1907年 (2020年9月20日読了)
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解説で、訳者の真方敬道は学生の頃にベルグソンの「創造的進化」を読み、感動して数日で読んでしまったとある。この難しい本を数日で読み、内容に感動するというのはただごとではない。本物の哲学者というのは、そういうものなのか。そして真方は、ベルグソンが本書で示した重要事項として「生命のはずみ」(l'elan vital)と「時間の発見」を挙げている。確かにその通り。錯覚のことやギリシャ哲学との比較など、ベルグソンは多様な論点を挙げているが、哲学体系の中で、ベルグソンが果たした業績としては、この二つが大きなものなのだろう。
昨年の12月1日から読み始めて10ヶ月。ようやくこの大著を読み終える。理解できたとは言い難いが、いくつかの哲学について学ぶことができたと思う。
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存在についての考察:自分は常に変化しているから自分の存在を定義することはできない。これは幾何学と違うところで、幾何学ではある定理は時間や場所を経ても変わらないから、常に正しい。
最初の進化論の考察:生物は神が個別に創造したものではなく、自ら長い時間を経て進化してきたことについて、立証することはできないが、大人の姿は異なっていても幼生のときは変わらないことなど、進化の証拠は限りなく増え続け、反対意見は退けられ続けている。ベルクソンは哲学においては、進化を前提にしてよいと宣言する。
生命のはずみ(l'elan vital):生命は収束に向かうことはなく、常に発散の方向に向かう。その発散の方向を決めるのは外部要因(機械論)でも神的な計画性(目的論)でもない。それははずみ(l'elan vital)(momentum)であり、一つの明確なものでなく、傾向のようなもの。行き当たりばったりに進み、何かにぶつかるたびに枝分かれする。だが、おおまかな方向がいくつか見えてくる。
・プラトンの洞窟の比喩(p230)、カントの超越的感性論、
p249からベルグソンは物理、数学などの成果を賛美しながら、それらの進む方向とは反対方向にこそ哲学の役割があるのではないかと論じ、それをプロティノスのロゴスの展開であると書いている。自然科学は自然自体を模倣・追及するが、哲学は原理を考えるということか。だが、自然科学の原理も今や物理化学等で研究されているのではないか。哲学自体は失われてはいないが、もはや独立して存在することは難しいのでは?p260では、測定は人工的なもので自然はそんなことはしないと論ずるところは「観察」の概念と似ている。ベルグソンはここから、この「測定」により、知性が自分自身を延長し、物質を追求するため、空間と数学に進むとする。この後、ベルグソンは「二種の秩序」を無生物と生命、予見可能と予見不能などになぞらえて論ずる。これら二種の秩序はまるで違うのに、一般には混同されていることを力説し、それはアリストテレスの誤謬と同じものだという。
アリストテレスの誤謬「『重い物体と軽い物体を同時に手を離して落下させると、重い物体の方が速く落下する。 落下の速度は物体の質量に比例する。』とアリストテレスは考えた。 この考え方は素朴には正しそうで、長い間信じられてきたが、やはりガリレオ・ガリレイによって打ち破られた」(quizknock.com)
カルノの法則: この学問には2つの重要な法則,つまり『熱力学第一法則』と『熱力学第二法則』があります。(sasebo.ac)
3章の最後の部分でベルグソンは、人間の優秀性と限界、進化と霊魂は両立しないことをそれとなく語り、神や宗教の教えを批判しているように思える。つまり、神が人間を生きとし生けるものの頂点として創り上げたというのは誤りだ。だがベルグソンはそんな人間の可能性を無限に信じているようだ。ものすごく熱い思いが感じられる。
4章で最初に語られるのは我々の思考過程に内在する錯覚。一つは持続しているものをそのある断片と同一と思い込む錯覚、もう一つは想像した物差しで現実を計測できると思い込む錯覚。いずれも科学分析上の前提条件あるいは仮定、仮説に基づく検討方法としては正当であり、有効と思われるが、ベルグソンの指摘は、人々はその前提条件や仮定、仮説があることを忘れがちだと言いたいのだろう。
無の概念:無を考える瞬間に実は何かを考えているわけだから、無には矛盾がつきまとうのだが、「誤謬を防止する」という機能をもつ。これはカントの言葉だが、ベルグソンは空っぽの部屋に客を案内するときに『何もありませんが』という実生活での事例を語る。そして、人の仕事は有用性を創造することであり、それをしなければ何もない。人生とは空虚を埋めることである、と展開する。論理的。
・エレアのゼノンの論証、ゼノンのパラドックス:「アキレウスと亀」英雄で俊足のアキレスの10メートル前方に亀がいて、アキレスと一緒に歩きだします。アキレスは亀より10倍速く走りますが、アキレスが亀の地点についたとき、亀はすでに10メートル先にいます。アキレスが10メートルを走ると、亀は1メートル先にいます。アキレスは絶えず亀に接近しますが、追い越すことはできません。運動が存在しないことを示すために提起されたパラドックスです。
古代哲学と現代哲学もしくは科学は本質的に変わらないと言いながら、ベルグソンはここで両者の違いを論じて見せる。近代科学がもたらしたのは概念だけでなく、実験などによる実証を重んじる、というのが定説だが、ベルグソンはギリシアでも実験は行われていたと言い、それよりも近代科学は「時間」を扱う点で古代哲学と違うと論ずる。観測機器類の発達により詳細な観察が可能になり、映画的手法そのものは古代と変わらないとしても、無限に細かい瞬間瞬間を扱うことができるようになった。それでもベルグソンは、映画的手法である限りそれは停止しているものの観察であり、錯覚であると言う。近代科学が扱おうとしないもの、つまり持続、時間そのもの、なぜ芸術家がそのように描くのか?それこそが創造であり、進化なのだと言いたいのか?
最後の数ページでベルグソンは哲学について述べる。哲学者は科学者よりも先に進まねばならぬ、というのは、科学が実証していないもの、科学が目指すべき方向を哲学者が示すのだと言いたいのだろうか。そして哲学は本物の進化論であり、科学の延長であると言い切る。ベルグソンは科学のもつ力、潜在力をどのくらい予期していたのだろう。哲学の手法は今でも生き続け、仮説による科学研究に使われていると思うが、今後、彼のような哲学者は現われるだろうか。
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序文
知性により様々な事象、人間の行動や幾何学をどこまで表現できるだろう。ベルクソンは序文の中で、知性だけでは難しいと言いたいようだ。そこには生命の進化(経験?)が関わることを示唆し、「進化論哲学」を論じたいとする。
「私たちの論理は何にもまして固体の論理であり、だからこそ私たちの知性は幾何学に長じてもいる。・・・幾何学でなら知性は経験にごくあっさりとでも触れた後は自分の本性の動きを追うだけで発見に発見を重ねることができ、しかも経験が遅ればせについてきていつでも知性を弁証してくれることは確かなのである。」
「進化論哲学ははじめまず知性は進化の局部的な一成果であり・・・・・ひたすら概念的思考の武器に頼って万物を、生命までも観念的に再構成しようととりかかる。もっともこの哲学がみちみちぶつかる困難はなんとも手ごわい・・・・・ものの本質はいまも、これからも私たちの手をすり抜けるであろう。けれども、これこそ人間の知性をさんざん誇ったあげくの謙遜のしすぎというものである。・・・・」
「・・・認識論と生命論とはたがいに分離できぬものらしい。生命論は認識批判を伴わないと知性がゆだねてくれた概念をそのまま鵜のみにせぬわけにはゆかない・・・・認識論は知性を生命の一般論進化のなかへ戻さないなら、認識の枠がどのようにして形作られたか・・・私たちに教えてはくれないであろう。・・・循環過程を描きながら、たがいにどこまでも推進し合わねばならぬ。」
第1章 生命の進化について、機械性と目的性
存在についての考察。自分は常に変化しているから自分の存在を定義することはできない。これは幾何学と違うところで、幾何学ではある定理は時間や場所を経ても変わらないから、常に正しい。
「もしも私たちの存在が離れ離れの諸状態から合成され、それを不感受な『自我』が綜合せなばならぬとしたら私たちにとり持続は存しないことになろう・・・・持続とは、過去が未来を齧って(噛んで)進みながら膨らんでゆく連続的な進展である・・・・記憶とは、思い出を引き出しに整理したり帳簿に記入したりする能力ではない。帳簿や引き出しなどはなく、本来の意味では能力というものすらここにはない」
「存在」の章を読み返す。存在を最も意識できるのは自分である。その自分は不変ではなく、常に変化している。だが、我々は細かな変化は意識せずに生きている。そして変化がある程度大きくなった時にそう感じる。物質は不変のように思えるが、やはり時間と共に変わる。だが科学者は、対象物以外はすべて不変という前提を設けて物事を検討する。その方が都合がいいからだ。
「存在のうち私たちに最も確かでよく知られているのは私たちの存在である・・・・・私はたえず変化している・・・・もっともそうした不断の変化は気にかけないでおき、・・・それを意に介さない方が都合がよい。・・・つまり、ある状態から他の状態に移ることと同じ状態を続けることとの間には本質的な差異はないということである。」
「私たちの持続はつぎつぎに変わる瞬間ではない。・・・・持続とは過去が未来を齧って進みながら膨らんでゆく連続的な進展である。・・・・記憶とは、思い出を引き出しに整理したり帳簿に記入したりする能力ではない。・・・過去は・・・ごく幼いころから私たちの感じ、考え、望んできたことがそこにはたむろしていて、やがてその仲間に加わる現在の上にのしかかり、自分たちを入れたがらない意識の門めがけてひしめいている。」
「私たちは自分を始終創造しているものだと言わねばなるまい・・・・幾何学では、前提は一度で本決まりに非人格的に与えられ、非人格的な結論がおしつけられる。・・・ところが・・・人が違うか瞬間が違うと、・・・行為は根本的に違うことがあり、しかもどちらも等しく理性的でありうる。」
「意識をもつ存在者にとり存在するとは変化すること、変化するとは成熟すること、成熟するとはどこまでも自分を創造することなのである。」
「物質は幾何学的に取り扱うことのできる孤立した系を作る傾向をもつ。実はこの傾向によって私たちは物質を定義するわけであろう。・・・・科学が極点までゆき完全に孤立させるのは研究の便利のためである。・・・その系は孤立しているとはいっても外からある種の作用を被っている・・・・それらの作用は弱いので無視できるとみるのか、後で計算に入れるつもりで取っておくのか、いずれにせよ科学はそれを傍らにどけておくにすぎない。」
存在について自分や生命の存在は常に変化しているとし、次に物質は孤立した系(その他の前提がすべて不変とした場合)の中では幾何学的に取り扱うことができるが生物は違うとした。今度は生物の個体性。生物はみな一個体のように見えるが、切り離されると個別に生きていくミミズやヒドラのようなものがいるし、生物が生殖するとき、一個体が二固体に分裂する。だから、生物の個体性は単純には語れない。次は生物と時間の不可逆性。孤立した系においては物質の動きは時間を変数とした微分方程式で表すことができるが、生物の本質は時間の経過と切り離して語れない。物質の動きは時間だけでなく、重力なども変数に入れてディラック方程式以降で表されてきた。それだけでも十分に複雑だ。それをここでは言葉だけで論じようとしている。言葉そのものの持つ力が影響力をもつ。
「無機の物体は・・・現在は何物も過去以上には含まず、また結果に見出されるものはすでに原因の中にあったものだ。しかし有機体は・・・・はじめは一個で後に複数になったとしても驚くにはあたるまい。単細胞の有機体の生殖とはまさにそういったものである」
「有機化されていない物質を支配する法則は原理的には時間が独立変数の微分方程式で表される・・・・すなわち停止した瞬間であって流れる時間ではない。数学者の扱う世界は刻々に死んではまた生まれる世界であり、それはまさにデカルトが不断の創造を語ったさい考えていたものに他ならない。けれども時間をそのように解した場合、そのなかで果たして進化が、すなわち生命の本質的特徴が表象されるであろうか。」
ここで初めて進化論が出てくる。生物は神が個別に創造したものではなく、自ら長い時間を経て進化してきたことについて、立証することはできないが、大人の姿は異なっていても幼生のときは変わらないことなど、進化の証拠は限りなく増え続け、反対意見は退けられ続けている。ベルクソンは哲学においては、進化を前提にしてよいと宣言する。
「進化論仮説は・・・・厳密には証明できない。しかし・・・・古生物学上の新発見・・・・簡単な観察から引き出される証拠はいよいよ強化され・・・・実験が様々な異論を斥けていく。」
「進化説は、哲学者から見て重要な点に関してはこれ以上のことを要求していない。どこかにある種の進化はどうしても想定されねばならない・・・その何処かはある創造的な「思考」・・・・生命組織化の計画・・・・何か未知の原因・・・・いっそ科学者が異口同音に唱える進化論をそのまま信奉するほうがましなのではないか」
生命の進化を科学で説明し切れるかについてベルクソンは懐疑的で、できないとまで言い切る。おおまかな変化は次第に科学で解明されているが、それでも説明しきれない微小な変化が必ず存在するだろう。そしてベルクソンは、科学で説明しきれないところに哲学の場、頭で考えるフィールドがあると言う。これは哲学者としての信念だろう。次にベルクソンは、分裂する細胞やアメーバを例にとり、人はまだ最も単純な生命でさえも作り出すことができないことを指摘する。この点は、20世紀初頭から100年経ち、我々はクローンを作り出すところまで来ている。
「人に予見できるのは過去に似たものか過去に似た要素から構成しなおせるものに限られている。天文学や物理学や化学の諸事実の場合はこれである・・・・・けれども創始的な状況となると・・・・まだ生じないうちからそれを与えられたものとして描き出すことはできない相談ではないか」
「ところが、形態の創始され予見できぬことは絶対的だとするこの考えに対し、私たちの全知性が叛旗をひるがえす・・・・・知性はある状況に対して今後そこに起こりうる出来事の利不利を予見することをその本質機能とする・・・・これが常識による未来の予見ということの要点なのである。・・・・科学はこの操作をぎりぎりの程度まで精密にし的確にするけれども、・・・・科学の手におえるのはくりかえすとみなされたもの・・・ばかりである。・・・・そうした還元やあともどりの不可能を思い浮かべるためには、・・・科学の習慣と手を切り、精神に無理して知性の自然な坂を逆に登らねばならない。ここにこそ哲学の役目はある。」
機械論と目的論に対する批判が続く。一定の前提条件を置けば生命を作り出したり未来を予言することは可能だろう。だが、私たちの意識が日々経験すること(継続)に基づけば、どちらも受け入れられないとベルクソンは断言する。「生命原理」については、一つの生命をどう区分するか、つまりヒトの体を構成する一つ一つの細胞も一個の生命なのか?という論題をもちだす。ヒトにしてももともとは父親と母親の細胞が合体して生じたものであり、更にたどれば人類全体、生命全体の系統樹に行きつく。
「(ラプラースの仮説)ある知性がある与えられた瞬間に自然を正気付けている一切の力と自然を構成している諸物の相互位置とを知り、そのうえこれら与えられた材料を解析で処理するほどに広量だとしよう。そのような知性は宇宙最大の物体の運動と最も微小な原子の運動とを同じ一つの公式に含ませるであろう。それにとって何一つ不確かなものはなく、未来も過去と同様にその眼に現前しているであろう」
「過激な機械論には一つの形而上学が蔵されている。この形而上学では事象の総体はひと丸めに永遠の中に置かれており、そこに事物の見せかけ上の持続はあってもそれはただ精神は弱いもので万事をいちどきに知ることはできぬということの表現にすぎぬ。けれども私たちの経験中もっとも文句のありえぬものすなわち意識にとっては持続はそんなものとはおよそ別物である。私たちは持続を遡ることのできぬ流れとして知覚する・・・・・私たちは体系の要求するままに経験を犠牲にすることはできない。過激な機械論を私が斥けるゆえんである。」
「生気論の立場をきわめて難しくしているのは自然界には純粋に内的な目的性もなければ絶対的に切り離された個体性もないという事実なのである・・・・・有機体はそれぞれに自分のために生きている諸組織からなる。その組織を作っている細胞がまたある自主性をもつ・・・・・人間も含めてあらゆる有機的固体は両親の結合体に生えたただの芽であることが分かる。すると固体の生命原理はどこに始まりどこで終わるのか・・・・・そこで私たちは目的性の単純な否定か、・・・各生物を残りの生物全部に並べこむ仮説かのいずれかを選ばなければならぬ」
ここでベルクソンは過激な機械論と過激な目的論の修正を試みる。それらは未来を予見することはできないが、ヒトの行動は計画性をもち、それは機械的、数学的、幾何学的に高めることができ、目的をもってヒトは行動する。つまり、ヒトが合理的に生きていく限り、機械論と目的論を活用しているということだ。しかし、進化はそれらではとらえ切れないとベルクソンは言う。
「私たちはもっぱら行動するために考える・・・・行動は必要事であるのに思弁は贅物(むだもの)にすぎぬ・・・・・行動するためにはまず目的が設定される。計画がめぐらされそれから計画実現のための細かいからくりへ移る・・・・・未来を予料させてくれるような類似関係・・・・生成的な因果はその観念が私たちの精神内でくっきりと描き出されるにつれ機械的因果の形をおびてくる・・・・数学的になってゆく。私たちは精神の傾向についていきさえすれば数学者になれるわけである・・・・・私たちは生まれながらに幾何学者であり、同様に生まれながらに工人でもある。」
「人間の知性は人間的行動の要求に合わせて作られている以上、それは意図しながら計算しながら一つの目的に向けてもろもろの手段を並べこむとともに機械性をいよいよ幾何学的な形に表象しながら操作を進める知性なのである。」
純粋機械論と純粋目的論では進化論を説明できないことを論ずる。全ての事象は既に知られている鋳型のどれかに当てはめることにより説明できるといういわゆるプラトン主義は、同じ原因は同じ結果をもたらすという純粋機械論と類似しているが、私たちの生命活動においてすら、詳細な部分まで解明し、予測することは困難なことから、誤りだ、とベルクソンは断ずる。次に、彼の語る進化論は機械論よりも目的論に近いとし、機械論が進化を説明できないことの証明を例をあげて論ずる。二人の人間が複雑なルートをたどって同じ目的地に着くとき、同じルート(原因)を辿るとは限らない。一つのコップに水と葡萄酒を入れると、水と葡萄酒は同じ形をとるが、同じものになった訳ではない。
「事象を認識するとは・・・すでに私たちの掌中にある枠にそれをはめ込むことだという考えを立てたのはプラトンであった。・・・・ある意味で私たちは皆、生まれながらにプラトン派であると言ってよかろう。この方法の無能ぶりがどこよりもあからさまになるのは生命についての諸学説の場合である。・・・・生命の総体を表象するとは、生命自体が進化の途上で私たちの中に沈めていったさまざまな単純な観念を組み合わせることではありえない。部分は全体に、内容は容器に生きた操作の名残は操作そのものにどうして等価でありえようか。」
「私の目指してゆく生哲学・・・・は機械論と目的論をともに同時に乗り越えることをうたう。しかし・・・・それは前者よりは後者の教説に近い。」
「機械論の原理は『同じ原因は同じ結果を生ずる』ということである・・・・二人の人が別々の地点から散歩に出て気の向くままに野原を歩き回り、最後にばったり会う。これはごくありふれたことにすぎぬ。しかしその描く曲線が同一でたがいにぴったり重なり合うということになるとおよそ本当らしくない。・・・・無限に複雑になれば、不可能性になろう」
「ひとつコップに水と葡萄酒を入れ替わりに注げば、二種の液体はコップの中で同じ形態をとり、そして形の相似なのは内容の容器に対する適応が同じだからということになろう・・・・しかし・・・・環境は鋳型ではない。生命がそこに流し込まれてそこから形態を受け取るといったふうなものではない。・・・・生命が自分の仕事として、課せられた条件に適する形態を自分のために創造するのである。」
進化(適応)は機械的繰り返し(機械論)や何者かの目的(目的論)では語ることはできないことについて例を挙げて証明する。前回はコップの中に入れた液体の例を挙げたが、今度は植物と動物がいずれも非常に似通った有性生殖を進化させてきたことを挙げる。全く異なる性質(原因)のものが環境に適応して生きていくうちに類似の性質(結果)を得たということは、同じ原因が同じ結果を生むという機械論への反証であろう。次に、光に対する視覚器官を例に挙げる。
「目的性をたてる説は、自然の仕事を知的な工人の仕事になぞらえようとして感覚器官の霊妙な構造をいつも利用してきた・・・・・自然淘汰をうまく導入すれば、それの機械的なはたらきだけで感覚器官を完全性の増す方向に決定させることができるに違いない・・・適応を持ち出す権利のありそうな場合があるとすれば、これこそはそれである」
「要約すると、進化を決定する偶然変移が目に見えぬ変異であるなら、それらの変異を保存し累加するためにある善霊に、未來種の精霊に、お縋(すが)りせねばならなくなろう。自然淘汰はその役を引き受けてくれまい。」
「私は『適応』の語のあいまいさを指摘しておいた。形態がだんだんと複雑になって外部環境の鋳型にますますきちんと嵌まり込むと、器官の構造がだんだん複雑になって環境をいよいよ有利に用いるのとは別のことである。・・・・人は多かれ少なかれ、無意識に第二の意味から第一に移る・・・・・自然そのものが私たちの精神をこの二種の適応を混同するように仕向けているように見える。」
適応の曖昧さを語った後、ベルクソンは外部環境が与える影響の実例をあげる。同じ種類なのに気温の変化によって違う形になって蛹から現れるワネサ・プロルサという蝶。続いて彼は、脊椎動物の網膜は脳の一部が広がってできるのに、軟体動物の網膜は脳の外から形成されること、イモリの水晶体はもともと外肺葉からできたのに、切除すると光彩から再生されること、などの例を挙げ、原因と結果が一致しないことの例だと力説する。このあたりはちょっとロジックが迷走している感じ。外部環境に当てはまるのと、生命の方が環境を利用するのは、どちらか一つではなく、その中間のどこかに偶然、出会うのではなかろうか。そして幸運だった固体が環境を有利に生き抜くことになる。
ダーウィンの自然選択説への反例(イモリやサンショウウオの目の水晶体の再生)をいくつか挙げ、外的だけでなく内的な原因も進化に係わるのではないかと論ずる。このあたりは100年を経た今でもまだ結論はでていないようだ。水晶体の再生は個々の器官のもつ特性の問題で、あまり進化とは関係ないのでは。やはりダーウィン説が正しいと思われるが、今や我々は遺伝子を操作して求める機能を得る、あるいは有害な機能を取り除くところまで来ている。当時はまだ「獲得形質の遺伝」が力説されていたらしい。ベルクソンはその説に敬意を払い、ダーウィン説の欠陥を示しながらも、獲得形質遺伝を全く信じていないようだ。「哲学は応用を少しも念頭に置かないから科学に必要な的確さには束縛されることはない。」と前置きしたうえで、科学諸説を比較してみせる。そして「根源のはずみ」という観念を提示する。これはまさに遺伝子に他ならない。「私は生命の根源のはずみが胚の一つの世代からつづく世代への移ってゆき、成体となった有機体は胚から胚への媒介を務める連結符だと考えている。」p117 1907年当時はまだ遺伝子は発見されていなかったのか?メンデルの法則は1865年だが長く注目されず(ベルグソンも言及していない)、DNAの二重らせん構造発見は1953年。
「新ラマルク説だけが内的で心理的な発展原理を・・・容れる幅をもったものである」
ネオ・ラマルキズム(英: Neo-Lamarckism、新ラマルク説)とは、進化論の歴史において、ダーウィンの説に批判的で、ラマルクの説に近い立場をとる論の総称である。ラマルク説と同様の進化観は古くから存在していたが、その主張を明確に整理したのがジャン=バティスト・ラマルクであった。以降、ラマルクのものと解釈されるようになった彼が説明した進化論は「用不用説」と呼ばれている。生物がよく使用する器官は発達し、使わない器官は退化するという用不用の考えと、それによって個々の個体が得た形質(獲得形質)がその子孫に遺伝するという「獲得形質の遺伝」を2本柱としている。また、彼は、生物の進化は、その生物の求める方向へ進むものと考え、生物の主体的な進化を認めた。彼の説明は観念的であり、生物の進化と言う概念を広く認めさせることができなかったが、彼がまとめた「内在する進化傾向」や「個体の主体性」はその後現在に至るまで特に非生物学者から人気がある[1]という。チャールズ・ダーウィンの自然選択説が1859年に発表されると、生物の進化と言う概念は大論争の後に広く認められた。しかし自然選択説が受け入れられるには長い時間がかかった。彼の説は、「同種内の個体変異が生存と繁殖成功率の差(自然選択)をもたらし、その差が進化の方向を決める」というものである。後に遺伝の法則が発見され、個体変異の選択だけではその範囲を超える進化は起こり得ないことが明らかになった。しかし直後に発見された突然変異を導入することでこの難点は避けられる。こうして、彼の元の説の難点を補正した説は次第に「総合説」、「ネオダーウィニズム」と呼ばれるようになり、現在に至っている。wikipedia
「スペンサーがまず獲得形質の遺伝の問題を自問するところから始めたならば、この人の進化論はおそらく全然別の形をとったのではなかろうか。」
スペンサーの進化論 社会進化論は、ヘーゲルやコントなどの社会の進歩についての議論をベースに、生物学において広まりつつあったさまざまな進化論をとりこんでつくられた社会理論の一種である。その理論は多様であり、目的論的自然観に基づく方向性のあるものから、チャールズ・ダーウィンの進化論にヒントを得て、方向性の定まっていないものまで含まれる。 ウィキペディア
第二章生命進化の発散方向、麻痺、知性、本能
生命は収束に向かうことはなく、常に発散の方向に向かう。その発散の方向を決めるのは外部要因(機械論)でも神的な計画性(目的論)でもない。それははずみ(momentum)であり、一つの明確なものでなく、傾向のようなもの。行き当たりばったりに進み、何かにぶつかるたびに枝分かれする。だが、おおまかな方向がいくつか見えてくる。
「私たちは・・・幼児期の自分の人格には不可分でいながらさまざまな人柄が結合されていたことを確認するに違いない・・・・このどっちつかずで望みの豊かなところに実は幼児の最大な魅力の一つがある。ところが、・・・私たちはおのおのひとつ生涯しか送れぬ以上、そのどれかを選ばなければならぬ羽目に陥る。実際私たちは絶えず選択し、したがってまた多くのものを捨て通しでいる。・・・・けれども自然は無数の生命を操れるから決してそんな犠牲を払うには及ばない。自然は様々な傾向が大きくなって枝分かれしたままに保存しておく。」
「根源のはずみの仮説、すなわち生命にいよいよ複雑な形態をとらせながらいよいよ高い使命にそれを連れていくある内的衡力を仮定する私の考え・・・このはずみは歴然としている」・・・・「外部環境を・・・・進化の主導原因だと主張する(機械論)のとは同じではない」
「はずみ=momentum」
「進化は一本道を描かぬ・・・・進化はそれぞれの方向をとりはするが目的を目指しはせぬ・・・それは適応のなかまでも創意を持ち込んでやまぬ・・・」・・・・「目的論が考えているある全体計画の実現ともまるで異なる」
「偶然にもたっぷりと持ち分を与えてかからなければいけない。自然界では何もかもがうまく噛み合っているわけではないことを認めねばならない。そうなれば人はいきおいその不整合なものの結晶する中心をいくつか決定することになろう。・・・すなわち生命がその原衝動を展開しながら動いてゆく主な方向がいくつか見えてくるに違いない。」
まず、動物と植物の違いを論ずる。動物は動き、植物は動かない、という定義には反例がたくさんあるが、「はずみ」「傾向」「方向」としては概ね、この定義で構わない。それにしても、行き当たりばったりなのにここまで複雑に進化してきたというのは驚き。まさに軌跡。
「植物は鉱物質からじかに有機物質を製造する。こんな才能があるので植物は一般に動かなくて済み、動かぬからこそまた感じないで済む。動物は養分をさがしに出かける必要から移動活動の方向に、従ってまた意識がいよいよ豊かにいよいよ鮮やかになる方向に進化してきた。」
「原始の植物細胞は独力で炭素も窒素も自分のために固定せねばならなかったが、顕微鏡的な植物がもっぱら窒素の固定に向かって以来、この方の機能はほぼ見捨ててよくなった・・・・・私は今有機的世界に三つの異なる王国を区別した。第一の国の住民は微小有機体ばかりで原始状態にとどまっているのに、動物と植物は幸運の絶頂を目指して飛び立った。」
「一つの傾向が発展しながら分解するとき、そこに生じた特殊な諸傾向はいずれも自分の専門となった仕事と両立できそなものなら何でも原傾向のなかから取りとめて発展させようとするものだ。」
生命の進化は神経系統の進歩に集約される。そして神経系統は自由に道を選ぶ。つまり予見することができない、不確定性を持っている。このあたりの論理は分かりやすい。だが、次の自由と習慣のジレンマの表現は見事。
「動物が遂げてきた進歩はなかんずく神経系統の進歩であり、それもこの進歩の各段階に応じて必要となった諸部分のあらゆる創造と複雑化を伴っての進歩であった。この書物のはじめから匂わしておいたように、生命の役目は物質に不確実性をはめこむことにある。生命が進化の歩みにつれて創造する形態は不確定なすなわち予見されぬものである。それらの形態が運び手をつとめるはずの活動もまたいよいよ不確定に、すなわちいよいよ自由になる。ノイロンがつぎつぎに端を接し、端ごとにいくつも道が開け、その道の数だけ問題が課せられるようになっているところなど、このようなノイロンをもった神経系統はそれこそ不確定性の貯蔵所ではないか。」
「私たちの自由は自由を確立する運動そのもののなかで新しい習慣を生み出し、もし不断の努力によって革新されぬなら自由はこの習慣のために窒息するに至る。機械生活が自由を待ち伏せしている。どんなに生き生きとした思想も言い表せられればその表現の定式のなかに凍ってしまうであろう。言葉は観念に叛旗を翻し、文字は精神を殺す。私たちの燃える感激も行動となって外に現われると、往々にして利害あるいは見栄の冷たい打算に自ずから凝結する。」
「地球全体を自分の領土と心得ている種は掛け値なしに支配的な種であり、従って優位に立つ種である。人類はそのような種であり、脊椎動物の進化の頂点を示すものであろう。しかし、他にもそのようなものが関節動物の系列中にある。昆虫なかんずくある種の膜翅類がそれである。・・・・膜翅類に続くものは鱗翅類しかないが、これは花をつける植物の紛れもない寄生者で退化した種であることは疑いない。」
膜翅類:ハチ全般の他、アリを含む大きなグループ、鱗翅類:チョウ、ガ
「蒸気機関の発明から1世紀もたったいま、私たちはそれが私たちに与えた深い動揺をやっと感じ始めたところである・・・・・知性とはその本来の振舞いらしいものから見るならば人工物なかんずく道具を作る道具を制作し、そしてその製作に果てしなく変化をこらす能力なのである。」
本能と知性について語る。どちらも道具を使うが、本能は有機物を、知性は無機物を使い、一方は無意識に、一方は意識的に道具を使う。本能は専門特化されており、知性は広い可能性の中で逡巡し、選択する。極限特化された本能の一例として、ベルクソンはシタリスのアントフォラへの寄生を語る。シタリスはアントフォラの巣に産卵し、幼虫はアントフォラの雄にしがみつき、空中の交尾のときにアントフォラの雌に移り、地下のアントフォラの産卵場所でその卵と蜜とを食べて育つ。確かに信じられないような複雑な行動。シタリスというのはコガネムシらしい。
二つ目の視点、知性は形式の認識であり、本能は素材を認識する。「知性は不動のものしか明晰に表象しない」とはどういうことだ?
ベルグソンはここで、知性は道具や無機物を論理や幾何学等を用いて扱うのにはすぐれているが、生命や創造的進化など予見できないものを考えるのは不得手であると論ずる。つまり、生命の進化は単純な論理では分析できないということか。
「知性を特徴づけているのは、どんな法則に従ってでも分解できどんな体系にでも構成しなおせる、行き詰まることのない能力というものである。」
「知性は自分に自然な方向を逆さにし自分自身に振り向かぬ限り、本物の連続や事象そのままの運動性や相互の完全透入を、一言でつくせばそれこそ生命たる創造的進化を考えることはできぬのである。」p196(初めて「創造的進化」が登場?)
「知性は予見されぬものは許容しない。創造をことごとく斥ける。・・・・・発明を説明するとは、その予見できぬ新奇なものを既知あるいは旧くからある要素に分解し別の順序に配列することと決まっている。・・・・・知性は生命の本質的な一面をまるでそんな対象を考えるためにはできていないかのように取り逃がす」
矛盾点:「昆虫の世界には疑いなく言語があり、この言語は人間の場合と同様で共同生活の必要に適応してできたものにちがいない」と言いながら「本能の符号は固着した符号であり、知性の符号は動く符号である」と言い、「言語がなかったら知性は関心をもって考察していた物的対象にたぶん釘付けされていたであろう」ということは、昆虫は言語をもってないということだ。昆虫の持っているのは言語ではなく、符号ということだろう。p192
知性と本能について語る。ベルグソンは知性は生命を語るのが下手であり、それは知性が生命を機械的な、固定的なものとして扱おうとするからだという。たぶんベルグソンの頃の科学者はそうだったのだろう。今の生物学や人類学はどうだろう。きちんと生命を扱えているのだろうか。一方、本能は無機的なものから有機的なものを造り出す。彼はたぶん、知性のない動物や植物のもつ本能の重要性を強調しようとしているのだろう。我々がいくら知性で考えても、ハチやツタが行っている奇跡を成し遂げることは難しい。だが、現在は「本能」はもはや重視されなくなっているようだ。「知性」の方は今ではベルグソンの頃よりも情報量が飛躍的に増加し、選択肢も大きく増え、視野は果てしなく広がっているのだろう。
「本能(ほんのう)とは、動物(人間を含む)が生まれつき持っていると想定されている、ある行動へと駆り立てる性質のことを指す。現在、この用語は専門的にはほとんど用いられなくなっているが、類似した概念として情動、進化した心理メカニズム、認知的適応、生得的モジュールなどの用語が用いられる。本能の語が用いられなくなった理由のひとつは、これが説明的な概念としてはあまり役に立たなかったためである。脳科学では記憶や五感からの刺激が神経インパルスの発火となり、次の行動へつながる源泉となることを解明しているが、本能と説明するとその前後の関係をなんら説明しない。したがって複数の定義された本能との相関関係も説明が不可能である。特定の心理や行動を本能だと述べても、その行動の神経的・生理的・環境的原因(至近的原因:これらが伝統的な心理学の研究対象であった)について何かを説明していることにはならない。またアメリカの科学史家カール・デグラー (英語版)によれば、1920年代から30年代にかけてアメリカの人類学と心理学の文献からこの語が急速に消えた。これは人種主義と結びついた優生学運動の人気の凋落と、行動主義や文化決定論のような空白の石版説の人気の高まりの時期と一致する[1]。第三に、この語は歴史的に様々な意味で用いられており混乱を招く。Wikipedia」
「“知性 intellect”は、語源的には、ラテン語の動詞“intellegere”に由来し、複数の選択肢の“間から inter”“選ぶlegere”能力を意味する。ただし、選択の能力といっても、遺伝子にあらかじめプログラムされた本能は知性でない。知性は新しい選択の可能性を切り開く後天的な能力である。未経験の選択をするのだから、迷いはある。しかし、人間は、迷うからこそ意識を持つのである。だから、知性とは、意識を伴った選択の能力であると考えてもよい。(永井俊哉ドットコム)」
知性と本能の話の続き。昆虫における本能の驚くべき機能の例をいくつか挙げ、知性を語るために直感と意識を持ち出す。直感は本能に近いらしいが、知性は直感を多様に使うことができる。そして意識こそが人間が進化していた鍵をもつ、と論ずる。(2章がやっと終わり)
・ハチがコオロギやアオムシを刺して麻痺させる例・・・p208
「本能は共感である」p213
「知性がなかったら直感はいつまでも本能の形でいて・・・・特殊な事物に釘付けされ・・・外面化されたまま・・・・であろう」
「犬にあっては記憶は知覚に縛られたままであろう・・・・・人間は・・・いつ何時でも随意に現在の知覚と無関係に記憶を呼び起こすことができる」
「意識が進化の運動原理として現れてくるばかりでなく、さらに意識をもつ生物そのもののなかで人間が特権的な地位を占めることとなる。」
第三章 生命の意義について、自然の秩序と知性の形式
第3章では生命の意義を論ずる。スペンサーの宇宙生誕論:物質も知性も所与のものとして認めている。
ここでは知性、精神と物質、無機物の関係について、過去の哲学者のツール、スペンサーの社会進化論、プラトンの洞窟の比喩、そしてカントの超越的感性論(純粋理性批判)を使って論ずる。最初の二者はあまり役には立たず、カントの空間と時間を考慮する手法が手掛かりを与えてくれそうだ。だが、カントは空間や時間を経験でなく直感でアプリオリに知覚するとしており、直感の是非を論じても無益なのだろう。
・スペンサーの社会進化論:スペンサーの著作はかれの進化 (evolution) という着想に貫かれている。社会進化論という概念はこれらの著作から発している。彼の著作『第一原理』は現実世界の全ての領野に通底する進化論的原理の詳しい説明である。・・・・ポピュラーな用語「進化」と共に「適者生存 (survival of the fittest) 」という言葉はダーウィンではなく、社会進化論のスペンサーの造語である。(wikipedia)
・プラトンの洞窟の比喩(p230):地下にある洞窟の中に、囚人が住んでいます。彼らは子供の時から手足も首も縛りつけられているため、ずっと目の前にある壁(cd)だけを見て生活しています(ab)。また、彼らの後上方はるかのところに、火がともっていますが(i)、囚人たちは背後を向くことができないので、見ることができません。そして、囚人と火の間の通路(ef)には、低い衝立(gh)が置かれています。その上から操り人形を出して見せると、ちょうど火に照らされた操り人形の影や、そこを通り過ぎる物などが、囚人の見ている壁(cd)に投影されます。この過ぎ行く影のみをずっと見ながら生活しているうちに、囚人は、影こそが真実であると認めるようになります。すると、その影の動きを鋭く観察し、次の動きを推測するようなことをやり始め、それを誰よりも上手くできた囚人には名誉や賞賛が与えられるようになります。太陽を仰ぎ見る:しかし、ある時、囚人のひとりが縄をほどかれ、背後にある火の光を仰ぎ見るように強制されます。これまで影ばかり見ていたその囚人は、光に目がくらんでよく見えないばかりか、苦痛を覚えます。そのため、やはり向きかえり、自分にとってよく見えやすい影をまた見ようとします。さて、ここで、ある誰かがその囚人を無理やり洞窟の急な荒い道を引っ張って行って、火のさらに向こうにある出口、太陽のある世界に連れていきます。すると、当然ながら囚人はまぶしさのあまり、最初のうちは何も見ることができなくなります。そこで、囚人はまずは水面にうつる太陽の光を見て、次に夜の星を見るというように、目を明るさに慣れさせていき、最終的には、太陽そのものを見ることに成功します。さて、囚人は、その太陽の光を知ってから、今まで自らが見ていたものがただの影であったことや、またその地下の影ですらも、太陽がなんらかの仕方で原因となって発生していたことを悟ります。囚人はこの体験を非常に幸福に思うと同時に、洞窟にいる他の囚人たちに憐れみの情がわいてきます。再び洞窟へ戻る:その囚人は、自分の体験を伝えるべく、また洞窟に戻り、自らの体験を伝えようと試みます。しかし、光に目が慣れてしまったために、今度は影をうまくみることができないという事態が発生します(時間が経って目が慣れさえすれば、影すらもよりよくとらえることができますが)。そのため、他の囚人は、「あいつは、上で光を見たせいで、すっかり目をだめにしてしまった」とその囚人を笑いものにします。そして、囚人たちは、もし仮に自分達を無理やり上に連れて行こうとする者がいるならば、殺してでも阻止しようとするようになります。光を見た囚人にしてみれば、そのような洞窟にいるくらいなら、太陽のもとで光を受けながら生活したほうがよほど幸せにみえます。しかし、それでも彼は、洞窟に入り、また彼らと同じような影を見る生活を送りながら、それらの囚人を真実の幸福に導くために行動しなければならないのです―以上が洞窟の比喩の概要です。(ikiru-imi.net)
「原理の問題を哲学に取っておいた人も、・・・・だんだんと引きずられて哲学をただの書記局にすぎぬものにしてしまう。そこではせいぜいのところ、宣告されて取消不能になって届く判決文をいっそう正確な用語に書き上げるくらいの仕事しかない」
・カントの超越的感性論:先験的(超越論的)感性論・・・・時間および空間(以下時空)は直観の先天的形式である。外的現象に適用される空間は、外的印象を並列的に受け取る外的直観の先天的形式である。これに対し一切の現象に適用される時間は、内的状態を継時的に受け取る内的直観の先天的形式である。ここでいう時空は概念でなく直観である。すなわち個々の時空と唯一の時空とは、個別者と概念との関係でなく部分と全体との関係をもつ。時空の制約は物自体(それ自身は現象しない)には適用されない(先験的観念性 (transzendentale idealitat) )。時空はそれによってのみ現象が可能となる主観的制約(経験的実在性 (empirische kealitat) )である。そのため、見出されるはずの一切の対象に妥当すると言いうる。wikipedia
・カントの二律背反(アンチノミー)
p249からベルグソンは物理、数学などの成果を賛美しながら、それらの進む方向とは反対方向にこそ哲学の役割があるのではないかと論じ、それをプロティノスのロゴスの展開であると書いている。自然科学は自然自体を模倣・追及するが、哲学は原理を考えるということか。だが、自然科学の原理も今や物理化学等で研究されているのではないか。哲学自体は失われてはいないが、もはや独立して存在することは難しいのでは?p260では、測定は人工的なもので自然はそんなことはしないと論ずるところは「観察」の概念と似ている。ベルグソンはここから、この「測定」により、知性が自分自身を延長し、物質を追求するため、空間と数学に進むとする。この後、ベルグソンは「二種の秩序」を無生物と生命、予見可能と予見不能などになぞらえて論ずる。これら二種の秩序はまるで違うのに、一般には混同されていることを力説し、それはアリストテレスの誤謬と同じものだという。
・プロティノス:「英: Plotinus、 205年? - 270年、古代ローマ支配下のエジプトの哲学者で、現代の学者らからはネオプラトニズム(新プラトン主義)の創始者とされている人物である。日本語では「プロチノス」とも表記される。主著は『エンネアデス』「したがって均斉は美の原理ではない。美が感知されるのは何か精神を引き付けるものが存するからで、すなわち精神と同質のロゴスが存しなければ物は美しくない。・・・・・この考えによれば芸術美を自然美と原理的に区別し得ないが、芸術は自然的事物を摸倣してはならず、自然美を成立させる原理を摸倣しなければならない。すなわち芸術家にとっては精神の直観力によってロゴスとしてのイデアの全体像を把握するのが先決問題である。」wikipedia
「演繹は物質に足どりを合わせ物質の動的な節わけを写し取った操作・・・」
・二つの真逆な秩序「人が天文現象を見てそこにすばらしい秩序が現われているというのは、それらの現象は予見可能だという意味でであろう。一方、それにも劣らぬすばらしい秩序をベートーヴェンのシンフォニーに見出す場合は、霊才として独創として従って予見不能そのものとしての秩序なのであろう」
・アリストテレスの誤謬「『重い物体と軽い物体を同時に手を離して落下させると、重い物体の方が速く落下する。 落下の速度は物体の質量に比例する。』とアリストテレスは考えた。 この考え方は素朴には正しそうで、長い間信じられてきたが、やはりガリレオ・ガリレイによって打ち破られた」(quizknock.com)
「物理秩序は『自動的』な秩序であり、生命の秩序は意志的なと言わないまでも『意志された』秩序に類比されるものである」
「無秩序は二種の秩序を含み、両者が結合してできたものなのである」
段落の無い長い文章のなかで、次々に論じられるのは、「二つの秩序」「直感と弁証法」「エネルギー保存則とエントロピーの法則」「エントロピーに逆らう生命」そして「神の定義」。息つく暇もなし。
・二つの秩序「それぞれのものの位置はその部屋に寝起きする人の自動運動からあるいはどのような生成因であれおのおのの家具とか着物とかを今の場所に置いた原因から説明がつく。秩序は第二の語義のものとしては完全なのである。ところが私は第一類の秩序を期待していた。それはきちんとした人が意識的に生活の中に持ち込む秩序であり、要するに意志された秩序であって自動的なものではない。」p276
・直観(=直感?)と弁証法「弁証法が必要になるのは直感を論証ため、・・・直感そのものは弁証法を越える」p283
・エネルギー保存則とエネルギー低落則「『エンテロピ』という計算可能な量概念・・・・は、物理(フィジカル)法則中もっとも形而上学的(メタフィジカル)な法則である・・・・たがいに異質な目に見える変化はだんだんと目に見えぬ同質な変化に薄まっていく」
・「生命には物質の下る坂を遡ろうとする努力がある、・・・生命はそうした法則からのがれようと全力を尽くしているかのように見える。・・・生命には物理変化を逆転させる力はない。けれども、遅らせるところまではいける。・・・・生命は落下する錘を持ち上げる努力のようなものである。もっともそれはうまくいって落下を遅らせるに過ぎない。しかし、少なくとも錘を持ち上げるということの意味はそれでいくらか私たちに会得できるであろう。」p292
・神の定義?「ひとつの中心があって、もろもろの世界は巨大な花火から火箭のようにそこから噴き出す・・・・・神というものもこのように定義されてみると何一つ造ったわけではなく、不断の生であり、行動であり自由なのである」
ここでは様々な事柄が語られる。神の定義、生命と物質の関係、生命のはずみ、進化における生命の分裂、分化と連合の二重性こそが生命の本質である、人間の意識は他の生物とは違う、言語の役割。これはまるで生命の進化そのもののように広がり、纏めようとしている。このあたりが本書の根幹なのだろうか。
「一つの中心があって、もろもろの世界は巨大な花火から火箭のようにそこから噴き出す。ただし、ここで私の立てる中心とはものではなく噴出の連続のことだとする。神というものもこのように定義されてみると何一つ造ったわけではなく、不断の生であり、行動であり自由なのである。創造もそのように解されれば神秘でなくなる・・・・・行動は前進しながら大きくなり進展につれて創造していく・・・・そのような類の流れを知性がある与えられた瞬間にさっと切断すると、ものができあがる。」
・modus vivendi とは【意味】生活法,生活態度(weblio)
「生命は運動であり物質性はそれと逆の運動であって・・・両者の間にある生存方式 modus vivendi が生じ、これは有機物質にほかならぬ。」p296
「私が生命のはずみというのはつまり創造の要求のことである。生命のはずみは絶対的には創造しえない。物質にすなわち自分のとは逆の運動にまともにぶつかるからである。しかし生命はそうした必然そのものとしての物質をわが物にしてそこにできるだけ多量の不確定と自由を導入しようと努める。」
「最初の大きな分裂は植物界と動物界の間に起こらなければならなかった・・・・1.エネルギーが徐々に蓄積される、2.そのエネルギーを伸縮自在な溝に入れて様々に変わる不定な諸方向に流し、その出口で自由な行為を行わせる」p301-302
・カルノの法則: この学問には2つの重要な法則,つまり『熱力学第一法則』と『熱力学第二法則』があります。(sasebo.ac)
「しかし真相はやはり、ものの経過から言ってあらゆる高等有機体は細胞が互いに仕事を分かちながら連合したところから生まれたかのように見える、ということであろう」
「してみると生命の進化が分化と連合の二重方向に進むことのなかには少しの付随的なところもない。それは生命の本質そのものに根差す。」
「意識は現実の行動のまわりに可能な行動がつくる暈(かさ)と同じ拡がりをもつ。」
「意識は人間において、人間においてのみ自己を解放する」
「言語は意識に非物体的な身体を提供し、意識はその中に身体化する」p312
3章の最後の部分でベルグソンは、人間の優秀性と限界、進化と霊魂は両立しないことをそれとなく語り、神や宗教の教えを批判しているように思える。つまり、神が人間を生きとし生けるものの頂点として創り上げたというのは誤りだ。だがベルグソンはそんな人間の可能性を無限に信じているようだ。ものすごく熱い思いが感じられる。
「意識は人間において、人間においてのみ自己を解放する・・・・人間は自分の機械を保持するばかりではない、それを自分の好むように役立たせることにも成功する・・・・・生命が大きな跳板から踏み切った際、ほかの生物はその端のところで綱の張り方の高すぎるのに驚いてみな飛び降りたのに、人類ばかりは障害を躍り越えたのであった」
「以上いろいろの理由から、人類というものがいま私たちの見るままの形であらかじめ進化運動のなかに含まれていたと考えるのはおかしいことになる。それどころか、人類は進化全体の到達点だということすらできない」
「『霊魂』は存在していて独立な生を営み得るものだと言うことになると、では霊魂はどこから来るのか。体は両親の体から借りた一個の混合細胞からごく自然に私たちの目のあたりに生まれるものなのに、霊魂はいつどのようにしてなぜこの体に入り込むのであるか。おおよそそうした質問はいつまでも答えられないであろう」
「一切の生物はたがいにかかわりあい、いずれも同じ烈しい推力に押しまくられている。動物は植物によって立ち、人間は動物界に馬乗りになり、そして全人類は時間空間中を大軍となって私どもひとりびとりの前後左右を疾駆する。そのあっぱれな襲撃ぶりは一切の抵抗を排し幾多の障害に勝ち、たぶん死さえも躍り越えることができよう。」
第四章 思考の映画仕掛けと機械論の錯覚、諸体系の歴史を瞥見、生成の事象と偽進化論
4章で最初に語られるのは我々の思考過程に内在する錯覚。一つは持続しているものをそのある断片と同一と思い込む錯覚、もう一つは想像した物差しで現実を計測できると思い込む錯覚。いずれも科学分析上の前提条件あるいは仮定、仮説に基づく検討方法としては正当であり、有効と思われるが、ベルグソンの指摘は、人々はその前提条件や仮定、仮説があることを忘れがちだと言いたいのだろう。
「持続のなかから私たちの関心をそそる諸瞬間のみが持続の路沿いに私たちの手で摘み取られて浮かび出てくる。私たちはそうした瞬間しか引き止めない。・・・・今吟味したい二つの錯覚のうちこれがひどい方のものである。それは要するに不安定は安定を介して、動きは不動を介して考えられうると信ずることなのである。」
「私たちは現在の所有を入手したいものの函数として言い表す。行動の領域でならこれほど適法なことはない。ところが私たちはそうした語り方を、それどころかそうした考え方を否応なしに持ち続けて、ものが私たちに対してもつ利害とは独立にものの本性を思弁する際にもそれを押し通す。・・・・二つのうち第二の錯覚がこうして生まれる。」
「私たちは不動を通って動きに行きつこうとするが、同様に空虚に頼って充実を考えようとする・・・・・(一つの例)秩序は二様の形をとることができ、そして一方の形での前在はそういってよいなら他方の欠在そのものによる。そこで私たちは両秩序のうち自分の求めていなかった方にぶつかると、必ず無秩序を語ることになる。」
「私たちが欠在から前在へ、空虚から充実に進むのは私たちの知性の根本的錯覚による。・・・・・この誤謬をあとくされのないまでに克服するためには、それと体当たりで取り組むほかない。この誤謬をむき出しにして、それが否定や空虚や無について根底から誤った考えを含んでいるところをしっかりと直視しなければならぬ。」
「私は哲学しはじめるやいなや『なぜ自分は存在するのか』と自問する。・・・・・存在は無の制服として私にうつる。何もなくても良いし、それどころか何もあるはずはないのだと私は思い、しかも何かがあるのに驚く。・・・・・無は存在によって満たされ、いわば栓をされながら、事実はともかくとして、権利上はやはり存在している。・・・・・神秘はすべてそこから来る。」
「なぜ物体あるいは精神が存在していて、むしろ何もなくはないのかと尋ねる場合、答えは見つからない。けれども論理学の原理たとえばA=Aは自己を創造するだけの力量を備え、永遠的に無を降服している、ということなら私には自然に思える。・・・・・そこで、万物の土台をなし万物に権限している原理を想定して、円の定義あるいはA=Aなる公理と同性質の存在をそれに与えてみよう。存在の神秘は姿を消す。・・・・・もっともそのためには私たちは相当いたい犠牲を払わされるであろう」
ここでは無の観念について考察する。感覚を消していって、自分を消そうとしても、消えたと自覚する自分は存在する。この矛盾を逃れるため、デカルトは『可能性を思い浮かべるだけでよい』と言い、消そうとする操作の極限が無なのだともいえる。いずれにせよ、無の観念は何らかの『からくり』を弄して得るものであり、我々はその『からくり』でもって『無』を作り出す。まあ、無の観念がないと数学にしても難にしてもいろいろ不都合だから、多少の矛盾は我慢して我々はその観念を受け入れるのだろう。なんとかついていってるかな。今回も2ページほど・・・・
「無の観念・・・まずイメージから始めよう。私は今目を閉じ耳をふさぎ外界からくる感覚をひとつびとつ消そうとしている。それがうまくできたとする・・・・その間にも私は存続し、存続しないわけにはゆかぬ。・・・・・私が自分の無になるのを見るのは、ある積極的なしかしまだ意志も意識も伴わぬ行為によってすでに自分を復活させたからにほかならぬ」
「デカルトも言ったように、一千の辺を持つ多角形は想像の目で見ることはできないが、理解はされる。その図形を構成する可能性が明晰に思い浮かべられるだけでよい。万物の抹消という観念についても同じことだ。・・・・その操作の目指す極限が無にほかならぬ。そしてこのように定義してみれば無は立派に一切の抹消ではないか」
「抹消ないし部分的無というような観念は・・・あるものを他のものに置き換える過程中に出来上がっている。・・・・それらの観念は主観の側に好みを含み、客観の側に置換を含んでいて、そうした好みの感じと置換の観念との組み合わせかあるいはむしろ両者の干渉しあったものに他ならない。」
「以上のようなからくりの操作でもって、私たちの精神は一つの対象を抹消してまんまと外世界に部分的無の表象を作り出す。」
無の概念の続き。無を考える瞬間に実は何かを考えているわけだから、無には矛盾がつきまとうのだが、「誤謬を防止する」という機能をもつ。これはカントの言葉だが、ベルグソンは空っぽの部屋に客を案内するときに『何もありませんが』という実生活での事例を語る。そして、人の仕事は有用性を創造することであり、それをしなければ何もない。人生とは空虚を埋めることである、と展開する。論理的。
「意識が自分自身に遅れてすでに他の状態が前在しているのにいつまでも旧状態の追憶に執すると、そこに空虚の概念が生じる・・・・・絶対無すなわち一切の抹殺という意味に解した無の観念は自己崩壊する観念であり、ニセの観念でありただの言葉にすぎぬ。」
(1)カント「私どもの認識一般の内容という観点からみれば・・・・否定命題の本来の機能はもっぱら誤謬をふせぐことにある」p338
「第二の点・・・・否定とはいつでも可能的な肯定の棄却である(1)。・・・・・否定は知性の純粋な操作のようにあるものを狙うだけでなく、あるひとを狙う。それの本質は教育的でまた社会的である。否定は矯正しあるいはむしろ告知する。」
「第一に移ろう・・・・否定はいつも知性の行為の半分にすぎぬもので、他の半分は不定なままにほうっておかれる・・・・・否定からは何の観念も生まれはしない。否定には自分の判断の対象となった肯定判断のもつ内容以外に内容はない」
「肯定命題は真理を弘めることにもなるであろうし、同様に否定の方は誤謬を防止することにもなるであろう・・・・・けれども・・・・存在するものは到来して署名できるけれども、存在せぬものの非存在は署名しないのである」
「前言したとおり、哲学の最大困難は人間活動の形式がそれの固有な領域を超えて冒険をこころみるところに生まれる。」
「まだ家具で飾られていない部屋に客を導くとき私は客に告げて『何もありません』という。しかし部屋に空気の満ちていることは知っている。けれども空気の上に座るのではないから只今のところ部屋の中は客にとっても私自身にとってもものらしいもは正直いって何もなかったわけである。一般的にいって人間の仕事とは有用性を創造することである。そして仕事がなされない限りは『なにも』ない。・・・・こうして私たちの生は空虚をうずめることで過ぎる。」
無の考察の次は、よく分からないインタールードをはさみ、存在あるいは運動を見ること、あるいは再構成することを考察する。存在=運動は持続しているのだが、人=知性はこれを静止した断片で捉えようとする。まず結果を意識し、次に運動の各部をスナップ写真で分割し、映画仕掛けで再構成する。この動いているものを静止しているもので捉えようとする人の性質はエレアのゼノンのパラドックスを生じるが、これが錯覚であることを自覚のうえ、映画仕掛けを扱わなくてはならない(パラドックスの原因を解明しておけばよい)。
・よく分からないインタールード「回り道を避けて、『存在』と私たちの間に立ちふさがる無のまぼろしにまず訴えることをしないで、考えるように自分を慣らさなければならない。これからは行動するために見ることを止めて、見るために見るように努めなければならぬ。すると、『絶対』は私たちのすぐ間近に、ある程度は私たちのなかにも姿を現わす。『絶対』は心理的な本質のもので、数学あるいは論理上の本質ではない。それは私たちとともに生きる。私たちなみに、しかしある面では私たちの無限倍も自己に集中し凝縮しながら、それは持続する。」
「知性の役割は活動をつかさどるところにある。ところで活動において私たちは結果に関心をもつ。目標に行きつけさえすれば手段はたいして問題にならない。・・・・・行動そのものを構成するさまざまな運動は私たちの意識から薄れ、あるいはぼんやりと意識に登るに過ぎない」
「ある生々とした場面たとえば一部隊の分列行進をスクリーンの上に再構成する気になったとする・・・・通り過ぎる部隊を一連のスナップに写し取り、これを次々に迅速に置き換わるようにしてスクリーンに投影するのである。映画のやり方がこれである。・・・・・私たちの通常の知識の仕掛けは映画的な性質をもつ。」
・エレアのゼノンの論証、ゼノンのパラドックス:「アキレウスと亀」英雄で俊足のアキレスの10メートル前方に亀がいて、アキレスと一緒に歩きだします。アキレスは亀より10倍速く走りますが、アキレスが亀の地点についたとき、亀はすでに10メートル先にいます。アキレスが10メートルを走ると、亀は1メートル先にいます。アキレスは絶えず亀に接近しますが、追い越すことはできません。運動が存在しないことを示すために提起されたパラドックスです。「二分法」A地点からB地点に向けて出発した時、途中の半分、そしてまたその半分、というように無限に半分づつ前進していくと到着すべきB地点が永遠に続き、どこまでいってもB地点に到達することができないとする問題です。二分法のパラドックスとして提起されました。「飛ぶ矢」物体が空間の一点にあるとき、それは静止しているとするパラドックスです。飛んでいる矢は常に空間の一点に存在しているのであるから、飛ぶ矢は静止しています。つまり、飛ぶ矢は空間の一点に存在し、かつ同時に存在していないことになります。「多」「多」を仮定すれば、多は数的に有限であるとともに無限であるという矛盾した帰結を証明する、次のようなパラドックスです。もし多があるなら、二つは別々に分かれてあるはずである。それら二つが分かれているなら、それらを分けるものがなければならない。それが第三のものに他ならない。第三のものと隣のものに第四のものがあるはずである。このことは無限に進行する。つまり、それらは数的に無限である。二つの相容れない意見や矛盾を討論することで真理に達することを重要視し、その矛盾を克服することによって真理に到達する技術はのちに弁証法と呼ばれるようになります。のちに弁証法を論理的に確立したヘーゲルはゼノンを「弁証法の創始者」と呼びました。また、アリストテレスはゼノンの技術を「ディアレクティケ」と呼び、ゼノンがこれを発見したと言いました。ディアレクティケとは、ギリシャ語で弁証法のことです。」biz.trans-suite
「一個の運動とは・・・全体がふたつの停止にはさまれた運動なのである。中間にいくつか停止があればもはや一個の運動ではない・・・・・(だが)・・・・運動はひとたび行われてしまえば自分の経過につれて不動の軌道曲線を残しているもので、人はあとからその線上にいくらでも不動を数えることができる。・・・・(ゼノンのパラドックスの)論証の要点は、運動をそれの通過した線上にあてがって、その線について真であることは運動についても真だとみるところにある。」
動いているものを止まっているものと錯覚すること、止まっているものを連続させて映画仕掛けで考えることから更に進み、世の中の事象を言語に還元するイデア哲学を論ずる。このギリシャ哲学は発想を転換し、思考=言語こそが重要、不変であり、自然現象をこれで理解しようとしたようだ。現象を第一義に考える現代科学の考え方とは真っ向から対立する考え方だが、哲学の意義を信ずるベルグソンはこのギリシャ哲学を至高の哲学と考えていたようだ。
「『子供が大人になる』・・・第一の命題では「なる」は意味のさだかならぬ動詞でひとが主語の子供に大人の状態を属するために陥る背理を覆い隠す役目を持つ。その振舞い方は映画フィルムのつねに同一な運動によく似ている」
「『子供から大人への生成がある』・・・・・第二の命題では「生成」は主語になる。・・・・今度こそ私たちはもはや対象の映画的なまねごとではなく対象の運動そのものにかかりあっているわけである。」
「エレア派の哲学者・・・・ギリシャ人は思考や言語がものの流れに対してとった態度を非難するよりもむしろものの流れの方を非難した。・・・・空間運動をそして変化一般をこの人々は純粋な錯覚としか見なかった。」
「イデヤの哲学・・・・原語はエイドスeidosで、三重の意味がある。それは(1)性質、(2)形相あるいは本質(3)なされつつある行為の目的あるいは計画、つまりはその行為を果たされたとみてのデッサンを意味している。この三つの観点は形容詞、実体詞および動詞の観点であって、言語に本質的な三つのカテゴリーと対応する。・・・・・ものをイデヤに還元するとは生成をその主たる瞬間(契機)に分解することであり、しかもそれらの瞬間はいずれもその建前からいって時間の法則をのがれて永遠のなかへ摘み取られてた形になっている。つまり、知性の映画仕掛けが事象の分析に適用されるとき、ひとはイデヤの哲学に行きつくわけである」
「ところで、動く事象の底に動かぬイデヤが置かれるや否や、一つの全自然学が一つの全宇宙論がそれどころか一つの神学ともいうべきものの全体が必ず生じる。・・・・・」
永遠性や不変性をもつものは空間や時間の中で凍り付き、ただ一点に収れんしてしまう。だが、その永遠不変なはずのもの(イデヤかもしれない)が少しその永遠性、不変性を失うところを想像してみると、直ちに「無」と「完全不変なもの」との間に存在が生ずる。これは存在の証明ではなく、存在の一つの表現であろう。だがこれは確かに、あらゆる科学的実証も不要な哲学的な真理である。残り百ページを切った。5ページづつとしてあと20日、
「不変なイデヤの地位を引き下げてみる。それだけで直ちにものの永久流転が得られる。『イデヤ』ないし『形相』は疑いもなく知性的な事象の全体であり、すなわち互いに結びついて『あり』の理論的平衡を代表している点で全真理と言える。感覚的事象の方はこの平衡点を中心にして果てしなく続けられる不定な振動なのである。」
「イデヤの哲学・・・・が永遠と時間の間に立てる関係は金貨と小銭の間の関係に等しい。あまり細かくくずしてはいつまで払い続けても借金はけっして片付かない。金貨でなら一度の払いで済む。このことを表現したのがプラトンが神について語ったあの壮麗な言葉である。神は世界を永遠ならしめることができないので、『永遠のイメージ』としての『時間』をそれに与えた。」p371
「感覚形相はたえず自分を取り戻すところまでゆきながら、たえず自分を失うことに忙しい。それらの形相はある不可坑な法則に制せられてちょうどシシュフォスの岩のように頂上にさしかかるとまた転落する。」
・シシュフォスはコリントの狡猾(こうかつ)な王で、死後地獄に落とされ、大きな岩を山頂まで転がし上げる罰を与えられるが、岩は山頂に近づくといつも下に転がり落ちた。google
「この不足額を埋めてみよう。空間と時間はたちどころにつぶされる。・・・・・・そうして過去現在未来はただ一箇の瞬間に、ほかならぬ永遠に収縮する。」
「それはつまり、物理的なものは論理的なものの変質だということに帰着する。この命題に全イデヤ哲学が要約されている。」
「そのようなものをアリストテレスは神とする。神は一切の概念をただ1箇の概念に総合したものにすぎないから、どうしても不動であり、世界内の出来事に対して無縁であるほかはない。・・・・・プラトンのイデヤをアリストテレスの神の内部に探しても無駄であろう。しかし、アリストレテスの神が自己に向かって反射するかあるいは単に世界の方に傾くかする場合を想像してみる。それだけで、神の本質的統一に潜んでいたプラトンのイデヤたちが直ちに流出するさまを見るであろう。」
「アリストテレスの神を措定してみよう。それは思考の思考であり、すなわち円を描く思考であり、瞬間的な、あるいはもっと適切には永遠な円環過程のなかで主体から客体へ客体から主体へと転化する。すると、他の端に無が自分を措定しつつ現われ、そのように両端が与えられるとその間の区間もやはり与えられるから、そこに神的完全性から絶対無まで下ってゆく存在の全段階が、神の措定とともにいわば自動的に実現される結果となる。」
「思考は変化をおのおの二つの要素に分ける。一つは安定していて個々の場合について限定可能なもの、つまり「形相」であり、もう一つは限定のできないつねに同一なもので、これは変化一般ということになる。」
「以上が古代哲学の変化と持続に対する観点であった。」
古代哲学と現代哲学もしくは科学は本質的に変わらないと言いながら、ベルグソンはここで両者の違いを論じて見せる。近代科学がもたらしたのは概念だけでなく、実験などによる実証を重んじる、というのが定説だが、ベルグソンはギリシアでも実験は行われていたと言い、それよりも近代科学は「時間」を扱う点で古代哲学と違うと論ずる。観測機器類の発達により詳細な観察が可能になり、映画的手法そのものは古代と変わらないとしても、無限に細かい瞬間瞬間を扱うことができるようになった。それでもベルグソンは、映画的手法である限りそれは停止しているものの観察であり、錯覚であると言う。近代科学が扱おうとしないもの、つまり持続、時間そのもの、なぜ芸術家がそのように描くのか?それこそが創造であり、進化なのだと言いたいのか?残り60ページ。
・形而上学metaphysics:形而上学は、感覚ないし経験を超え出でた世界を真実在とし、その世界の普遍的な原理について理性的な思惟によって認識しようとする学問ないし哲学の一分野である。世界の根本的な成り立ちの理由や、物や人間の存在の理由や意味など、感覚を超絶したものについて考える。対立する用語は唯物論である。wikipedia
「私たちの科学を他から区別しているのは実験することではない。その実験が・・・・もっぱら測定を目指して行われるところにある・・・・円環の概念だけでアリストテレスが天体の運行を定義するのには足りた。ところが・・・・ケプラーはそれで惑星の運動が説明されるとは信じなかった。ケプラーにとっては法則が、すなわち惑星運動の含む二ないし数個の要素の量的変異の間の恒常的な関係が必要なのであった。」
「近代科学は天文学の娘である。天文学はガリレイという斜面に沿って天から地に降りてきた・・・・ケプラーに課せられた天文学の問題・・・・与えられた瞬間における惑星の相互位置を知って他の任意の瞬間におけるそれらの位置を計算する・・・・」
「私たちの科学が古代科学から区別されるのは単にそれが法則をたずねるからではなく、それらの法則が量の間の関係を述べているからでさえもない。・・・・時間を独立変数にとろうとする志向によって特に定義されるべき・・・」
・近代科学の誕生:古代の人々が認識していた自然観は自分達が観察した狭い範囲での『経験』に基づいていました。それが古代ギリシアの『自然学』だと言われています。こうした姿勢は中世まで引き継がれてきましたが、1500年を過ぎるころになって姿を変え始めたのです。この頃始まった社会変革のうねりは人々に批判的精神をもたらし始めたのですが、新しい観察技術の出現にも支えられて自然現象を正確に観察しようとする機運が高まりました。その結果古くからあった直感的な自然観に隠されていた様々な現象に気がつくこととなり、本質的な事象を捉えることが可能になってきたのです。・・・・・デカルトは『我思う故に我あり』という言葉で、自分自身の存在だけが『直感で信じられる』ということを表現し、それ以外のものは『自分自身の手』で確かめて(実験)納得できなければならないと考え(方法序説、1637年)たのです。また、実験を通じて納得した世界は数学で記述できるとも主張したのです。物理学や化学から始まった実験という新しい方法論はやがて人々に受け入れられ、誰がやっても同じ結果が得られることの重要性(再現性・普遍性)が広く認識されるようになりました。事実の前には何人も平等であり、あらゆることは疑うことが出来、その疑いは実験によって解決できるものであるという近代科学の基本的な方法を確立したのです。cellbank.nibiohn
「画家がカンヴァスに向かい、絵具がパレットに並び、モデルはポーズをとっている。・・・・問題の要素はことごとく私たちに握られている・・・・けれども具体的な解答にはあの予見不可能な芸術作品の一切たる「何でもないもの」がくっついている。そうしてその「何でもないもの」が時間をくう」
「けだし人はあらためて本物の持続に直面するや否や、持続とは創造の意味だということ、解体するものは出来上がってゆくものと連帯するからこそ持続するのだということを知るのである。」
ここでベルグソンは、形而上学の二つの考え方を論ずる。映画的方法(p404)により「瞬間」を捉え、そこから展開して「すべては与えられている」(p399)とする古代ギリシャ哲学に通じる古い形而上学から、自由意志を信じたデカルトは持続すなわち創造を可能にする新しい形而上学に近づいていた。一方、スピノザやライプニッツは古い形而上学から抜け出せないでいたようだ。人の運命は既に定められていて変えられないものなのか、それとも意思や偶然によって運命の行方は不可知もしくは変えることができるものなのか。ベルグソンは後者を進化の原動力に考えているに違いない。
「私たちの従う仮説によると、科学と形而上学は補い合いながらも相対立する二通りの認識のしかたであって、科学は瞬間すなわち持続せぬものしか引き止めないのに形而上学は持続そのものを目指す・・・」
「デカルトは一方では普遍的な機械性を主張する。この観点から見るなら・・・・過去・現在・未来は永遠の昔から与えられていたことになろう。ところが他方ではデカルトは人間の自由意志を信じている・・・・デカルトは物理現象の決定性に人間活動の非決定性を重ね、従ってまた『長さとしての時間』に持続を重ねる。持続は発明と創造と本物の継起との場であり、それをデカルトは神に背負わせる」
ベルグソンは当時の哲学者たち、スピノザとライプニッツの一元論や随伴現象説を機械的なものとして退け、カントの認識論ですら、直感力=持続を認めていない点を批判する。そして、持続=変化を中心に据えたスペンサの進化論を取り上げるが、ベルグソンはスペンサの説にも満足していないようだ。残り数十ページ。
・スピノザの一元論「スピノザの世界観は、神の形而上学ともいうべきものである。スピノザは、人間の精神の働きを含めた、この世界のあらゆる営みや出来事を神の働きあるいは現われとして説明する。言い換えれば、全体としての世界が神という単一の実体をなしており、その部分はいずれも単独では存在しえず、全体の一部としてのみ存在すると説明する。このような教説を、バートランド・ラッセルは論理的一元論と表現した。スピノザが神という概念を用いて、この世界を一元論的に説明しようとした態度は、デカルトの二元論を克服するひとつの試みとして、哲学史上では一定の意義をもったかもしれない。しかし、それは今日の科学的な思考法にとっては、到底受け入れられるものではないと、ラッセルはいっている。」(知の快楽、哲学の森に学ぶ)
・随伴現象説「随伴現象説(ずいはんげんしょうせつ、Epiphenomenalism)とは、心の哲学において、物質と意識の間の因果関係について述べた形而上学的な立場のひとつで、『意識やクオリアは物質の物理的状態に付随しているだけの現象にすぎず、物質にたいして何の因果的作用ももたらさない』というもの。物質と意識を別の存在であると捉える二元論の立場を取りつつ、意識の世界で起こる反応には、必ずそれに対応する物質的反応が存在するという考え方である。(この世で起こる物質的反応の全てにおいて、その場所に何らか意識が生じているかどうかという、逆の意味は有していない。)随伴現象説と対立する立場に相互作用説がある。」wikipedia
・カントの認識論「カントによれば、人間の認識能力には感性と悟性の二種の認識形式がアプリオリにそなわっている。感性には純粋直観である空間と時間が、悟性には因果性などの 12 種の純粋悟性概念(カテゴリー、すなわち範疇とも称する)が含まれる。純粋悟性概念は時間限定たる図式(schema)によってのみ感性と関係する。意識はその二種の形式(感性と悟性)にしたがってのみ物事を認識する。この認識が物の経験である。他方、この形式に適合しない理性理念は原理的に人間には認識できないが、少なくとも課題として必要とされる概念とされる。理性推理による理念はいわば絶対者にまで拡張された純粋悟性概念である。神あるいは超越者がその代表例であり、これをカントは物自体(Ding an sich)と呼ぶ。いわゆる二律背反においては定立の側では完全な系列には無制約者が含まれると主張される。これに対し、反定立の側では制約が時間において与えられた系列には被制約者のみが含まれると主張される。このような対立の解決は統制的ではあっても構成的ではない理念に客観的実在性を付与する先験的すりかえを避けることを必要とする。理念は与えられた現象の制約系列において無制約者に到達することを求めるが、しかし、到達して停滞することは許さない規則である(『純粋理性批判』)。wikipedia
「十九世紀の思考がそのような種類の、恣意を離れて特殊事実の細部に降りて行ける哲学を要求していたことは疑いない。そのような哲学は私の言う具体的な持続に腰を据えるべきだ。・・・・精神的な諸科学が成立するに至ったこと、心理学の発達したこと、生物の諸科学において胚生学がますます重要になったことなど・・・・一人の思想家が立ち上がって進化説を唱え、そこでは物質が知覚性へ進む動きと精神g合理性に向かうあゆみを共々に辿りなおすことができるとしたとき、・・・・つまり変化こそものの実質そのものだとしたとき、万人の注視はその人に向けられた。スペンサの進化論が当代の思考を強くひきつけた所以であった。」
4章の最後でベルグソンはスペンサーの進化論が時間の概念、持続を考慮していないこと、従って進化の本質を捉えていないと批評する。進化してしまったものをいくら細分化しても、進化の道筋や仕組みについて得ることはできないと断ずる。最後の数ページでベルグソンは哲学について述べる。哲学者は科学者よりも先に進まねばならぬ、というのは、科学が実証していないもの、科学が目指すべき方向を哲学者が示すのだと言いたいのだろうか。そして哲学は本物の進化論であり、科学の延長であると言い切る。ベルグソンは科学のもつ力、潜在力をどのくらい予期していたのだろう。哲学の手法は今でも生き続け、仮説による科学研究に使われていると思うが、今後、彼のような哲学者は現われるだろうか。
・タブラ・ラサ(p429):ラテン語で「何も刻まれていない石板」「白紙」の意。 経験主義の立場をとるジョン・ロックによって提起された。 『人間悟性論』(1689)においてロックは、デカルトによる生得観念の存在を否定し、生まれたばかりの人間の心は白紙の状態であり、外的な感覚と内的な反省という経験によって、あらゆる観念が獲得されると主張した。現代美術用語辞典
「物質からそれを限定しているもの、すなわち他ならぬ運動ないしエネルギーが除去されたら、何が物質に残りうるか。哲学者は科学者よりも先に進まなければならぬ。記号的なイメージにすぎぬものがタブラ・ラサされて物質世界は単なる流れに、流れの連続に、生成に解体して彼に見えるであろう。そのようにして哲学者にはまた事象的な持続を再発見する用意が整うことであろう。」
「哲学は単に精神が自己へ戻ることではなく、人間の意識が自分の源泉たる生命原理と合致することではなく、創造の努力との接触に入ることでもない。哲学は生成一般の究尽であり、本物の進化論であり、従ってまた科学のまっとうな延長である。ただし、科学という語は確認されあるいは証明された真理の総体の意味に解しなければならぬ。」
解説 真方敬道は学生の頃にベルグソンの「創造的進化」を読み、感動して数日で読んでしまったとある。この難しい本を数日で読み、内容に感動するというのはただごとではない。本物の哲学者というのは、そういうものなのか。そして真方は、ベルグソンが本書で示した重要事項として「生命のはずみ」(l'elan vital)と「時間の発見」を挙げている。確かにその通り。錯覚のことやギリシャ哲学との比較など、ベルグソンは多様な論点を挙げているが、哲学体系の中で、ベルグソンが果たした業績としては、この二つが大きなものなのだろう。昨年の12月1日から読み始めて10ヶ月。ようやくこの大著を読み終える。理解できたとは言い難いが、いくつかの哲学について学ぶことができたと思う。
「私は自分の思考を事象に服従させ、事象を思考に服従させることはすまいと固く決心した。自分が機械論者であるのも的確に厳密への愛からにほかならないのだから、私の理論と方法を事実の要求に、すなわち事象に厳格に添わせようと決心した」
「時間を発見したとき、私は果てしない野心に燃え立った。実際、哲学者たちを読み直しはじめて、誰一人時間について語っていないことに気づいたのだった。やがてその野心も分相応の控え目なものに縮まった」
「脊椎動物と帆立貝のようにきわめて縁遠い生物の間で、眼のような精緻でしかも構造が似通った器官が現われる事実を『生命のはずみ』はどう解決するか・・・・・『生命のはずみ』(l'elan vital)は自由な自発性を含んでいますから、環境に対して消極的に対応するだけでなく、それを課題として受け取って積極的にそれに解答を与えます。同じ問題に対する解の数は限られていますから、環境が似ていればそれに対する眼という答えも似てくる訳でしょう」