この山について深田はその登頂の歴史を語る。内務省地理院の陸地測量部が誕生した翌年の明治12年(1879)に測量班が登頂し、10年後に一等三角点設置。
登拝のための道が開かれて開山となったのは明治19年(1886)、そして純粋な登山はウェストンが明治25年(1892)に果たし、小渋川を遡って広河原から尾根を登るコースは現在でも、標高差があり、沢を遡らねばならない最難関コースの一つとして登られているようだ。
現在では椹島までバスで入り、悪沢岳と赤石岳を2~3泊して周回するコースが一般的になっているが、椹島から千枚小屋までの1,500mほどの登りはテント・ザックを担いでいるとなかなかしんどい。
とはいえ、ウェストンや深田の頃に比べれば、はるかに容易にこの奥深い山に登れるようになっているのは驚くべきことであり、これもまた、深田の「日本百名山」のおかげに違いない。
深田の頃は近づくことさえ困難だったこの山に、私が登った2006年と2023年にはどちらも、大勢の人たち、大勢のパーティが登っていて、山小屋やテント・サイトは賑わい、話し声が満ちていた。
深田は山名の由来についても語っており、ウェストンが見た広河原からの尾根の途中にある「赤岩」説、小島烏水の(「山岳」第1年1号に載せたというから、まさに事始め)「明石」説を紹介したうえで、赤石岳の「南面から発して東流する沢に赤褐色の岩石が大崩壊して押し出された。そこでその沢が「赤石沢」と呼ばれ、それが頂の山の名になった」と論じており、これに類したことを畑薙第一ダムから椹島へのバスの中でも聞いた記憶がある。
次に深田は、赤石岳がある程度遠ざからねば見ることができないことを「偉大な人物は時日を遠ざかって・・・・初めてその真価値が認められる」ことに喩え、金峰、瑞牆、恵那山から見たことを語るが、私としては、(文庫本の写真と同様)北面する悪沢岳から見た端正な赤石岳、それに青薙山から見た荒々しい岩壁の姿が忘れられない。
最後に深田は「あらゆる頂上のなかで赤石岳のそれほど立派なものはない。それは実におおらかな風貌をそなえている。広々としているがただの緩慢ではなく、キリッとした緊まりがある。これほど寛容と威厳を兼ね備えた頂上はほかにはあるまい」と絶賛しているのは、赤石岳の頂上に立ったときの情景(三角点と頂上標識と避難小屋くらいしか見えない)ではなく、たぶん(悪沢岳いや)小赤石岳から見た姿のことではなかろうか。
AAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAA
この山について深田はその登頂の歴史を語る。内務省地理院の陸地測量部が誕生した翌年の明治12年(1879)に測量班が登頂し、10年後に一等三角点設置。登拝のための道が開かれて開山となったのは明治19年(1886)、そして純粋な登山はウェストンが明治25年(1892)に果たし、小渋川を遡って広河原から尾根を登るコースは現在でも、標高差があり、沢を遡らねばならない最難関コースの一つとして登られているようだ。
現在では椹島までバスで入り、悪沢岳と赤石岳を2~3泊して周回するコースが一般的になっているが、椹島から千枚小屋までの1,500mほどの登りはテント・ザックを担いでいるとなかなかしんどい。とはいえ、ウェストンや深田の頃に比べれば、はるかに容易にこの奥深い山に登れるようになっているのは驚くべきことであり、これもまた、深田の「日本百名山」のおかげに違いない。深田の頃は近づくことさえ困難だったこの山に、私が登った2006年と2023年にはどちらも、大勢の人たち、大勢のパーティが登っていて、山小屋やテント・サイトは賑わい、話し声が満ちていた。
深田は山名の由来についても語っており、ウェストンが見た広河原からの尾根の途中にある「赤岩」説、小島烏水の(「山岳」第1年1号に載せたというから、まさに事始め)「明石」説を紹介したうえで、赤石岳の「南面から発して東流する沢に赤褐色の岩石が大崩壊して押し出された。そこでその沢が「赤石沢」と呼ばれ、それが頂の山の名になった」と論じており、これに類したことを畑薙第一ダムから椹島へのバスの中でも聞いた記憶がある。
次に深田は、赤石岳がある程度遠ざからねば見ることができないことを「偉大な人物は時日を遠ざかって・・・・初めてその真価値が認められる」ことに喩え、金峰、瑞牆、恵那山から見たことを語るが、私としては、(文庫本の写真と同様)北面する悪沢岳から見た端正な赤石岳、それに青薙山から見た荒々しい岩壁の姿が忘れられない。
最後に深田は「あらゆる頂上のなかで赤石岳のそれほど立派なものはない。それは実におおらかな風貌をそなえている。広々としているがただの緩慢ではなく、キリッとした緊まりがある。これほど寛容と威厳を兼ね備えた頂上はほかにはあるまい」と絶賛しているのは、赤石岳の頂上に立ったときの情景(三角点と頂上標識と避難小屋くらいしか見えない)ではなく、たぶん(悪沢岳いや)小赤石岳から見た姿のことではなかろうか。