2003年 (2020年5月2日読了)
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戦争から帰国した深田が山仲間の画家Mとヒマラヤで意気投合し、写真家と医者を加えた4人でパーティを組む。なぜ登山熟練者を入れなかったかについて弁明しているが、たぶん自分がリーダーになりたかったのかな。
「すべての道はローマに通ずというが、すべての登山家の夢はヒマラヤにつながっているだろう。私もそうであった。」
ラクソールというネパールとの国境の駅で一行は頼んでいた3人のシェルパに会う。深田はずいぶん興奮しているが、インドの内地は灼熱の世界のようだ。
「まずパサン・プータル。マナスル隊の写真で見覚えがあるのですぐ分かった。・・・堅い握手。ハゝゝゝゝと陽気な声で高笑いする。次にラクパ・テンジン。まだ若い。精悍な顔つきをしている。・・・むき出しのスネが筋骨隆々と評したいくらい鋼入りの黒光りしている。この足だな、と私は見とれた・・・・その二人のあとについて、まるで少女のようにはにかんで姿を見せたのがわがダワ・トンジョップであった。・・・・いかついところが微塵もなく、温厚というより恥ずかしがりで謙遜であった。」
そしてヒマラヤが見えた。その感動を深田は素直に、簡潔に記しているが、おそらくしばらくは言葉にならないほどだったのではなかろうか。「ほとんど絶望的」「実に高い、驚くほど高い」という表現には若干、悔しさも感じられる。
「『見えますよ、見えますよ』と声がかかってきた。私は駆け上がった。そして見た。ジュガール・ヒマールの全貌を。息の止まるような素晴らしい眺めだった。北方の紺碧の空に氷雪に輝くヒマラヤを、今こそ私は自分の肉眼で見た。左からドルジェ・ラクパ、主峰、ギャルツェン・ピーク、少し離れてプルビ・チャチュ。・・・・ほとんど絶望的な険しさでそれらの峰々は気高くそびえ立っていた。」
この本のエンディングに解説はなし。その代わりに後日談がいくつか。一つ目は「シェルパ」で前記のとおり。二つ目は「雪男」の話。当時はイギリスをはじめ、だいぶ真剣になって捜索し、論じられていたようだ。三つ目は「経費」。一人当たり50万円というのは今ではどのくらいかわからないが、ネットを見ると「ヒマラヤ・トレッキング」エベレスト街道12日間で30~40万円が相場のようだから、深田の頃と今とはあまり変わらないのかもしれない。
最後に深田は「ヒマラヤへ志す学生諸君へ」という東大山岳部での公演の一部を引用しているが、これはかなり過激である。1.大企業や中央官庁には就職しない、2.ネパール語もしくはウルドウ語の勉強、3.佳人をめとってはならない、と論ずるが、深田自身も「1」はともかく、「2」や「3」は失格だろう。
久しぶりに心が躍り、胸を打たれ、自分もいっしょに旅をしているような、楽しい読書ができた。深田久弥は愛すべき作家だ。ありがとう。
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この本はだいぶ前に一度読んでいて、2度目になる。戦争から帰国した深田が山仲間の画家Mとヒマラヤで意気投合し、写真家と医者を加えた4人でパーティを組む。なぜ登山熟練者を入れなかったかについて弁明しているが、たぶん自分がリーダーになりたかったのかな。
「すべての道はローマに通ずというが、すべての登山家の夢はヒマラヤにつながっているだろう。私もそうであった。」
「私がヒマラヤに行けるなんて誰が信じただろう・・・・ただ一個の山好きにすぎない。登山家としての技能を証明するような過去の業績もない。それに私はもう年をとりすぎている。・・・・ただ一つ、誰にも劣らないと思われたのはヒマラヤに行きたい一心であった。」
出発まであと3ヶ月になった正月、なんと朝日新聞の社会欄のトップに3段ぶち抜きで深田カルテットのヒマラヤ遠征が記事となる。これは暮に取材に来た朝日新聞のN記者の記事だが、このために周囲の人たちから励まされ、後へは引けなくなった。本気になった深田は遠征実現に向け、まず日本山岳会の了解をとり、次に最大の難関、日本政府の渡航許可を取り付ける。淡々と書いているが、深田は日本山岳会の理事会に出席し、渡航許可(外貨の利用)では1校の同窓生だった通産大臣と大蔵省の次官に話を通している。こういうことが深田にとってそれほど簡単なことであったとは思えない。いろんな人に頭を下げ、会ってもらうために待ち、話の内容も事前に入念に詰めたのだろう。だが、深田が一人で突破したこれらの許認可関連はさらりと済ませ、遠征する4人に朝日新聞N君と日本山岳会のY君を加えた6人の楽しい作戦会議をさも楽しそうに書いている。やっぱり深田久弥はただ者ではない。彼でなければ絶対にヒマラヤへは行けなかっただろう。
「ここには私の一高時代からの友人、当時の通産大臣前尾繁三郎、行政管理局次官岡松進次郎の両君の名前だけを、彼らに対する私の友情のしるしとして挙げることを許していただこう」
「あまり知らないために私たちを強引に押してくれた百々信夫君とあまり知りすぎているために私たちの軽挙を押さえてくれた松田雄一君と、この両君を私は今度のヒマラヤ行きの隠れた恩人としてまずこの本の初めに謝意を表したい」
国の渡航許可をもらったのち、3月の船便を予約したときもまだネパールの入国許可やインドのビザは得られておらず、持ち金もなかった。だが、朝日新聞が後援してくれることになり、企業から物の寄付が集まり、様々な人たちが荷造りなどを手伝ってくれた。もし4人だけでひっそり進めていては、とてもできなかっただろう。現金の寄付は募らなかったらしいが、大使館やインドの商社の知り合いなどの協力を得ている。今ならどうだろう。飛行機は安いし機材も安くて良いものがあるだろう。外貨も今ならネットで買えそうな気がする。パスポートやビザ、シェルパの手配などが一番難しいのかな。東京、神戸で壮行会を何度もやってもらい、日本人は4人だけの船が出て、香港、シンガポールなどに寄港しながら行く。ダイマルおばさんというのは日本で観光を楽しんだらしいインドの親子。まあ、なんと楽しくやっていることか。
「私たちの前途には三つの大きな難関があった。第一は日本政府から渡航の許可を得ること、第二はネパール政府から入国ならびに登山の承諾を得ること、第三は資金の調達である。・・・・・しかしこの決定の日を私たちはただ漫然と待っていなかった。行けるものと決めてドンドン準備を進めていた。でなければ一ヶ月後に迫った出発まで間に合わなかったからである。登山靴やテントや寝袋や製作に暇のかかるものはもう注文してしまっていた。食糧のリストも作り上げた。船の予約まで済ましていた。船は三月二日神戸出発のサンゴラ丸と決めてった」
「やがてギャルツェン・ノルブからの返事が届いた。彼が推してきた三人のシェルパの中に私の希望したダワ・トンジュップの名前を見出した時、私の喜びはこの上なかった・・・・・まだ会わない先から彼に対する親近感は私の胸に溢れていた。」
今ではカルカッタはコルカタ、ボンベイはムンバイに呼び名が変わっている。世の中は変わるのだ。ようやくカルカッタに着いた一行はそこでも数日間足止めされ、ワイロを係員に渡して切り抜け、列車に乗ってネパールに向かう。暇な間、深田はインドの人々と会話をして時間をつぶす。
「私はまず私の英語の下手糞を詫び、しかし英語でシェイクスピアの作品やタゴールの詩を読むのは大好きだと付け加えた・・・・拍手喝さいが私の小演説の成功を証明してくれた・・・・こんなつまらぬ子供っぽいことを長々と書いたのも、私にとって外国人の前で一席ブツなどということは一生に一度しかないであろうからである」
「翌早朝、モカメという駅についた。ここで初めてガンジス河を見た。おゝ、これがガンジスであるが。私の長い憧れであったガンジスがこれか・・・・・ガンジス河は薄赤く濁って黙って流れていた。」
ラビンドラナート・タゴールは、インドの詩人 、思想家、作曲家。詩聖として非常な尊敬を集めている。1913年には『ギタンジャリ』によってノーベル文学賞を受賞した。これはアジア人に与えられた初のノーベル賞でもあった。 インド国歌の作詞・作曲、及びバングラデシュ国歌の作詞者で、タゴール国際大学の設立者でもあった。 ウィキペディア
スバス・チャンドラ・ボースは、インドの独立運動家、インド国民会議派議長、自由インド仮政府国家主席兼インド国民軍最高司令官。民族的出自はベンガル人。ネータージーの敬称で呼ばれる。なおベンガル語の発音は、シュバーシュ・チャンドラ・ボーシューが近い。 ウィキペディア
ラクソールというネパールとの国境の駅で一行は頼んでいた3人のシェルパに会う。深田はずいぶん興奮しているが、インドの内地は灼熱の世界のようだ。
「まずパサン・プータル。マナスル隊の写真で見覚えがあるのですぐ分かった。・・・堅い握手。ハゝゝゝゝと陽気な声で高笑いする。次にラクパ・テンジン。まだ若い。精悍な顔つきをしている。・・・むき出しのスネが筋骨隆々と評したいくらい鋼入りの黒光りしている。この足だな、と私は見とれた・・・・その二人のあとについて、まるで少女のようにはにかんで姿を見せたのがわがダワ・トンジョップであった。・・・・いかついところが微塵もなく、温厚というより恥ずかしがりで謙遜であった。」
「なにしろ暑い。日中戸外へ出ようとするにはちょっとした覚悟がいる。煉瓦を粉にしたような赤土が舞い上がって、クラクラっと目まいがしそうな暑熱(しょねつ)である。」
深田一行のところにやっと30数個の荷物が届き、今度は荷物といっしょに飛行機に乗ってカトマンズに向かう。インドではバターの荷物にてこずったが、今度はマッチを入れた荷物が飛行機に乗せられず、別送となる。だが、カトマンズの気候は涼しく、人々は温厚で、一行は街中を観光し、写真を撮り、絵を描いて過ごす。なかなか時間がかかるものだ。だが、深田のヒマラヤに対する思いはまだ熱い。
「飛行時間はわずか20分くらい。その間私たちは目を凝らして北方の空をにらんでいたが、春霞にかくれてヒマラヤはついに姿を現わさなかった。しかし私は少しも残念でなかった。むしろその方が良かった。多年あこがれのヒマラヤとの最初の会見を私はこんな機上からしたくなかった。やがて私たちは山に向かって歩き出すだろう。汗を流してたどり着いた丘の上から私は初めてのアイサツをヒマラヤに送りたい。それまで取っときだ。」
「カトマンズに着いて三日目の午後、ようやく荷物が中央税関から私たちの手に渡ることになった。・・・・私たちはホテルを引き上げてその空屋敷に移り、朝から手分けして仕事を始めた。」
カトマンズは涼しく、熱波のインドに比べると天国であったらしい。ネパールの人も親切だった。30数個の荷物が届き、それをポーターたちが背負っていけるように仕立て、キャラバンは出発する。深田はずいぶん意気軒高。やっぱり自分が大将と思っている。そして、キャラバンよりも先にキャンプを出て、ヒマラヤを見に行く。
「まるで彼(古原君)の傍らに座ってまるで彼の年来の友のように親しげに口をきいているのがビナヤ君であった。このおとなしい青年は私たちがカルカッタにいるとき、もう私に手紙をくれてカトマンズのお世話は一切いたしましょうと言ってくれた篤志家である。・・・・私たちもすぐ、少しも気取ったところのないこの好青年と日本の友のように親しくなった。何を頼んでも彼は厭な顔一つ見せず引き受けてくれる。」
「ともかく4人とも今まで経てきた町の中でカトマンズが一番気に入った。カトマンズの人の愛想のよいのは、養成した徳ではなくて、もって生まれた天性である。一夜ビナヤ君の家へご馳走に呼ばれて私はそう思った。ビナヤ君一家総出で私たちを歓待してくれた。その厚志と共に、カトマンズの一市民の家の内部の珍しさと辛い辛いネパール料理の味とを私はみやげにして帰った。」
「町の辻に床にジカにお金を積んだ両替屋があって、そこでどんな大金のインド・ルピーでも直ちにネパール・ルピーに替えてくれた。驚いたことに日本の千円札でもお替えしますという。人間よりは金のほうが逸早く自由に交流していたのである。」
「全部の準備が完了したのは暗くなってからであった。ホッとした。もう出発があるばかりだ。・・・・・全くこの4ヶ月私たちはややこしい事務やうるさい交渉に悩まされどおしだった。だがそれも今日限りだ。私たちは明日から山へ入る。アバよ、下界。もうお辞儀したりヒゲを剃ったりする必要がない。シェルパの作ってくれた最初の夕飯を食う前に、私たちはビールで乾杯した。」
「9時半mパサン・プータルの呼子の合図でポーターは一列になって動き出した・・・・『ああ、これが首途(かどで)というものだ』と私は自分に言った。・・・・戦時中私は応召して外地で2年余り野戦小隊長を務めたことがある。その時も私は50名の部下を持っていた。しかし上に、中隊長だの大隊長だの、うるさいのがいた。今度は誰もいない。私が大将である。わが生涯でこれほど豪勢な首途がまたとあろうか。パリ出発のモスコー遠征軍を見送るナポレオンの胸中もかくのごときものであったろうか。」
「上まで行ったらきっとヒマラヤが見えるに違いないと期待していたとおり、遥かかなたに雲にまぎれて雪の山並みが連なっていた。初めてヒマラヤを見た!しかしそれはあまりに遠く、あまりに微かで、身震いするような感動とまではいかなかった。」
カトマンズからやや北東へ、ジュガール・ヒマールに向かう。90人のキャラバンの先頭にパサン・プータルとドクター石原、最後尾に3人の芸術家が写真を撮ったり絵を描いたり。深田は割と暇だったようだが、写真家や画家とは違った眼をしているのが分かる。ネパールの段々畑の評論、ポーターたちの食事や寝床の描写、キャラバンの行進の様子に芸術家たちの旅路の姿。
「人間にどれだけの根気があるか、その例を示せという課題が出たら、私はためらうことなくネパールの段々畑をあげるだろう。よくもまああんな高いところまで開いたものだ・・・・・ヒマラヤ旅行から日本に帰ってきたとき、私はまだ日本にはずいぶん土地が余っているなと感じた。青々とした山が方々にある。ネパールでは・・・・・たちまち頂まで段々畑にしてしまうだろう。」
「早起きのポーターたち・・・・彼らの食事は非常に簡単で、アタ(メイケン粉)あるいはツァンパ(大麦の粉)を水か湯で練って塩谷唐辛子で味をつけ、それをちぎって口に放り込むだけである・・・・・彼らの食事は朝夕二回、そんな粗食でよくも八貫(30㎏=3.75㎏x8)の荷をかついで急な坂を上ったり下りたり、そんなエネルギーがどこから出るかと不思議なくらいである・・・・・彼らは全部がハダシで、岩角や木の根のあらわれた坂道も平気で歩いていく。・・・夜は・・・たいていの場合、岩陰や木の下で粗末な布切れをかぶってゴロリと寝てしまう。おどろくべきバイタリティーである。」
「たいてい六時から六時半までの間にパサン・プータルの笛の合図でポーターが動き出す。九十名の一行ははじめのうちは長い一列縦隊で進むが次第に列が散漫になり、間隔があいてくる。いつも先頭になっていくのはラクパ・テンジンの宰領する炊事班で、彼はポーターの中から屈強で善良な若者を数人抜擢して一チームを作っていた。」
「風見君はいつも三台くらいカメラを下げて、状況に応じてそれを使い分ける。・・・・彼にとってカメラは眼のようなものだった。レンズを通してでなくては彼には風景は生きてこないのである。・・・・どんな被写体も彼のカメラから逃れることができなかった。」
「山川君と一緒に歩いていると、さすが画家だけあって風景の鑑賞は私のようにズサンではない。殊に色彩には敏感で、私などただ見逃してしまう景色を『あれはいい色をしていますね』と感心して眺めている。・・・・ヌーっとした大男に似ず山川君は可憐な草花が好きで、路傍や叢の中にあるどんな小さな花も彼の目を逃れない。」
チャパティは、インド・パキスタン・バングラデシュ・アフガニスタンにおけるパンの一つ。南アジアからの移民の影響で、東アフリカにも普及している。ロティの一種(wikipedia)
そしてヒマラヤが見えた。その感動を深田は素直に、簡潔に記しているが、おそらくしばらくは言葉にならないほどだったのではなかろうか。「ほとんど絶望的」「実に高い、驚くほど高い」という表現には若干、悔しさも感じられる。
「『見えますよ、見えますよ』と声がかかってきた。私は駆け上がった。そして見た。ジュガール・ヒマールの全貌を。息の止まるような素晴らしい眺めだった。北方の紺碧の空に氷雪に輝くヒマラヤを、今こそ私は自分の肉眼で見た。左からドルジェ・ラクパ、主峰、ギャルツェン・ピーク、少し離れてプルビ・チャチュ。・・・・ほとんど絶望的な険しさでそれらの峰々は気高くそびえ立っていた。」
「急な登りで一つの山鼻に立つと、そこから谷の奥真正面にジュガール・ヒマールの名峰ドルジェ・ラクパがそそり立っていた。美しい雪白の双耳峰である。谷の底は千メートルくらいだから頂上まで標高差六千メートル近くあろう。実に高い。おどろくほどたかった。」
ベースキャンプに着くまでの11日間を深田は細々としたことを書いている。たぶん朝日新聞に送ったという6回分の原稿なのだろう。たわいもない事柄ばかりだが、なるほどと思い、そうなのかと気づき、うーんと唸る。小説家の文章だ。
「自分の顔を見ると口ヒゲからアゴにかけて真白なのである。こんなに白いとは思わなかった。古原君は『なかなか立派ですよ』と言ってくれたが、私には慰めの言葉としか取れなかった。立派でなくてもいい。やはり黒い方がいい。せめてゴマ塩ででもあれば。」
「七、八歳の鼻垂れ小僧にも易々として従う。何という従順な家畜だろう。細い道で幾度も牛とスレスレにすれ違ったが、全く処女のようにおとなしい。神様は何のためにお前に角を与えたか、訊きたいくらいだ。」
「夜半、目を覚ますと、ホトトギスが頻りに鳴いていた。形は知らないが、声は日本の『テッペン、カケタカ』と寸分も違わない。」
(チベットに入って)「夕暮、子供たちは輪になって踊りを見せてくれた。輪の中の一人がハーモニカを吹いた。その単調なメロディーに合わせて、みんな大真面目なふうで踊った。踊りも単調な繰り返しだが、見ていてまことに可憐であった。」
「もう段々畑もなくなって、林の中を行く。蝉が鳴いている。そろそろ針葉樹が混じり始めた。高度は約2,500m。道端に白花の蛇苺が咲き敷き、マムシ草に似た毒々しい花も開いていた。傾いた大木の枝に純白の美しいランが寄生していた。まことに気品の高い花である。山川君が写生帖を開くと、私たちの扈従(こしょう)であるバイチャが身軽く木に攀じ登って、一株取ってきた。」
「シャクナゲは真紅ばかりでなく、白もあり、ピンクもある。その花が枝にビッシリついていて、真紅などはまるで燃えているように見える。それがたいていは見上げるような大木である。」
「ペムサールと呼ばれている綺麗な草地に着いた。桜草に覆われていて、まるでお伽の原とでも言いたい楽園のような原だった。標高3,400m。」
「私は一つの岩の上にドッカと坐り込んで脇を通り過ぎる蜿々(えんえん、おんおん)たるポーターの列を眺めながら感慨に耽った。この八十名の人間が重荷を背負って、毎日山道を歩き続け、ようやく今日十一日目に目的のベース・キャンプに着こうとしている。彼らの払った労力と日数は何のためだろう。たった私たち四人のためではないか。そんな資格があるだろうか。学問に貢献するためでもなければ、文化的な役目を果たすわけでもない。要するに私たちの勝手な山遊びにすぎない。どうしてこんあゼイタクが許されるようになったのだろう。これでいいのか。こんな果報が又とあろうか。」
「私たちのベースキャンプは間もなくだった・・・・・何と気持ちのいいところだろう。原は雪が消えたばかりで、手まりのような形の紫色の桜草とナデシコに似た純白の小さな花が、やっと開きかけたばかりである。ここがこれから約1ヶ月の私たちの登山の根拠地となるのだ。やがてそのうちにこの広大な原は高山植物でうずめ尽くされるだろう。(4,100m)」
「聞けば今度の新しいポーターのサーダー(頭)だという。それではニマ・ラマかと私が問うと、彼は思いがけなく自分の名を呼ばれて、大変うれしそうな驚いた顔になった。私は1955年のイギリス婦人隊の記録でこの老人のことを知っていたのである。」p118
「ベースキャンプに着いて、5人の高所ポーターの選択はシェルパに任せた。彼らの鑑定をパスしたのはこの地域の事情に詳しいニマ・ラマ、その弟のテンジン・ラマ、更にその弟の何とかラマ、それからカトマンズ出立以来炊事班に採用されてその誠実と勤勉を買われたカンサ、それにゴンパタンからポーターとして加わった実直で体力のあるダワン・ドルジュ、以上の5人だった。」
「選ばれたその5人のポーターに高所用装備を渡すのはバラ・サーブの私の役目だった。・・・・出来合いの登山靴が足にうまく合うかどうかって?そんな心配は無用であった。彼等には足に靴をあわせるのでなくて、靴に足を合わすのである。」
ジュガール・ヒマールの麓までやってきた深田たちはベースキャンプを張り、二つある氷河を調査し、東にあるブルビ・チャチュムブ氷河を登ることにする。その前に西にあるドルジェ・ラクパ氷河から雄大という言葉ではとても足りないドルジェ・ラクパの双耳峰を見上げた。ただ感動。山川は得意のスキー。氷河の先に第2、第3キャンプを張り、シェルパを交えた7人の夕べで話がはずむ。
「氷河を距ててすぐ向こうにそびえ立っているドルジェ・ラクパ(6948m)。氷河の底から一気に3,000メートルを突き上げている氷と岩の錯雑した壁は、壮観などというありふれた形容詞では及びもつかない眺めであった。氷と岩の縞で飾られた壁は二つの気高い峰をもたげ、その頂は錐のように細く天を指していた。・・・・ドルジェ・ラクパの双耳峰から右に伸びた尾根はいったん低く落ちて、それから主峰(7083m)の三角錐がそそり立っていた。これはドルジェ・ラクパの複雑に比べると、整然とした単純なピラミッドで、ほとんど一点の汚れもない純白の美しさで輝いていた。」
「ポーターが置いていったスキーを見て、山川君の顔は莞爾としていた。さっそく彼はスキー靴に穿き替え、その長い板切れを担いで、斜面の上の方へ登っていった。コルの近くまで登り、そこから鮮やかな連続クリスチャニアで「ヒマラヤの初滑り」を私たちの目の前に示した・・・・・かってスネの骨を折ったりアキレス腱を切ったりしても、これだけはやめられないスキー好きの山川君である。今度の旅行でも誰が何と言おうとも、これだけはと頑張り通してスキーを持ち込んできた彼である。ヒマラヤの雪で滑ってさぞ本望だろう。」
「私は持っていく本の選択に苦労しなかった。最初からこのスタンダール「シャルトルーズ」1冊に決まっていた。これは私の愛読書で、大戦従軍中にもこの本だけは身辺から放さなかった。・・・・今度も私は精神の渇きを懸念してそれを医すための持薬のつもりでこの1冊を持ってきた。内容は暗記するくらいよく知っているので私の貧弱なフランス語もこの本に関してはあまり渋滞がない」
深田がスタンダールの中に見つけたアルプスの雪峰の描写「austerite severe」とは、アステリテは厳しさ、簡素、severeも厳しい。
「共同生活をする者には時々孤独を与える必要がある。それこそ精神の最大の慰安だ。ところが今度の全旅程を通じて、ただ一人でテントを占めたのはこの一日だけであった。私は勝手に寝袋の上にフンゾリかえって、スタンダールを読み続けた・・・・一人だけでいるということの何という気楽さ、快さ。久しぶりに快眠した。」
「ダワは1934年ナンガ・パルパットの大惨事の折、生き残りの五人組の一人であり、翌35年同じナンガ・パルパットの雪崩で全滅のときは幸運にも死を逃れたたった一人であった。私がその話を持ち出すと、すでにシェルパの間ではそれは有名な話になっているとみえて、パサンもラクパも口をそろえてダワを『ラッキー・ボーイ』と呼んだ。ダワはその後も毎年欠かさずヒマラヤ・エクスペディションに従っている。私がその功績を一つ一つ数え上げると彼は例の恥ずかしそうな笑顔で肯いていたが、その眼は実に嬉しそうに輝いていた。」
第二キャンプから第三キャンプへ。快晴の氷河を登って絶景を見るが、たちまち雲が沸き上がり、雪が降ってくる。深田たちは第三キャンプの1日目は3人で、2日目は6人で雪のキャンプを過ごす。そして晴れるとまた絶景。レディース・ピークを見るが、ジュガールの最高峰、グレート・ホワイト・ピークはまだ見ていない。
「五千メートルでは空気中の酸素が半分になる。四千百メートルのベースキャンプに着いたとき、私たちはほとんど高度の影響を感じなかった・・・・ところが私たちは五千メートル近くに達しても相変わらず平気だった。『何か頭痛でもしないことには、ドクターに申し訳ないようだな』・・・・それは・・・・ベースキャンプを出て以来もう十日もたっており、その間に徐々に高度順応ができていたからに違いなかった。」
ドルジェ・ラクパ氷河から引き返し、プルビ・チャチュムブ氷河を登って第三キャンプまで進み、ジュガール・ヒマールの主峰ビッグ・ホワイト・ピークを見た深田たちは、そこで主峰登攀をあきらめて引き返す。風景はしっかり見て写真も絵も描けた。ピーク・ハントに拘泥せず、ランタン・ヒマールもちゃんと見たい、というのがその理由のようだ。あっさり「あきらめて、ここから引き返すことに決めた」と書いているが、相当悩んだに違いない。撤退の日は天気で、深田はぼんやりとオルゴールを聞いていて、その歌詞を2ページにわたって記している。余程無念さが心に残っていたのだろう。ベースキャンプへの帰路、深田は風邪をひく。
「こちらの位置が高くなるにつれて今まで隠されていたプルビ・チャムブ氷河の行先が見えてきた。奥行きの深い氷河だ。その行き当たりにギャルツェン・ピークが見え、更にその左に連なって主峰「ビッグ・ホワイト・ピーク」の純白なピラミッドが現われた。」
ベース・キャンプにやっと戻った深田はビールを飲み過ぎて気分が悪くなるが、朝日新聞の締め切りのために夜更かしして書きあげる。このあたりの書きぶりは実に楽しい。そしてベース・キャンプを引き上げる前日の夕方、深田は一人で台地に登り、プルビ・チャチュに別れを告げる。彼にとって、山は友そのものだったに違いない。ランタン・ヒマールに向かう道中、深田は背後にそのプルビ・チャチュを再び見ている。
「夕食に私はそのウイスキーを少しばかり飲み過ごした。酸素の希薄な4,000メートルの高所で、アルコールが肉体に及ぼす作用を、私は体験しなければならなかった・・・・山川君も同様であった。二人は枕を並べて戦死した。しかし、そのまま寝てしまう訳にはいかなかった。原稿がある・・・昼間は遊んでばかりいて、まだ半分もできていない。2時間ほど寝て、ようやく苦しい酔いをやりすごすと、二人はまた起き直った。」
「振り返ると微塵の汚れもない紺色の空に、プルビ・チャチュが純白に輝いていた。二日前にはその麓にいたとは思えぬ神々しい姿であった。」
200314 ランタン・ヒマールに40人のポーターを雇って移動する。最初に計画した道はまだ雪があって危険だということで、標高1,500mくらいまで下る。再びネパールの段々畑が見え、大きな町で世間ずれしたネパール人に悩まされ、寺院に行って剽軽な坊さんに会い、なかなかランタン・ヒマールは見えてこない。
200328 深田たちは再びポーターたちの反対にあってランタン・ヒマールへ行けるかの局面に立つが、深田はパーティを二つに分け、山に強いポーターとシェルパのみをランタン・ヒマールに連れていくこととし、残りは帰りたがっていたnnnn君と共にカトマンズに返す妙案を出し、問題を打開する。そして、ついにランタン・ヒマールを見る。ガンジャ・ラ峠から見たその驚きを深田は大きな声で語っている。ガンジャ・ラ峠から下った深田はランタン谷の村でチーズを作っているオランダ人を尋ねる。たった一人でテントを張ってネパールの奥地に住んでいる外国人が全く寂しそうにしていないで暮らしているのは驚きだ。深田は最後の8,000m未踏峰ゴザインタンを見ることはできなかったが、このオランダ人との遭遇を詳しく語っており、よほど関心をもったのだろう。
「私と山川君は一行よりずっと遅れた。急な登りにかかると二人とも一服することを忘れないからである。彼は私の気の置けない相棒で、二人の間には登山に無意識につきまとう先を争うと言う気持ちが全くなかった。彼はいつも私を先に立て、私は振り返って何の気兼ねもなく『休もうや』と言えた。」
「午後一時、稜線にたどり着いた。期待は裏切られなかった。裏切られるどころではなかった。ランタン・ヒマールの氷雪の峰々が一斉に私たちを迎えた。それはまるで不意打ちのように私たちを驚かせた。あまりの壮観に二人はしばらく声もなかった。今度の全旅程でこの一刻が感動のピークであった。」
200404 ランタン部落から帰路につく。ランタン谷を西に下り、トリスリ河にぶつかって今度はトリスリ河沿いに南に下る。標高5,000mくらいのところから一気に標高800mくらいまで下ると、風景は都会風になり、道は平たんになったが、暑かった。深田は最寄りの村まで25㎞もあるランタン部落の隔絶について不思議に思っているが、今では「世界で一番美しい村ランタン」までツアーコース日本からソウル経由9日間、37.8万円でいくことができる。2015年のネパール大地震で壊滅して、今は復興・再生していることろらしい。たぶん世界中から支援が寄せられているだろう。深田が詳述しているガンジャ・ラ峠やトリスリ河はグーグルマップでは検索できない。わずかにTrishuli というのが川筋に小さな字で記載してある。よくまあ、こんなところを50日もかけて、数十人のポーターたちを引き連れて歩いたものだ。医者を仲間に入れたのは大正解。あくせくしない、気の合った仲間にしたのも大正解。私の人生にも参考にすべきだろう。だが、誰にもできない、大変なことをやってのけている。もうあと2回かな。
「部落は早くも寝静まって一点の灯も見えず、青ずんだ原っぱの上空におそい月が上がった。」帰途の前夜のランタンの村
「バラ・サーブ」=隊長
200425 歩き詰めでカトマンズに帰着し、テント生活から文明世界に戻り、あとはもう帰り支度とお祝いの日々。シェルパたちと別れ、4人のサーブはそれぞれ飛行機で、個別に帰国する。後日談が記載されていて、そこで深田は三人のシェルパについて彼らの功績を一人一人、詳細に記している。なかでも、老ダワ・トンジュップについては感情のこもった書きぶり。余程気に入ったのだろう。
「道普請」=みちぶしん。道を作ったり直したりすること
「こうして私たちは再びパラス・ホテルへ戻ってきた。カトマンズを出てカトマンズへ帰るまで約60日、私たちは一夜も屋根の下に寝たことが無く、最後の20日間は一日の休みもなく歩きづくめであった。顔は黒く焼け、肉は緊(しま)っていた。」
「ビナヤ君」というのはカトマンズに最初に着いたときに世話をしてくれた青年(p78)。旅に同行してはいない。同行したのはアマチア君。
「翌日の新聞を見ると『abandoned jugal himal expedition』という見出しで・・・キューヤ・フカタ隊長語って曰く『近い将来再びやってくるつもりです』と書いてあった・・・・・・やはりヒマラヤへ行ったらどこでもいい一つ初登頂をしてくることだ・・・・」
「山川君は・・・・・のんきな彼が東京へ帰ってきたのはそれから半月後だった。カルカッタでヒマラヤみやげのスケッチ展をして大変好評を博したそうである」
「カラコルム」はモンゴルの西にある都市で、かつてのモンゴル帝国の首都。カラコルム山脈はヒマラヤ山脈の西の一角であり、K2がある。
200502 この本のエンディングに解説はなし。その代わりに後日談がいくつか。一つ目は「シェルパ」で前記のとおり。二つ目は「雪男」の話。当時はイギリスをはじめ、だいぶ真剣になって捜索し、論じられていたようだ。三つ目は「経費」いろいろ細かいことを記載しているのは若い人たちへのできる限りの参考とするためだろう。一人当たり50万円というのは今ではどのくらいかわからないが、ネットを見ると「ヒマラヤ・トレッキング」エベレスト街道12日間で30~40万円が相場のようだから、深田の頃と今とはあまり変わらないのかもしれない。最後に深田は「ヒマラヤへ志す学生諸君へ」という東大山岳部での公演の一部を引用しているが、これはかなり過激である。1.大企業や中央官庁には就職しない、2.ネパール語もしくはウルドウ語の勉強、3.佳人をめとってはならない、と論ずるが、深田自身も「1」はともかく、「2」や「3」は失格だろう。まあ、自分にできなかったことを若い人に託すのは悪いことではないと思うが。久しぶりに心が躍り、胸を打たれ、自分もいっしょに旅をしているような、楽しい読書ができた。深田久弥は愛すべき作家だ。ありがとう。
カトマンズからチョータラ
ランタン・リルン、ドルチェ・ラクパ、プルビ・チャチュ
K2
インドからネパール
ランタンとエベレスト