦いで、味方が落ちていく中ただ一騎踏みとどまり、幼い頃助けた木曽義仲軍に討たれます。黒髪に染めた実盛を見た義仲は、さめざめと泣いたと伝えられます。実盛の子、宗貞・宗光も、平家への忠誠を貫きました。実盛の言により、平清盛の嫡孫平維盛に妻子の警護を命じられ、子の平六代に最後まで仕えたとされています。 (熊谷デジタルミュージアム)
p60 むざん:1 (無慙・無慚)仏語。戒律を破って心に少しも恥じるところがないこと。「放逸—」「破戒—」. 2 残酷なこと。乱暴なこと。また、そのさま。 3 いたましいこと。あわれなこと。また、そのさま。「—な最期を遂げる」「見るも—な光景」(goo辞書)
芭蕉が訪れた観音堂と、奇石や萱葺の小堂が岩の上にある「那谷(なた)」というところは、今では那谷寺という立派な寺と庫裡公園という兼六園に並ぶ名庭園になっている。山中温泉というのは私が冨士写ヶ岳に登った後で寄った温泉で、久谷ダムに行く途中にある。たぶん芭蕉は車裡公園の小山岳風景を見て句を詠んだのだろう。是非、白山に登ってほしかったが、立山も素通りして、まるで詠んでないのは、たぶん雲がかかっていたためか。実に残念。「石山の石より白し秋の風」:庫裡公園の写真を見ると、確かに白い山肌が見える。そのとき冷たい風が吹いてきて、秋を感じたのだろう。夏日の暑い日であったなら、なおさらそう感じるだろう。
ここで芭蕉たちは山中温泉に入る。私が入った時は知らなかったが、有馬温泉に次ぐ効用のある温泉とのこと。「山中や菊を手折らぬ湯の匂」というのは、注にある芭蕉の前書き「慈童が菊の手折りもしらず」によれば、効用のための菊の花を入れなくても効き目があるということらしい。「皮肉うるほい、筋骨に通りて、心神ゆるく、偏に顔色をどどむるここちす」というから、余程心地よかったのだろう。俳句の名人だったらしい父をもつ14歳の温泉の主人、久米之介に「桃妖」という号を与えたのは、彼が句を詠んだからではなく、見事な温泉を維持しているからだろう。この後、久米之介は俳句を詠むようになったのだろうか。そして、曽良が腹を病んで先に伊勢に発ってしまう。これは芭蕉にとって辛く、悲しい別れだったに違いない。「行き行きて倒れ伏すとも萩の秋」という曽良の句は、和訳にある「行きだおれるとしても萩の中で死にたい」という意よりも、これまで何度も「秋」と「萩」を詠んできた芭蕉を忘れない、遠く離れても心は共にいる、という意味ではなかろうか。芭蕉の「隻鳧の別れて雲に迷ふがごとし」というのは、頼りにしてきた曽良がいなくなってしまう、こいつは困った、という困惑の表われだと思うが、芭蕉はすぐに気持ちを引き締め、新たな決意をする:「今日よりや書付消さん笠の露」。書付とは「乾坤無住同行二人」という、共に二人で修行を続けるという、二人の約束であるらしい。それを消すということは、曽良に頼らず、自分一人でなんとか進もうという決意表明に外なるまい。
p61 有馬温泉:有馬温泉は、兵庫県神戸市北区有馬町にある日本三古湯の温泉。枕草子の三名泉にも数えられた。また、室町時代には万里集九が草津温泉や下呂温泉とともに「三名泉」とし、江戸時代には林羅山もこれらの三温泉を「天下の三名泉」と記した。江戸時代の温泉番付では当時の最高位である西大関に格付けされた。瀬戸内海国立公園の区域に隣接する。 ウィキペディア
p61 菊の効用:9月の湯船を彩る植物は、菊の花。カンフェンという精油成分が含まれている菊の花は、肩こりや腰痛、筋肉痛などの体の痛みを緩和するとされています。また保温効果が高く、血行を促進して老廃物の代謝も促してくれる効果が期待できるので温活にもぴったり。夏の疲れが残る身体を癒したい方に最適です。中国では「厄を払う長寿の薬草」と呼ばれる菊は、薬湯のほかにもお茶やお酒にも使われることもあるそうです。 (おふろのじかん)
p62 乾坤無住同行二人:天地の間、安住する場所はどこにもない。ただ【仏】とともに二人で修行を続けるという意 、順礼書の文書
この寺は福井県(越前)との境に近い大聖寺町にある。ここはもちろん深田久弥の故郷であり、文化館もあるのだが、私は不敬なことにまだ訪ねたことがない。一度行かねば。全昌寺というのはこの町の中にあり、前夜、曽良も泊まっていて、句を残していた:「終宵(よもすがら)秋風聞くや裏の山」。全昌寺は町の中の寺だから、裏山があったとしても大きくはないだろう。眠れなかったのは腹の痛みのためか、それとも別れの寂しさのためか、いやたぶん、残してきた芭蕉のことが心配で眠れなかったのだろう。師はいま、あの裏山を歩いているかもしれない、怪我はしていないか、ちゃんと食事はとったか・・・・。「秋風」とは師のことか? その全昌寺というのも大きな寺のようで、若き僧が夜明け前から読経し、食事も作る。旅立つ芭蕉を追いかけてきて句を求めたのは、勿論、彼が有名な俳句師と知っていたから、もしくは、旅立つ直前に誰かに教えてもらったのか。「庭掃いて出でばや寺に散る柳」というのは、注に、寺院に宿泊して去るときは清掃して謝恩するのが慣習とあるから、芭蕉は清掃してから出立してきたに違いないが、たぶん芭蕉が清掃したのは宿坊の庭であり、柳の花がたくさん落ちている参道ではなかったのではなかろうか。庭をきれいに掃いて出て来たのに、寺の入口のあたりは柳の花でいっぱいだ(どうしよう)、という問いかけの句であり、勿論、句を頼んだ若い僧たちは芭蕉にはやらせず、自分たちで清掃したに違いない。「奥の細道」はあと5章。解説は30ページ、「近代の目」は100ページ強。あと2ヶ月強、9月かな。
大聖寺から越前(福井)に入ったところに北潟湖という海べりの湖があり、それを渡った対岸に汐越の松がある。「終宵(よもすがら)嵐に波をはこばせて月をたれたる汐越の松」というのは、濡れた松が月の光で輝いている様の描写らしい。水路で繋がっているとはいえ、海岸からは1㎞強離れているから、波をかぶることはないと思うが、「月をたれたる」というのはびっしょり濡れている松が月あかりに輝いている感じなのか。曽良と別れた金沢からついてきた北枝(ほくし)は加賀藩御用の研刀師で、芭蕉に入門して加賀蕉門の中心になったという。「所々の風景過ぐさず思ひつづけて、折節あはれなる作意など聞こゆ」という北枝には相当の素養があったことが伺えるが、北枝の心を掴んだのは、まさにこのときの芭蕉の句だったのかもしれない。「物書きて扇引きさくなごりかな」というのは、それまで旅の句を書きつけてきた扇を引き裂いて相手に渡したということか、それとも、共に旅の句を詠んで書きつけてきた扇を引き裂くような思いで分かれたということか。ともかく、北枝との数日間の句の旅が名残惜しいという芭蕉の気持ちがこめられていると思う。
福井で等栽という隠士の知り合いを訪ねると、「あやしの小家に夕顔・へちまの延えかかりて、鶏頭(ニワトリの頭ではなく、植物のケイトウだろう)・帚木に戸ぼそをかくす」ところに存命で、二晩泊めてもらい、敦賀まで同行。等栽の家と妻のことを書いているのは、「昔物語にこそかかる風情は侍れ」と感じたから。これに比べると、その後の等栽本人との再会は書くに足りないという訳だ。「裾をかしうからげて路の枝折と浮かれ立つ」というのは、下男のように裾をあげ、道案内をしようということらしい。「白根が岳かくれて、比那が岳あらはる」というのは、白山2702mが見えなくなって日野山794mが見えてきたということらしい。これは私が北陸道で福井を通るときにいつも見ている「あの山」なのだろうか。高くなくて、カーナビにも名前が出ていない山である。南条SAのすぐそば。道もあるようだから、いつか登ってみよう。福井から敦賀までは山越えだと思うが、芭蕉と等栽は四行で通過している。「鶯の関の跡」も南条SAの近くにあるらしい。
p66 枝折(しをり):山道などで、木の枝を折りかけて帰りの道 しるべとすることだが、転じて、道案内とか目印、さらには書物の読 みかけのところに挟んで目印とする紙片を指すこともある。
敦賀の宿の主人に翌日の天気を尋ねたのは翌日が十五夜だったから。今なら翌日の天気は気象庁予報でほぼ100%分かるが、芭蕉の頃はそうはいかない。酒を飲んでから気比神宮にお参りに行ったのは晴を祈願するためなのか。遊行上人が自ら池沼を埋め立ててこの神宮の参道を改修したことから「遊行の砂持」という行事が行われていて、白砂を神前にまいている。この夜は月あかりでその白砂が輝いていた:「松の木の間に月のもり入りたる、お前の白砂霜を敷けるがごとし」。これはその後の句「月清し遊行の持てる砂の上」よりも輝いているように感じる。当時の上人にとっては後の句のほうがありがたいのだろうが。そして、「亭主の詞(ことば)にたがわず雨降る」。「名月や北国日和定めなき」というのは、雨が降ったにもかかわらず、そそらく月はおぼろげながら見えていたのであろう。しかしそれは前日の「白砂霜を敷けるがごとし」ではなかった。芸術とは結局、自然の営みや天候によっていくらでも左右されてしまうものなのか。風景が何も見えないのでは、絵も描けず、俳句も語れまい。
敦賀から7里あるという「種(いろ)の浜」というのは、今では「色浜」、法華寺の本隆寺も現存。敦賀発電所の近くにある。西行が拾ったというチドリマスオ貝は色浜でなくても拾える貝らしい。それはともかく、海上七里を人や弁当、酒を揃えて渡った「天屋何某」という回船問屋も俳人だったらしいが、このとき芭蕉を乗せたのがそのきっかけだったのか? おそるべき俳句の人脈というべきか。なにも無い浜の寺で、「茶を飲み酒をあたためて夕ぐれのさびしさ感に堪へたり」という遊興の境地に到れたのは、とにかくこの「天屋何某」のおかげである。芭蕉はおそらくかなり飲んで酔ったに違いない。「寂しさや須磨に勝ちたる浜の秋」というのはたぶん源氏物語を知らなければ分からない句だと思うが、「寂しさ(=侘しさ)」が須磨に勝ると言い切るのは、酔いが回っている証拠ではなかろうか。なにせ、曽良と二人きりではなく、寒村とはいえ、大勢で酒を酌み交わしているのだから。「波の間や小貝にまじる萩の塵」というのは、萩の赤い花びらがたくさん海岸に打ち寄せられていた情景だと思うが、これで確かに、芭蕉は海岸に入って貝を拾ったことが分かる。等栽の句「小萩ちれますほの小貝小盃」の方はまったく寂しくなく、拾ったチドリマスオ貝を盃にして酒を飲み、おおいに楽しんでいるところが思い浮かべられる。その盃には萩の花びらもついていて、これまた風流。
敦賀から芭蕉は内陸に向かい、美濃の大垣に馬も使って行く。大垣は伊吹山の南に位置しているから、敦賀から山越えで琵琶湖の湖畔や伊吹山の麓を通ったはずだが、記載はなにも無し。たぶん天気が悪かったのだろう。この最後の旅では蕉門の弟子たちがたくさん集まり、さながらお祭りさわぎのような賑わい。露通、曽良、越人、如行、前川子、荊口父子、木因、怒風と九人集まったらしい。「蘇生の者に会ふがごとく」は大袈裟に感じるが、当時は一度別れてしまうともう会えないことも多かったのだろう。「且つ悦び且ついたはる」というのは昔も今も同じ。芭蕉到着は8月21日以前、二週間強、大垣に滞在し、そして9月6日に舟で伊勢に向かう。「蛤のふたみにわかれて行く秋ぞ」には、これが最後かもという思いで旅立った奥州への旅が終わってまだ二週間なのに、再び旅に向かうという強い決意が感じられる。「蛤のふたみにわかれて」というのは、旧交を温めるのは最終目標ではなく、自分の分身、共に俳句をたしなむ者を各地に育み残していくということではなかろうか。
ここには伊賀の中流農民の次男として生まれた芭蕉が29歳で江戸に出て(*1)、バナナの木に似た芭蕉が生えていた深川の草庵で身を立て(*2)(*3)、火事で草庵を失ったことを契機に旅の人生を送るようになり(*4)(今の私みたいだ・・・・ちょっと違うが)、最後に奥羽路に旅だつまでを語っている。当時の俳諧における人脈を主体に記載され、原文での引用が多く、解説にしては全然読みやすくない、というか、芭蕉の没後、長らく行方不明になっていた「奥の細道」原本や曽良の書いた資料などが近年になって見つかり、「奥の細道」の全体像がかなり明らかになったということを強調したいらしい。確かにこの本の中には、源氏物語の記述との関連、当時の日本における俳句のひろまり、芭蕉の生みだした蕉門、その日本各地への伝承、逸材の発見など、事実関係の詳細な考証を語っていると思われる。一方、そういう芭蕉の俳句生涯はどうだったのか、解説者としてはどう思うのかという意見は語られていない。芭蕉には多くの門人、俳句の知人があり、奥州への旅でもそういう知人を頼っている。一方、そういう人脈、同じ蕉門の中にも派閥ができ、師匠の芭蕉にも好き嫌いはあったようである。まあ、そんなことは人の人生にはつきもので、何かの都合やきっかけで人は疎遠になり、また親密になるものだ。それにしてもここで語られる多くの俳句師たち、曽良はともかく、一番信頼していたらしい去来、大垣では最初世話になり、やがて疎遠になった木因、深川に住んでいた杉風(さんぷう)など、どういうキャラクターであったのか、気になって仕方がない。どこかにそういうことを書いた本、いやネット・サイトがあるだろう。芭蕉の去来への遺言:「今日我病しきりなり、汝日ごろ此の集の求め深し。今将(はた)そこに譲りなん。不思議にも長らうるためしもあらば、写しとどめて本の書を返すべし。書は兄の慰みにとて故郷に残し置きぬれば、つとつとに謂送るなるべし」。51歳で死ぬとは、早すぎる。
(*1)p148「29歳・・・俳諧師として立つ決意を固め、門出に自選の句合『貝おほい』を奉納し、江戸に下る」
(*2)p148「37歳・・・・日本橋小田原町・・・を引き払って深川の草庵に移る・・・庭前の芭蕉は人呼んで草庵の名となり、やがて彼の俳号となった。」
(*3)p149「草庵生活の貧困を漢詩文の閑寂隠逸の世界に見立てて『わび』の詩情に昇華する独自の俳風を生み出した。蕉風の変遷は入庵翌年の『次韻』から」。去来「・・・『虚栗』生じて『次韻』かれ、『冬の日』出て『虚栗』落ち、『冬の日』は『猿蓑』におほわれ、『猿蓑』は『炭俵』に破られたり」
(*4)p149「2年後、芭蕉庵は江戸の大火で焼失・・・以後・・・終生の旅人を任ずる身となった・・・」
p151 爰に至りて(ここにいたりて)
p159 跋(バツ):跋 (ばつ). 書物や書画の終りに,その来歴や編著の感想・次第などを書き記す短文。あとがき。跋文,後跋(こうばつ),後序ともいう。そのほか後世につけ加えたりしたもの ...
「題号」「主題」「構成」「文体」を論じた白石悌三氏の解説は「奥の細道」と芭蕉をとことんまで深く研究したものだが、決して白石氏独自のものではなく、様々な文学者や歌人たちの永年にわたる調査研究の粋といったものだろう。「題号」については、在原業平の文に出てくるらしい「蔦の細道」という歌枕が静岡にあるらしい。白石氏はこの類似性を指摘すると共に、業平の旅が「望郷を本意とする、あくまで定住世界である都を前提」にしていたのに対し、芭蕉の旅は、「主題」で述べられている「日々旅にして旅を栖とす」であったと指摘する。「主題」で白石氏が示すもう一つは「『浮生ハ夢ノゴトシ』という無常観を切り捨て・・・・『日々旅にして旅を栖とす』る仮住の生」を芭蕉が追求していたということ。つまり、芭蕉は江戸や京都が自分の故郷とは思わず、かつ幻想世界にも逃げず、現実の旅で出会うものを追求したということ。しかし、こういう生活には限界がある。「奥の細道」では春から秋までの156日間、半年弱、いつかは自宅に戻らねばならない。白石氏の指摘で一番衝撃的なのは「奥の細道」の紀行文には現実とは異なる創作が多々混じっているというもの。旅の日付や地名などに間違いが多いことは注釈がいくつも指摘しているが、①曽良の「剃り捨てて黒髪山に衣更」、②市振における「一家に遊女もねたり萩と月」、③那須の「かさねとは八重撫子の名なるべし」などは芭蕉の創作、逆に、白河と松島で読んだ俳句は「奥の細道」には載せなかった:「早苗にも我が色黒き日数かな」「西か東か先づ早苗にも風の音」「島々や千々に砕けて夏の海」。別にノン・フィクションの紀行文であると述べている訳ではないから、フィクションの部分があってもそれは作者の勝手であろう。だが、どこまでが本当で、どこが創作なのか、読者としてはかなり気になる。「構成」のところでは、鴨長明の紀行文「海道記」「東関紀行」を参考にしたのではないかという指摘。「行く春」から「行く秋」へ、表日本から裏日本へ、「松島は笑ふが如く、象潟はうらむがごとし」などの仕掛けや対照、そしてその中心に「夏草や」の絶唱がある、という指摘。白石氏の選ぶ芭蕉の最高作はどうもこの句らしい:「年々枯れては甦る夏草に、滅びて悠久の時間に生きる兵士の夢を幻視したこの句が、高館を歌枕ならぬ俳枕として不変のものにした」。「文体」では最初に、旅立ちが語られる「旅立」と「白河の関」における情景描写「上野谷中の花の梢」「風景に魂うばはれ」などは創作という指摘。江戸の花はすでに散り、白河では霧雨だったらしい。だが、その後の白石氏の指摘は実に奥深いものばかり。(1)「旅立」には源氏物語「須磨」の俤が濃い、(2)「松島」における風景描写の破格語法「東南より海を入れて・・・・浙江の潮をたたふ」「枝葉汐風に吹きたわめて」、(3)漢文訓読の語法「羈旅辺土の行脚、捨身無常の観念・・・」「行脚の一徳、存命の悦び・・・」、(4)提示語をたたみかけながらそれを受ける言葉を外した「気韻生動」の文:「もし生きて帰らばと定めなき頼の末をかけ」「疑ひなき千歳の記念、今眼前に古人の心を閲す」、(5)上下にかかって文章が運ばれる語法「春立てる霞の空に・・・・」「白河の関越えんとそぞろ神のものにつきて」。最後の白石氏の指摘は、当時の芭蕉は「かるみ」、つまり「古典的な俤や観念的な情をできるだけ排除し、素直な叙景叙事を追求しようとしていたが、「奥の細道」はこの理念には「甚だそぐわない」こと、そしてこれが最後の作品となったため、「かるみ」は追求できなかったとしている。ずいぶん頭の中が豊かになったような気がする。ありがたいことだ。
p165 題簽(だいせん):書物の名を書いて表紙にはる紙・布。
p165 歌枕:歌の表現技巧の一つで、現在では、古来多くの歌に詠みこまれた名所、地名のことを指します。 歌を詠む人も、その歌を読む人も、歌に詠まれた名所を実際には見たことがない場合も、その地名によって共通に思い浮かべられてきた一つの風景です。
p165 宗祇の白河紀行:室町後期の連歌師・古典文学者。紀州和歌山の生れ。別号、自然斎・種玉庵・見外斎。連歌を宗砌 ・専順・心敬らに、和歌を飛鳥井雅親に、故実を一条兼良に学び、東常縁(とうのつねより)から古今伝授を受けた。三条西実隆とも親交。北野連歌会所奉行および将軍家師範。 西行や能因法師と並んで芭蕉が最も尊敬していた詩人の一人。古典文学に関する高い教養を持ち、在来の連歌の上に古今和歌集の幽玄さを加えて連歌の革新を図った。折しも、応仁の乱から戦国時代にかけて大名が各地に割拠するようになると、畿内の諸大名は言うに及ばず、周防の大内・越後の上杉、若狭の武田氏など成り上がりの戦国大名らは京の文化教養への憧憬を宗祇の提唱する連歌革新の中に見つけた。そのために宗祇は全国各地から招かれて、旅する連歌師ともなったのである。芭蕉が憧れた旅に死す 生き方はこういう時代の中で育まれたものである。有心(うしん)連歌を大成。連歌の古典『新撰菟玖波集 』を編集した。 1502年、越後から美濃に向かう旅の途次、箱根湯本で死去。静岡県裾野市桃園定輪寺に葬られた。 連歌作品として『水無瀬三吟百韻』、『湯山三吟百韻』、『葉守千句』、『吾妻問答』、『浅茅』。句集に『萱草(わすれぐさ)』『老葉 (わくらば)』、『下草(したくさ)』など、紀行文に『白河紀行』、『筑紫道記』など。
p165 宗因「松島一見記」:西山宗因:江戸前期の連歌師・俳人。談林派の祖。肥後の人。名は豊一とよかず。別号、西翁・梅翁など。里村昌琢に連歌を学び、主家加藤侯没落後、大坂天満宮の連歌所宗匠となった。俳諧では自由軽妙な談林俳諧を興し、門下に井原西鶴などを輩出。編著「宗因連歌千句」など。
p171 季吟:北村季吟:江戸時代前期の俳人、歌人、古典研究家。名は静厚、通称久助、慮庵・七松子・拾穂・湖月亭などの号がある。寛永元年(一六二四)十二月十一日生まれた。近江野洲郡北村(滋賀県野洲郡野洲町北)出身。祖父宗竜は医学を曲直瀬道三に、連歌を里村紹巴に学んだ文化人、父宗円も医者で連歌を嗜んだが、次男のため京都に出、長子季吟の出生は京都粟田口とされる。季吟は十六歳で安原貞室門に入り、俳諧の手ほどきを受けたが、十九歳のころ松永貞徳の直門となり、俳諧・和歌・古典研究の指導を仰いだ。貞徳没後は最初の師貞室のもとを離れ、明暦二年(一六五六)、祇園社社頭で宗匠披露の誹諧合を興行(『祇園奉納誹諧連歌合』)、独立した。時に三十三歳、貞徳の古典学にひかれ、俳諧に古典の知識を導入して新境地を開拓、門弟も漸次多きを数え、特に東本願寺門跡、伊勢久居の藤堂侯、公卿など上層階級の人々も多かった。一方これら門弟にしばしば古典の講釈を行い、これを基にして数多くの注釈書を完成した。俳書には、『山井』『師走の月夜』(『独琴』)・『いなご』『埋木』『新続犬筑波集』『十会集』『廿会集』『続連珠』など、古典注釈書には、『大和物語抄』『土佐日記抄』・・・・・
p173 俤(おもかげ)
p175 推敲(すいこう)
p25 栗の花「世の人の見付けぬ花や軒の栗」
p26 黒塚:二本松より右にきれて、黒塚の岩屋一見し、福島に宿る
p27 しのぶもぢ摺の石:「早苗とる手もとや昔しのぶ摺」
p31 武隈の松:「桜より松は二木を三月越し」
p34 十符の菅菰(すがこも):「今も年々十符の菅菰を調へて国守に献ずといへり」
p34 壺碑(つぼのいしぶみ):「つぼの石ぶみは高さ六尺余横三尺ばかりか.苔をうがちて文字幽かなり」
p35 末の松山:末の松山は寺を造りて末松山といふ.
p36 塩釜神社:早朝、塩釜の明神に詣づ.
p38 雄島が磯:地つづきて海に出でたる島なり.
p40 雄島(見物聖が庵住していた)、瑞巌寺、松島
p41 金鶏山:平泉館の西、秀衡が平泉鎮護のため金鶏を埋めて富士山の形に築いた山
p42 経堂と光堂:かねて耳驚かしたる二堂開帳す.経堂は三将の像を残し、光堂は三代の棺を納め、三尊の仏を安置す
p45 紅粉(べに)の花:「まゆはきを俤(おもかげ)にして紅粉の花」
p53 能因島:「まづ能因島に舟を寄せて三年幽居の跡を訪ひ・・・」今は陸地
p58 くりから峠:歌枕、木曽義仲が平家を追い落とした古戦場
p59 多太神社:多太の神社に詣づ.実盛が甲・錦の切あり
p60 那谷寺(なた):山際に観音堂あり・・・大慈大悲の像を安置して那谷(なた)と名付け給ふとなり
p60 那谷寺庫裡公園の石山:「石山の石より白し秋の風」
p62 全昌寺:大聖持の城外、全昌寺といふ寺にとまる
p63 汐越の松:終宵嵐に波をはこばせて月をたれたる汐越の松(西行ではなく蓮如上人)
p63 北潟湖:越前の境、吉崎の入江を舟に掉さして汐越の松を尋ぬ
p63 柳の花:折節庭中の柳散れば、庭掃いて出でばや寺に散る柳
p64 天龍寺:丸岡(松岡が正しい)天龍寺の長老、古き因あれば尋ぬ.また金沢の北枝(ほくし)といふ者、かりそめに見送りてこの所までしたひ来る
p65 帚木:あやしの小家に夕顔・へちまの延えかかりて鶏頭・帚木に戸ぼそをかくす
p66 日野山:漸(ようよう)白根が岳かくれて比那が岳あらはる
p66 鶯(うぐいす)の関:鶯の関を過ぎて湯尾峠と超ゆれば燧が城、帰山に初雁を聞きて十四日の夕暮敦賀の津に宿を求む
p67 気比神宮:あるじに酒すすめられて、気比の明神に夜参す
p68 チドリマスオ貝:空晴れたれば、ますほの小貝拾はんと種(いろ)の浜に舟を走らす
p68 本隆寺:浜はわづかなる海士の小家にて侘しき法華寺あり
p69 須磨海岸:寂しさや須磨に勝ちたる浜の秋
p69 大垣:美濃の国へ・・・駒にたすけられて大垣の庄に入れば、曽良の伊勢より来たり合ひ、越人も馬をとばせて如行が家に入り集まる
p148 芭蕉:日本橋小田原町・・・を引き払って深川の草庵に移る・・・庭前の芭蕉は人呼んで草庵の名となり、やがて彼の俳号となった。
p165 蔦の細道=宇津ノ谷峠:業平の東下りに名高い「蔦の細道」は旅の本意を象徴する歌枕であって、東海道紀行に欠かせないばかりか、謡曲や画題としても当時広く知られていた
p186 日光・裏見滝:路傍に突出したる大石の下をくぐりて、漸くにして向ふに出づれば少しく広き谷俄然としてあらはれ出でて、其処に一条の大瀑匹練の如くかかる.これ則裏見の滝なり
p196 河鹿(かじか):カジカガエル:なきしきる河鹿の声、一匹らしいが、山を貫き、屋を衝いて、谺(こだま)に響くばかりである
p211 仲の瀬島と日和山:「仲の瀬島を中州に・・・此川を誰が人工の川と思おう・・・日和山は河口を扼する昔からの物見台・・・」
p211 北上川の治水工事:伊達政宗の家臣川村孫兵衛は元和2年(1616)から寛永3年(1626)にかけて和渕山と神取山の間で北上川・迫川・江合川を合流させ、鹿又から石巻までの流路を開削して舟運路を確保した