友の墜落死というカタストロフィーについての言及は本章最後の三行に過ぎないが、初めて読んだ時のショックが記憶に残り、日本百名山を読み返すときにいつも八ヶ岳だけが気が重かった。この事件の詳細はその後、他の文献で読み、技量に勝る若き深田が自分よりも更に若くまだ技術研鑽中の後輩を連れて山に登り、深田にとっては歩きなれた雪山を、たぶんグリセードなども使って軽々と歩いていたのだろう。辛い経験だったことは間違いない。
それ以外の本章は、最初に釜無谷を抜けて八ヶ岳が現われるときの情景、これを私は中央道を走っているときに幾度となく見た。もちろん反対側には甲斐駒がそびえているし、八ヶ岳の前にまず茅ヶ岳と金ヶ岳のピークが見えてまるで八ヶ岳のように見えて何度も騙された。
二つ目は名前の話。「八」というのは「漠然と多数を現わしたもの」と言いながら、「詮索好きな人のために」その八峰を挙げてみせるところはなんとも楽しい。深田の八ヶ岳は「西岳、編笠岳、権現岳、赤岳、阿弥陀岳、横岳、硫黄岳、峰ノ松目」で、私は最初の四山に登ったが、後の四山はまだ。登らねば。
三つ目に、「降ったばかりの新雪が斜陽に赤く、まるで燃えているように染まって」いた赤岳の姿の描写と島木赤彦の歌。これを実際に見るのは難しかろうが、深田がこれを見た「赤岩(硫黄岳西南の2,680mの岩峰」(赤岩ノ頭2,656mのことだろう)に登ってみるべきか。
四つ目は五万分の一「八ヶ岳」図幅で、その等高線が「孔雀が羽を広げたように美しい」という描写。我々はもう地図をこいうふうに眺める習慣は失っていて、地理院地図を見ても、ズームアップとズームダウンを繰り返し、等高線は消えたり現われたりするばかり。だがその後に深田の言う「小海線の走る南側の広濶な未開地めいた素朴な風景」と「富士見あたりの人親しげな褶曲の多い風景」というのは実際にそこから見たことがあるから語ることができる描写だろう。
五つ目は八ヶ岳が「若い一般大衆の山になった」こと。深田が初めて登った時は山小屋は赤岳鉱泉と本沢温泉しかなく、五月中旬に赤岳から硫黄岳を縦走したのに誰にも会わなかったという。今では赤岳頂上直下にもモダンな山小屋ができ、シーズン中は登山者が溢れている。
六つ目は「北八ッ」と「北八ッの彷徨者山口耀久君の美しい文章」。彼は深田の「我が山山」に解説を書いていて、その中の一節は実に楽しくて面白い(*)。
さて、私は八ヶ岳・赤岳には二度登った。最初は、赤岳の西約6㎞のところにある美濃戸山荘から行者小屋を経ての日帰り、二度目は八ヶ岳連峰南端にある観音平から青年小屋にテントを張り、西岳と編笠山、翌日、権現岳から赤岳までを往復した。一度目は天気が悪かったが、二度目は(昼前までだったが)晴れて、もの凄い景観だった。花もたくさん(コマクサでいっぱいの丘もあった)咲いていて、私の登山の中でも記憶に残るものだった。
曲岳の展望ブリッジから見る八ヶ岳:編笠山、権現岳、阿弥陀岳、赤岳、横岳
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友の墜落死というカタストロフィーについての言及は本章最後の三行に過ぎないが、初めて読んだ時のショックが記憶に残り、日本百名山を読み返すときにいつも八ヶ岳だけが気が重かった。この事件の詳細はその後、他の文献で読み、技量に勝る若き深田が自分よりも更に若くまだ技術研鑽中の後輩を連れて山に登り、深田にとっては歩きなれた雪山を、たぶんグリセードなども使って軽々と歩いていたのだろう。辛い経験だったことは間違いない。
それ以外の本章は、最初に釜無谷を抜けて八ヶ岳が現われるときの情景、これを私は中央道を走っているときに幾度となく見た。もちろん反対側には甲斐駒がそびえているし、八ヶ岳の前にまず茅ヶ岳と金ヶ岳のピークが見えてまるで八ヶ岳のように見えて何度も騙された。
二つ目は名前の話。「八」というのは「漠然と多数を現わしたもの」と言いながら、「詮索好きな人のために」その八峰を挙げてみせるところはなんとも楽しい。深田の八ヶ岳は「西岳、編笠岳、権現岳、赤岳、阿弥陀岳、横岳、硫黄岳、峰ノ松目」で、私は最初の四山に登ったが、後の四山はまだ。登らねば。
三つ目に、「降ったばかりの新雪が斜陽に赤く、まるで燃えているように染まって」いた赤岳の姿の描写と島木赤彦の歌。これを実際に見るのは難しかろうが、深田がこれを見た「赤岩(硫黄岳西南の2,680mの岩峰」(赤岩ノ頭2,656mのことだろう)に登ってみるべきか。
四つ目は五万分の一「八ヶ岳」図幅で、その等高線が「孔雀が羽を広げたように美しい」という描写。我々はもう地図をこいうふうに眺める習慣は失っていて、地理院地図を見ても、ズームアップとズームダウンを繰り返し、等高線は消えたり現われたりするばかり。だがその後に深田の言う「小海線の走る南側の広濶な未開地めいた素朴な風景」と「富士見あたりの人親しげな褶曲の多い風景」というのは実際にそこから見たことがあるから語ることができる描写だろう。
五つ目は八ヶ岳が「若い一般大衆の山になった」こと。深田が初めて登った時は山小屋は赤岳鉱泉と本沢温泉しかなく、五月中旬に赤岳から硫黄岳を縦走したのに誰にも会わなかったという。今では赤岳頂上直下にもモダンな山小屋ができ、シーズン中は登山者が溢れている。
六つ目は「北八ッ」と「北八ッの彷徨者山口耀久君の美しい文章」。彼は深田の「我が山山」に解説を書いていて、その中の一節は実に楽しくて面白い(*)。
さて、私は八ヶ岳・赤岳には二度登った。最初は、赤岳の西約6㎞のところにある美濃戸山荘から行者小屋を経ての日帰り、二度目は八ヶ岳連峰南端にある観音平から青年小屋にテントを張り、西岳と編笠山、翌日、権現岳から赤岳までを往復した。一度目は天気が悪かったが、二度目は(昼前までだったが)晴れて、もの凄い景観だった。花もたくさん(コマクサでいっぱいの丘もあった)咲いていて、私の登山の中でも記憶に残るものだった。
(*)八甲田から谷地温泉に向かうところのくだり、そこの一節を抜き出して掲載しているのは、山口もよほど面白かったからに違いない。「上体を右肘に支えて、左手を右の膝の上に乗せて、おのずからとったこの姿勢には、しかしどこか心覚えがあった。そうだ、かって読んだ本の挿絵にこんな姿勢があった。それはゲーテが伊太利紀行の途次、カンパニアの平原を眺めているところの図であった。僕はますます得意になってその休息の姿勢をつづけた」
p274 芙蓉八朶(ふようはちだ):富士山頂部には「八葉」と呼ばれる8つの峰があります。古来、仏教でいう八葉蓮華(はちようれんげ:仏が坐(すわ)る八枚の弁をもつ蓮華座)にたとえられていたことに由来するもので、この八葉はこれまで様々な呼び名で呼ばれており、資料ごとでその名称が異なっています。明治時代の神仏分離令の影響を受け、富士山においても廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)運動が起こり、富士山中の仏教系地名が神道系の名称に変えられました。現在「お鉢巡り」と呼んでいる火口の周りを一周することも、この八葉の峰をめぐる「お八めぐり」が転化したものと考えられます :剣ヶ峰、白山岳(釈迦ヶ岳)、久須志岳(薬師ヶ岳)、大日岳(朝日岳)、伊豆岳(観音岳、阿弥陀岳)、成就岳(勢至ヶ岳、経ヶ岳)、駒ヶ岳(浅間ヶ岳)、三島岳(文殊ヶ岳)