この章は、まず立山の古い縁起から始まり、立山大権現が建立され、雄山神に正五位上の位階が授けられたのは8世紀から9世紀と紹介。
ここで深田は前章で、万葉集に詠まれた立山は剱岳であろうと指摘したことを少し修正していて、「昔は立山も剣も一様に立山と総称されていたに違いない・・・・越中の平野から望むと・・・・一個の独立した山というより、波濤のように連なった山といった感じ・・・」と弁解している。確かに、昔は連嶺全体を立山と称し、その中に剱岳や雄山があったというのなら分かりやすい。昔は地理院地図などはなかったのだから。
次に深田が語るのは昔の立山への登山道、足峅(今の立山駅付近)から立山頂上までの道沿いに伝わる名勝と伝説、「材木坂(これは今ではケーブルカーで通過するときに見れる)、弥陀ヶ原、称名滝、鏡石、地獄谷、三繰ヶ池、そして室堂(深田の書いている金沢藩主造営の山小屋は今は文化財として保存されていて、代わりに立派なビルが近くに立っている)」。深田の書いているケーブルカーや自動車道、黒部の谷への観光道路は今では全てできあがっている。
だが、深田が懸念したような「一途に繁華な山上遊園地」ということはなく、室堂にやってくる大勢の人たちの半数は登山スタイルで、室堂から立山や剱岳、更に南や東への縦走に向かう重装備の人もいる。
深田にとって立山は「その頂を一番数多く踏んだ山の一つ」であり「天下の名峰」であるとしてこの章をしめくくる。
私は立山には一度しか登ったことはないが、その一度は印象的なものだった。室堂に着いた日にまず奥大日岳に登り、そこから真っ白な「波濤のように連なる」立山を見て感動した。
そして翌日、雄山、大汝、別山と立山を縦走した。その道は結構険しいアップダウンの道だが、大勢の人たちが行き来していた。下を見ると、豆粒よりも小さな人たちが広大な白い雪原の上に点々と散らばって見えていた。
室堂から見る白銀の立山。淡い青の空の下にどっしりと構える広い台形の姿は輝くばかりに美しい。
室堂に着いた日にまず奥大日岳に登り、そこから真っ白な「波濤のように連なる」立山を見て感動した:振り返るとスキーをかついだ学生らしき三人が追いついてくる。背後の立山をバックに急坂を登るスキーヤー。大勢の人たちが集っていた室堂や雷鳥沢テントサイトはもうすっかり眼下に見えなくなり、静寂の白い世界を黙々と登る。(奥大日岳への途上)
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この章は、まず立山の古い縁起から始まり、立山大権現が建立され、雄山神に正五位上の位階が授けられたのは8世紀から9世紀と紹介。ここで深田は前章で、万葉集に詠まれた立山は剱岳であろうと指摘したことを少し修正していて、「昔は立山も剣も一様に立山と総称されていたに違いない・・・・越中の平野から望むと・・・・一個の独立した山というより、波濤のように連なった山といった感じ・・・」と弁解している。確かに、昔は連嶺全体を立山と称し、その中に剱岳や雄山があったというのなら分かりやすい。昔は地理院地図などはなかったのだから。
次に深田が語るのは昔の立山への登山道、足峅(今の立山駅付近)から立山頂上までの道沿いに伝わる名勝と伝説、「材木坂(これは今ではケーブルカーで通過するときに見れる)、弥陀ヶ原、称名滝、鏡石、地獄谷、三繰ヶ池、そして室堂(深田の書いている金沢藩主造営の山小屋は今は文化財として保存されていて、代わりに立派なビルが近くに立っている)」。深田の書いているケーブルカーや自動車道、黒部の谷への観光道路は今では全てできあがっている。だが、深田が懸念したような「一途に繁華な山上遊園地」ということはなく、室堂にやってくる大勢の人たちの半数は登山スタイルで、室堂から立山や剱岳、更に南や東への縦走に向かう重装備の人もいる。
深田にとって立山は「その頂を一番数多く踏んだ山の一つ」であり「天下の名峰」であるとしてこの章をしめくくる。私は立山には一度しか登ったことはないが、その一度は印象的なものだった。室堂に着いた日にまず奥大日岳に登り、そこから真っ白な「波濤のように連なる」立山を見て感動した。そして翌日、雄山、大汝、別山と立山を縦走した。その道は結構険しいアップダウンの道だが、大勢の人たちが行き来していた。下を見ると、豆粒よりも小さな人たちが広大な白い雪原の上に点々と散らばって見えていた。